6月12日・開設18周年記念感謝礼拝の説教要旨 創世記 2:10-17・Ⅱコリント書 5:16-21

神との和解」       加藤 秀久伝道師

*はじめに                                    

私達は、神様をどのような形で知ろうとしているのでしょうか。神様は私達に、「聖書」という、生きた神様の言葉を与えて下さいました。この神様の言葉は、私達に日々の生活の中で、力と励ましを与えて下さいます。

*「肉に従って知ろうとはしません」

パウロは、ある日突然、目には見えない神様の御子イエス様に出会い、神様を知り、神様を体験した人物の一人です。神様から呼び出され、その声に従いました。本日のⅡコリントの手紙5:16で、パウロは「今後だれをも肉に従って知ろうとはしません」と言っています。「肉に従う」の、「肉」の原語では、人間的な見方や人間的な標準という意味になります。その見方で、神様や接する人達を見たり知ったとしても、それは人間の価値観や経験で見ることになり、本当の姿に出会うことは出来ません。

*「一人の方がすべての人のために死んで下さった」(14節)

「一人の方=イエス様」は、「私達すべての人間の罪の為に死んで下さった」以上は、「すべての人も死んだことになる」と、パウロは語ります。イエス様の愛がすべての人たちを包み、その愛が人々をとらえて離さず、イエス様はすべての人のために死んで下さった!このイエス様の死と共に、私達も又、生まれながらに与えられている肉の思い(=人間的な見方、人間的な照準で生きる)も死んだのです。そして死んだ私達はイエス様の復活と共に、イエス様を復活させられた神様の霊の力によって、新しく創造された者です。その目的は、「生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活して下さった方のために生きること」(15節)にあり、今は神様の右におられて聖霊を送って下さるイエス様と共に、私達は日々生き、生かされていることを語ります。

*「新しく創造された者」(17節)

キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」、さらに、「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」とあります。

そして更に、「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通して私達をご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務を私達にお授けになりました(18節)。」と語っています。「生じた」は、創世記の天地創造の箇所で、神様が命じて「起る、そのようになる」出来事と同じです。人は「神にかたどって=似せて創造された(1:27)」にもかかわらず蛇の誘惑に会い、神様に背(そむ)き、人間が得ることになった知識、知恵、善悪などは神様から身を隠すという行動を起こさせ、悪がはびこる世界に入る結果を作ってしまいました。その世界に身を置く私達人間は、知らず知らずの内に、背後で操つる悪魔(サタン)の働きにより影響を受けてきました。

しかし私達は、キリストと出会い、結ばれた時、今までの古い人間的な考えや思い、価値観はすべて取り払われ、新しい人が私の中で存在し始めたことが述べられます。私達が主に出会う時、私達は神様によってすべてが新しく、まるで「違う自分と入れ替わった」ように軽く晴れやかになり、生まれ変わった気持になることをここで伝えています。

私達の罪のために死なれたイエス様は、その死を通して、私達を罪で滅んで行く者から新しく生きる者へと変えて下さった、そこには本当の生きた神様に出会い、イエス様を知る特権が与えられているのです。

*二つの世界で

私達が生きる世界に目を向ける時、一方では、素晴らしい神様が造られた世界を見ます。しかし他方で、人間の間違った解釈、知識、悪魔(サタン)の働きにより、あるべき姿から違う方向へ向かっているのも見ます。その二つの世界の中で、神様はご計画を少しずつ実行していることも事実です。それは主イエス・キリストの誕生・復活・昇天と、聖霊を送って下さっている出来事をはじめとして、この伝道所の18年間の歩みの中での出来事です。それはまるで天地創造の時と同じように山田の地域に伝道所を建てて良しとされました。それは「神様との和解のために奉仕する任務」のため、神様と出会える場所として、又、人々の安ら ぎの場所として用いられていくためです。共に祈ってまいりましょう。

2021年11月7日の説教要旨 創世記15:1-18・ヤコブ書2:14-26

「神に選ばれた民」         加藤秀久 伝道師

*はじめに

本日お読みした創世記には、神様がアブラハムに希望を与え、勇気づけることが記されています。

神様は、「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」と語られましたが、アブラハムは主に尋ねました。「わが神、主よ。わたしに何を下さるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」と答えています。エリエゼルはアブラハムの家の僕であり、古代文書によれば、当時、子供のいない家庭では所有していた奴隷を養子にして主人夫婦の世話と埋葬を条件に、財産相続の制度があったようです。※(アブラハムの名前はこの時は、まだ、アブラム「高められた父、高貴な父」という名前でしたが、17章に入ると主からアブラハム「諸国民の父」という名前が与えられました)。

*「あなたから生まれる者が跡(あと)を継ぐ」(4節)

神様は、アブラハムの家を継ぐのは僕のエリエゼルではなく、アブラハムから生まれる者であること、12章では「あなたを大いなる国民とし」(2節)、13章で「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする」(16節)、本日の15章では、「天を仰いで、星を数えて見るがよい。あなたの子孫はこのようになる」(5節)と約束されました。

続く6節で「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」とあります。「主を信じた」の元の言葉では「主によって信じさせられた」となります。アブラハムは、これから起こることに対する神様への期待感、将来への希望を持つことができ、神様のわざに同意することで信じたのです。アブラハムの偉大な信仰は、神様の言葉を素直に信じたところにあります。神様に出来ないことはないと素直に信じたアブラハムの信仰は、神様から「義」と認められた(神様の前に正しいと認められ受け入れられた)のです。(さらに7節で)、神様は、ご自分がアブラハムをカルデアのウルから導き出したことを告げ、この土地を与えて継がせると約束されました。

*約束の保証を求めたアブラハム

 神様の、土地を継がせるとの約束に対してアブラハムは「何によって(そのことを)知ることができましょうか」と約束の実現の保証を求めました。神様は、その求めに応じられ、契約の儀式に必要な「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩のひな」を持って来るように命じられ、アブラハムは、それらの犠牲を、契約の内容に沿う形でささげました。(エレミヤ書34:18-20参照)。

 このあと、アブラハムは深い眠りに襲われ、神様の声を聞きます。それは、アブラハムの子孫に将来起こる出来事(エジプトでの奴隷時代および出エジプト)の予告です。そして17節で、暗闇におおわれた頃「煙を吐く炉と燃える松明(たいまつ)」が、用意された動物のいけにえの間を通り過ぎたことで、神様との契約が結ばれたことが記されています

*信仰が行(おこな)いと共に働く

本日のヤコブ書には、アブラハムのことが記されています。

アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められたという聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれた」(23節)とあります。著者は、アブラハムが息子のイサクを献げたという行(おこな)いを取り上げて「アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成された」(22節)と伝え、行いの伴う信仰こそ生きた信仰であると述べます。

*召天者記念礼拝

 本日は、11月第一聖日にもたれる召天者記念礼拝でもあります。前に飾られた写真の方々の信仰を思い起こしつつ共に集まり、礼拝を献げる日でもあります。信仰の先輩達は、信仰の歩みを続けていく時、ここにいる私達と同じように、神様の前で悩み、苦しみ、恐れ、神様を見失いそうになったこともあるでしょう。しかし、そのような中にあっても、周りの人達を思いやり、気にかけ、お祈りに覚えて下さり、イエス様と同じような眼差しで私達を見ていて下さいました。先輩達は神様を見続け、顔を上げて前を向き、神様に感謝の気持を持ち続けていました。私達も同じように、神様に望みを置き、今週の歩みを始めて参りましょう。

2021年10月31日の説教要旨 創世記4:1-10・Ⅰヨハネの手紙3:9-18

「愛するものたちへ」     加藤秀久 伝道師

*はじめに

 アダムとエバはエデンの園を管理する者達でしたが、神様の「園の中央にある善悪を知る木の実を決して食べてはならない」とのご命令に従わず蛇の誘惑により食べたことで、エデンの園から追い出されてしまいました。

その後アダムは、妻によってカインとその弟アベルが与えられ、アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となりました。時が流れて、兄のカインは「大地の実り」を主へのささげ物とし、弟アベルは「羊の群れの中から肥えた初子」を主の献げ物として持って来ました。主は、弟アベルとその献げ物に目を留められましたが、兄カインの献げ物には目を留められませんでした。カインは、激しく怒り、顔を伏せてしまいました。

*神様への献げ物

神様は、なぜ弟アベルの献げ物だけに目を留められたのでしょうか。

考えられるのは、それぞれの礼拝の姿勢、向き合い方です。

この神様への献げ物に関して、ダビデの、次のような言葉があります。

いや、私は代金を支払って、あなたから買い取らなければならない。無償で得た焼き尽くす献げ物を私の神、主に、ささげることは出来ない」(旧約聖書サムエル記下24:24)。

この言葉は、ダビデ王が神様の前に大きな罪(人口調査)を犯して、その結果、民衆に大きな災いが降った時に、その罪の赦しを得るために祭壇を築き、いけにえの献げ物を捧げようと、土地の所有者に売買を申込んだ際、所有者から「祭壇を築く土地も、犠牲の動物も、すべてをダビデ王に無償で差し上げる」と言われた時の、ダビデ王の返事です。「神様を礼拝する」ということは、神様に向けた正しい心が伴っていなければなりません。

神様を礼拝する人の心が正しくなければ、神様は、その人にかかわりのある他の人達までも巻き込んで、滅ぼしてしまう裁きを行うことを私達に教えていると思います。又、神様は、「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル上16:7)とあり、神様の御前では、どんなに小さな罪、悪い行い、考えをも隠すことはできません。それらはいつか神様によって全てのものが明らかにされてしまいます。神様は、アベルとその献げものに対して、神様に対する礼拝の心・信仰・姿勢をご覧になり、目を留められたと考えられます。

*怒りで顔を伏せたカイン

 神様はカインに、「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」と言われます。心にやましいことがなければ、私達は神様の前にしっかり顔を上げられるはずです。仮に、これまでカインの行動が正しくなかったとしても、今、悔い改めればすぐにでも受け入れられることを伝えようとしたのかもしれません。しかしカインは、「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。」と告げられた通り、野原に弟アベルを誘い出して殺してしまいました。

私達も、小さなきっかけから心に怒りを抱いてしまうことがあり、その感情を放置していると、やがてその感情が大きくなり、自分でコントロールできなくなり、大きな罪に発展してしまう可能性があります。

神様はカインに、罪を犯したことを自らの口で告白し悔い改める機会を与えましたが、カインは「知りません。私は弟の番人でしょうか?」と神様に応えた結果、彼は地上をさまよい歩くさすらい人になりました。

仮に私達が罪を犯してしまったら、素直に悔い改めることが大切です。

神様は必ず赦して下さいます。実際に神様は、「私の罪は重すぎて負いきれません」と言ったカインを見捨てることなく、逆に神様はカインをあわれみ、誰も彼を襲うことのないよう、約束しています(4:13~15)。

*宗教改革記念日

本日は宗教改革記念日です。私達は、「聖書のみ」、「恵みのみ」、 「信仰のみ」との宗教改革の三大原理を受け継ぎ、「神様を第一」として、ルターが掲げた「95ヶ条の提題」のように、神様の前に真実な者、正しい者であり続けていく者たちへと変えられていくことを祈りましょう。私達は、私たちの外側を立派に見せるのではなく、私たちの内側が、いつも神様に喜ばれるように礼拝を献げていきましょう。

2021年9月12日の説教要旨 創世記45:1-15・ヤコブ書2:8-13

「心 遣 い」     加藤 秀久伝道師

*はじめに

 本日の創世記では、家族や兄弟を思うヨセフの心遣いが記されています。ヨセフは父ヤコブから非常に愛情深く育てられていましたが、ある時自分の見た夢を兄達に話したことで兄達から反感を買い、商人に売られ、その後エジプトへ奴隷として売られてしまいました。時が経ち、カナン地方にいたヨセフの兄達は、飢饉ためエジプトへ食糧の買い付けに行きましたが、そこで司政者として穀物の販売の監督をしていたのが弟のヨセフでした。

*銀の杯

 ヨセフの兄達は、監督が弟とは気付かず、二度目に食糧を求めてエジプトに行くと、ヨセフは身を明かさないまま彼らと食事を共にした後、家来に、末の弟の袋に代金を戻し、さらに銀の杯をも入れるように命じました。兄達が帰ってまもなくヨセフは再び家来に、袋に入れた銀の杯を持って来るよう命じました。家来は兄弟達の後を追い、銀の杯が無くなり、彼らが監督の好意を踏みにじったと言いました。兄弟達は驚き、もし誰かの袋に銀の杯が見つかったら、その者は死罪、他の兄弟達も奴隷になると告げて袋を開けましたが、末の弟から銀の杯が見つかり兄弟達は引き返しました。

*ユダの嘆願

ヨセフは戻って来た兄弟達に、「銀の杯を見つけられた者だけが奴隷として残り、他の兄弟達は父親のもとへ帰るように」と命じます。しかし末の弟を今回の旅に同行させた責任者の兄、ユダがヨセフに嘆願します。このまま弟を残して帰ったら、父は悲しみのあまり死んでしまう。この弟の代わりに私を奴隷として残して欲しいと願い出ます。このユダは、かつてヨセフを商人に売り、エジプト人の奴隷になるきっかけを作った人物です。しかし今は心に大きな変化が現れています。それはヨセフがいなくなった後、すっかり意気消沈した父親の姿を、長年身近に見て、いなくなったヨセフの代わりに父親がどんなに末息子に愛情を注いできたかを見てきたからでしょう。今、ヨセフの前で弟を必死に守ろう、助けようとしていたユダの行動は、ヨセフと兄達との和解へとヨセフを動かしたのでしょう。

*ヨセフの信仰

 ユダの言葉を聞き、ヨセフは自分の身を明かします。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」 兄弟達は驚きのあまり、答えることが出来ませんでした。ヨセフは彼らに、過去にヨセフにしたことで悔やんだり、責め合ったりしないようにと言い、「神が私をあなた達より先にお遣わしになったのは、・・あなたたちイスラエルの民を生き永らえさせ、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなた達ではなく、神です。」と、ヨセフがエジプトに来たのは神様のご計画によるものであるとの信仰を告白しています。

*神様の御計画

 神様は、ヨセフを先に送り出したように私達一人一人(それぞれ立場の違う人達)をここに集められ、私達は神様を礼拝しています。それは、これから行なわれる神様の業(わざ)を私達が共に行ない、神様のご計画を共に体験するためです。私達は神様に養われる家族として集められ、共に助け合い、生きるようにとの神様の願いがあるからです。近い将来、私達の伝道所がどのような道へ進むかは分かりませんが、ただ、神様というお方を信じ、求め、委ねながら、「今」というこの時に、私達が共に神様に呼ばれ、神様のみ声に従いながら日々の歩みを進めています。

人を分け隔てするなら、あなた方は罪を犯すことになり・・(9節)」 本日のヤコブ書で、教会の人々がイエス様を誉め讃えて礼拝しているにもかかわらず、人を、社会的地位やその人の身なりで差別していることが指摘されます。互いを思い合い助け合い、隣人への心遣いがあってこそ隣人愛の実践であり、神様の意志に適(かな)う者とされます。私達はここで神様の栄光に満たされて力を受け、神様を称え、その輝きを家族や友人や職場の人達や子供達に自然な形で分け与えているのです。

 これが本当の神の家族の姿、隣人への愛を示す姿と言えるのではないでしょうか。神様は今週も私達の前を進まれます。いつも私達の道しるべ、 支えとなり、私達と共にあることを覚えて歩めるように祈りましょう。

2021年7月18日の説教要旨 創世記21:9-21・ロマ書9:19-28

「全てのものの神」    加藤 秀久伝道師

*はじめに

アブラハムは、神様の前に正しい人でした。神様はアブラハム祝福し、彼の子孫も祝福することを約束されました。けれども妻サラには長い間、子供が生まれなかったため、サラはエジプト人の女奴隷ハガルをアブラハムの側女としました。ハガルはイシュマエルという男の子を産みました。しかし神様はアブラハムに、「あなたの妻サラが、あなたとの間に男の子を産む。その子をイサクと名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。」と言われて、サラから生まれる子供が、約束の子供であることを告げました。

*アブラハムから生まれたイサクとイシュマエル

 そしてアブラハムとサラに、主によって約束された子供・イサクが与えられます。子供が与えられることは私達を笑顔にさせてくれますが、この出来事は、イサクが乳離れをした頃に様子が変わります。サラはイシュマエルがイサクをからかうのを見て、アブラハムにハガルと息子を追い出すように願い出ます。アブラハムはこのことで苦しみましたが、神様はアブラハムに「苦しまなくてもよい。アブラハムの子孫はイサクから出る者が継ぐ。イシュマエルも一つの国民の父とする。」と、約束されました。

*ハガルと息子

 アブラハムは翌日の朝早く、パンと水の革袋をハガルに与えて息子と共に送り出しました。ハガルは荒野をさまよい水が無くなると、子供を灌木の下に寝かせ、自分は少し離れた所で死を覚悟して座ります。神様は子供の泣き声を聞き、天から御使いを遣わしてハガルに呼びかけます。「行ってあの子を抱き上げ、しっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」と伝え、ハガルの目を開き、水のある井戸を見つけさせたので、彼女は窮地を脱しました。こうして神様が二人と共におられたので、彼は成長し、母ハガルはエジプトからイシュマエルの妻を迎え、イシュマエルは、イスラエルとは異なる民族の祖となったのでした。

*パウロの悲しみと痛み

 ロマ書の著者パウロは、同胞であるイスラエルの人々の魂の救いを心から願っておりました。9章2節には「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。」とあり、パウロはイスラエルの人々の 少数の人だけがイエス様を信じて受け入れ、他の人々はイエス様を信じようとしなかったことに心を痛め、悲しみの感情に捉えられています。イエス様はイスラエルの人々の神であり、主であられます。イスラエルの人々には、神の子としての身分や律法、約束などが与えられており、肉によればイエス様も彼らから出られました。

しかし6節で「イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならない」とあるように、アブラハムの子孫だからといって皆が神様との正しい関係にあることの保証にはならないことを本日の聖書箇所 <焼き物師と粘土の関係> を通して教えています。

*「怒りの器」から「憐れみの器」へ

 焼き物師と粘土の関係を考えればわかるように、「すべてのことは器を造る造り主に権限がある」(21節)こと、私達は本来「怒りの器」として滅びることになっていた(22節)にもかかわらず、神様は寛大な心で耐え忍ばれ、それも、「憐れみの器」として栄光を与えようと準備しておられた者達に、ご自分の豊かな栄光をお示しになるためだと語ります。

*焼き物師と粘土(ねんど)

 「造られた物が造った者に『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるだろうか」(20節)と、焼き物師である神様には造り主としての用途があることを示します。神様は人を不当に扱うことはなさらず、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と言われます(15-16節)。滅びゆく道へと歩んでいた私達は、「ただキリスト・イエスによる贖(あがな)いの業を通して、神の恵みにより、無償で、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」(3:21-24)をいただいた、神様に造られた者達です。 この神様に信頼を置き、神様の示される道を今週も進んで参りましょう。

2021年3月21日の説教要旨 創世記25:29-34・ロマ書8:1-11

「我を生かす神」     加藤秀久伝道師

*はじめに

イサクとリベカは神様の導きによって結ばれた2人でしたが、なぜか20年間、子供は与えられませんでした。イサクはリベカに子供ができなかったので、「リベカのために主に祈った」と、創世記25章に記されています。神様はこの祈りを聞き入れて下さり、リベカは双子の男の子を産みました。最初の子供は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったのでエサウと、次の子供には、エサウのかかとをつかんでいたのでヤコブと名付けられました。

*エサウとヤコブ

 子供達は成長してエサウは狩りが上手だったので野の人となり、ヤコブは穏やかな人なので天幕に住んでいました。父イサクはエサウを愛し、母リベカはヤコブを愛しました。リベカは、子供達がリベカのお腹にいた時、胎内で子供達が押し合うので主の御心を尋ねるために祈りました。その時、主はリベカに、「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり 兄が弟に仕えるようになる。」と言われました。リベカはその言葉を忘れず、ヤコブを陰ながら支え、ヤコブに愛を注いでいたことが想像できます。

ある日、ヤコブが煮物をしていると、エサウが疲れ切って野から帰って来てヤコブに頼みました。「お願いだ、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっている!」と。ヤコブはエサウに「先ず、お兄さんの長子の権利を譲って下さい」と言いました。エサウは、「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」と答えると、ヤコブは「では、今すぐ誓ってください。」と言ったので、エサウはその誓いを立ててしまいました。エサウはヤコブに、いとも簡単に長子の権利を譲ってしまいました。こうしてエサウは、長子の権利を軽んじてしまったのでした。

*わたしたち

 私達も、自分の心の思いや肉の欲望が強くなると、エサウと同じように周りのものが見えなくなり、我を忘れ、本来、大事にしなければならないものをいとも簡単に捨てることが出来てしまうという弱い姿を、自分の中に見つけられるのではないでしょうか。

キリストに結ばれている者は、罪に定められることはない

パウロは7章で、神様を知れば知るほど、神様の正しさの中で生活をしたい、神様の霊が働くところにとどまりたいと願いつつ、その思いの一方で、昔の自分の思いや経験した出来事が邪魔をして、正しい道を歩めず、行き先が定まらない、弱い自分があったことを告白しています。

 しかし本日の御言葉の始まりには、今迄 肉に従っていた私達がイエス・キリストというお方に出会い、イエス様を知りイエス様に結ばれることによって罪に定められることはない、とあります。すなわち私達が神様の律法を行うのではなく、イエス様を信じる信仰によって私達の心に霊がやどり、聖霊の導きによって神様に仕えることが出来、勝利の道をイエス様と共に歩むことが出来ると教えています。「肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされる(4節)」のです。

*ざんげの祈りと、罪の赦し

神様を信じる者とされても、尚、日々の生活の中で無意識に行ってしまう罪もあります。それらの罪を赦していただくために、私達は毎週の礼拝の中で「懺悔の祈り」を捧げます。この祈りを祈ることで罪が赦され、心が洗われて新しい週を始めていくことが出来るのではないでしょうか。私達の祈りに対して神様は、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」と言われます。イエス様は裁くためにではなく全ての人の心にある悪い行い(偶像礼拝、ねたみ、悪口、傲慢、無分別などの肉の思い)から離れさせ解放するために、この世へと来られました。神様は、神様が私達人間に用意されている「霊の支配下」(9節)で、神様に守り導かれて歩んでほしいと望んでおられます。今日ここに、十字架にかかり、死に勝利されたイエス様がおられます。このお方を心に招いて信じて一緒に歩む決心をした者には、神様は、神様の力と霊を与えて下さいます。今週一週間、神様が皆様と共にあり、皆様の足を強めて下さるようにお祈り致します。

2020年5月10日の説教要旨 創世記2:18-25 ヨハネ福音書2:1-11

「婚礼での奇蹟」   加藤秀久伝道師

*はじめに

神様は、初めに天地を創造され、人を土のちりから造り、その鼻に神様からの命の息を吹き込んで人は生きるものとされました。命の息が神様より直接吹き込まれたことにより、人は他の生き物と違って特別に造られたこと、神様のかたちに似るように造られたことが記されています。

神様はエデンに園を設け、人を住まわせ、耕し守るようにされました。また神様は「人が独りでいるのは良くない」と、彼に合う助け手として彼のあばら骨の一部から女を造られました。それゆえ男は妻と結ばれ、二人は一体となりました。神様は天地創造の初めから、男の人と女が夫婦になることを定められました。このことは世界における結婚の始まりであり、結婚は、神様が定めて下さった祝福の一つであることを知ることができます。しかし創世記3章以下には、この最初の結婚も神様と人間との関係も、エデンの園での悪魔の策略により破壊されたことが記されています。<悪魔の攻撃は今も続いています>。破壊された神様と人間の関係の回復こそが、聖書全体に貫かれている神様の御心であり、このご計画を完成させるために「不思議」と「しるし」と「奇蹟」が行われているといえます。

*カナの婚礼での奇蹟・・ヨハネによる福音書2:1-11

 今日の箇所は、イエス様の、神様の御心を示す最初の奇蹟でした。ガリラヤのカナで開かれた婚礼に、イエス様の母マリアは助け手として招かれ、イエス様と弟子達も招待されていました。当時イスラエル地方の婚礼の披露宴は一週間も続き、又、申命記24:5では「人が新妻をめとったならば、兵役に服さず、いかなる公務も課せられず、一年間は自分の家のためにすべてを免除される。」とあります。イエス様の時代の婚礼も、このような神様の祝福に溢れるものであったに違いありません。ところがお祝いの席の途中でぶどう酒が切れてしまいました。途中でぶどう酒が無くなるのは、喜びや楽しみ、神様の祝福がなくなってしまうようなことでした。皆さんでしたらこのピンチをどう回避しようとなさいますか?

*マリアの対応

マリアはこのことを知り、その家の人にではなく、来客の一人としておられたイエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と伝えました。

イエス様は「婦人よ、わたしの時はまだ来ていません」と言われました。これは「公の場にわたしがキリストであることを現わす日は、まだ来ていません。」との意味を含んでいましたが、マリアは召使い達に「イエス様が言う事は、何でもその通りにして下さい」と言いました。

*イエス様のなさったこと

イエス様は召使い達に「水がめに水を満たしなさい」と言われました。水がめは6つあり、一つの水がめには80ℓ~120ℓの水が入りますので、水がめを満たすには2ℓ入りボトルに換算すると360本分位必要です。それは大変な労力が必要で、何度も井戸に水を汲みにいかなければならなかったはずです。水がめが一杯になったのをご覧になったイエス様は、その水を汲んで世話役のところへ運ぶように言われました。世話役は、いつの間にか最高に美味しいぶどう酒に変わっていた水の味見をしました。この出来事を目の当たりにした弟子達は、イエス様を信じました。イエス様の凄さ、偉大さ、素晴らしさを体験したからです。

*神様は私たちにも・・・

私達は、このようなイエス様のなさった奇蹟を体験しているでしょうか。イエス様は、ただの水をぶどう酒に変える力を持っておられます。時に私達は困難な出来事や問題が、空から降ってくるように、又、隣の人から投げつけられるような形で突然に起こります。特に家族や親族や友人から与えられた問題には心が痛み悩むものです。しかしこのような試練がある時こそ、御言葉に帰り、神様に祈り、静まり、委ねることが大事であり、神様に、その問題を明け渡すことが必要です。「あなた方の会った試練はみな、人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなた方を耐えることの出来ないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることの出来るように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」(新改訳聖書Ⅰコリント10:13)

2020年3月1日の説教要旨

 創世記28:10-22・ヨハネ福音書1:43-51

         「最初の弟子たち②」    平賀真理子先生

*はじめに

 前回、1か月前の礼拝説教で、今日の箇所の直前をお話しました。その時、主の本当の弟子として招かれた者は、主の許に留まり続けることを期待されていると話しました。今日の箇所では、主の許に留まり続けた結果、どうなるのかが示されています。共に読み進めてまいりましょう。

*新しく加えられた弟子たち ―フィリポとナタナエル―

 今日の新約聖書箇所の直前で、アンデレやシモンなど3人がイエス様の弟子となったと記されていました。続いて今日の箇所では、新たに2人の弟子が加えられます。フィリポとナタナエルです。フィリポは、他の3つの福音書にも名前が出ています。しかし、ナタナエルは、他の福音書では同じ名前は出ていません。ただ、常にフィリポの後に書かれている「バルトロマイ」と同じ人で、別の呼び名だろうというのが通説です。

*イエス様とフィリポとの出会い

 イエス様とフィリポとの出会いでは、イエス様が「わたしに従いなさい」と言われ(43節)、フィリポはすぐに従ったようです。フィリポはナタナエルに対し、イエス様を「旧約聖書で預言された救い主である」(45節)と証ししました。短い時間でフィリポはイエス様を本当の救い主とわかるように、聖霊に導かれたのだと思われます。

 もう一つ特筆すべきことは、フィリポの言葉「来て、見なさい」(46節)です。実はこの言葉は、直前の段落の39節のイエス様の御言葉と同じだからです。一番最初の弟子となった2人に対して、イエス様が語った御言葉が「来なさい。そうすれば分かる。」と新共同訳聖書では訳されています。これは意訳で、原語では、イエス様の御言葉とフィリポの言葉は、同じ動詞が並べられています。単純に訳せばどちらも「来て、見なさい」です。フィリポはイエス様との出会いで「イエス様を救い主と信じる信仰」が与えられ、主と同じ御言葉を語る者に変えられているのです!主の弟子すべてに与えられる恵みの一つが示されているわけです。私達も、信仰によって、主と同じ御言葉を語ることが許され、そして伝道するように導かれると読み取れます。

*ナタナエルがイエス様の許に導かれる過程

 フィリポから「イエス様が救い主である」と聞いたナタナエルは、最初はイエス様の出身地ナザレを差別する意識から、フィリポの証しを信じる気持になれませんでした。けれども神様は人間の狭い考えを悠かに超えて御計画を実現なさり、ナタナエルを、イエス様の許に導きました。たとえフィリポの口を通したとしても、イエス様が語った御言葉の力が、ナタナエルを主の許に導いたと言えるでしょう。この後、ナタナエルの人生が激変するのです。

*イエス様とナタナエルとの出会い

 イエス様はナタナエルを見て、まず、「この人には偽りがない。」とおっしゃいました。「偽りがない」との言葉は「策略などを心に持たない」という意味があります。後にイエス様は、ユダヤ教指導者達の策略によって十字架に付けられるわけですから「偽りがない」は主に従う弟子にとって必要な性質です。また「いちじくの木の下にいる」(48節)とは、当時この地方の人々は、大きな葉をつけるイチジクの木陰で勉強していたとの史実から、ナタナエルがユダヤ教を熱心に勉強していたことを意味するというのが一般的な解釈です。自分の本性や過去の行動をまるで見ていたかのように言い当てられたナタナエルは、イエス様を「神の子、イスラエルの王」(49節)と言いました。これはユダヤ教では待望の「救い主」を意味する言葉です。ナタナエルは、ユダヤ教をよく学んだ者として、イエス様を救い主と信仰告白したわけです!

*「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」(1:50)

 「もっと偉大なこと」を、イエス様は「神の天使たちが人の子の上に昇り降りすること」と説明されました。創世記28章からも分かるように、苦難の道のりでも、主なる神様は、愛する者に天から働きかけてくださることを意味しています。イエス様のこの世の歩みは「十字架への道」であり、人間的には「偉大なこと」とは真逆です。でもこれこそ、父なる神様がイエス様に課せられた「偉大なこと」です。このことを主の弟子たちは理解して伝道することが、人生の本当の目的だと知らされているのです。

2019年8月4日の説教要旨

創世記3:20-24・ガラテヤ書3-23-29

「キリストを着ている」      平賀真理子

*はじめに

 福音書に書かれていて、キリスト教会が果たすべき役割は、「イエス・キリストは神の御子・救い主である」と証しすることです。しかし、今日の新約聖書箇所であるガラテヤ書3:26に「あなたがたは、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」とあります。イエス様を救い主と信じる者が「神の子」であると宣言されています。「神の子」がイエス様だけでなく、私達信仰者一人一人も「神の子」と呼ばれ得るのだと言われていることに驚かされるのではないでしょうか。

*ガラテヤ書の著者パウロが直面した問題

この手紙が書かれた頃、著者パウロが悩まされた問題は、自分が去った後にガラテヤの信徒の群れに、ユダヤ人キリスト者(元々はユダヤ教徒で、後にキリスト教徒となった者)が入り込み、ユダヤ教の「律法」をユダヤ人でないキリスト者「異邦人キリスト者」にも守らせようとしたことです。彼らは当時のユダヤ教が教えていた「律法を実行するかしないかで信仰者を評価する」という方法を、キリスト教会にも持ち込もうとしました。異邦人伝道こそ自分の使命だと確信していたパウロは、その「律法」については「主の十字架と復活がもはや成し遂げられた後なので、『律法』の実行を要求される必要はない」と考えていました。しかし、パウロが去った後の教会では、ユダヤ人キリスト者の教えが広がりつつあり、パウロはそれを問題視したのです。パウロは「律法の実行から神の民が解放されたのは、救い主イエス様の救いの恵みである」と再び教えようとしています。

*現代のキリスト教会にもある問題

パウロの時代から約2000年経った現代では、「律法の実行」からは解放されていますから、パウロの方針は正しかったと歴史が証明しています。ただ、似たような問題が、現代の教会にも実際にあると言えると思います。一つは、福音よりも、福音に出会う前の基準(自分が慣れ親しんだ基準)を重要視する傾向です。世間の常識などに苦しんだにもかかわらず、主を見上げることを忘れると、私たちは元の考え方に囚われてしまいがちです。

もう一つは、「信仰」を目で見える形で評価しようとする傾向です。奉仕などは特にそうなりがちです。神様の前に祈り求めて与えられたものだから奉仕するのが本来の姿ですが、他人から評価されたいという思いから奉仕を行うのは、先のユダヤ人キリスト者と同じ罪を犯していることになります。神様の目よりも、周りの人間の目、または自分自身の思いを第一に据えるという罪です。

*「養育係」である律法から「救い主」の福音へ

 今日の新約聖書箇所に戻ると、パウロは「律法」を全く否定しているわけではなく、「律法」によって、人間は、神様の御言葉を守れない自分を認識させられると捉えているとわかります。それで、パウロは「律法」を「養育係」と表現しました。「養育係」と「救い主」の相違点は、前者が人間を裁くことはできでも罪から解放することはできないのに対し、後者は「罪の赦し」を人間に授ける権能がある点です。「救い主」だけが、人間の罪を赦し、そこから解放してくださることができるのです。イエス様は、私達人間の罪の贖いである十字架を成し遂げ、それを父なる神様も祝福して「復活」という栄誉を賜ったばかりでなく、そのことを救いの御業と信じる者にはすべて、罪赦されて「神の子」とされる恵みまでくださるのです。

*洗礼を受け、キリストに結ばれ、キリストを着ているゆえに「神の子」

パウロは、信徒の群れに「あなたがたは神の子」と言える根拠を、「律法を実行したから」ではなく、「洗礼を受けて、キリストに結ばれ、キリストを着ているから」(27節)と記しました。「イエス様は私の救い主です」と信仰告白して洗礼を受けられるのは、神様主導の選びと大いなる愛によって、その人が聖霊に導かれた結果です。元は罪ある身で生まれた者を、洗礼後は、キリストの愛と赦しが覆ってくださることを「キリストを着ている」と例え、それゆえに、罪ある人間が「神の子」と呼ばれることが許されるという恵みが語られています。

*「永遠の命」への道

今日の旧約聖書の箇所に関連して表現するならば、罪に陥って「神様の用意してくださった園」から追放された人間は、神様から「永遠に生きる者となってはいけない」と「永遠の命」の木の実に至る道をふさがれました。そのふさがれた道を通れるようにしてくださったのが、イエス様の十字架と復活の御業です。私達信仰者は「キリストを着ている」ゆえに「永遠の命に至る道」を通れるのです!

9月16日の説教要旨 「神によって生きている」 平賀真理子牧師

創世記2:7-9 ルカ福音書20:27-44

 

 はじめに

今日の新約聖書の箇所は、聖書で証しされている神様の御心とこの世の人間の関心事がいかに食い違っているかが示されています。私達が、この世で生きていく中での問題、その多くを人間関係が占めているように思います。もっと集約すると、夫婦関係と親子関係です。その順番で、今日の箇所の前半と後半で、その問題が示されています。

 

 ファリサイ派とサドカイ派の相違点と一致点 

イエス様は福音宣教の旅をなさり、都エルサレムに来られました。イエス様の語る御言葉や病いの癒しの御業は素晴らしく、民衆はイエス様を送ってくださった神様を賛美するようになりました。しかし、ユダヤ教指導者達は、イエス様にまつわる出来事を素直に受け止めることができませんでした。そのような指導者達には、大きく分けて2つのグループがありました。その一つが「ファリサイ派」ですが、「律法学者」と呼ばれる人々の多くが、ここに属していました。そして、都エルサレムには「サドカイ派」と呼ばれる人々がいました。この2つのグループは様々な点で見解が異なりました。今日の箇所に関連して言えば、「復活や天使や霊」について、ファリサイ派は肯定、サドカイ派は否定というふうに、です。但し、イエス様への反感という点では一致していました。

 

 「復活にあずかる者はめとることも嫁ぐこともない」

エルサレムに来られたイエス様は、この反対派の人々から論争を仕掛けられました。彼らは論争でイエス様を負けさせて、人々のイエス様への期待を消し去ろうと企てました。まず、ファリサイ派を中心とする人々が質問しましたが、イエス様は「神の知恵」で、彼らを論破なさいました。そこで、サドカイ派の出番です。サドカイ派が常々疑問に感じていた「復活にまつわる問題」について質問しました。もし、復活があるなら、7人の兄弟と結婚した女性は、復活の時に誰の妻になるのかという内容でした。ここでサドカイ派は、今まで主張してきたように、結局、復活は無いという答えをイエス様から引き出したかったと思われます。しかし、イエス様は、サドカイ派の質問の大前提が間違っていると指摘なさいました。サドカイ派は、次の世でも、人間はこの世と同様に結婚すると考えました。しかし、神の御子イエス様は、違うとおっしゃったのです。次の世ではめとることも嫁ぐこともない、即ち、この世の夫婦関係は次の世まで続くものではないし、人間は一人一人に対して、もっと大事なことが課せられていると述べようとなさっています。

 

 「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々」

この35節には、見逃してはならない条件が含まれています。「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされる」という条件です。誰がそれを認定するのでしょうか。神様です!「神の国の主」=「聖書で証しされる神様」が、御自分の御心に従おうとした人間一人一人に対して、「神の国」で復活する価値があると認定してくださり、永遠の命を与えられるのです。だから、「死ぬことがない」とも言えるのです。

 

 「すべての人は神によって生きている」

続いて、イエス様は、サドカイ派が尊敬する「偉大なる指導者モーセ」も、御自分の証しする「神様」に出会ったのだと話されました。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と神様は御自分を名乗られましたが、多くの人々はこれを「ユダヤ人の先祖を守り導いた神の証し」と思っていました。しかし、イエス様は、遠い昔に肉体的には死んでいたとされた「アブラハム・イサク・ヤコブ」は、死んだ後の世界で復活して神様と共に生きていると証しした御言葉だと理解し、「生きている者の神」と言われました。そして、「すべての人は神によって生きている」と締めくくられました。人間は、本来、神に相対して一人一人が生きている、神の基準で生きる存在であると、イエス様は教えようとなさったのです。

 

 この世の人間関係よりも、救い主に謙虚に従うことを優先!

次に、イエス様からの質問を通して、偉大なダビデ王さえ、子孫として生まれると預言された救い主に対して、謙遜だったと示されました。神様と神様が送られる救い主に対し、人間は謙遜であるべきです。その姿勢が反対派には欠けていました。親子関係等の様々な人間関係よりも神様から賜った救い主に謙虚に従うことを私達は優先したいものです。