2023年11月12日の説教要旨 創世記12:1-9・ロマ書4:13-25

             「神の民の選び」      加藤 秀久牧師

*はじめに

本日の創世記には、アブラハムが神様の恵みによって神様に呼び出されたことが記されています。アブラハムは神様から何の理由も告げられないまま住んでいたハランから「神様が示す地」に行くように命じられました。

この神様の恵みによる呼び出しには、神様からの約束が結びついていました。神様の呼びかけ、語りかけは次のように記されています。

「主はアブラム(元の名)に言われた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」

*召命

ここで繰り返されている「あなた」とは、アブラハムへの語りかけであり、呼び出しです。アブラハムは、神様からの呼び出しは信頼すべき事柄であると確信し、しっかりと応えて、一族を伴ってカナン地方へ向かって出発し、カナンの地に入りました。主は言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」(12:7) 私達は、アブラハムの召命を見る時、「召命」とは、神様がご自身の救いの計画のために、ある特定な人を呼び出すこと、個人に与えられる神様からの使命、計画を受け取ることだと思いがちです。しかし、私達一人ひとり、聖書を読む者たちへの神様のご計画や神様から与えられた行動、使命の始まりは、(個人的に違いがありますが)、「神様に仕え、神様に従う」ということにある、とを伝えようとしていると思います。

また、神様を受け入れる・神様を信じる・という出来事には、人それぞれの時期、違いがあることを、ここで告げているのかもしれません。

私のように、神様の恵みの呼びかけを受けたと感じた者たちは、よりいっそう神様からの呼びかけの、その具体的な「時」を待たなければならない時間があるということも、教えようとしていると思います。

ある人には、神様からの恵みのその時が早く起きるかもしれず、ある人には、多くの時間を費やして待たなければならないかもしれません。しかし、どのような状況にあろうとも、私たちは確かに神様からの呼びかけの声、はっきりとした神様からの声を聞いたから、「今」という時を待つことができる、「今」そのことが起きているといえるでしょう。神様からの「あなたは・・しなさい」という声は、私たち個人に向けられたものであって、他の人には関係ありません。

*信仰の父・アブラハム

アブラハムは「神の民」であるイスラエル民族の祖先であり人類全体の「信仰の父」と言われる人物ですが、聖書ではすでに、「アベル(4章)、エノク(5章)、ノア(6章)」が登場しています。 なぜアブラハムは「信仰の父」と言われるようになったのでしょうか。ロマ書4:11には「アブラハムは、割礼(かつれい)を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印(しるし)を受けたのです。」とあり、割礼を受けたユダヤ人だけでなく、アブラハムの信仰を受け継ぐ「信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。」とあります。

*わたしたちの信仰

私たちも、どのような形であれ、神様からの恵みの呼びかけの言葉を聞いていると思います。聞いたことがないという人は、その言葉が聞けなかったのではなく、ただ、心に響いてこなかっただけだと思います。私たちの心がどこに向けられているか、で、神様の声を聞くことが出来るか出来ないかになっているだけではないでしょうか。

アブラハムの信仰は、自身と家族のためだけでなく、近い将来、又、遠い未来に至るまで、血縁関係にある子孫や、信仰によって義とされた者達の子孫をも含み、神様の祝福が必ずそこにある(幸いが及んでいく)という信仰です。私達も、神様から頂いた恵みと祝福を、近い将来、遠い未来まで、さらに神の家族として与えられている会員の方々の子孫をも含んで、神様の祝福を受け取ることが出来るという深い信仰を持ち、神様の恵みの声に耳を傾けながら一週間の歩みを始めて参りましょう。

2023年10月15日の説教要旨 創世記6:5-8 フィリピ1:1-11

           「神の力を知り、見抜く」    加藤 秀久牧師

*はじめに

フィリピの信徒への手紙は、西暦61年頃パウロがローマで拘束されていた間に書かれたと考えられています。フィリピは重要なローマの植民都市で、この地方にはユダヤ人はほとんどおらずユダヤ教の会堂もなかったと言われており、パウロがヨーロッパで宣教した最初の都市でした。パウロがかつて伝道したフィリピの信徒達に、今は監禁されている中で喜びに溢れて神様の言葉の素晴らしさ、嬉しさをひたすら伝えようとしています。

*喜びのみなもと

 1~2節は、フィリピの信徒達に、神様からの恵みと平和があるようにと願いを込めた祈りで、11節までは、パウロがこれ迄の信徒達についての報告を聞いて、パウロが喜びにあふれている様子を知ることができます。その喜びとは、彼らが今日まで福音に与(あずか)っていること、神様が彼らに近い将来、神様の大きな業、祝福を現して下さることの確信が与えられていること、そして彼らがパウロと共に、恵みに与る者とされていることを心に留めているからです。このことは、パウロにとって、感情が高ぶり胸がドキドキすることでもあり、フィリピ教会の人達と神様の働きを体験し、共有したいと願っているからです。

*パウロの執り成し(とりなし)の祈り

知る力と見抜く力を身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉(ほま)れとをたたえることができるように。」(9~11) 

「知る力」とは、「正しい教えを知る力・真の知識・認識力」です。「見抜く力」とは、霊的な事柄の真相を、とぎすまされたするどい感覚をもって洞察力を得ることです。これは、私達の肉体から起こる痛みを「痛み」として感じる感覚と同じようなもので、仮にこの感覚が鈍くなってしまうと、神様を信じることに無頓着になってしまうのではないかと思います。

今日、私達はこのように教会に集まって神様を礼拝することは、礼拝を通して神様から知る力と霊の見抜く力が与えられ、私達の心の中で、神様についての感覚が徐々に敏感になり、成長していくことによって、毎日の生活の中で神様との個人的関係がよりいっそう深く、生きたものとなっていくと思います。

*「あなたがたの愛が豊かになり(9節)

神様の言葉を正しく理解し、行動が伴う時、私達は、(人との交わりのように)神様との人格的な交わりに導かれ、神様の御意志(愛すること)を知るのです。ここで「豊かに」とあるのは「洪水のようにあふれて流れ出す」意味があります。愛は最も尊いものでⅠコリント書の 13:13に「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」とあります。又、本日の創世記では、地上には常に悪いことばかりを考えている人達がいて、神様は、人間を造ったことを後悔し、滅ぼすことを決意します。が、その中で、ノアと家族だけは、神様の好意を得ることができました。それはノアが、神様を信じる無垢な人(純粋に神様を求めて、従った人)だったからです。

*「本当に重要なことを見分けられるように。」(10節)

私達の人生の歩みにおいて、はっきりとした善悪の区別をつけることのできないものがあり、決めなければならないことや決断を求められることがあります。そして時間やお金の使い方とか、思いやりのない人との向き合い方、或いは助けを必要としている人との向き合い方など、多くの事柄に目が行き過ぎて迷うことも、生活の中で起きるかと思います。パウロはそのような日々を送る信徒達に、10節で、「本当に重要なことを見分けられるように」と祈っています。何が重要で、何が大切なことかを見分けて選ぶことにより「キリストの日(終末・再臨)に備えて、とがめられるところのない者となり、イエス様によって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神様の栄光と誉れとを称えることができるように」との、この祈りは、同時に私達自身の日々の祈りでもあります。

2023年9月17日の説教要旨 創世記37:1-11 ・コロサイ書3:1-17

           「神の愛を身につける」      加藤 秀久牧師

*はじめに

 私達はイエス様を、この身につけているのでしょうか。

イエス様の誕生の話をどこかで聞いた時、不思議に思い、人間から神様の子供が生まれるの?と思った方もいらっしゃるのではないでしょうか。しかも本日の説教題を見た時、「神様の愛を身につける」などということが この地上に生きる私達全ての者に果たして出来るのでしょうか。

さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。」(コロサイ書3:1)

 本日の、この御言葉は、神様を信じる者、復活したイエス・キリストを信じる者、そして天に昇られたイエス様を信じる者、それからイエス様が再びこの地上に戻ってくることを待ち望む者、そのことを信じる者たちが教会や一つ所に集まり、神様を礼拝し、神様を称えている姿を映し出しているようです。それだから、「上にあるもの、天にあるものを求めなさい。イエス様がその所におられるのだから...」と述べられています。

*神の国に入る者

「神の国」に入るには、狭い門(マタイ福音書7:13~14)、狭い戸口(ルカ福音書13:24)から入るように、とイエス様は教えています。なぜなら「滅びの道」に通じる門は広くなっていて、その道を多くの人達が進んで行っている現状があるからです。「滅びの道」とはイエス様が救いの道を与えて下さっているのに聞いてもその道に入ろうとせず、暗闇の世界(ねたみや不和・利己心など・・ガラテヤ5:19参照)、負の世界の中に生きることです。かつての私達もこの滅びの道に通じる門へと歩み、(たとえば初詣の参道に並ぶように)他の人達と同じように歩んでいた一人だったかもしれません。

「神の国に入る狭い門」へと至る道は、イエス様と出会い、イエス様を知って、信じる道です。イエス様は「その門はなんと狭く、その道も細いことか。(マタイ)」と言われます。多くの人達は、広い門に行くことが出来る広々としている道が楽だと思ってしまうのかもしれません。

*イエス様の御命令

 イエス様は、私達が狭い門をただ見ているのでなく、又、門が狭すぎるとか、難しすぎるとか、入るには時間が必要だ、と考えるのではなく、狭き門の向こう側で待っておられます(待ち焦がれているのです)。

そこでは素晴らしい出来事が待っています。イエス様は、創造主である神様に目を向けようとする人達に、過去の罪、今ある罪を悔い改めて狭い門から入るように!と命令されているように思われます。もしご命令と考えることが出来るなら、他の人の目を気にすることなく、今日、イエス様の招きに応えて、狭い門をくぐり、中に入る決断へ!と、進むことが出来るでしょう。

上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。(3:2~3)」

 全てのことはイエス様を信じることから始まります。天には父である神様がおられ、そこには永遠の世界があり、神様との完成された交わり、信頼関係があります。一方、私達の住む地上では、私達に肉体があることで私達を自由にあやつる闇の世界、悪の力が支配する社会があります。この暗闇のような世界に光を当てて下さったのがイエス様です。イエス様は私達人間と神様との関係が悪魔によって壊された為、元に戻す(和解)ために自ら十字架にかかり、死んで陰府(よみ)の世界に下り、そこからよみがえらされたお方です。私達がこの悪の力の支配から自由になるために、神様は独り子イエス様を送られ、イエス様は人々の為に死なねばなりませんでした。私達はイエス様の死を通して罪が赦され、それにより狭き門を通ることで私達はイエス様のものとなり、見ている世界から神様のおられる世界に目を向けることが出来るようになりました。

何を話すにせよ、行なうにせよ、すべてを主イエスの名によって行い(3:17)」 

狭き門から入った私達はイエス様とつながり、神様はいつも私達の足元を明るく照らして下さるので、私達は「上にあるものに心を留め」て、希望を持って前を歩いていくことができるのです。

2023年5月28日ペンテコステ礼拝の説教要旨 創世記11:1-9・使徒2:1-11

「聖 霊」       加藤 秀久牧師     

*はじめに

「神様の霊、聖霊」について私達はどのようなイメージを持つでしょうか? 私がイエス様を救い主として受け入れた時、「聖霊」は何か特別な神様からの贈り物の霊のことで、私の心が正しく神様の方へ向かなければ、聖霊を受けることができないだろうと思っていましたし、神様に信仰の告白をして洗礼を受けた後、この聖霊を受けられる資格が与えられると思っていました。けれども神様は、「霊霊」を受けることのできる資格とか権利のようなものが必要であるなど、私達に言っておられません。

五旬祭(五旬節・ギリシャ語はペンテコステ)

 本日の、使徒言行録2章では、始めに「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」とあります。この五旬祭は「七週の祭(大麦に鎌を入れ始める時から7週を数えた日)」と呼ばれて、古くは小麦の刈り入れの祭でしたが、後にイスラエルの民がエジプトから逃れた「過越の日」から50日目に、シナイ山で神様と契約を結んだ日を記念する祝祭日となりました。旧約聖書のレビ記23:15-16には次のように記されています。

あなたたちはこの安息日の翌日、すなわち、初穂を携え奉納物とする日から数え始め、満七週間を経る。・・五十日を数えたならば、主に新穀の献げ物をささげる」。その日には収穫した初物の献げものとして上等の小麦粉に酵母を入れて焼いたパン二個を奉納物とすること、小羊・雄牛・雄羊などのささげ物の規定と共に、この日に聖なる集会を開くこと、どこへ住もうとも、「代々にわたって守るべき不変の定めである」。

それだからこそ、イスラエルの民にとってこの五旬祭は、仕事を休み神様を礼拝する聖会の日、神様との出会いを待ち望む日でもあるのです。

*聖霊降臨

 「一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあります。

一人一人にとどまるようなこの現象は、神様の力強さ、心が熱くなる思い、全身に電気が通ったような思いを与えたことでしょう。

すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と伝えています。

*バベルの塔

 本日の創世記11章に記されていますように、神様に造られた人達はもともと一つの言語で意志疎通が出来ていました。ところが、神様から祝福を受けていた人々は、建物を建てる素晴らしい技術を、彼ら自らが名を上げるため、神様のおられる天まで届く高い塔を建て始めてしまいました。神様はこの、人間のおごり高ぶりを許さず、それまで用いていた言語を混乱させ、互いに通じないようにされました。

近年高層ビルの建設技術の発展は目まぐるしい進歩をとげています。その中で私達人間は、神様に造られ生かされている恵みを忘れがちです。私達には天地を造られた創造主がおられることを忘れずにいることが大切であり、自分の知恵や名誉を誇るのでなく、神様の素晴らしさ、偉大さを称え、伝えるために生きるべきと思います。

*わたしたちの、心の中にある受信機

 バベルの塔のように人間に何か混乱を招く出来事は、先週お伝えしたように、私達の心の中にある神様との受信器を使うチャンスにもなります。私達はこの受信機で、神様による聖霊の息吹き、炎のような舌を受け入れることができるからです。この「霊の働き」は凄く偉大なもので、私達の心の内を走り巡り、今まで混乱していた言語を再び一つの言語として理解できるように、私達が互いに理解し合える言葉へと導きます。  私達が一つ所に集まり、心を合わせて祈りを献げるならば、私達にもペンテコステで起きた出来事、聖霊の流れ・現われを毎週の礼拝の中で体験できるはずです。「聖霊降臨」は私達神様を信じる者にとってとても重要で、全てを新たにさせる神様からの贈り物、神様からの霊のシャワー、霊の降り注ぎとして考えることができるかと思います。この素晴らしい恵みに感謝して、神様と共に今週の歩みを始めて参りましょう。

2022年12月18日の説教要旨 創世記18:1-15・ルカ1:26-38

「主イエスの誕生予告」     加藤 秀久牧師

*はじめに

 本日の創世記には、アブラハムが天幕の入口に座り、目を上げて見た時、そこに三人の人が枯れに向かって立っていたとあります。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、ひれ伏して歓迎しました。6節からは、アブラハムの最大のもてなしを見ることができます。上等の小麦粉で作った「パン菓子」と柔らかくておいしそうな「子牛」の料理で もてなし、しかもアブラハムは立って彼らの世話をしたことが述べられています。アブラハムの態度は極めて礼儀正しく、当時の遊牧民逹にとっての旅人への礼儀であり、風習や文化も大切にしていたように思われます。

*三人の客人

 この客人の訪問の目的は、「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。(10節)」という予告をするためでした。

アブラハムに子が与えられるとの約束は、15章で「あなたから生まれる者が跡を継ぐ。(4節)」と言われ、さらに17章で「わたしは彼女(妻サラ)を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。(16節)」と、神様から聞いていましたが、今回の訪問では「来年の今ごろ」という時期として「一年後」が示されています。しかしアブラハムは男の子が生まれることを初めて聞いた時、「ひれ伏した。しかし笑って、ひそかに「百歳の男に子供が生まれるだろうか。」(17章)と言っています。サラも本日の箇所で、「すぐ後ろの天幕の入り口で聞いて」「ひそかに笑った」(18:10・12)と記されています。

主はアブラハムに、「なぜサラは笑ったのか」と問いただし、続いて、その理由を、主自らが語ります。「なぜ年を取った自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ」と。そして笑ってしまった根本的な理由を明らかにされます。「主に不可能なことがあろうか。」と。

このあと、21章の1~2節には、「主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。」と記されています。

神様の約束はこうして実現していきました。

*祭司ザカリアと処女マリア

先週学んだ祭司ザカリアは、アブラハムとサラのように、主の言葉を受け止めて信じることが出来なかったため、子供が誕生するまで口が利けなくなりました。

本日のルカ福音書では、マリアが、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」との、天使ガブリエルの言葉に戸惑い、何のことかと考え込みました(28節)。続く天使の言葉は「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」でした。この言葉を聞いたマリアは、自分は男の人を知らないので、それはあり得ないと答えますが、天使が、ザカリアの妻のことを伝えて「神にできないことは何一つない。」と言われますと、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(38節)と答えています。

*マリアの言葉から見えるマリアの信仰

 マリアの生まれながらに備わっている性格は、心が素直であるだけではなく、とても考え深く物事をきちんとわきまえていて、又、自分ではよく分からないことに対しては、いったん心に納めて考えるという慎重さが見られます。マリアの、天使ガブリエルに応えた言葉は、彼女自身の信仰の深さ、真実の出来事をしっかりと受けとめようとしています。この、「お言葉どおり、この身に成りますように」との神様への信頼の言葉は、イエス様のゲッセマネの祈り「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください (22:42)。」と重なります。神様はマリアの信仰をご存じで、イエス様の母としてふさわしいと選ばれたのでしょう。

お言葉どおり、この身に成りますように」は、いつの時代でも、今日の、この礼拝においても私達の信仰の基準です。神様からの聖なる霊の助けをいただいて、この信仰に立ち、クリスマスをお迎えしましょう。

2022年12月11日の説教要旨 創世記17:15-22・ルカ1:5-25

「ヨハネの誕生予告」     加藤 秀久牧師

*はじめに

私達は何かしたいことがある時、計画を立てて、少しずつ準備をしていきますが、神様はどのようにイエス様をこの世界に遣わす準備を進めて来られたのでしょうか。アドベント(待降節)第一週目はイエス様の父・ヨセフに注目して聖書に耳を傾けましたが、本日は、イエス様の母マリアと親戚関係にあるエリサベトの夫・ザカリアに注目して、イエス様の誕生を待ち望むこの季節にふさわしいみ言葉に耳を傾けたいと思います。

*祭司ザカリア

ザカリアと妻エリサベトは神様の前に正しい人でした。しかし二人の間には子供がなく、すでに年を取っていました。当時の祭司は24組に分かれ、組ごとに1週間の当番が割り当てられ、ザカリアの組が当番になった時、「香をたく係」がザカリアに割り当てられました。

神殿に大勢の人が集まった祈りの時間、ザカリアはただ一人、香をたくために聖所の中に入りました。ザカリアが香をたいている間、大勢の民衆は外で祈りをささげていました。すると聖所では主の天使が現れ、香壇の右に立ちました。ザカリアは不安になり、恐怖の念に襲われました。

*喜ばしい知らせ

 主の天使ガブリエルは、「わたしは、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされた」(19節)と語り、ザカリアの妻エリサベトに男の子が生まれることを告げて、その子の名前をヨハネと名付けるようにと言いました。

さらに「その子は、主に先立って行き、人々を主のもとに立ち帰らせ、準備の出来た民を 主のために用意する者となる」(預言者エリヤのように)ことが語られました。ザカリアにとって、この知らせはこの上もない喜びになるはずです。しかし彼は、天使の言葉をすぐに信じることが出来ませんでした。夫婦は年を取っていたからです。けれどもザカリヤは祭司でしたから、イスラエルの歴史の中では、老年のアブラハムとサラに約束の子が与えられたことやサムエルの母ハンナのことも知っていたでしょう。

それでも彼は、天使の言葉をすぐには受け入れられなかったのです。

その結果、天使の予告が実現する迄、彼は口がきけなくなりました。

*わたしたちの戸惑い=不信仰

ザカリアはなぜ、天使の言葉をそのまま信じることが出来なかったのでしょうか。私は、ザカリアに「戸惑う気持」があったからではないかと思います。「その子をヨハネと名付けなさい」との命令は、ユダヤ人社会では子供の命名は父親の責任でしたから、これまでの伝統や慣習を打ち破る出来事になり、さらに、与えられる子供がザカリア自身が大切にしてきた祭司の家系を継ぐ者となるのではなく、異なる使命である「預言者」の務めを担うことになる・・との「戸惑い」です。

 私自身、かつて献身したい気持が与えられた一方で、違う方向へと、父親が言うような将来に向けて世界をたくさん見たい、などの気持があったと思います。それだからこそ神様は、私に待つこと、神様の計画の時まで忍耐と希望を持って「待つ」ことを教えて下さったと思います。

*妻エリサベト

 ザカリアの務めの期間が終った後、妻エリサベトは「身ごもりか月の間身を隠していた」(24節)ので、彼女の身に起こったことは噂されることもありませんでした。彼女は、神様の行われるご計画を人々に報告することは、自分の役目ではないと考えていたことでしょう。そして、このことは、神様のご計画がおおやけになり、神様の恵みがイスラエルの人々に、何を準備しているのか、何を示すのかを「神様自らが教えて下さる」と考えていたのかもしれません。彼女は「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」と告白します(25節)。当時の社会では子供が出来ないことは、自分の祈りが神様から退けられて恥ずべきことと考えていたので、大きな苦しみとなっていたことでしょう。しかし神様の大きな恵みにより、今は息子が与えられる喜びで、すべてが素晴らしいものに変わっていきました。さぁ、私達も神様の御計画を思い起しつつ、希望を持ってイエス様のお誕生をお迎えする準備を整えて参りましょう。

6月12日・開設18周年記念感謝礼拝の説教要旨 創世記 2:10-17・Ⅱコリント書 5:16-21

神との和解」       加藤 秀久伝道師

*はじめに                                    

私達は、神様をどのような形で知ろうとしているのでしょうか。神様は私達に、「聖書」という、生きた神様の言葉を与えて下さいました。この神様の言葉は、私達に日々の生活の中で、力と励ましを与えて下さいます。

*「肉に従って知ろうとはしません」

パウロは、ある日突然、目には見えない神様の御子イエス様に出会い、神様を知り、神様を体験した人物の一人です。神様から呼び出され、その声に従いました。本日のⅡコリントの手紙5:16で、パウロは「今後だれをも肉に従って知ろうとはしません」と言っています。「肉に従う」の、「肉」の原語では、人間的な見方や人間的な標準という意味になります。その見方で、神様や接する人達を見たり知ったとしても、それは人間の価値観や経験で見ることになり、本当の姿に出会うことは出来ません。

*「一人の方がすべての人のために死んで下さった」(14節)

「一人の方=イエス様」は、「私達すべての人間の罪の為に死んで下さった」以上は、「すべての人も死んだことになる」と、パウロは語ります。イエス様の愛がすべての人たちを包み、その愛が人々をとらえて離さず、イエス様はすべての人のために死んで下さった!このイエス様の死と共に、私達も又、生まれながらに与えられている肉の思い(=人間的な見方、人間的な照準で生きる)も死んだのです。そして死んだ私達はイエス様の復活と共に、イエス様を復活させられた神様の霊の力によって、新しく創造された者です。その目的は、「生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活して下さった方のために生きること」(15節)にあり、今は神様の右におられて聖霊を送って下さるイエス様と共に、私達は日々生き、生かされていることを語ります。

*「新しく創造された者」(17節)

キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」、さらに、「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」とあります。

そして更に、「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通して私達をご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務を私達にお授けになりました(18節)。」と語っています。「生じた」は、創世記の天地創造の箇所で、神様が命じて「起る、そのようになる」出来事と同じです。人は「神にかたどって=似せて創造された(1:27)」にもかかわらず蛇の誘惑に会い、神様に背(そむ)き、人間が得ることになった知識、知恵、善悪などは神様から身を隠すという行動を起こさせ、悪がはびこる世界に入る結果を作ってしまいました。その世界に身を置く私達人間は、知らず知らずの内に、背後で操つる悪魔(サタン)の働きにより影響を受けてきました。

しかし私達は、キリストと出会い、結ばれた時、今までの古い人間的な考えや思い、価値観はすべて取り払われ、新しい人が私の中で存在し始めたことが述べられます。私達が主に出会う時、私達は神様によってすべてが新しく、まるで「違う自分と入れ替わった」ように軽く晴れやかになり、生まれ変わった気持になることをここで伝えています。

私達の罪のために死なれたイエス様は、その死を通して、私達を罪で滅んで行く者から新しく生きる者へと変えて下さった、そこには本当の生きた神様に出会い、イエス様を知る特権が与えられているのです。

*二つの世界で

私達が生きる世界に目を向ける時、一方では、素晴らしい神様が造られた世界を見ます。しかし他方で、人間の間違った解釈、知識、悪魔(サタン)の働きにより、あるべき姿から違う方向へ向かっているのも見ます。その二つの世界の中で、神様はご計画を少しずつ実行していることも事実です。それは主イエス・キリストの誕生・復活・昇天と、聖霊を送って下さっている出来事をはじめとして、この伝道所の18年間の歩みの中での出来事です。それはまるで天地創造の時と同じように山田の地域に伝道所を建てて良しとされました。それは「神様との和解のために奉仕する任務」のため、神様と出会える場所として、又、人々の安ら ぎの場所として用いられていくためです。共に祈ってまいりましょう。

2021年11月7日の説教要旨 創世記15:1-18・ヤコブ書2:14-26

「神に選ばれた民」         加藤秀久 伝道師

*はじめに

本日お読みした創世記には、神様がアブラハムに希望を与え、勇気づけることが記されています。

神様は、「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」と語られましたが、アブラハムは主に尋ねました。「わが神、主よ。わたしに何を下さるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」と答えています。エリエゼルはアブラハムの家の僕であり、古代文書によれば、当時、子供のいない家庭では所有していた奴隷を養子にして主人夫婦の世話と埋葬を条件に、財産相続の制度があったようです。※(アブラハムの名前はこの時は、まだ、アブラム「高められた父、高貴な父」という名前でしたが、17章に入ると主からアブラハム「諸国民の父」という名前が与えられました)。

*「あなたから生まれる者が跡(あと)を継ぐ」(4節)

神様は、アブラハムの家を継ぐのは僕のエリエゼルではなく、アブラハムから生まれる者であること、12章では「あなたを大いなる国民とし」(2節)、13章で「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする」(16節)、本日の15章では、「天を仰いで、星を数えて見るがよい。あなたの子孫はこのようになる」(5節)と約束されました。

続く6節で「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」とあります。「主を信じた」の元の言葉では「主によって信じさせられた」となります。アブラハムは、これから起こることに対する神様への期待感、将来への希望を持つことができ、神様のわざに同意することで信じたのです。アブラハムの偉大な信仰は、神様の言葉を素直に信じたところにあります。神様に出来ないことはないと素直に信じたアブラハムの信仰は、神様から「義」と認められた(神様の前に正しいと認められ受け入れられた)のです。(さらに7節で)、神様は、ご自分がアブラハムをカルデアのウルから導き出したことを告げ、この土地を与えて継がせると約束されました。

*約束の保証を求めたアブラハム

 神様の、土地を継がせるとの約束に対してアブラハムは「何によって(そのことを)知ることができましょうか」と約束の実現の保証を求めました。神様は、その求めに応じられ、契約の儀式に必要な「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩のひな」を持って来るように命じられ、アブラハムは、それらの犠牲を、契約の内容に沿う形でささげました。(エレミヤ書34:18-20参照)。

 このあと、アブラハムは深い眠りに襲われ、神様の声を聞きます。それは、アブラハムの子孫に将来起こる出来事(エジプトでの奴隷時代および出エジプト)の予告です。そして17節で、暗闇におおわれた頃「煙を吐く炉と燃える松明(たいまつ)」が、用意された動物のいけにえの間を通り過ぎたことで、神様との契約が結ばれたことが記されています

*信仰が行(おこな)いと共に働く

本日のヤコブ書には、アブラハムのことが記されています。

アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められたという聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれた」(23節)とあります。著者は、アブラハムが息子のイサクを献げたという行(おこな)いを取り上げて「アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成された」(22節)と伝え、行いの伴う信仰こそ生きた信仰であると述べます。

*召天者記念礼拝

 本日は、11月第一聖日にもたれる召天者記念礼拝でもあります。前に飾られた写真の方々の信仰を思い起こしつつ共に集まり、礼拝を献げる日でもあります。信仰の先輩達は、信仰の歩みを続けていく時、ここにいる私達と同じように、神様の前で悩み、苦しみ、恐れ、神様を見失いそうになったこともあるでしょう。しかし、そのような中にあっても、周りの人達を思いやり、気にかけ、お祈りに覚えて下さり、イエス様と同じような眼差しで私達を見ていて下さいました。先輩達は神様を見続け、顔を上げて前を向き、神様に感謝の気持を持ち続けていました。私達も同じように、神様に望みを置き、今週の歩みを始めて参りましょう。

2021年10月31日の説教要旨 創世記4:1-10・Ⅰヨハネの手紙3:9-18

「愛するものたちへ」     加藤秀久 伝道師

*はじめに

 アダムとエバはエデンの園を管理する者達でしたが、神様の「園の中央にある善悪を知る木の実を決して食べてはならない」とのご命令に従わず蛇の誘惑により食べたことで、エデンの園から追い出されてしまいました。

その後アダムは、妻によってカインとその弟アベルが与えられ、アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となりました。時が流れて、兄のカインは「大地の実り」を主へのささげ物とし、弟アベルは「羊の群れの中から肥えた初子」を主の献げ物として持って来ました。主は、弟アベルとその献げ物に目を留められましたが、兄カインの献げ物には目を留められませんでした。カインは、激しく怒り、顔を伏せてしまいました。

*神様への献げ物

神様は、なぜ弟アベルの献げ物だけに目を留められたのでしょうか。

考えられるのは、それぞれの礼拝の姿勢、向き合い方です。

この神様への献げ物に関して、ダビデの、次のような言葉があります。

いや、私は代金を支払って、あなたから買い取らなければならない。無償で得た焼き尽くす献げ物を私の神、主に、ささげることは出来ない」(旧約聖書サムエル記下24:24)。

この言葉は、ダビデ王が神様の前に大きな罪(人口調査)を犯して、その結果、民衆に大きな災いが降った時に、その罪の赦しを得るために祭壇を築き、いけにえの献げ物を捧げようと、土地の所有者に売買を申込んだ際、所有者から「祭壇を築く土地も、犠牲の動物も、すべてをダビデ王に無償で差し上げる」と言われた時の、ダビデ王の返事です。「神様を礼拝する」ということは、神様に向けた正しい心が伴っていなければなりません。

神様を礼拝する人の心が正しくなければ、神様は、その人にかかわりのある他の人達までも巻き込んで、滅ぼしてしまう裁きを行うことを私達に教えていると思います。又、神様は、「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル上16:7)とあり、神様の御前では、どんなに小さな罪、悪い行い、考えをも隠すことはできません。それらはいつか神様によって全てのものが明らかにされてしまいます。神様は、アベルとその献げものに対して、神様に対する礼拝の心・信仰・姿勢をご覧になり、目を留められたと考えられます。

*怒りで顔を伏せたカイン

 神様はカインに、「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」と言われます。心にやましいことがなければ、私達は神様の前にしっかり顔を上げられるはずです。仮に、これまでカインの行動が正しくなかったとしても、今、悔い改めればすぐにでも受け入れられることを伝えようとしたのかもしれません。しかしカインは、「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。」と告げられた通り、野原に弟アベルを誘い出して殺してしまいました。

私達も、小さなきっかけから心に怒りを抱いてしまうことがあり、その感情を放置していると、やがてその感情が大きくなり、自分でコントロールできなくなり、大きな罪に発展してしまう可能性があります。

神様はカインに、罪を犯したことを自らの口で告白し悔い改める機会を与えましたが、カインは「知りません。私は弟の番人でしょうか?」と神様に応えた結果、彼は地上をさまよい歩くさすらい人になりました。

仮に私達が罪を犯してしまったら、素直に悔い改めることが大切です。

神様は必ず赦して下さいます。実際に神様は、「私の罪は重すぎて負いきれません」と言ったカインを見捨てることなく、逆に神様はカインをあわれみ、誰も彼を襲うことのないよう、約束しています(4:13~15)。

*宗教改革記念日

本日は宗教改革記念日です。私達は、「聖書のみ」、「恵みのみ」、 「信仰のみ」との宗教改革の三大原理を受け継ぎ、「神様を第一」として、ルターが掲げた「95ヶ条の提題」のように、神様の前に真実な者、正しい者であり続けていく者たちへと変えられていくことを祈りましょう。私達は、私たちの外側を立派に見せるのではなく、私たちの内側が、いつも神様に喜ばれるように礼拝を献げていきましょう。

2021年9月12日の説教要旨 創世記45:1-15・ヤコブ書2:8-13

「心 遣 い」     加藤 秀久伝道師

*はじめに

 本日の創世記では、家族や兄弟を思うヨセフの心遣いが記されています。ヨセフは父ヤコブから非常に愛情深く育てられていましたが、ある時自分の見た夢を兄達に話したことで兄達から反感を買い、商人に売られ、その後エジプトへ奴隷として売られてしまいました。時が経ち、カナン地方にいたヨセフの兄達は、飢饉ためエジプトへ食糧の買い付けに行きましたが、そこで司政者として穀物の販売の監督をしていたのが弟のヨセフでした。

*銀の杯

 ヨセフの兄達は、監督が弟とは気付かず、二度目に食糧を求めてエジプトに行くと、ヨセフは身を明かさないまま彼らと食事を共にした後、家来に、末の弟の袋に代金を戻し、さらに銀の杯をも入れるように命じました。兄達が帰ってまもなくヨセフは再び家来に、袋に入れた銀の杯を持って来るよう命じました。家来は兄弟達の後を追い、銀の杯が無くなり、彼らが監督の好意を踏みにじったと言いました。兄弟達は驚き、もし誰かの袋に銀の杯が見つかったら、その者は死罪、他の兄弟達も奴隷になると告げて袋を開けましたが、末の弟から銀の杯が見つかり兄弟達は引き返しました。

*ユダの嘆願

ヨセフは戻って来た兄弟達に、「銀の杯を見つけられた者だけが奴隷として残り、他の兄弟達は父親のもとへ帰るように」と命じます。しかし末の弟を今回の旅に同行させた責任者の兄、ユダがヨセフに嘆願します。このまま弟を残して帰ったら、父は悲しみのあまり死んでしまう。この弟の代わりに私を奴隷として残して欲しいと願い出ます。このユダは、かつてヨセフを商人に売り、エジプト人の奴隷になるきっかけを作った人物です。しかし今は心に大きな変化が現れています。それはヨセフがいなくなった後、すっかり意気消沈した父親の姿を、長年身近に見て、いなくなったヨセフの代わりに父親がどんなに末息子に愛情を注いできたかを見てきたからでしょう。今、ヨセフの前で弟を必死に守ろう、助けようとしていたユダの行動は、ヨセフと兄達との和解へとヨセフを動かしたのでしょう。

*ヨセフの信仰

 ユダの言葉を聞き、ヨセフは自分の身を明かします。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」 兄弟達は驚きのあまり、答えることが出来ませんでした。ヨセフは彼らに、過去にヨセフにしたことで悔やんだり、責め合ったりしないようにと言い、「神が私をあなた達より先にお遣わしになったのは、・・あなたたちイスラエルの民を生き永らえさせ、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなた達ではなく、神です。」と、ヨセフがエジプトに来たのは神様のご計画によるものであるとの信仰を告白しています。

*神様の御計画

 神様は、ヨセフを先に送り出したように私達一人一人(それぞれ立場の違う人達)をここに集められ、私達は神様を礼拝しています。それは、これから行なわれる神様の業(わざ)を私達が共に行ない、神様のご計画を共に体験するためです。私達は神様に養われる家族として集められ、共に助け合い、生きるようにとの神様の願いがあるからです。近い将来、私達の伝道所がどのような道へ進むかは分かりませんが、ただ、神様というお方を信じ、求め、委ねながら、「今」というこの時に、私達が共に神様に呼ばれ、神様のみ声に従いながら日々の歩みを進めています。

人を分け隔てするなら、あなた方は罪を犯すことになり・・(9節)」 本日のヤコブ書で、教会の人々がイエス様を誉め讃えて礼拝しているにもかかわらず、人を、社会的地位やその人の身なりで差別していることが指摘されます。互いを思い合い助け合い、隣人への心遣いがあってこそ隣人愛の実践であり、神様の意志に適(かな)う者とされます。私達はここで神様の栄光に満たされて力を受け、神様を称え、その輝きを家族や友人や職場の人達や子供達に自然な形で分け与えているのです。

 これが本当の神の家族の姿、隣人への愛を示す姿と言えるのではないでしょうか。神様は今週も私達の前を進まれます。いつも私達の道しるべ、 支えとなり、私達と共にあることを覚えて歩めるように祈りましょう。