6月4日の説教要旨 「キリストはわたしの主」 有馬味付子先生(成増キリスト教会協力牧師)

創世記112  フィリピ書2111

 はじめに

本日はペンテコステ礼拝と仙台南伝道所の開設13周年記念感謝礼拝を献げる日です。大切な礼拝に用いていただき、感謝いたします。昨年伺った時は、この伝道所の最長老の佐藤博子姉が御存命でした。その十日後に博子姉は天に召され、今はこの世にはいらっしゃいませんが、博子姉の存在が確かにあると感じます。すべてのことは神様のご計画であり、「神のなさることは時にかなって美しい。」(コヘレトの言葉3:11・新改訳)という御言葉のとおりだと思います。

この伝道所は、神様が佐藤牧師に開拓伝道の思いを与えてくださり、皆様と一緒に形成されたのですが、その志と力を与えてくださったのは「聖霊」であり、皆様の後押しをしてくださるのも聖霊の働きなのです!

 ペンテコステ=ヘンテコなものを捨てる日

さて、ペンテコステは「ヘンテコなものを捨てる日」と、教会学校の教師から学びました。「ヘンテコなもの」とは、 人を憎む心・イエス様に従わない心・神様に反抗する心であり、別な言い方をすれば、「罪」とも言えます。「罪」は私達の心にへばりついていて、自分では決して捨てられません。それは、イエス様によって捨てられるのです。

 罪を悔い改めて、新しく生きる

「ヘンテコなものを捨てる」とは、「自分の罪を深く悔い改め、新しく生きる」ことでもあります。「悔い改め」をするには、「罪の自覚」が無ければ出来ません。「罪の自覚」をさせてくださるのも、「聖霊」のなさる業であり、この罪の自覚によって、人は洗礼へと導かれるのです。

「悔い改めて、新しく生きる」とは、「自己中心を捨てて、イエス様中心に生きる」ことです。イエス様に従うことで、罪の奴隷である自分から解放されるわけです。自分から解放される時、喜びに満ち溢れ、感謝の思いが沸き上がります。更に「平安」「安心」が与えられます。

 困難・艱難(かんなん)

とは言うものの、私達の主イエス様は十字架の道、即ち、困難・艱難を経験されましたから、イエス様に従う道では、困難・艱難が増えることになります。自分の好きなように生きるか、イエス様に従って生きるかが、自分の生活の上でも、また、色々な社会問題(貧困や差別問題、子育て等)でも問われてきます。

 聖霊による助け

イエス様に従う者は、困難な道、厳しい道を歩くことになりますが、しかし、聖霊による力づけ・助けをいただくことができ、必ず勝利します!なぜなら、イエス様は復活された御方だからです。そして、私達も主にあやかって、「復活する」=「永遠の命をいただける」ことが約束されています。

 聖霊が降ると「奇跡」が起きる

今日は聖霊降臨日ですが、聖霊を受けた弟子達は、語らずにはいられませんでした。そうして、男の数だけで3千人、女の数も入れると、たぶん6千人も、洗礼を受けることになったのです(使徒2:41)。それはまさしく「奇跡」です。聖霊を受ける時に、イエス様を信じる者は「奇跡」を起こせるのです!教会は「聖霊を受けた人、またはこれから聖霊を受ける人の集まり」です。

「聖霊を受ける」ことについては、「体験すればわかる」ものです。そして、それは、個人個人に働くだけでなく、イエス様の体である教会に働くと言えます。私達は、聖霊を与えられるように祈ることができます。

 「創世記」=イスラエルの人々の信仰告白

今日は、旧約聖書箇所として、創世記1章1-2節を読んでいただきました。創世記は、今から約2600年前に、イスラエルの人々がバビロニア帝国の侵略を受けて多くの指導者達がその都バビロンに連れていかれた時、多神教を信仰するバビロニア人と区別して、自分達のアイデンティティーを守るために記録した「信仰告白」と言えるものです。神が創造者であり、私達人間は造られたものであること、私達の命を支配なさっているのは神様であることを宣言しています。つまり、私達人間は神様の前に謙遜であるべきだと示しています。しかし、これが私達には難しいのです。ついつい思い上がって、自分が神になるのです!

 教会一致のために、利己心や虚栄心を捨てる

今日の新約聖書の箇所は、フィリピの教会に宛てて書かれたものです。この時、フィリピの教会では、問題が起こっていました。一つは、2人の婦人達が何かの勢力争いをしていたこと、もう一つは、偽教師が出現して、福音から人々を離そうとしていたことです。この教会分裂の危機的状況の時、パウロは牢獄に繫がれていて、フィリピに直接行くことができずに、代わりに手紙を書きました。パウロは「わたしの喜びを満たしてください」(2:2)と記していますが、これは、自分勝手な喜びでなく、イエス様を喜ばすことに留意するよう、熱望しています。教会の人々の思いが一つになることを願ったのです。この時、この教会が一つになれない原因が2つありました。一つは利己心(3節)=自己中心の心です。自分が正しいと考え、押し通そうとすることです。熱心のあまり、自分の思うとおりに教会がならないとやってられないと思う心でもあります。もう一つは虚栄心(3節)=人に尊敬されたい、または目立ちたいと願う心です。二つとも「自分が、自分が」という心ですし、「清められていない心」とも言えます。信仰者は自分が褒められるのでなく、神様がほめたたえられるように、教会に仕えていくことが求められています。

 教会一致のために必要な「謙遜」の源

そのために、私達には「へりくだる」=「謙遜」が求められています。自分は神様に造られた者であることを忘れないでいる必要があります。このように自分を低くできれば、他の人を上に置くこともできるでしょう。謙遜の逆の「傲慢」は罪の現われです。パウロは「謙遜」の源について、「イエス様が究極なまでに御自分を低くされたこと」を挙げています。イエス様は神の御子であられるのにもかかわらず、神の栄光を捨てて人間となられましたし、更には、「僕の身分」(7節)=奴隷の立場になられました。人間は誰もこれほどまでに謙遜にはなれないでしょう。

 「わたしの主はイエス・キリスト」

主の謙遜の極致の「十字架の死」は、神様のご計画ではありましたが、「この杯(十字架の運命)を取り去ってください。」と主は祈った後に、「御心のままに」と祈られました(ルカ22:42)。この従順ゆえに、神様はイエス様に「あらゆる名にまさる名」(フィリピ2:9)をお与えになりました。それは「主」という名です。「主」とは、神様・生きている者の支配者・所有者との3つの意味があります。「イエス・キリストは主である」が私達の信仰です。つまり「わたしの主はイエス・キリスト」なのです。

2017・3月19日の礼拝説教要旨 「交わりの回復」 佐藤 義子

創世記 127フィリピ2311

はじめに

今朝の聖書・創世記には「神はご自分にかたどって人を創造された」とあります。文語訳では「其の像(かたち)の如くに我ら人を造り」となっています。それで人間は「神の似姿」として造られたと言われます。キリスト教主義学校の聖書の教科書には「人間を見れば神を思わずにいられないような神との深い関係に創られている。つまり人は、機械のような神のロボットや物ではなく、神に『応答するもの』すなわち人格的な存在として造られている」と説明しています。神学者ニーバーは「計画し、創造する魂と、自由に選択する意志」を挙げています。創世記2章7節では、「主なる神は、土のちりで人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」とあります。「」と「」は同じ原語であることから、人間には「霊性」が与えられていることは良く語られるところです。そして「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(1:31)と記されています。

「罪」が世界を変える

しかし、この世界に罪が入り込んだ時、神様が創られた世界と人間の、「極めて良かった」状況は失われていきます。神の「似姿」として創られた人間は、与えられた自由意志で、神様に従う道ではなく従わない道、つまり、神様の御命令よりも自分の欲望を優先させる道を選んでしまったことが、3章のエデンの園の出来事として記されています。それは、人間と神様との境界線(創造主と被造物の関係)を踏み越えてしまったということです。この神様への不従順は、神様を知らなかった時の 私達自身の生き方(自分が良いと思えば良い、という自己中心的な考え方)でもあります。今も多くの人々は神様を忘れ、無視し、人間中心主義の罪が 世界を覆っています。この罪ゆえに私達人間と神様との関係は、長いこと絶たれてしまいました。

修復への道

聖であり義であり愛である神様と、罪ある人間との断絶関係に終止符を打って下さったのは神様でした。本来なら、断絶の原因となった人間から願い出て、人間社会で行われているように「罪の償い」をして、罪の赦しを願い出るべきであったでしょう。しかし私達の罪(創造主の御意志より自分を優先させて生きる、神様をないがしろにしてきた罪)は、測り知れず、罪に見合った罰・・は、死罪のほかにあるでしょうか。神様は私達を愛するがゆえに、神様と私達との「交わりの回復」の道を用意して下さいました。しかし、「義」である神様の「赦し」の前提には、「罪の償(つぐな)い(贖(あがな)い)」がなければなりません。それがお出来になるのは罪のない方(他者の負債を負えるのは、負債のない者)だけなのです。

御子キリスト

ロマ書にあるように、人間には、「正しい者はいない。一人もいない。」のです(3:10)。罪のないお方は御子キリストしかおりません。神様の救いの御計画に対して、今日のフィリピ書では「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、しもべの身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(6-11節)と伝えています。

教会の一致

パウロは今日のフィリピ書で、私達の教会が一つとなるためにイエス様の生き方を手本とするように勧めます。「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たして下さい。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分の事だけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」(同2-4節)。 元神学校の学長は、「畏れをもって捧げられる礼拝こそが、初めに神が人間を創られた時の、神と人間との応答関係の基本的姿なのです」と言いました。私達はこれからも礼拝を第一とする信仰生活を続けていき、キリストを頭(かしら)とした キリストの体である教会の一員として、御言葉に養われつつ、キリストに倣って歩みたいと願っています。

8月21日の説教要旨 七十二人の派遣 牧師 平賀真理子

創世記192326 ルカ10112

 はじめに

イエス様は、宣教活動の拠点のガリラヤ地方から、十字架にかかる場所であるエルサレムに向かう途上にあり、御自分が行こうとされた町へ、先に弟子達を派遣しました。それは、彼らを受け入れる姿勢を示した町に、御自分も行き、「神の国の福音」を より多くの人々に告げ知らせようとされたのだと思われます。この世での残りの時間が僅かなイエス様にとって、一人でも多くの人に「神の国の福音」を知らせたいという思いが切実だったと受け取れるのではないでしょうか。

 72人もしくは70人の意味

この時派遣された弟子達の数は、ある写本では72人、別な写本では70人と書かれ、どちらが正確かはわかりません。ただ、70には3つの意味が読み取れます。一つ目は、「出エジプト」のリーダーのモーセの補佐としての「長老」の数が70でした(民数記11:16、24-25)。二つ目は、この当時のユダヤ人の最高自治組織である「最高法院」の議員数が70でした。この2つから見て、イエス様が派遣した弟子達の数が約70であることは、彼らが新しい「神の民」としてイエス様の正当な補佐役であることを暗示しています。三つ目のことから意味が広がります。ユダヤ人達は世界の民族(異邦人)の数が70と考えました。70という数は「神の国」がユダヤ人から異邦人へ広がると示しています。弟子達の数が約70というのが重要と見たルカによる福音書だけが「72人の派遣」を記しています。

 「収穫は多いが、働き手は少ない」(2節)

イエス様が、それまでに町々を回られ、「救いを求めている人が多い、神の国の民となるべき人(収穫)は多い」と確信されていたことでしょう。それに比べ、派遣できる弟子達、つまり教え導く人(働き手)が少ないと思われたことがわかります。派遣される弟子達も、派遣先でそのことを切実に感じるとわかっておられたでしょう。イエス様は弟子達を派遣する前から、更に働き手が与えられることを祈るように教えられました。

 この世の価値観の人々の中で、「神の国の基準」で生きる弟子達

イエス様の弟子、つまり、福音を告げ知らせる者として、この世に送り出されることは、厳しい道であることは明らかでした。「苦難の僕」であるイエス様の弟子だからです。神の国の基準を守るように求められる弟子達は羊のように、狼のような この世の貪欲な人々から迫害される姿が、イエス様には見えたのでしょう。それでも、イエス様は、弟子達を神の国の基準に従って生きるように教えておられます。具体的には2つのことを語られました。一つは、「この世の基準や物」に頼ってはならないということです。旅路に必要な物(財布・袋=食糧・履物)の予備を持って行かず、「神様の御業に携わる者は、必要な時に必要な物を与えられる」という信仰を求めておられます。二つ目は、一つ目に関連していますが、弟子達は、この世の人が切実に求めている「より良い生活(衣食住)への欲求」さえ、持ってはならないということです。神の国の福音を伝える者は、「ただ、『神の国』を求めなさい」(ルカ12:31)というのが、当然の基準です。

 「神の国は近づいた」(9節・11節)

今日の箇所の中では「神の国は近づいた」という御言葉が2回も出てきていることが注目に値します。イエス様は派遣する弟子達を受け入れる町には、神の国の福音を語り、神の御業である癒しの業を行い、「神の国は近づいた」と言うように指示しておられます。一方、弟子達を受け入れない町には、足に着いた埃さえ払うことで弟子達とその町が全く関係ないとしてよいこと、また、たとえ、その町が拒絶したとしても、「神の国は近づいた」ことを拒否した人々も知るようになると宣言するように弟子達に命じておられます。この世の人々が受け入れようが、拒否しようが、イエス様のこの世への御降臨と神の国の福音の宣教によって、「神の国」はこの世に確かに始まっていて、広がっていくことは、イエス様の教えでもあるし、その後の歴史が証明することでもあります。

 罰の預言?⇒派遣される弟子達への励まし

 弟子達を拒否する町には、天からの火で滅ぼされた「ソドム」(創世記19:23-26)より重い罰を受けるという一見恐ろしい御言葉があります。しかし、これは拒否されることを心配する弟子達を励ましたいという、主の憐れみから出ている御言葉と思われます。実は、私達も72人の弟子達と同じで、周りに「福音」を告げ知らせるように、主から各々の持ち場に派遣されています。主が「神の国は近づいた」と強調された御言葉を語り伝え、主の弟子として働けるよう、祈りましょう。

3月27日の説教要旨 「復活の主との出会い」 牧師 平賀真理子

創世記2:1-7・ヨハネ福音書20:19-23

 はじめに

「主の復活」を祝う「イースター」を迎えました。キリスト教の3大祭りの一つです。3大祭りとは、クリスマス・イースター・ペンテコステ(聖霊降臨)です。日本ではクリスマスが一番有名ですが、キリスト教は歴史的に見ても、「主の復活」を祝う「イースター」から始まっています。

 「主の十字架と復活」

イエス様は、父なる神様からこの世に送られて、「神の国の福音」を宣教することを大事に歩まれましたが、最後には、「救い主」として、父なる神様と人間とを隔てている「人間の罪」を贖(あがな)う使命がありました。それが「主が十字架にかかる」意味でした。十字架にかかるのは、激痛・屈辱・孤独に満ちたもので、イエス様でさえ、容易には受け入れることはできず、ゲツセマネにおける祈りで、悩み、苦しまれたことが他の福音書に記されています(マタイ26:36-46、マルコ14:32-42、ルカ22:39-46)。しかし、救い主として十字架にかかることが、父なる神様の御心だと知り、イエス様は最後には決然と受け入れられました。そして、イエス様が「救い主」として「十字架」にかかられたことによって、父なる神様はイエス様に「復活」=「死に打ち勝つ」という栄光をお与えになったのです。

 弟子たちでさえ最初は信じられなかった「主の復活」

マグダラのマリアが、まず、「復活の主」に出会い、そのことを弟子たちに伝えましたが、彼らはその証言を恐らく信じられず、「ユダヤ人を恐れて」(19節)戸に鍵をかけて集まっていました。弟子たちは自分たちがやがて命がけで伝えていくことになる「主の復活の証言」を、彼ら自身さえ、最初は信じられなかったことがここで示されています。

 「復活の主」から弟子たちに会いに来てくださった!

主が復活された「最初の日」(日曜日)の夕方、この世の人間を恐れた弟子たちの前に、イエス様の方から先に恵みをくださいました。預言なさっていたように、本当に復活なさり、「復活の主」として御自分から弟子たちに会いに来てくださったのです。「鍵をかけた戸は通り抜けられない」という物理的法則を越えて、イエス様が彼らの真ん中に現れました。イエス様が既にこの世の法則を越えた存在だと示されています。「復活の主」は神様と同じ存在であり、「復活の体」をお持ちです。しかも、この世の経験を全く消した「傷の無い体」ではなく、十字架の時に付けられた傷がありました!それで、弟子たちも、突然現れた方がイエス様だとわかったのです。

 「あなたがたに平和があるように。」

信仰の弱い弟子たちを裁くことなく、「復活の主」が、まず、「あなたがたに平和があるように。」という弟子たちに必要な御言葉をかけられました。主は愛する者たちに、必要な時に必要な御言葉を与えてくださることがわかります。「平和」とは、単に戦争の無い状態をいうのではなく、神様の下にあって、何の欠けもない、満ち足りた状態のことを意味する言葉です。恐れに捕らわれた弟子たちは、この御言葉によって、かつて、イエス様と共に歩んだ宣教の旅での満ち足りた状態「主の平和」を思い起こしたことでしょう。

 弟子たちに息を吹き入れ、「聖霊」を送られたイエス様

「聖霊」とは「神の霊」とも言われ、「霊」という言葉は「息」とも訳されます。創世記2章7節に、神様が最初に人間をお造りになった時のことが記されています。

「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」本来の人間は、「神様からの命の息」を吹き入れられる必要があるのです。「復活の主」イエス様は弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」(22節)と言われ、その群れに新しい権能を授けてくださいました。

 「罪の赦し」

「罪の赦し」という権能を、「復活の主」は弟子たち全体に譲られました。「人の罪を赦す」など私達人間にはできません。信仰者の群れ全体=「キリストの体」である「教会」に、イエス様がお持ちの「罪の赦し」の権能を譲られたのです!だから、教会は、「罪の赦し」としての「洗礼式」を執り行うことが赦されています。主は、私達の教会に、洗礼志願者を与えてくださり、今日、このイースターの日に、洗礼式を行う恵みを与えてくださいました。私達の教会が「キリストの体」として正しく歩み続けられるよう、「復活の主」に祈り求めつつ、福音伝道にますます励みたいものです。