10月28日の説教要旨 「新しい救い」 平賀真理子牧師

エレミヤ書31:31-34 ローマ書9:30-10:4

 

 *はじめに

 今から501年前、1517年10月31日に、キリスト教では、プロテスタントというグループが産声をあげました。その流れをくむ教会では、10月31日か、その直前の日曜日に「宗教改革記念礼拝」を献げます。

 

 *「宗教改革」の口火を切ったルター

宗教改革は、ドイツのマルティン・ルターが、当時のカトリック教会のやり方に対して疑問を表明したことから始まりました。カトリック教会は「免罪符」なるものを発行し、これを買った者は罪を帳消しにしてもらえると宣伝しながら販売していたのです。ルターは、悔い改め無しに罪が赦されるなどとは、聖書は言っていないと主張しました。

 

 *「神の義」についてのルターの新しい発見

更に、ルターには、カトリックの教えとは違う確信がありました。それは「神の義」についての教えです。ルターは、かつてカトリック教会の教えに従った修道院で修養を積んだのですが、そこでは、「義」を重んじる神様に対して善行を積まねばならないと教わってきましたし、何か欲望に負けたりしたら、償いの修行を行わなければならないとされていました。しかし、ルターは、善行を積めば積むほど、これでは足りないのではないかと思い、また、償いの修行をいくら重ねても、自分は神様に「義」とされないのではないかという恐れから逃れられませんでした。そんなルターは、大学で聖書の講義をするために、聖書を丹念に学ぶ中で、新たな発見をしました。それは、「神の義」とは、人間が善行を積み重ねた後に神様から与えられるものではなくて、憐れみ深い神様の方から、救われる方法を先に人間にくださっているということです。つまり、神様がこの世に御子イエス・キリストを「救い主」として、既に遣わしてくださったのだから、人間はこれを受け入れるだけで神様から「義」とされるということです。そこには、人間の行いという条件はありません。

 

 *2000年前の民の間違いの原因(1500年後に繰り返されます!)

今日の新約聖書箇所を含む「ローマの信徒への手紙」には、「神の義」が随所に記されています(特に、1章17節がルターを目覚めさせたと言われています)。今日の箇所の中でも、「神の義」について、しかも、その解釈の間違いについて、2か所も記されています。1つ目は、9章32節で、「信仰によってではなく、行いによって律法に達せられるように考えたから」とあります。2つ目の箇所10章3節では、「神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったから」とあります。この2つをまとめると、こうなるでしょう。「イスラエルの民は、律法を守る行いを通して、神様から良しとされる(救われる)と考え、熱心に律法に従ったが、イエス様がこの世に来られた後では、イエス様によって救われる訳で、イエス様を拒否する者は、律法の目標点でもあった『救い』に決して到達できない。」

 

 *神様に従う心から、神様に従う行いが出来る!

神様は、御自分に従順に従う、人間の心を求めておられます。心が神様に従った結果、神様の御心に従った行いができるのです。善行をした結果、神様に御自分の民として認められるという、それまでのカトリック教会の教えは、原因と結果が逆になっています。残念ながら、神様無しで済まそうとする、罪深い人間は、悪い心のまま、善行を装うことが出来てしまいます。心と行いとが一致しない、この状況を、神様は良しとなさいません。

 

 *真の「神の義」を人間に発見させ、「宗教改革」を導いてくださった神様

2000年前の間違いが、1500年後の宗教改革の時代に再現されてしまいました。つまり、見えない心ではなく、見える行いを善行という衣で包めば、神様から義とされると、人間の間違った解釈による正しくない歩みが繰り返されていたのです。そんな中、それを正しい方向に戻そうと、神様は、ルターやカルヴァンなどの宗教改革者達を、この同時代に準備してくださり、豊かに用いてくださったと言えるでしょう。聖書(神の御言葉)に真剣に格闘した彼らは、新たな発見に導かれ、喜びに満ち溢れたのです。それは、罪深い人間の行いに左右されることなく、「神の義」が先に差し出されているということ、つまり、聖書に証しされているイエス様を救い主と受け入れることが「神の義」であるという発見です。そして、彼らは、過去の間違った教えから解放され、本当の救い=新しい救いを発見して、楽園に入ったような喜びを得たのです。その喜びが宗教改革の原点です。

2月25日の説教要旨 「悪と戦うキリスト」 牧師  平賀真理子

エレミヤ書2:1-13 マルコ福音書3:20-30

はじめに

今日の新約聖書箇所は、23節以降のイエス様の例え話を端緒とした御言葉が中心です。しかし、その前の記述は、その御言葉が語られた状況が説明されており、そのことをよく知ると、御言葉の意味を、より一層はっきりと読み取ることができます。ご一緒に見ていきましょう。

今までの先生達とは違う圧倒的な御力で人々を救ったイエス様

ここに至るまでに、マルコ福音書では、イエス様のなさったことが、大まかに分けて二種類書かれています。一つは、イエス様の御言葉が「権威ある者としての教え」(1:21-22)として、人々を驚かせたことです。それまでのユダヤ教指導者達とは全然違うものだったと思われます。

もう一つは、悪霊を追い出したり、病いに苦しむ人々を癒したりする御業を行ってくださったことです。これも、それまでそのことに従事していた専門家とは、全く違う次元の、圧倒的な力を、イエス様は示されたと記されています。苦しみに直面していた人々は、イエス様の圧倒的な御力は神様からいただいていると素直に理解し、それに頼ろうとしました。苦しみは人間的に見れば避けたいものですが、しかし、苦しみを通して、人々は更に真剣に神様に頼ろうとするものです。それで、「群衆」がイエス様に押し寄せていると描かれているわけです。

神様から御力をいただくイエス様を認めない二つのグループ

今日の箇所には、そうでない人々が二グループ出てきます。一つは、イエス様の「身内の人たち」、もう一つは「エルサレムから下って来た律法学者たち」です。前者は、ユダヤ人社会の中で、家族の一員が常識と違った言動を取れば、その家族が、常識に戻す責任があると考え、それを第一に考えて行動しています。この「身内の人たち」は、イエス様の御業の内容を率直に見極めようとするよりも、「気が変になっている」という人々の噂を信じて、イエス様の御業を止めさせようとしました。また、後者も、ユダヤ社会での責任、特に「神様を信じる」件での人々の動きには責任があると思っていました。自分達とは違う、圧倒的な神様からの御力で、福音を語り、悪霊を追い出し、病いを癒せる「ナザレ人イエス」を調査するために、中央の都エルサレムから離れたガリラヤに下って来ました。イエス様を排除したいという自分達の思いを第一に実現することが第一の目的だったと思われます。

反対派を論理的に論破なさったイエス様

この「律法学者たち」は、イエス様の御業に現れた神様の御力を素直に認めず、あろうことか、その圧倒的な力の源を、本当の神様とは全く逆の「ベルゼブル(異教の神々の一つ)」と言ったり、イエス様御自身を「悪霊の頭」と呼び、悪評を立てようとしたのです。これに対して、イエス様は例え話によって彼らの主張を完璧に論破なさいました。23節後半から27節までの例え話は、論理的で、誰でも理解できると思えます。

「聖霊を冒瀆する者は赦されない」

では、その例え話と28節から29節までの御言葉が、内容の上で、つながっているように思えるでしょうか?理解するためには、29節に出てくる「聖霊」の働きについてのユダヤ教の伝統的な教えが参考になります。まずは、「神の真理」がこの世に啓示される出来事が起こるということ、次に、その出来事について、それが神様が起こしてくださっていると人間に悟らせること、それが「聖霊の働き」です。「群衆」はイエス様の御業を神様からのものと理解している=「聖霊の働き」を理解し、認めています。一方、「身内の人たち」や「律法学者たち」は、イエス様の御業の上に「聖霊の働き」が確かにあるのに、それを決して認めませんでした。「聖霊」は「神の霊」、つまり、イエス様が最も愛する「父なる神様」の霊であり、父なる神様の御心によっていただく賜物です。それを認めず、他の名で呼ばれることをイエス様は決してお赦しにはなれません。「聖霊」を「汚れた霊(30節)」と言われることはお赦しになれません。イエス様は「聖霊」を認めず、他の名で呼ぶ「悪」と。論理的に、敢然と戦われました。

「聖霊の働き」を祈り求めることができるという私達の幸い

今や、私達は、イエス様を救い主と信じる信仰で、主の恵みを賜わること=「聖霊の働き」を祈り求めることが許されています。その源である「主の十字架の贖い」を再び想起し、「復活」の恵みに感謝しましょう。

2月18日の説教要旨 「荒れ野の誘惑」 牧師  平賀真理子

エレミヤ書31:31-34 マルコ福音書1:12-15

はじめに

今日の新約聖書箇所は、イエス様が救い主として歩まれる「公生涯」の初めに、洗礼を受けた後、荒れ野でサタン(悪魔)の誘惑を受けたと記されています。まずは、その順番に従って考えていきましょう。

罪がないのに、罪を清める洗礼を受けたイエス様

イエス様は救い主として「公生涯」を始めるにあたり、洗礼をお受けになりました。罪のない神の御子なら、罪を洗う洗礼は必要ありません。けれども、イエス様は御自分が洗礼者ヨハネから洗礼を受けることは「正しいこと」(神様の御心に適うという意味)とおっしゃって、洗礼をお受けになりました。それは、罪のないイエス様が、救う対象である私達罪深い人間と同じ立場になってくださることを示しています。

それから、“霊”によってイエス様は荒れ野に連れ出されたとあります。“霊”とは「聖霊」「神の霊」「主の霊」という意味です(聖書の初めの「凡例」の三の⑵参照)。だから、神様が、人間と同じ立場で洗礼を受けたイエス様に、荒れ野で悪魔の誘惑を受けるように導かれた訳です。

洗礼の後に、悪魔の誘惑⇒信仰者(受洗者)への試練の先取り

私達と同じ立場になるため、イエス様が洗礼をお受けになって誘惑を受けたなら、その順番が、私達が信仰の歩みと逆だと思われませんか?悪魔の誘惑や人生における試練を経て、人間はこの世の限界や偽りを感じ、真実を求めて教会に来て、福音に出会い、洗礼を受けることになるという順番の方が多いでしょう。しかし、イエス様の歩みは正反対の順番を示しておられます。これは、公生涯の始まりの後に、悪魔が信仰者にも誘惑(試練)を仕掛けてくるということを暗示しています。それは、神様に愛される者を、サタンも狙うからなのです。イエス様だけでなく、信仰者も、洗礼によって「公生涯」が始まると言っていいでしょう。受洗者は、神様の御前に神の国の民として生き方を見守られているのです。サタンは私達受洗者=神の民が神様からの愛を受けている故に、自分側に引き込もうと激しく誘惑するのです。イエス様の洗礼の後の悪魔の誘惑は、洗礼後の「神の民」への悪魔の誘惑の先取りです。

荒れ野の誘惑の内容と撃退法(マタイ4:111、ルカ4:1-13

私達は、イエス様が悪魔に勝利した「荒れ野の誘惑」の内容とその撃退法を知る必要があります。私達にも降りかかる誘惑だからです。その内容を、マタイ福音書の順番で見ると、以下の通りです。①自分の欲望を満たすためにこの世の物を変えたらよいではないか。②自分の願いを叶えるために、神様を試してみたらどうか。③一度だけ、少しだけでいいから、神様でないものを拝んでみたらどうか。以上です。3つ全部が、「神の民」である故になおさら、陥りやすい誘惑です。①の誘惑に対して、イエス様は、欲望(食欲)を満たすこの世の物ではなく、主=本当の神様の口から出る御言葉によって人間は本来生きるものだとお教えになりました(申命記8:3)。②の誘惑は、特に要注意です。神の民が願ったことをすぐ、神様が奇跡を起こして助けてくれるはずだから試してみたら?という誘惑です。私達は祈りでは自分の思いを当然素直に表しますが、神様の御心よりも、自分の思いを叶えるために神様を試すようにその御力を求めるのは本末転倒です。人間が神様を自分の思い通りに動かそうと企てることが罪なのです。イエス様は、再び、御言葉(申命記6:16)により「主を試してはならない」と誘惑を退けました。③も信仰生活でしばしば見かけます。神様に関わること(礼拝等)よりも、自分の都合を優先することを最初は1回だけと巧みに誘い、次第にその回数を増やし、最終的には信仰生活から離れさせる罠を悪魔は信仰者に仕掛けます。イエス様は、3度目も御言葉(申命記6:13)により、悪魔を拝むことを敢然と退け、「主にのみ仕える」と宣言されました。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(1:15)

洗礼と試練の後、イエス様は「救いの時の到来」を天地に宣言なさいました。「時は満ち、神の国は近づいた。」という業をなさるのは神様です。神様が御計画して人間を救う時が押し寄せています。それを受ける側の人間がなすべきことは、悔い改め=自己の欲望中心の生き方を止め、神様の御心に従う生き方に変えることです。その準備ができた者の心に福音が入り、それを信じて生きる信仰を神様が与えてくださるのです。

10月22日の説教要旨 「神様の憐れみ」 牧師 平賀真理子

エレミヤ書31:20 ルカ福音書15:11-32
*はじめに
ルカによる福音書15章は3つの有名な例え話から成り立っています。
3つの共通点は、「見失ったもの」を「あるじ」が必死に探して見つけ出し、見つけ出したら、仲間や近隣の人々と共に大喜びし合うことです。
*前の2つの例え話と異なる点
今回の「放蕩息子」の例え話では、「二人の息子を持つ父親」というのが「あるじ」であり、「下の息子」(以降「弟」と表記)が「見失われるもの」です。この「見失われるもの」と例えられる弟は、父親に従わないという意志があるようです。この反抗的意志があることが他の例え話とは違います。この弟は、敬意や感謝を父親に示さず、財産の生前贈与を要求し(かなり失礼な事)、取り分をもらうとサッサと遠い国に行って、元々は父親のものだった財産を使って放蕩な生活を送りました。
*「弟」の罪の姿が比喩するもの
自分の欲望の虜となって、神様や周りの人への配慮や感謝を忘れてしまう姿になるとは、この弟だけが悪い性質なのでしょうか?もしも、私達も時間と資金が潤沢にある環境に置かれたら、この弟のような自堕落な生き方を一瞬たりとも絶対にしないと言える人がいるでしょうか。「あるじ」から離れて、その存在を忘れて、自分の欲望のままに好き勝手に生きたい!という誘惑を退けられる人はほとんどいないのではないでしょうか。日頃の自分の生活を見れば、自分がいかに欲望に弱いかわかりますね。
*放蕩の末に困り果てた「弟」
この弟は、財産を使い果たし、そこで大飢饉が起き、豚の世話係にまで身をやつしました(ユダヤ人にとって豚は汚れた生き物で、この仕事は屈辱的です)。欲望を満たそうと躍起になり、神様を平気で忘れ、挙句の果てには苦しむ人間の罪の姿が示されています。神様は、この愚かな弟をこのような困窮と屈辱に追い込むことにより、「あるじ」のもとに居ることがいかに素晴らしいことかを、骨身にしみて悟らせようとなさったのだと思います。
*「天に対しても、またお父さんに対しても、罪を犯しました」(18・21節)
この試練を通して、この「弟」は、神様に喜ばれるように変えられていきます。欲望まみれの自分の罪を深く自覚して「天にも、父親にも、罪を犯した」と言うと決意しました。そして、その悪い状況を引き延ばさず、惨(みじ)めな自分を晒(さら)しても「あるじ」である父親の元に帰ろうと決意できたのです(18節)。更に次のことが重要です。実際に、この弟は悪い状況から立ち上がり、親元に帰り、決意したとおりに、自分の罪を告白したのです!以前の彼なら、自分の罪さえ自覚しないし、たとえ自覚しても、うやむやに誤魔化し、親元に居座るようになったと想像できます。しかし、欲望に従った生き方の限界を知った弟は、無条件で愛してくれる父親の元で大歓迎を受けても甘えずに、自分の罪深さをしっかり言い表しました。神様から試練を与えられることによって成長させていただいたのだと思います。
*「神様の憐れみ」
例え話の「あるじ」である「父親」の方に目を向けると、「一日千秋」の思いで毎日毎日待っていたと推測できます。というのは、この弟息子が挫折の末に帰って来た時に「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけ」(20節)て大歓迎したからです。そして、父親が弟息子を「憐れに思い」(20節)という言葉に注目したいと思います。これは、聖書で語られる神様の御性質の一つです。単なる同情だけではありません。弱い立場で苦しみ、助けを求める人間を放っておけずに、同じ思いになり、その状況を根本的に解決するように実際に働いてくださる、それが「神様の憐れみ」です。ユダヤ教指導者達は神様を恐い冷徹な存在と強調しましたが、神の御子イエス様は、父なる神様の御性質をよく御存じで、この父親に「憐れみ深い父なる神様」の本質を重ねておられます。人間が欲望に引きずられて、本当の「あるじ」である神様の元を離れても忍耐して帰りを待ち続ける御方であり、一方、人間の苦しむ姿には耐えられず、御自分の民として生きる幸いをいつでも授けようと待ち構えていてくださる御方であります。
*「神様の憐れみ」を究極的に示したのが「主の十字架と復活」
今回の話の「兄息子」は直接的には「ファリサイ派の人々や律法学者たち」(15:2)を例え、「弟息子」は「徴税人や罪人」を例えています。「あるじ」と例えられる「父なる神様」の御心に従い、イエス様は、神様から離れていた「徴税人や罪人」が神様の元に帰りたいと願うように彼らの中に入り、福音を宣べ伝えたのです。ファリサイ派や律法学者達が「自分達は神様側に居る」と言いながら、神様と共にいる恵みを感謝できずにいる姿を、イエス様は「兄息子」の様子で比喩なさいました。一方、イエス様は「神様の憐れみ」を理解して従う御方です。その「主の十字架と復活」こそ、罪に苦しむ人類を救いたいと切望する「神様の憐れみ」ゆえに為された御業です。私達は、その恵みに与って生きることを許され、感謝です!

2月7日の説教要旨 「奉仕する人々」 牧師  平賀真理子

エレミヤ書17:9-14 ルカ福音書8:1-3

 はじめに

 今日の新約聖書の1節には「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた」とあります。似た内容が4章43節にあります。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」とのイエス様の御言葉です。救い主による「本当の救い」が必要な人がたくさんいて、その救いを父なる神様から託されている!という熱い思いによって、神の御子イエス様の宣教の旅は続けられたのでしょう。

 「神の国の福音」宣教の旅をとおして

宣教という使命は大事な使命の一つです。しかし、イエス様は「救い主」である御自分にしかできない使命を成し遂げなければならない時が迫っていることを切実に感じておられたのではないでしょうか。それは「人間の罪の贖いのために、十字架にかかる」という使命です。預言と同じ御業を行っておられたイエス様を「救い主」として受け入れるべきユダヤ教指導者達(ファリサイ派や律法学者達)が、御自分を排除しようとしていることを知って、イエス様はますます嘆かれたことでしょう。この権力者達は、自分の都合で、神様を持ち出したり、無視したりしています。これが人間の罪深い姿の一つです。私達にも当てはまる姿です。そんな人間達の大きな罪のために十字架にかからねばならないという使命が迫っている……。だから、神の国の福音を宣教するという役割を、招き、愛し、育んでこられた大事な弟子達に譲って行かねばならないと覚悟されていたのではないでしょうか。だから、12使徒として御自分で選ばれた重要な弟子達が宣教の旅を一緒にすることをお許しになったのでしょう。御自分と行動を共にすることで、「神の国の福音」を宣教することを御自分からすべて学んでほしいという主の切実な思いを感じます。

 「神の国の福音」

さて、その「神の国の福音」をもう一度、よく考えてみたいと思います。

「神の国」は「神様が王として支配している世界」と説明されています。「神様の愛」が行き届いた世界と言えます。「神様の愛」の特徴は、無償の愛、自己犠牲の愛、弱い者を愛する愛です。そして、その神様は何よりも私達人間一人一人を愛しておられます。神様から離れたがる、罪深い私たちが、「神の国」に入るためには救い主による罪の贖いが必要なのです。その罪の贖いのために救い主がこの世に来てくださり、私達人間と同じ姿になり、御自分の命を犠牲にする贖いとして「十字架にかかる使命」を引き受けてくださる、それこそが、人間にとっての「福音」=「喜ばしい知らせ」なのです。ですから、「神の国」は、イエス様がこの世に遣わされた時から始まっているのです!

 救われた感謝としての奉仕に生きる婦人達

12使徒達を「神の国の福音」の伝道者として教育するための重要な宣教の旅に、同行を許された婦人達がいたこと、しかも、名前が具体的に記されていることは驚きです。他の古代社会と同じように、当時のユダヤは男性中心の家父長制社会でした。しかし、イエス様とその周りでは、人間社会の性別の壁を悠に超えていることが示されています。3人とも、恐らく、イエス様によって、「悪霊を追い出して病気を癒していただいた」のだと思われます。特に、「マグダラの女と呼ばれたマリア」と「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」は、ルカ福音書24章の「十字架の後の復活」の場面で、イエス様の御言葉を思い出して、御言葉どおりのことが起こったと使徒達に伝えるという重要な働きに用いられたことが、名前を挙げて記録されています。

彼女達は、人間の力で治せない病気になって絶望していた故に、「神様の救い」を切実に求めるようになり、イエス様との出会いとその救いという恵みをいただくことができたのでしょう。人間的に考えれば、絶望する体験は本当に避けたいですが、神様を無視して生きたがる人間には、そのことをとおして、やっと真剣に神様を求めるように変わることが多いものです。この婦人達は、病気という絶望に真剣に向き合った、そこで、神様の救いを求めた、そして本当の救いに導かれたのです。だから、イエス様の救いが本物であることを切実に感じたのだと思います。絶望の淵にいたからこそ、イエス様からの救いの素晴らしさを本当に知ることができる、その体験をした人が、自分を救ってくださった神様への感謝の応えとして、自ら奉仕する人に変えられていきます。私達も、もう一度、主に出会って救われた時の喜びを思い出し、主の御旨のために奉仕したいものです。