2022年7月17日の説教要旨  エレミヤ書23:23-32・ガラテヤ5:2-11

「自由に生きる」      加藤 秀久伝道師

*はじめに

皆さんにとって、神様の言葉は、どのように聞こえますか。

本日のエレミヤ書の初めには、エレミヤに「主の言葉が臨んだ」と記されています(1:4)。エレミヤは、祭司であった父親が神様に仕える姿や、神様を第一として礼拝する日々の生活を見ることから、神様の声を身近に感じるという環境にあったのではないかと想像します。

万軍の主はこう言われる」(23:16)

神様からの呼びかけの声は、神様を信じる私たち誰にでも聞く機会が与えられています。神様の声は時に小さく、時には大きく、又、聞く前には何か温かさで包まれているような感じであるのか、逆に、雷鳴のような胸の高鳴りが沸き起こり、全身を震えさせるような力が近づいて来るようであるのか、その時、その時の違いはあっても、神様の現われには、大きな力強さを感じることがあるかと思います。エレミヤは、その神様の呼びかけの声に耳を傾けて、正しく人々に伝え、そして従い続けました。

本日のエレミヤ書では、神様は、地上の私達のそば近くにおられる神様であると同時に、天の御国から世界を見渡して、私達ひとり一人に語りかけ、全てを支配されておられる神であることが語られています(23:23-)。

*預言者と偽預言者

預言者は、神様から告げられた言葉を語る時、人々の生活に影響を与え、時には、その人の運命を左右する言葉も語らなければなりません。神様から遣わされて、真実を伝える伝達者としての役割は、私情を挟む(個人的な感情が入り込む)誘惑も退けなければなりません。

ところが、神様の言葉を取り継ぐ預言者の中には、正しく取り継がない偽預言者たちもいたのです(23:9~)。偽預言者達は「わたしは夢を見た」と言って勝手にその夢を自分で解き明かし、神の名を使って自分の考えを「主の託宣(たくせん)だ」と、言い放っていました。

「夢」は、もともと神様の意志を伝達する方法の一つでもあり、「あなたたちの間に預言者がいれば 主なるわたしは幻によって自らを示し 夢によって彼に語る」とあり(民数記12:6)ます。しかし同じ民数記でも「モーセとは口から口へ語り合う」と言われます(同8節)。エレミヤも、神様と直接的な関係にあったことが、エレミヤの告白に於いて見ることが出来ます。「主の名を口にすまい。もうその名によって語るまい、と思っても 主の言葉は、わたしのこころの中 骨の中に閉じ込められて 火のよう燃え上がります。押さえつけておこうとして わたしは疲れ果てました。わたしの負けです・・。」(20:9)

偽預言者は、偽りと気まぐれでイスラエルの民を迷わせていたために、神様は怒りをもって、彼らに「立ち向かう」(30節~)と言われました。

*恵みの道と律法の道

 本日のガラテヤ書で、パウロはガラテヤの教会の人達が、神様を信じてイエス様の十字架による救いの恵みを受け入れ、御霊の注ぎも受けたにもかかわらず、割礼と律法遵守を要請するユダヤ人伝道者(パウロの反対者たち)の主張に耳を傾けて、割礼と律法遵守で信仰を完成させようとしていたことを警告しました。もし「割礼と律法」を守ることで「義」とされ、それが天国に入る道であるならば、イエス様の十字架は、何の意味もなくなり、イエス様が救い主であることさえ否定してしまう結果をもたらすからです。私達は、十字架による罪の赦しを信じる信仰によって「義」とされたのであり、「イエス様に結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」(5:6)とのメッセージを聴きます。

*「わたしたちは、自由を得るために召し出された」(5:13)

私達は、救いによって与えられた自由を、「愛によって互いに仕え合う」形で用いることを教えられています(5:13)。偽預言者達も、パウロの反対者達も、神様の言葉でなく自分の言葉を付け加え、律法を強調しました。パウロは、「律法全体は、隣人を自分のように愛しなさいという一句によって全うされる。」(5:14)と語りました。このみ言葉が心の中に留まるように、神様の働きに励んで行きたいと願うものです。

2022年3月13日の説教要旨 エレミヤ書2:1-13・エフェソ6:10-20

悪との戦い」    加藤 秀久伝道師

*はじめに

エレミヤ書1章4節以下にはこのようにエレミヤが告白しています。

主の言葉がわたしに臨んだ。わたしはあなたを母の胎内に造る前から あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた。』」

 エレミヤに命じられた使命は、諸国民の預言者となることであり、それはすでに、エレミヤが生まれる前から神様が定めた職業でした。これに対してエレミヤは、「私は若者に過ぎません」と応答します。しかし神様は「彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」と約束されて励まし、語るべき言葉をエレミヤに授けました(同 8-9節)。

*エレミヤの生きた時代

 かつてイスラエルの民がエジプトで奴隷であった時、神様は人々の叫びを聞いて、指導者モーセを送り、エジプトから救い出しました。旅の中でモーセを通して与えられた十戒を聞いたイスラエルの民は、その言葉にすべて従うことを約束しました。彼らは、荒野の40年間の旅を通して主に養われ、成長し、自分達のアイデンティティー(自分が、一人の人格として存在していること、民族としては、他者から区別される独自の性質・特徴)を見出していきました。そしてこの旅を通し、神様は自分達と共におられる唯一の神であることを知り、神様との信頼関係を築いていきました。その時のイスラエルの民について、神様はこう語られています。

わたしは、あなたの若い時のまごころ、花嫁の時の愛、荒れ野での従順を思い起こす(2章2節)」と。

けれどもエレミヤが召命を受けて、預言者として活動していた時代は、イスラエルの民は、カナンの地に入り、カナン人の信じるバアル信仰(農耕神)の影響を受けて、主を捨てて他の神々に香をたき、偶像にひれ伏し、主に向かう「初めの愛」から離れてしまっていました。当時の祭司達も「主がどこにいるのか」とは尋ねず、探さず、教育者達も主を知らず、王や指導者達、預言者達までも、無価値のものに心を奪われていました(2章5節~)。 ここに、すべてのイスラエルの罪があります。

*主の語りかけ

 2章の初めには、1章4節と同じ様に「主の言葉がわたしに臨んだ。」と、主の語りかけの言葉から始められています。「主の語りかけ」とはどのようなものでしょうか。私達が心を静めて神様に思いを向ける時、主の霊、聖霊を通して神様の思い、神様の行動を知ることが出来ると思います。神様の霊の中に置かれる時、私達の本来あるべき姿を知らせ、神の子供として自由になり、私らしい輝きを放つことができるようになり、神様との関係が深まることで神様の愛をさらに深く感じていきます。

*神様との関係の回復

 神様とイスラエルとの約束は、自分の意志で選択できるものでした。同時に悪に対しては裁きがあり罰を伴いました。神様から離れた民に残された選択は、犯した罪に目を留め、悔い改め、再び主を知ること、すべてを神様の前に明け渡すことです。これが神様との関係を回復する唯一の道です。エレミヤは人々に神様に立ち帰るように語り続けました。

*悪との戦い

神様を信じる者達が主に拠り頼み、主との関係を築き上げることで主と結ばれて、主の偉大な力を身にまとうことが出来ることを、本日のエフェソ書は教えています。一方で、神様の霊を受けることによって、この世の霊の力、悪の力と戦わなければなりません。私達は悪魔の働きかけに気をつけて、神の武具を身に着けるように教えられています。

それは、私達が神様を信じた時、イエス様を救い主として受け入れた時に、すでに神様の力である聖霊をも受け入れています。この霊の力は日々の生活の中で、祈りをしている時、聖書を読んでいる時、讃美をしている時など、私達が神様とより深い関係、近い関係にあればあるほど大きくなります。それと共に私達には、悪の力から勝利されたイエス様がおられます。私達は、神様との関係づくりを大切にして、神様に愛されている者として、喜びを持ちつつ今週の歩みを始めて参りましょう。

2022年3月6日の説教要旨 エレミヤ書31:27-34・ヘブライ2:10-18

誘惑に勝つ」     加藤 秀久伝道師

*はじめに

本日のエレミヤ書には、神と人間の関係を示す契約の、最も深くて本質的な内容が示されています。神様とイスラエルの民との契約とは、神様がシナイ山において、指導者モーセを通して民に与えられた契約です。それは十戒と呼ばれる十の戒めであり、「モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を、民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、『わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います』と言った。」(出エジプト24:3)」と記されています。十戒をはじめとする律法は、イスラエルの民の生活の中で生きたものとなり、人格形成の助け手の役割がありました。

*新しい契約

この神様とイスラエルの人々との間で結ばれた約束(契約)が、今度は新しくされることが、預言者エレミヤによって、神様の言葉が語られます。

見よ、・・・新しい契約を結ぶ日が来る」(元の言葉では「日々」)です。

この「新しさ」とは、今まで契約の相手は「イスラエルの民=群・共同体」であったけれども、今度は、「神様とわたし(個人)」の間で結ばれる契約になるというのです。神様との契約は、表面的に命令として受け止めたり、定められた基準にただ従って行動するというのではなく、ひとりひとりの心に刻まれて、人間性そのものが新たにされる、ということへとつながることになります。

*預言者エレミヤ

 エレミヤが活動した南王国ユダでは、ヨシヤ王が修理中のエルサレム神殿から発見された神の律法の書(申命記)によって、BC.621年に宗教改革が行なわれました(列王記下22-23章)。エレミヤは、その律法の書に記されている全ての言葉を価値あるものとして扱い、この契約の言葉に従わない者は呪われることを主張し、ヨシヤ王の改革運動を支持しました。

ヨシヤ王は、神殿および周辺にあった偶像となりうる物をことごとく外へ運び出し、破壊し、焼き払い、神殿や高台、町などを聖(きよ)めました。

しかしヨシヤ王が戦死したことにより、人々が律法の言葉に対して真剣に取り組まなかったことで、この宗教改革は挫折(ざせつ)しました。エレミヤから見て、イスラエルの人々は、希望が持てない民、絶望的な民であり、彼らのあまりの罪の深さにより、自分の意志や考えをコントロールできず、自ら滅びの道へ歩んでしまったのでした。

BC.587年にエルサレムは陥落。神殿は焼かれ、ユダ王国は滅び、人々は捕囚となってバビロニアに連行されていくのです。しかしエレミヤは、そのようなイスラエルの人々でも、その中から、わずかな可能性、望みを持ち続け、人々が将来、神様に立ち帰り、信仰を再び取り戻すことを期待し、民族再生の道を追求していました。人々から激しい迫害を受け、涙で語るエレミヤは、神様への純粋な信仰を貫き通して、「新しい契約」のメッセージを語ります。

*「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」(33節)

あの、古い律法(=十戒)は、石の板(イスラエル共同体)に刻まれたが、これからは、一人ひとり・個人の心に律法が記されるという「新しい契約」が結ばれる日がくるのです。それは、私達が義務や、他の誰かから強制されて物事を捉(とら)えるのではなく、わたし達の心の内側からの意志の現われが、自発的な態度を造り、自分に直接関係するという意識を生み出すことになり、自分の意志で、神様の律法(トーラー)を守り従うことになります。このことにより、神様の言葉「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(33節)ことが可能となる契約です。

*ヘブライ書2章18節

イエス様は、私達人間の罪をつぐなう為に私達の身代りとなって律法を成就され、ご自身の十字架の犠牲によって律法での「いけにえ」を献げる行為を終らせて下さいました。私達自らが、主イエス・キリストの贖いの死と復活を信じて聖霊に満たされ、導かれ、聖書の御言葉に信頼を置くことで、新しい契約の下での「救い」を無償の賜物として受け取る機会を与えられています。「事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人達を助けることがおできになるのです。

12月29日の説教要旨

エレミヤ書29:11-14a・ルカ福音書18:18-23

わたしのもとに来なさい」 

加藤秀久神学生(東京神学大学)

*はじめに

 イエス様は、「私のもとに来なさい、そして私に従いなさい。」と、呼びかけておられます。イエス様の呼びかけに応えること、イエス様に従うことは難しいことでしょうか? いいえ、イエス様に従うことは難しいことではありません。なぜならイエス様は、ただ幼子のように、私を信じ、従いなさい、と言っておられるからです。

*「善い先生、何をすれば・・」

本日の聖書は、この地上に富と財産を多く持つ大変な金持の議員が、イエス様に、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた場面から始まります。どうしてこの議員はイエス様に、「善い先生(優れた先生、価値のある先生)」と言ったのでしょうか。

私達が「善い、優れた、価値のある」との言葉を使う時、私達に出来ないことが、その人には出来る、という意味で使っているかもしれませんが、当時のユダヤ教指導者達の間では、この「善い」は、ほとんど使われていなかったそうです。なぜならこの「善い(優れた、価値のある)」は、神様だけが持っている「特別な性格」を表すと考えられていたからです。

*「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」

これがイエス様の最初のお答です。イエス様はこの議員に「永遠の命を受け継ぐ」ことの質問よりも前に、「善い先生」と呼びかけてきた「善い」は、何を意味しているのかをよく考えるように悟らせようとしました。

はたしてこの議員は、イエス様がまことに神の子であることを信じて善いという言葉を使ったのか? イエス様は、まず始めに「あなたは私が神の子であることを信じているのか?」と投げかけたのだと考えられます。

*永遠の命を受け継ぐ  

この議員は、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるかと尋ねています。この「受け継ぐ・相続する」という言葉は珍しい言葉で、同じルカ福音書にもう一箇所出てきます。「ある律法の専門家が、イエスを試そうとして『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。』」(10:25)の場面です。「永遠の命を受け継ぐ」との質問は、律法の専門家の間でも難しい質問でした。今日の聖書の直前には、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(14節)「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(17節)と、語られたイエス様に対して、この議員も、どこか試すような気持を持ちながら質問したのかもしれません。

*「永遠の命を受け継ぐ」ためのイエス様の答え

イエス様は、先ず十戒の教え「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」と言われました。つまりイエス様は、「神様の恵み」を受け取るための道は既に示されており、「あなたが知っている教えられている道を歩みなさい」と、この議員に告げたのでした。

*十戒の第5戒~第9戒

イエス様は、なぜこの十戒後半を示したのか。それは、議員の返答、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」にあると思います。この議員は、子供の頃から人一倍これらの戒めを大切にして、きちんと守ってきたという自信があり、世間からも良い評判の人であったことを、イエス様はご存じだったのでしょう。

イエス様はこの議員の返答を聞いて、「あなたに欠けているものがまだ一つある」と言われました。この議員の欠けていることは、持ち物を売り払って貧しい人々に施すことだ、と言われたのです。

*イエス様の言葉の意味

イエス様はこの議員に、もっと「善い行い」をすれば、永遠の命を受け継ぐことができる」と言われたのでしょうか。そうではありません。イエス様は、「永遠の命を受け継ぐためには、根本的な考え方、あなたの考えにはない、発想の転換が必要なのですよ。」と議員に告げられたのです。「永遠の命を受け継ぐ」、「神の国に入る」ということは、善い行いをすることでも、自分の富や名誉の為に得るものでもありません。 

「神の国に入る者」とは「子供のように神の国を受け入れる者」です。ただ恵みによって主イエス・キリストの呼びかけに応え、自分の十字架を背負い、神を愛し、人を愛し、皆に仕えて生きる者です。

*議員の悲しみ

イエス様の答えを聞いたこの議員は、非常に悲しみました。なぜならこの議員は沢山のお金を持っていたからです。おそらく彼は、この地上に沢山の財産や富、また名誉や地位を築き上げることに多くの時間と努力を費やし、いつのまにか、それが自分の人生の一番大事なことになっていたのかもしれません。財産や富が悪いのではありません。一生懸命働いて、その富や財産を用いて、神を愛し、人を愛し、皆に仕える人々は大勢います。そのように用いられることは、神様からの祝福です。

 しかしこの議員は「永遠の命」の意味を理解せずに、自分の富や名誉をさらに豊かにするために「永遠の命」を自分の力で手に入れようと思っていたのではないでしょうか。もちろんこの議員は「そのような言葉は受け入れられない」と怒って立ち去ったのではなく、イエス様の答えを聞いて、「非常に悲しんだ」とありますので、イエス様の教えを真剣に受け止めようとした、この人の誠実さが伺えます。しかし彼は、イエス様の言葉を

実践する勇気がありませんでした。全てを主に委ねることができませんでした。この議員は、イエス様の「私のもとに来なさい、そして私に従いなさい。」との呼びかけに、応えることができなかったのです。

*もしも・・

もしも、この議員が「永遠の命」が意味していることを十分に理解して

いたのなら、喜んでイエス様の教えに従ったに違いありません。もしこの議員が、イエス様こそ「善い先生」「まことの神」であると信じ、自分には出来ないと思ったならば、自分の弱さを悔い改めて、「天に富を積む道を教えて下さい」「イエス様に従わせて下さい」と、願ったのではないで

しょうか。

しかし、この議員は、イエス様の前から立ち去ってしまいました。この議員は、自分の力や、経験、行い、目に見えるものに心を向けてそれらを手放せませんでした。この議員は、天に目を向けてイエス様の言葉、神様の言葉を信じることができませんでした。

「永遠の命」こそが自分に必要なものであること、そして「イエス様こそが永遠の命を与えて下さるまことの神様」であることを信じることができませんでした。

*イエス様の呼びかけに応える

24節以降には、この悲しむ議員を見たイエス様の言葉が記されています。そして、神の国のために生きる時にこそ、本当の祝福が与えられることを教えて下さっています。

イエス様の呼びかけに応えることは難しいことではありません。

イエス様は、ただ「私のもとに来なさい、そして私に従いなさい。」と呼びかけておられるのです。幼子が自分の名前を呼ばれたら、全てを放り投げて、その声がする方へ急いで走っていくように、私達も、ただイエス様のもとに走っていけば良いだけなのです。

*私達は・・

私達はこの一年を振り返った時に、私達の心は天を見上げて歩むことが出来たでしょうか。地上のものに心を奪われず、天に富を積み、天に宝を蓄えて、神の国の為に生きた、と言えるでしょうか。

イエス様は、私達一人一人に「私のもとに来なさい、そして私に従いなさい。」と呼びかけて下さっています。イエス様は、私たちが本当に必要なものを、全て備えてくださっています。私達は、主の声に耳を 傾け、主の呼びかけに応え、幼子のように、主に従うものでありたいと願います。新しく迎えようとしている一年もまた、主の十字架を見上げ、イエス様こそが、まことの神であることを思い、主の溢れるほどの愛を受けて、共に歩んでまいりましょう。共に励まし合い、祈り合いつつ、神の国の為に生きる者として、喜んで主に従ってまいりましょう。

10月13日・神学校日・伝道献身者奨励日の説教要旨

エレミヤ書31:1-9・ヨハネ福音書11:38-44

 「神の逆接」      日高貴士耶(きしや)神学生

*はじめに

 エレミヤ書ではイスラエルの歴史の中で、最も痛みの深い時代に向けて語られた預言者の言葉が連なっています。エレミヤ書は、しばしば悲しみの書物であるように思われています。ダビデ王以来引き継がれてきたユダ王国の終わりの姿をまざまざと描きだしています。巨大な国家バビロニアが攻めてきて、その大きな暴力の中で国が滅んでいく、そのような時代に向けて、神の言葉を説き続けたのがエレミヤです。

この悲しみの歌を収めた哀歌は、しばしばエレミヤによって書かれたものであると理解されてきました。そのために私たちの聖書では、エレミヤ書のすぐ隣に哀歌が収められているのです。エレミヤ書の中にも、悲しみと痛みが渦巻いているところがあるからでしょう。

その悲しみのただ中に、エレミヤ書31章が刻み込まれています。この悲しみも、悲惨も、痛みにも、確かに神の言葉が届くということを宣言しているのかのようです。 「おとめイスラエルよ、私は再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。」(注*4節)悲しみの歴史が進み行くエレミヤ書のただ中で、希望の言葉が語り始められるのです。  (注*聖書協会訳)

*「その時には」(1節)

 新しい時代が来ることが、神様の言葉の中で、脈打つように宣言されています。 「その時には」。 あらゆるものが転換する時のことが語られるのです。エレミヤの目の前で繰り広げられる悲しみと苦しみの時代、果てしのない罪の時代は「その時」、神様の力によって転換されて行く。

私たちは一歩また一歩と神の民の歩みをここで進めながら、その時を待ち続けているのです。

クリスチャンでいることの幸せのひとつは、自分の人生をわたしの人生の中で全て実現する必要がないことです。多くの人が、この世界の中で、自分の人生を実現しようとして必死になっています。

人よりも良い生活をして長生きすることだけが、まるで人生の価値を決めることであるかのようです。

しかし、ここでは、教会では別の生き方が大切にされてきたのです。それは、私たちの人生の終わりを見据えながら生きるような生き方ではなく、ただ神様がわたしたちに教えてくださった「その時」が来るのを待ち続ける生き方なのです。その時、私たちは全てが神様の慈しみの中にあったことを見出すでしょう。その時、私たちは神様と顔と顔とを合わせるようにして、礼拝をしていることでしょう。その時、まことの慰めが私たちを包み込むでしょう。そしてその確かな希望の中で、またこの日の歩みを、神の民の歩みを、私たちは神様を礼拝し、祈りながら進めています。

*東京神学大学

「神学校日」として、私たちは一年のこの日を、特別に伝道者たちを養成している場所のために、特別に祈る日としています。私たち 日本キリスト教団の最大の神学校はわたしのいる、そしてまた由子先生が卒業された東京神学大学です。明治以来の日本の様々な神学校が合併して行く中で、きっとそこには深い祈りもあったことでしょう。それまでの様々な教派が持っていた神学校を一つにしようとして東京神学大学を生み出したのです。日本の教会が、祈りながら受け継いできた財産が、この東京神学大学に集められてきたのです。そしてそれは一つの流れになりながら、今この時に至っているのです。そこには困難なことが幾つもあったことでしょう。今も、東京神学大学は現職の学長を病で失うという悲しみと困難の大きい状況に置かれています。学生たちも教職員たちも悲しみが深い。しかし、そうしながら、それでも私たちは私たちの祈りを受け継ぎ、信仰と学びの財産を次の世代に受け渡しながら歩んで行くのです。

一人、また一人と、ここで伝道者が生まれ、福音の言葉を携えて、日本の地に出かけていきます。私たちはこうして信仰を受け継ぎ、祈りを受け継ぎ、そうしてまた新しい福音の言葉を語る者たちを立てて、育てて行くのです。神学校はそのような私たちの祈りと行いの明白に見える形のひとつでしょう。私たちのこの小さな歩みの一つひとつには神様の言葉があるのです。

*「しかし、その時には」

私たちの歩みがその答えを見出すその時がやってくる。そう、私たちの人生はそのようなものです。喜びがどこまでも深い時にも、悲しみがどこまでも深い時にも、絶望が心を満たそうとしている時にも、神様の言葉が響きだす。 「しかし、その時には」。わたしたちの現実に働く神の力を聖書の言葉は確かに語っている。わたしたちの日々、進み続ける現実の物語に対して、「神の逆接」が勝利を収めるのです。

*神の逆接

説教題を「神の逆接」としました。礼拝の説教にしては少し変わった説教題かもしれません。しかし、まさに私たちが共に聞いたエレミヤ書の言葉は、まさに神様の逆接に満ちた箇所なのです。

逆接、それは文の間の関係性を、反対を意味するものとして提示する言葉です。わたしたちの世界の現実に対して、「しかし」という言葉が連なりながら、新しい現実が立ち現れてくるのです。

しかし、それは神の「しかし」なのです。エレミヤ書が語る言葉はそのような神の「逆接」、神の「しかし」に満ちています。エレミヤ書全体に対する逆接であるかのように、ここでは将来に待ち受ける救いと喜びの言葉が溢れ出している。神様が「しかし、その時が来る」、「あなたたちが再び立てられ、慰めを受けるその時が来る」とおっしゃる。 捕囚を前にして、ひとつの国が暴力の中に消え入れられようとしていた時に、神様はおっしゃったのです。「しかし、おとめイスラエルよ、私は再びあなたを建て直し、あなたは建て直される」。

*強制移住

巨大な帝国バビロニアがユダの国に侵略してきました。そこである者たちはバビロニアの国に強制移住をさせられました。自分の育った愛する土地から引き離されて、暴力的に他の国に移住させられたのです。

古代の中近東の世界では最も恐ろしい処置の一つでした。

またある者は滅びゆく国の姿を見て、逃げて行きました。その中には、かつてファラオの奴隷として暮らさなければならなかったエジプトまで逃げる者もいました。ユダヤ人たちは、この大きな帝国の力のもとに、世界中に散り散りになっていくしか方法がなかったのです。

新しい土地には幸福が待っている保証はありません。奴隷にされるかもしれません。外国人ですから、人並みの扱いをしてもらえる保証もありません。彼らは世界中に散らされていった。

*神の逆接の言葉

自分の弱さを思い知りながら、生きていかなければならない時がある。自分ではどうすることもできないほどの大きな力に押さえつけられるようにしながら 生きて行かざるを得ないと思っていた者たちの上に、神の言葉が、神の逆接の言葉が響きだしてくるのです。

「しかし」、神はイスラエルの民を再び集められる。

神の言葉は全てを転換させる力に満ち溢れているのです。

きっと皆さんの人生も、聖書の言葉の中で転換させられ、変えられてきたことでしょう。由子先生はまさに、そういう人だと思います。

聖書の言葉が、強い力をもって私たちを変えてくる。そして私たちの命をも、確かに蘇り(よみがえり)の命へと造り変えてくださった。

今日は、ラザロの蘇りの箇所も読んでいただきました。主イエスはラザロの墓の前で確かに宣言されるのです。

「ラザロ、出て来なさい」(ヨハネ11:43)。

ラザロの姉妹マルタはその少し前に言いました。「主よ、四日も経っていますから、もう臭います」。厳しい言葉です。現実と悲しみに満ちた言葉です。そこに主イエスが言われた、「もし信じるなら、神の栄光が見られると言っておいたではないか」(同40節)。

神様は私たちの人生に大きな逆接の言葉を置かれるのです。 「しかし、あなたには復活の命がある。あなたには救いがある」。そして私たちは神様の逆接の中で、復活の生命をこの世界の中で生き始めているのです。

2019年6月9日ペンテコステ・仙台南伝道所15周年記念感謝礼拝の説教要旨

エレミヤ書14:11-14・マタイ福音書7:15-20

「良い木が良い実を結ぶ」   佐々木 哲夫

 

*滅亡の危機を目前にして 

聖書の民イスラエルは、歴史の中で国家存亡の危機を3度経験しています。1度目は、紀元前8世紀、アッシリア帝国によって北王国イスラエルが滅ぼされた時、2度目は、紀元前6世紀、新バビロニア帝国によって南王国ユダがバビロンに捕囚された時、3度目は、ローマ帝国によってエルサレム神殿が破壊された時です。ユダヤ人は、危機的な時代を神の言葉を礎(いしずえ)に生きました。本日の聖書は、2度目の危機の時代の預言者エレミヤの言葉と 3度目の危機を目前にした時代の イエスキリストの言葉です。

 *預言者の使命

預言者と呼ばれる人物は二重の使命を担っておりました。使命の第一は文字通り、神から預かった言葉を民に伝える働きです。時代は、新バビロニア帝国によって祖国が滅ぼされる危機的状況です。民の心は激しく揺れ動き、生きる方向を神の言葉に求めます。

その時、神からエレミヤに与えられた言葉が、11節 「主はわたしに言われた。『この民のために祈り、幸いを求めてはならない。…わたしは剣と、飢饉と、疫病によって、彼らを滅ぼし尽くす。』」でした。

なんと、国が滅ぼされると語るよう示されたのです。しかし、すでに、神はエレミヤに、預言を告げる根拠を示しておりました。「わたしは、あなたたちの先祖をエジプトの地から導き上ったとき、彼らに厳しく戒め、また今日に至るまで、繰り返し戒めて、わたしの声に聞き従え、と言ってきた。しかし、彼らはわたしに耳を傾けず、聞き従わず、おのおのその悪い心のかたくなさのままに歩んだ。」(11章 7節- 8節)。 神の言葉とはいえ、民の心は、戦争や滅亡ではなく平和や現状維持を求めます。民たちは、滅亡を預言するエレミヤにではなく、『お前たちは剣を見ることはなく、飢饉がお前たちに臨むこともない。わたしは確かな平和を、このところでお前たちに与える』(14章13節)と語る偽預言者の言葉に傾きます。

 *「悲嘆にくれる預言者エレミヤ」

15年ほど前のことになりますが、当時の奉職先の学長先生が学長職を退任されるという時に、学長室に置いておられた数多くの名画の複製の中から、宗教部長を拝命していた私に一枚の絵をくださいました。複製といっても横60cm縦80cmという大きさの額縁に入っているもので、オランダの画家レンブラントが描いたエレミヤの絵です。光と陰の魔術師と呼ばれたバロック絵画の巨匠レンブラントが、預言者エレミヤを描いた名画です。絵の題名は「悲嘆にくれる預言者エレミヤ」です。

自分の預言を信じてもらえない晩年の預言者が、体を横にして頬杖をついて、自らの想いの中に静かに浸っている姿が暗闇の中の光に浮かぶような構図で描かれている名作です。なぜ学長先生は、数あるお持ちの絵の中からこの一点を選んで私にくださったのだろうかとしばし考えさせられました。「君の悩みは預言者エレミヤの悩みの足元にも及ばないものだから忍耐が肝要」ということを教えようとしたのだという 勝手な自己解釈の学びをして納得したのでした。

 *二つ目の使命

  さて預言者が担っていた二つ目の使命は、民と神との関係を執(と)り成(な)すという務めです。預言の告知が、裁きを告げる義の業であるならば、執り成しは、救いをもたらす愛の業です。相反する義と愛の務めの狭間(はざま)で、エレミヤは「わが主なる神よ、預言者たちは彼らに向かって言っています。『お前たちは剣を見ることはなく・・」と神に訴えています。

神の答えは、「預言者たちは、わたしの名において偽りの預言をしている。わたしは彼らを遣わしてはいない。彼らを任命したことも、彼らに言葉を託したこともない。」(14節)という厳しいものでした。

 *預言者イエス・キリスト

エレミヤから400年ほど後の時代になります。イエス・キリストの時代です。イエス・キリストは、三つの職務を担ったと教えられています。預言者(申命記18:14-22)としての務め、祭司(詩篇110:1-4)としての務め、(詩篇2)としての務めの三つです。本日の新約聖書の箇所は、預言者としてのイエス・キリストの言葉です。特に、18節に注目したいと思います。

良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない

イエス・キリストが弟子たちや群衆に語っている場面です。比喩を用いての表現です。この「良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない」の言葉に関し、宗教改革者のマルチン・ルターが次のように解説しております。

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正しい行いが 正しい人を作るのではなく、正しい人が正しい行いをする。

悪い行いが悪い人を作るのではなく、悪い人が悪い行いを生ずる。

どんな場合でも、良い行いに先立って人格が正しくなければならない。

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<木>自体が、重要だというのです。例えば「地の塩」と賞賛される行い、「世の光」と言われる行為が、その人を地の塩や世の光にするのではないのです。では、実ではなく木であるというならば、何をもって「良い木」となりうるのか。それが問題です。

 *本物と偽物

28歳の時に、私は新米の主任牧師として小さな教会に派遣されました。ある日、教会の信者さんで、はり灸治療院の先生をしておられた年配の方から「本物の宗教と偽物の宗教を、簡単に私にも判断できる方法を教えてください」と質問されました。目の不自由な方との会話では沈黙は良くないと教えられておりましたので「えー」とか「んー」とか とにかく声を出しながら考えていましたら、「私はこんなふうに考えます」というのです。聞いてみました。

「信者さんにお金を出すように要求する宗教は偽物で、逆に信者さんが自由に自主的に献金を捧げる宗教が本物だと考えますが、それで良いでしょうか」と言いました。なるほど、と教えられました。おかげで、その判別方法に今でも頷(うなず)くことがあります。               

羊の皮を身にまとってはいるが、内側が貪欲(どんよく)な狼は偽物です。外側の姿形や行いではなく、内側の存在が問題なのです。内側がどうあるべきかと考えさせられます。

答えの一つは、内側の自分が何をロールモデル(手本)にしているかであると考えます。外側に見えるところの行いではなく、内側の自分が何を信じて、この世で生きてゆこうとしているのかが大事だと考えます。ルターは、次のようにも解説しています。

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信仰は、その人を正しいものにすると同時に良い行いをも作り出す。

行いは、その人を正しいものにするものではないので、人は、行いをなす前に、まず正しいものとならねばならない。

信仰は、キリストとその言葉によって人を正しいものにするという恵みの祝福において、十分なものである。(『基督者(きりすとしゃ)の自由』36ページ)

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見える行いではなく、内側の自分が有する信仰が優先するというのです。

 *教会の時代

私たちは、預言者の時代でなく、イエスキリストが直接語った時代でもなく、教会の時代、すなわち、聖霊降臨(ペンテコステ)に始まった教会の時代に生きております。教会の時代は、聖書の言葉に聞き従って実を結ぶ時代です。使徒パウロは、テサロニケの信徒への手紙の中で次のように語っています。

 「わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」(2:13)

 仙台南伝道所は、開設15周年を迎えました。それは、神の言葉に連なっての15年であり、これからも継続する歩みでもあります。 そのことを感謝しつつ再認識したいと思います。 (文責:佐藤義子)

10月28日の説教要旨 「新しい救い」 平賀真理子牧師

エレミヤ書31:31-34 ローマ書9:30-10:4

 

 *はじめに

 今から501年前、1517年10月31日に、キリスト教では、プロテスタントというグループが産声をあげました。その流れをくむ教会では、10月31日か、その直前の日曜日に「宗教改革記念礼拝」を献げます。

 

 *「宗教改革」の口火を切ったルター

宗教改革は、ドイツのマルティン・ルターが、当時のカトリック教会のやり方に対して疑問を表明したことから始まりました。カトリック教会は「免罪符」なるものを発行し、これを買った者は罪を帳消しにしてもらえると宣伝しながら販売していたのです。ルターは、悔い改め無しに罪が赦されるなどとは、聖書は言っていないと主張しました。

 

 *「神の義」についてのルターの新しい発見

更に、ルターには、カトリックの教えとは違う確信がありました。それは「神の義」についての教えです。ルターは、かつてカトリック教会の教えに従った修道院で修養を積んだのですが、そこでは、「義」を重んじる神様に対して善行を積まねばならないと教わってきましたし、何か欲望に負けたりしたら、償いの修行を行わなければならないとされていました。しかし、ルターは、善行を積めば積むほど、これでは足りないのではないかと思い、また、償いの修行をいくら重ねても、自分は神様に「義」とされないのではないかという恐れから逃れられませんでした。そんなルターは、大学で聖書の講義をするために、聖書を丹念に学ぶ中で、新たな発見をしました。それは、「神の義」とは、人間が善行を積み重ねた後に神様から与えられるものではなくて、憐れみ深い神様の方から、救われる方法を先に人間にくださっているということです。つまり、神様がこの世に御子イエス・キリストを「救い主」として、既に遣わしてくださったのだから、人間はこれを受け入れるだけで神様から「義」とされるということです。そこには、人間の行いという条件はありません。

 

 *2000年前の民の間違いの原因(1500年後に繰り返されます!)

今日の新約聖書箇所を含む「ローマの信徒への手紙」には、「神の義」が随所に記されています(特に、1章17節がルターを目覚めさせたと言われています)。今日の箇所の中でも、「神の義」について、しかも、その解釈の間違いについて、2か所も記されています。1つ目は、9章32節で、「信仰によってではなく、行いによって律法に達せられるように考えたから」とあります。2つ目の箇所10章3節では、「神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったから」とあります。この2つをまとめると、こうなるでしょう。「イスラエルの民は、律法を守る行いを通して、神様から良しとされる(救われる)と考え、熱心に律法に従ったが、イエス様がこの世に来られた後では、イエス様によって救われる訳で、イエス様を拒否する者は、律法の目標点でもあった『救い』に決して到達できない。」

 

 *神様に従う心から、神様に従う行いが出来る!

神様は、御自分に従順に従う、人間の心を求めておられます。心が神様に従った結果、神様の御心に従った行いができるのです。善行をした結果、神様に御自分の民として認められるという、それまでのカトリック教会の教えは、原因と結果が逆になっています。残念ながら、神様無しで済まそうとする、罪深い人間は、悪い心のまま、善行を装うことが出来てしまいます。心と行いとが一致しない、この状況を、神様は良しとなさいません。

 

 *真の「神の義」を人間に発見させ、「宗教改革」を導いてくださった神様

2000年前の間違いが、1500年後の宗教改革の時代に再現されてしまいました。つまり、見えない心ではなく、見える行いを善行という衣で包めば、神様から義とされると、人間の間違った解釈による正しくない歩みが繰り返されていたのです。そんな中、それを正しい方向に戻そうと、神様は、ルターやカルヴァンなどの宗教改革者達を、この同時代に準備してくださり、豊かに用いてくださったと言えるでしょう。聖書(神の御言葉)に真剣に格闘した彼らは、新たな発見に導かれ、喜びに満ち溢れたのです。それは、罪深い人間の行いに左右されることなく、「神の義」が先に差し出されているということ、つまり、聖書に証しされているイエス様を救い主と受け入れることが「神の義」であるという発見です。そして、彼らは、過去の間違った教えから解放され、本当の救い=新しい救いを発見して、楽園に入ったような喜びを得たのです。その喜びが宗教改革の原点です。

2月25日の説教要旨 「悪と戦うキリスト」 牧師  平賀真理子

エレミヤ書2:1-13 マルコ福音書3:20-30

はじめに

今日の新約聖書箇所は、23節以降のイエス様の例え話を端緒とした御言葉が中心です。しかし、その前の記述は、その御言葉が語られた状況が説明されており、そのことをよく知ると、御言葉の意味を、より一層はっきりと読み取ることができます。ご一緒に見ていきましょう。

今までの先生達とは違う圧倒的な御力で人々を救ったイエス様

ここに至るまでに、マルコ福音書では、イエス様のなさったことが、大まかに分けて二種類書かれています。一つは、イエス様の御言葉が「権威ある者としての教え」(1:21-22)として、人々を驚かせたことです。それまでのユダヤ教指導者達とは全然違うものだったと思われます。

もう一つは、悪霊を追い出したり、病いに苦しむ人々を癒したりする御業を行ってくださったことです。これも、それまでそのことに従事していた専門家とは、全く違う次元の、圧倒的な力を、イエス様は示されたと記されています。苦しみに直面していた人々は、イエス様の圧倒的な御力は神様からいただいていると素直に理解し、それに頼ろうとしました。苦しみは人間的に見れば避けたいものですが、しかし、苦しみを通して、人々は更に真剣に神様に頼ろうとするものです。それで、「群衆」がイエス様に押し寄せていると描かれているわけです。

神様から御力をいただくイエス様を認めない二つのグループ

今日の箇所には、そうでない人々が二グループ出てきます。一つは、イエス様の「身内の人たち」、もう一つは「エルサレムから下って来た律法学者たち」です。前者は、ユダヤ人社会の中で、家族の一員が常識と違った言動を取れば、その家族が、常識に戻す責任があると考え、それを第一に考えて行動しています。この「身内の人たち」は、イエス様の御業の内容を率直に見極めようとするよりも、「気が変になっている」という人々の噂を信じて、イエス様の御業を止めさせようとしました。また、後者も、ユダヤ社会での責任、特に「神様を信じる」件での人々の動きには責任があると思っていました。自分達とは違う、圧倒的な神様からの御力で、福音を語り、悪霊を追い出し、病いを癒せる「ナザレ人イエス」を調査するために、中央の都エルサレムから離れたガリラヤに下って来ました。イエス様を排除したいという自分達の思いを第一に実現することが第一の目的だったと思われます。

反対派を論理的に論破なさったイエス様

この「律法学者たち」は、イエス様の御業に現れた神様の御力を素直に認めず、あろうことか、その圧倒的な力の源を、本当の神様とは全く逆の「ベルゼブル(異教の神々の一つ)」と言ったり、イエス様御自身を「悪霊の頭」と呼び、悪評を立てようとしたのです。これに対して、イエス様は例え話によって彼らの主張を完璧に論破なさいました。23節後半から27節までの例え話は、論理的で、誰でも理解できると思えます。

「聖霊を冒瀆する者は赦されない」

では、その例え話と28節から29節までの御言葉が、内容の上で、つながっているように思えるでしょうか?理解するためには、29節に出てくる「聖霊」の働きについてのユダヤ教の伝統的な教えが参考になります。まずは、「神の真理」がこの世に啓示される出来事が起こるということ、次に、その出来事について、それが神様が起こしてくださっていると人間に悟らせること、それが「聖霊の働き」です。「群衆」はイエス様の御業を神様からのものと理解している=「聖霊の働き」を理解し、認めています。一方、「身内の人たち」や「律法学者たち」は、イエス様の御業の上に「聖霊の働き」が確かにあるのに、それを決して認めませんでした。「聖霊」は「神の霊」、つまり、イエス様が最も愛する「父なる神様」の霊であり、父なる神様の御心によっていただく賜物です。それを認めず、他の名で呼ばれることをイエス様は決してお赦しにはなれません。「聖霊」を「汚れた霊(30節)」と言われることはお赦しになれません。イエス様は「聖霊」を認めず、他の名で呼ぶ「悪」と。論理的に、敢然と戦われました。

「聖霊の働き」を祈り求めることができるという私達の幸い

今や、私達は、イエス様を救い主と信じる信仰で、主の恵みを賜わること=「聖霊の働き」を祈り求めることが許されています。その源である「主の十字架の贖い」を再び想起し、「復活」の恵みに感謝しましょう。

2月18日の説教要旨 「荒れ野の誘惑」 牧師  平賀真理子

エレミヤ書31:31-34 マルコ福音書1:12-15

はじめに

今日の新約聖書箇所は、イエス様が救い主として歩まれる「公生涯」の初めに、洗礼を受けた後、荒れ野でサタン(悪魔)の誘惑を受けたと記されています。まずは、その順番に従って考えていきましょう。

罪がないのに、罪を清める洗礼を受けたイエス様

イエス様は救い主として「公生涯」を始めるにあたり、洗礼をお受けになりました。罪のない神の御子なら、罪を洗う洗礼は必要ありません。けれども、イエス様は御自分が洗礼者ヨハネから洗礼を受けることは「正しいこと」(神様の御心に適うという意味)とおっしゃって、洗礼をお受けになりました。それは、罪のないイエス様が、救う対象である私達罪深い人間と同じ立場になってくださることを示しています。

それから、“霊”によってイエス様は荒れ野に連れ出されたとあります。“霊”とは「聖霊」「神の霊」「主の霊」という意味です(聖書の初めの「凡例」の三の⑵参照)。だから、神様が、人間と同じ立場で洗礼を受けたイエス様に、荒れ野で悪魔の誘惑を受けるように導かれた訳です。

洗礼の後に、悪魔の誘惑⇒信仰者(受洗者)への試練の先取り

私達と同じ立場になるため、イエス様が洗礼をお受けになって誘惑を受けたなら、その順番が、私達が信仰の歩みと逆だと思われませんか?悪魔の誘惑や人生における試練を経て、人間はこの世の限界や偽りを感じ、真実を求めて教会に来て、福音に出会い、洗礼を受けることになるという順番の方が多いでしょう。しかし、イエス様の歩みは正反対の順番を示しておられます。これは、公生涯の始まりの後に、悪魔が信仰者にも誘惑(試練)を仕掛けてくるということを暗示しています。それは、神様に愛される者を、サタンも狙うからなのです。イエス様だけでなく、信仰者も、洗礼によって「公生涯」が始まると言っていいでしょう。受洗者は、神様の御前に神の国の民として生き方を見守られているのです。サタンは私達受洗者=神の民が神様からの愛を受けている故に、自分側に引き込もうと激しく誘惑するのです。イエス様の洗礼の後の悪魔の誘惑は、洗礼後の「神の民」への悪魔の誘惑の先取りです。

荒れ野の誘惑の内容と撃退法(マタイ4:111、ルカ4:1-13

私達は、イエス様が悪魔に勝利した「荒れ野の誘惑」の内容とその撃退法を知る必要があります。私達にも降りかかる誘惑だからです。その内容を、マタイ福音書の順番で見ると、以下の通りです。①自分の欲望を満たすためにこの世の物を変えたらよいではないか。②自分の願いを叶えるために、神様を試してみたらどうか。③一度だけ、少しだけでいいから、神様でないものを拝んでみたらどうか。以上です。3つ全部が、「神の民」である故になおさら、陥りやすい誘惑です。①の誘惑に対して、イエス様は、欲望(食欲)を満たすこの世の物ではなく、主=本当の神様の口から出る御言葉によって人間は本来生きるものだとお教えになりました(申命記8:3)。②の誘惑は、特に要注意です。神の民が願ったことをすぐ、神様が奇跡を起こして助けてくれるはずだから試してみたら?という誘惑です。私達は祈りでは自分の思いを当然素直に表しますが、神様の御心よりも、自分の思いを叶えるために神様を試すようにその御力を求めるのは本末転倒です。人間が神様を自分の思い通りに動かそうと企てることが罪なのです。イエス様は、再び、御言葉(申命記6:16)により「主を試してはならない」と誘惑を退けました。③も信仰生活でしばしば見かけます。神様に関わること(礼拝等)よりも、自分の都合を優先することを最初は1回だけと巧みに誘い、次第にその回数を増やし、最終的には信仰生活から離れさせる罠を悪魔は信仰者に仕掛けます。イエス様は、3度目も御言葉(申命記6:13)により、悪魔を拝むことを敢然と退け、「主にのみ仕える」と宣言されました。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(1:15)

洗礼と試練の後、イエス様は「救いの時の到来」を天地に宣言なさいました。「時は満ち、神の国は近づいた。」という業をなさるのは神様です。神様が御計画して人間を救う時が押し寄せています。それを受ける側の人間がなすべきことは、悔い改め=自己の欲望中心の生き方を止め、神様の御心に従う生き方に変えることです。その準備ができた者の心に福音が入り、それを信じて生きる信仰を神様が与えてくださるのです。

10月22日の説教要旨 「神様の憐れみ」 牧師 平賀真理子

エレミヤ書31:20 ルカ福音書15:11-32
*はじめに
ルカによる福音書15章は3つの有名な例え話から成り立っています。
3つの共通点は、「見失ったもの」を「あるじ」が必死に探して見つけ出し、見つけ出したら、仲間や近隣の人々と共に大喜びし合うことです。
*前の2つの例え話と異なる点
今回の「放蕩息子」の例え話では、「二人の息子を持つ父親」というのが「あるじ」であり、「下の息子」(以降「弟」と表記)が「見失われるもの」です。この「見失われるもの」と例えられる弟は、父親に従わないという意志があるようです。この反抗的意志があることが他の例え話とは違います。この弟は、敬意や感謝を父親に示さず、財産の生前贈与を要求し(かなり失礼な事)、取り分をもらうとサッサと遠い国に行って、元々は父親のものだった財産を使って放蕩な生活を送りました。
*「弟」の罪の姿が比喩するもの
自分の欲望の虜となって、神様や周りの人への配慮や感謝を忘れてしまう姿になるとは、この弟だけが悪い性質なのでしょうか?もしも、私達も時間と資金が潤沢にある環境に置かれたら、この弟のような自堕落な生き方を一瞬たりとも絶対にしないと言える人がいるでしょうか。「あるじ」から離れて、その存在を忘れて、自分の欲望のままに好き勝手に生きたい!という誘惑を退けられる人はほとんどいないのではないでしょうか。日頃の自分の生活を見れば、自分がいかに欲望に弱いかわかりますね。
*放蕩の末に困り果てた「弟」
この弟は、財産を使い果たし、そこで大飢饉が起き、豚の世話係にまで身をやつしました(ユダヤ人にとって豚は汚れた生き物で、この仕事は屈辱的です)。欲望を満たそうと躍起になり、神様を平気で忘れ、挙句の果てには苦しむ人間の罪の姿が示されています。神様は、この愚かな弟をこのような困窮と屈辱に追い込むことにより、「あるじ」のもとに居ることがいかに素晴らしいことかを、骨身にしみて悟らせようとなさったのだと思います。
*「天に対しても、またお父さんに対しても、罪を犯しました」(18・21節)
この試練を通して、この「弟」は、神様に喜ばれるように変えられていきます。欲望まみれの自分の罪を深く自覚して「天にも、父親にも、罪を犯した」と言うと決意しました。そして、その悪い状況を引き延ばさず、惨(みじ)めな自分を晒(さら)しても「あるじ」である父親の元に帰ろうと決意できたのです(18節)。更に次のことが重要です。実際に、この弟は悪い状況から立ち上がり、親元に帰り、決意したとおりに、自分の罪を告白したのです!以前の彼なら、自分の罪さえ自覚しないし、たとえ自覚しても、うやむやに誤魔化し、親元に居座るようになったと想像できます。しかし、欲望に従った生き方の限界を知った弟は、無条件で愛してくれる父親の元で大歓迎を受けても甘えずに、自分の罪深さをしっかり言い表しました。神様から試練を与えられることによって成長させていただいたのだと思います。
*「神様の憐れみ」
例え話の「あるじ」である「父親」の方に目を向けると、「一日千秋」の思いで毎日毎日待っていたと推測できます。というのは、この弟息子が挫折の末に帰って来た時に「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけ」(20節)て大歓迎したからです。そして、父親が弟息子を「憐れに思い」(20節)という言葉に注目したいと思います。これは、聖書で語られる神様の御性質の一つです。単なる同情だけではありません。弱い立場で苦しみ、助けを求める人間を放っておけずに、同じ思いになり、その状況を根本的に解決するように実際に働いてくださる、それが「神様の憐れみ」です。ユダヤ教指導者達は神様を恐い冷徹な存在と強調しましたが、神の御子イエス様は、父なる神様の御性質をよく御存じで、この父親に「憐れみ深い父なる神様」の本質を重ねておられます。人間が欲望に引きずられて、本当の「あるじ」である神様の元を離れても忍耐して帰りを待ち続ける御方であり、一方、人間の苦しむ姿には耐えられず、御自分の民として生きる幸いをいつでも授けようと待ち構えていてくださる御方であります。
*「神様の憐れみ」を究極的に示したのが「主の十字架と復活」
今回の話の「兄息子」は直接的には「ファリサイ派の人々や律法学者たち」(15:2)を例え、「弟息子」は「徴税人や罪人」を例えています。「あるじ」と例えられる「父なる神様」の御心に従い、イエス様は、神様から離れていた「徴税人や罪人」が神様の元に帰りたいと願うように彼らの中に入り、福音を宣べ伝えたのです。ファリサイ派や律法学者達が「自分達は神様側に居る」と言いながら、神様と共にいる恵みを感謝できずにいる姿を、イエス様は「兄息子」の様子で比喩なさいました。一方、イエス様は「神様の憐れみ」を理解して従う御方です。その「主の十字架と復活」こそ、罪に苦しむ人類を救いたいと切望する「神様の憐れみ」ゆえに為された御業です。私達は、その恵みに与って生きることを許され、感謝です!