2023年7月30日の説教要旨 列王記上19:9-18・Ⅰペトロ3:13-22

              「苦難の共同体」      加藤 秀久牧師

*はじめに

私達は「預言者」と聞くと、どのような人を思い浮かべるでしょうか。預言者には神様の言葉を預かると同時に政治の面でも指導する者もいましたが、本日学ぶエリヤは、政治に関わることなく、純粋に神様の御前に立ち、神様の霊に満たされてその触れ合いに喜び、霊に導かれながら神様の言葉に従い、語る預言者でした。

当時、北王国のイスラエルのアハブ王の父・オムリは、主の目に悪とされることを誰よりも行なった王でしたが、アハブ王は父よりも更に悪いことを行いました(列王記上16:30)。

*預言者エリヤ

アハブ王は、シドン人の王の娘イゼベルを妻に迎え、妻の信じる「バアル(農産物と家畜の生産を司る自然神・男性)」の神に仕え、バアルの神殿を建て祭壇を築き、「アシェラ(女性神)」像をも造りました。エリヤの使命は、社会の中に入り込んだ異国宗教を取り除きイスラエルの民に、創造主である唯一の神への信仰を告げ知らせることでした。そこでエリヤはアハブ王に、バアルの預言者450人とアシェラの預言者400人をカルメル山に集めることを依頼し、集まったすべての民に、エリヤが伝える創造主なる神を信じるのか、それともバアルを神とするのか決断を迫りましたが、「民はひと言も答えなかった(18:21)」とあります。エリヤはバアルの預言者達に、どちらが本当の神かを祭壇を築いて神を呼び、捧げものに火をもって答える神こそ神であることを互いに確認し(18:24)、その戦いが行なわれました。その結果バアル神からは何の返答もなく、エリヤが神に祈った時、神の火が降り捧げものは焼き尽くされました(18:36~)。民は「主こそ神です」とひれ伏しました。その後エリヤは、バアルの預言者達を捕えて殺し、その事をアハブ王から聞いた妻イゼベルは怒り、エリヤに殺意を抱きます。

エリヤは身の危険を感じて、四十日四十夜歩き続け、神の山・ホレブに着きました。本日の聖書には、その後のことが記されています。

*静かにささやく声

「エリヤはそこにあった洞穴に入り、夜を過ごした(19:9」。エリヤが休んでいると、主の「エリヤよ、ここで何をしているのか。」との声がありました。エリヤは、自分はこれまで万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきた。が、イスラエルの人々は主の契約を捨て祭壇を破壊し、預言者達を剣にかけて殺してしまったこと。エリヤ一人だけ残ったが、彼らはエリヤの命をも奪おうとねらっている、と訴えました。主は「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われ、主が通り過ぎて行かれました。神様が通り過ぎた出来事は神様の現れを意味しますが11~12節に「主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。 地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった」とあります。私達は神様の現れの場所に行けても、神様と直接、顔を合わせて見ることは出来ないことを意味します。しかし「火の後に、静かにささやく声が聞こえた(12節)」とあります。エリヤにとって優しくどこか懐かしい声を、神様との霊の交わりの中で聞いた出来事だったでしょう。これは私達が礼拝の時、讃美している時、心の中に響く神様のささやきに思える体験だと思います。

*エリヤへの使命

神様はエリヤに三つのことを命じます。が、初めの二つは、エリヤの召天後、エリシャの時代に実現します。三つ目の「エリシャに油を注ぎ、エリヤに代る預言者とする」については、この後、畑を耕しているエリシャに出会い、この出会いによってエリシャはエリヤに従い、神に仕えていくことが実現します(19:19)。神様の御計画は必ず実現しますが、私達も又、思い描く計画が私達の世代ではなく信仰の継承により次の世代の人達によって真実の出来事として明らかになることもあるかと思います。同時にエリヤが体験したような、神様への信仰を通しての苦しみ・悲しみ・困難も伴わなければならないかと思います。それは本日のⅠペトロ3:13~22節にある事と同じと思い、もう一度読んで終ります。

2022年9月18日の説教要旨 列王記上21:1-16・ガラテヤ1:1-10

「ほかに神はない」      加藤 秀久伝道師

*はじめに

アハブは、北王国イスラエルの第7代の王として22年間王位にありました。彼は首都サマリアの建設を行い、宮殿は象牙で建てられ、富と力を人々に表しました。彼はシドン人の王の娘イゼベルと結婚し、戦いにおいては預言者を通して主から敵を滅ぼし去るようにと言われていたにもかかわらず経済的利益を得るために敵の王の命を助けたことで、預言者から非難を受けることとなりました。

*ナボトのぶどう畑

本日の旧約聖書は、アハブ王が宮殿のそばにあったナボトが所有するぶどう畑を自分の菜園にしたいので譲ってほしいと話を持ち掛けたことから始まります。しかしナボトは、「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」(3節)と断りました。

(民数記27章には、先祖から受け継ぐ土地は子孫へと、子孫がいない時は兄弟へ、兄弟がいない場合は最も近い親族に引き継ぐことが定められています)。アハブ王は、ナボトの言葉に機嫌を損ね、腹を立て、食事もとらなかったので、妻イゼベルから理由を聞かれ、ぶどう畑のことを話しました。

*イゼベルの策略

 夫の話を聞いたイゼベルは、ナボトのブドウ畑を夫のものとするため、ナボトのいる町の長老と貴族に「ナボトが神と王とを呪った」と、偽りの(聖書には、この後、神様の言葉が預言者エリヤに臨み、アハブに告げるべき言葉を託したことが記されています。それは、神様は、アハブの悪のゆえに災いをくだすこと、子孫を滅ぼし、妻イゼベルは犬の群れの餌食になるというものでした)。

*真の福音

本日のガラテヤ書は、パウロの伝道旅行によって立てられたガラテヤ教会に宛てた手紙です。当時、教会内にパウロが伝えた「キリストの福音」を覆(くつがえ)して、ほかの福音(6節)が入り込み、信徒達は偽教師達の影響を受けていました。パウロが伝えた福音は、「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる(2:16)」教えでしたが、偽教師達は信仰だけでなく割礼を受けて律法を遵守することで救われると教えていたのです。そこでパウロは「もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になる」こと、キリスト者は自由を得るために召し出された(5:13)のであり、割礼の有無は問題ではなく愛の実践を伴う信仰こそ大切である(5:6)と教えました。又、偽教師達は「パウロの使徒職」についても問題視したので、パウロは、自分が使徒とされたのは人間によるのではなく、イエス・キリストと神とによることを1章1節で宣言しています。

*わたしたち

ナボトは、先祖からの嗣業の土地であるぶどう畑を、神様から与えられた法と掟に従うため、恐れずに王の申し出を断りました。私達日本社会ではイスラエルとは異なり、神様から与えられた法や掟は存在せず、神社やお寺を始めとしていろいろな宗教が存在しています。それら他宗教の土地や建物を眺める時、私達の信じる創造主・神様が、他宗教の神々と並ぶような錯覚に陥る危険性があるのではないでしょうか。

しかし私達には、真実の言葉、神の言葉があります。私達、神様を信じる者は、神様から真理を受け継いだ者達です。私達には「聖書」があり、正しい福音を伝える「礼拝」と、信仰者が共に集まる群れ「教会」というかけがえのない財産があります。私達はそれを今、受け取っているのです。キリストの言葉は、どこにでも存在し、私たちの手に取れる場所にあるのです。イザヤ書には「思い起こせ、初めからのことを。わたしは神、ほかにはいない。」(46:9)とあります。私達には聖書があり、この神様を信じる信仰と、教会と、礼拝が与えられているのです。

2022年7月24日の説教要旨  列王記上10:1-13・Ⅰテモテ3:14-16

「隠された真理」       加藤 秀久伝道師

*はじめに

私たちにとって神様とはどのようなお方なのでしょうか。

神様は、遠くに感じられる時がある反面、すぐ近くにいて下さると感じる時もあるように思います。

昔、礼拝場所としての神殿がまだなかった時、ダビデの息子ソロモンは、ギデオンの地にある重要な礼拝場所であった高台に行って、千頭もの焼き尽くす献げものをささげました。これはソロモンの、神様に対する献身と感謝の表われと言えますが、この時のソロモンにとって、神様は、遠くにおられるような存在だったように思います。

何事でも願うがよい。あなたに与えよう」(3:5)

ところがその夜、神様はソロモンの夢枕に立ち、「何事でも願うがよい」と言われました。その言葉に対してソロモンは、次のように答えています。

わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、このしもべをお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。」 彼は、王として、日常の務めや礼拝に対する姿勢、王としての品性、民をまとめる能力が備わっていない不安を訴えたのでしょう。ソロモンは神様に、以下のように願い出たのです。

どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。

*主はソロモンのこの願いをお喜びになった。(同10節)

神様は、ソロモンが自分のために長寿や富を求めず、人々の訴えを正しく聞き分ける知恵を求めたことを喜ばれ、ソロモンに、知恵に満ちた賢明な心と、それに加えて、富と栄光、長寿をも恵みとしてお与えになる約束をされました。こうしてソロモンは、神様に出会い、神様が近くに、共におられる体験をしたのでした。そしてソロモンは、神様からいただく知恵によって正しい裁きを行い、人々は皆、王を畏れ敬うようになりました。

*シェバの女王の来訪

本日の10章では、ソロモン王の名声を聞き、難問でソロモンを試そうとやってきたシェバ(現在のイエメン)の女王が、香料や非常に多くの金や宝石をらくだに積んでエルサレムにやって来た出来事が記されています。女王は、用意してきたすべての質問にソロモンがすべて答えたその知恵や、彼の建てた宮殿を目の当たりにし、又、食卓の料理、家臣や給仕たち見て、息も止まるような思いであったこと、そして帰る時には、家臣たちが幸せであることや、ソロモンを王座に就かせた神様をほめたたえる言葉を残し、ソロモン王に多くの高価な品々を贈りました。

*神の家(=神の教会)でのあるべき生活

本日のテモテ書3章には教会の指導者や奉仕者たちの在り方について記されており、本日の箇所では「神の家」を次のように説明しています。「神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。

私達が毎週、礼拝で集う「神の教会」は、先ず「真理=イエス・キリストに於いて現わされた神様の啓示」を「柱とし、土台としている」神様の教会であり、この神様は今も生きて働かれている神様であり「死んだ偶像ではない」ことを伝えます。そして16節は、「キリスト賛歌」からの引用と言われていますが、「信心(信仰)の秘められた真理=神様への畏敬と、それにふさわし生活態度」は、神様を信じる者たちに力を与え、十字架の死と復活と昇天を通して義とされ、霊の領域に移されたイエス様の、地上における世界的な宣教と勝利が歌われています。

*わたしたち

神の家で、神様を信頼し、神様と関係を持つ私達は「清い良心の中に信仰の秘められた真理を持っている(9節)」ことが求められています。ソロモンは願い通りに、知恵に満ちた賢明な心が与えられ、神様の栄光を現し、シェバの女王もソロモンを通して神様の大いなる恵みを見聞して、神をほめたたえ、ソロモンから豊かな贈り物を受けました。

その神様が今、私達を祝福するために、一つ所に集まり礼拝することを求めておられます。私達は、信仰の秘められた真理を知らされています。

神様への畏敬と、神様の恵みにふさわしい礼拝者でありたいと願います。

2021年8月29日の説教要旨 列王記上3:4-15・Ⅰヨハネ5:13-21

「主の御心に従う」    加藤 秀久伝道師

*はじめに

ダビデ王の後を継いだソロモン王は、ある夜 夢の中で主の言葉を聞きます。「あなたはどんなことでも求めなさい。わたしはあなたに与えよう」。その言葉にソロモンは次のように答えました。「・・・わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません・・・どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕(しもべ)に聞き分ける心をお与えください・・・(6-9節)。」

ソロモン王が主に願ったことは、主の目に適(かな)い、主は、このソロモンの願いを喜びました。神様は、私達にも同じように、このような主の目に適う願いごとを求めることを願っています。

*主の御心に適う願い

 本日の、ヨハネの手紙一 5:14では、神様は、イエス様を信じる者達の祈りや願い、望みを聞き入れて下さると約束されています。そして私達は、神様からの祈りの応(こた)えによって、信仰が強められ、神様への讃美へと導かれていきます。

しかし、ここで私達が注意しなければならないことは、私たちの願い、望みが応えられるのは、「神の御心に適(かな)うことを願うなら」と、記されていることです。私達が何か望みを持って神様に願う時、その祈りが、神様の御心にかなうのかどうか、神様に喜ばれるものであるのかどうかと、少し立ち止まって考えることも大切です。

*イエス様の祈り

 イエス様は十字架にかかる前の夜、弟子達を連れてゲッセマネに行き、父なる神様に祈りを献げるために一人になりました。

その時イエス様が父なる神様に祈った言葉は、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように(マルコ14:36)。」です。

イエス様は、神様への信頼の言葉と自分の願いを祈りながらも「しかし」と続け、神様の御心に適うようにと願い求めました。

*神様に御心に適う生き方

 私達は、神様の御心が行なわれることを祈り、神様に自分の思いを委ねて、信頼して、日々お祈りをささげているでしょうか。

人は、自分に与えられている能力や時間・お金を、自分の所有物のように自分の欲しい物、自分のやりたいことに使います。しかし本来、私達に与えられているものは、神様に献げるためのものです。神様と話をするため、神様を礼拝するため、神様の言葉に向かうためのものなのです。

ソロモン王は、神様に礼拝するために多くの時間やお金、能力を使い、神様に真剣に向き合いました。神様の御心に適(かな)う者とは、自分の欲望に左右されることなく、神様との時間や神様との関係作りを優先する者を意味します。神様は、御心に適う者に永遠の命を与えます。

*永遠の命を受けるものへ

ヨハネの手紙では、「死に至らない罪」と「死に至る罪」があることが告げられています。人の犯す罪が、「死に至らない罪」であるならば、たとえ今、イエス様を信じることが難しくても、神様のご計画の中で、神様の子供とされることができます。私達は希望をもって主の救いを祈り続けて良いのです。しかし「死に至る罪」を犯す者については、私達は神様にお委ねするしかありません。それはとても厳しい現実ですが、神様の義です。

私達はイエス様を信じて受け入れた時に、罪が赦されて死に至る者から、永遠の命を受けた者へと変えられます。永遠の命とは、神様と人間が永遠に共に生きることが出来るということ、神の国、天国に入ることが出来ることを意味しています。

私達は、日々イエス様が、私の救い主であることを感謝して、信仰を新たにしていきましょう。

そして神様に呼ばれて応(こた)えた者として、安心して、神様の大いなる祝福を期待して、今週一週間の歩みを始めて参りましょう。

2021年4月18日の説教要旨 列王記上17:8-24・コロサイ書3:1-11

「新しい命」      加藤秀久伝道師

*はじめに

 列王記上17章の始めには、エリヤが紹介されています。エリヤは、アハブ王に“干ばつ”を預言した預言者です。主の言葉がエリヤに臨みます。

今まで住んでいる所を離れ、ヨルダンの東にあるケリトという川のほとりに行き、身を隠せ」との言葉です。エリヤは住んでいる所を去り、その場所へ行き、とどまりました。エリヤは主の語りかけに答え、行動しました。彼は主の御心にかなった人でもありました。主はエリヤに、ケリト川の水と、数羽のカラスを送って食べ物を運ばせ、彼を飢えから守り、その後、飲み水であった川が涸れた時、主は再びエリヤに語りかけます。

*サレプタの一人のやもめ

 本日の箇所は、主の言葉から始まります。「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる」。そこでエリヤが町の入り口まで来ると一人のやもめが薪(たきぎ)を拾っていました。エリヤはやもめに声をかけ「器に少々水を持って来て、私に飲ませて下さい。」と頼み、さらに、「パンも一切れ、手に持って来て下さい」と言いました。しかし彼女はエリヤに、「私には焼いたパンなどありません。ただ壺(つぼ)の中に一握りの小麦粉と、瓶(かめ)の中にわずかな油があるだけです。私は二本の薪を拾って帰り、私と息子の食べ物を作るところです。私達は、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」と答えました。エリヤは心配しないように告げ、先ずエリヤの為に小さいパン菓子を作り、そのあと自分達のために調理するようにと伝え、さらに主の言葉も伝えました「主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」と。私達だったらどうするでしょうか。このやもめは、その言葉通りに作り、与えました。するとエリヤの語った言葉通り、壺の粉も瓶の油も尽きることなく、彼女もエリヤも彼女の家の者も、食べ物を食べることができたのでした。

*息子の死

 ところがその後、息子が病気にかかり、病状は非常に重く、ついに息を引き取りました。やもめにとって、かつて死を覚悟したもののエリヤとの出会いにより奇跡がもたらされ、家の者達も生き延びることができたにもかかわらず一人息子が死ねば、これ迄生き延びたことは返って昔の不幸や、 それに伴う罪責が思い起こされ、結局は息子の生命を奪うためにエリヤが来たことになる・・と、やもめはエリヤに訴えました。

*「あなたはまことに神の人。あなたの口にある主の言葉は真実。」

エリヤは母親から息子を受け取り、自分のいる階上の部屋の寝台に寝かせて祈りました。そして子供の上に身を重ねてから「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。」と祈りました。しかも一度だけでなく、三度も神様に訴えています。この身を重ねて祈る祈り方は、エリヤの祈りの切実さと、身を重ねることによって心臓の鼓動が亡くなった子供に直接伝わることで、エリヤの癒しの願いの真剣さがそこにあることを伺うことができます。主は、エリヤの祈りを聞き入れて、命を戻されたので子供は生き返りました。母親は、エリヤがまことに神の人であり、エリヤの口にある主の言葉は真実である、と、告白しました。

*「あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」(コロサイ3:1-2)

 本日のコロサイ書は、神様を信じること、神様がなさることに目を  とめることを私達に教えています。私達がどんな状況にあろうとも目に見える今の状況に左右されることなく、真実を見ようとすること、神様の言葉を信じること、神様に思いを寄せること、神様を求めること、神様に祈ることです。私達は、神様との交わりを通して日々新たにされなければ、この地上で神様との正しい関係を築き上げていくことはできないと思います。私達はこの地上に存在し、この地上には誘惑されるものが沢山あります。それゆえ私達は、「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」と、うながされているのです。

2021年1月31日の説教要旨  列王記上8:22-30・Ⅰコリント3:10-17

「神の神殿」     加藤 秀久伝道師

*はじめに 

ソロモン王は、主の契約の箱(十戒の石板が入っている)を置く住まいとして主の家・エルサレム神殿を建てました。王になって4年目(紀元前966年頃)に始まり7年かけて完成しました。新しい神殿に納められた主の箱は、厳粛な儀式と共に「ダビデの町・シオン」に置かれていた天幕の中から運び出され、主の箱だけではなく臨在の幕屋も、幕屋にあった聖なる祭具もすべて運びだされ、予定されていた所に移されました。

主は、神殿を建てるのは父ダビデではなく、息子ソロモンが神殿を建てると告げられていました(8:17~参照)。 本日の聖書は、その約束が実現して、ソロモン王がイスラエルの全会衆の前で主の祭壇の前に立ち、両手を天に伸ばして感謝の祈りをささげているところから始まります。

*祈る姿勢

父ダビデは、「今、わたしは聖所であなたを仰ぎ望み、あなたの力と栄えを見ています。あなたの慈しみは命にもまさる恵み。わたしの唇はあなたをほめたたえます。命のある限り、あなたをたたえ手を高く上げ、御名によって祈ります」(詩編63編)と祈っています。このように神様に両手を上げて祈る行為は、天におられる父なる神様に向けて、私達自身がすべてを明け渡し、従うことを表していると思います。

*神様は地上にお住まいになるか?

ソロモン王は、祈りの中で、神様がこの地上の限られた空間である「神殿」に果たして住まわれるのか(8:27)と問うたことに対して、主は9:3で、「私はあなたが建てたこの神殿を聖別し、そこに私の名をとこしえに置く」と仰せになっています。(申命記12:11には、礼拝の場所を、「あなたたちの神、主がその名を置くために選ばれる場所」と記され、イエス様もエルサレム神殿について、「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」(マタイ21:13・イザヤ56:7)と引用されていて、神殿のその持ち主は「神様」であることが分かります。

エルサレムの語源には「シャレムの神の基礎」・「平和の基礎」のいずれかの意味があり、ここに神様に向かって礼拝する場所が出来たのです。

*コリントの教会

コリント教会は歴史が浅く、信徒達の信仰や霊的状況が未熟だったため、神様が第一ではなく、イエス様のことを伝えた伝道者に目が注がれ、「私はパウロにつく」「私はアポロにつく」など、信徒の間に分裂が起きていました(1:12)。そこでパウロは、人々の信仰を成長させて下さるのは、伝えた人ではなく神様の言葉に真理があることを述べて、

私達は神のために力を合わせて働く者であり、あなた方は神の畑、神の建物なのです。」と伝えています(3:9)。

*教会の働き

そうです。教会は一人の力では限界があり、大きな働きは出来ません。私達は神様の畑です。神様は私達に「み言葉」という種を蒔き、育てて下さり、実り豊かな作物を生み出そうとしておられます。私達は神様のために力を合わせて働く者達の群れ、共同体です。

*教会の土台

パウロは、「神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです(10節)」と記しています。パウロは、イエス様が人々の罪のために十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に甦って、すでに教会の土台に据えられているのだから変更はできないとしています。そして、12節以下で、主は火によって、私達が土台の上に建てる仕事を吟味されると教えています。

さらに、教会の信徒達は「神様の宮」であること、神様の霊が私達の心に住んでいて下さるので、そのような人々の交わりに、不和、争い、分裂を持ち込む者達は、聖霊の働きを弱め、教会を破壊し、最後には神様によって滅ぼされる(3:17)ことを告げています。

私達は罪赦されて、神の神殿とされた者達です。ですから私達はイエス様のことを告げる、生きた証人として、この世へと出ていきましょう。

6月12日の説教要旨 「主は生きておられる」 有馬味付子先生(成増キリスト教会協力牧師)

列王記 17:1-16 マタイ7:2427

 はじめに

 私は、佐藤義子牧師とは東京神学大学の同期入学の友人です。仙台南伝道所が開設された時の礼拝で奏楽を担当しました。また、2008年の開設4周年記念感謝礼拝で説教を担当しました。以前お会いした教会員の息子さんに今日お会いして、大きく成長された姿に驚かされました。私自身も(東京の成増で)開拓伝道しており、仙台南伝道所も開設以来の12年間で様々なことがあったと思います。神様はその一つ一つを恵みに変えてくださる御方です。また、成長の種を与えてくださる御方、成長の試練を与えてくださる御方でもあります。神様の御名をほめたたえます!

 大災害がなぜ起きるのか?(問いと答え)

さて、5年前には東日本大震災があり、この地域にいらした方々は、関東にいた私には計り知れない苦労を体験されたことと思います。多くの方が苦労され、現在も苦労の最中にいらっしゃる方もおられると思います。神様の助けを祈ります。

大災害と言えば、最近も熊本・大分で、大地震がありました。人々は、そのような大災害に遭うと「なぜ、私がこんな目に遭うのか。」と言います。そして「神も仏もあったものじゃない!」と言われるのを聞きます。2011年の東日本大震災の後に、私の教会でも、教会員のお嬢さんが質問してきました。「なぜ、神様はあのような災害を起こされたのでしょう?」いろいろなお考えがあると思いますが、私はこう答えました。「これは、神様が起こしているわけではない。神様はこのような事態をお許しになってはいるけれども、神様が起こされているわけではない。神様は確かにこの大災害をお見過ごしになっている。それは、神様のお考えがあるからだ。それは、この災害を通して、私達に何かを学び、何かに活かしなさいとおっしゃっているのだ。」と。

 人間の傲慢さに対する神様の警告

今、臓器移植や再生医療など、人間は「命」を自分達でどうにかできると思っていたり、自然や弱い者達へのいたわりを後回しにして、経済を最優先にして世の中を動かそうとしたりしています。そのような傲慢=人間の驕り高ぶりに対して、人間よりはるかに大きな力「神の力」があるということを神様は教えられています。私達クリスチャンの言い方をすれば、「天と地、その中のすべてを造られた創造主たる神様」、この神様が「わたしこそ、まことの唯一の神であることを知れ!」とおっしゃっているのです。

 まことの神を信じること

「創造主」は、私達が知っているとおり、たった一人のまことの神です。でも、他の神もあります。6千年前からあるユダヤ教より以前にある神は、人間が造った神です。ですから、イエス・キリストを信じるとは、本当の神様を信じることです。本当の神様を信じるか、信じないか、どちらかしかありません。グレーはあり得ません。「信じたいけど、信じられない」と言う方もおられるのでしょうが、まことの神はただお一人だけだということは覚えていただきたいことです。

 イエス様を信じる者達の使命

大災害を通して、神様は、私達人間に「あなたがたは、わたしに造られたちっぽけな存在に過ぎない。命、すべてがわたし(神様)のものだ!」とおっしゃっているのです。こう言うと、イエス様を信じる人達は「なるほど!」と納得していただけると思います。「そうか!そのとおりだ!では悔い改めて、新しい出発をしよう!」と次のステップへ行くことできます。けれども、イエス様をまだ信じていない人々は「そう言われたって…。」と言って、気持ちの切り替えができずに、苦しみが続くことになります。なかなか希望を持って立ち上がることができないのです。ですから、大災害を通して、先にイエス様を信じる者達は、こういう方々が本当の神様を知って、本当の平安を与えられるように、真剣に祈りなさいと神様がおっしゃっていると理解すべきです。(週報の右下欄の「お祈りください」の所の大災害に遭われた方々への祈りのとおりです!)

 イエス様を信じる者達の希望

ところで、私達イエス様を信じる者達の希望とは何でしょうか?人々はお金持ちになりたいとか、有名人になりたいといった希望を抱きます。しかし、クリスチャンの抱く希望はただ一つ、最高かつ最大の希望です。それは、復活の命・永遠の命に与ることです。朽ちない、霊の体に変えられることです。それが私達のたった一つの、どんな災害や出来事にも壊されることのない希望です。

 世の終わりの裁き

やがて、この世の最後が来ます。聖書の考え方は直線です。神様がなさった「天地創造」には初めがあり、そして終わりがあると考えます。その終わりの時、イエス様の裁きがあると聖書は教えています。そして、一見似ている「羊」と「山羊」が分けられるとされています(マタイ25:31-46)。「羊」とされた者(イエス様を信じる者)には永遠の命が与えられ、「山羊」とされた者(イエス様を信じない者)には永遠の命は与えられません。

 神様の愛

けれども、神様は私達人間が滅びることは望まれていません。聖書に「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ4:16)。」とあります。だから、神様はイエス様をこの世に送ってくださいました。

神様は一人も滅びないでほしいと願っておられます。ですから、私達は、神様の愛に応えたいと必死になって生きているのです。

 どうしたら、一人も滅びないでいられるのか?

今日の新約聖書の箇所マタイによる福音書7章24-27節に、私達がどうしたら、一人も滅びないでいられるかを、イエス様がわかりやすく例え話で話してくださっています。2種類の人が出てきます。一人は、イエス様の御言葉を聞いて行う人、実行する人です。もう一人は、確かにイエス様の御言葉を聞くのですが、それを聞いただけで行わない人です。前者は、イエス様の御言葉を行動に移し、毎日毎日の生活で実行する人、イエス様の御言葉につながって生きようと一生懸命しています。そして、その人達は、イエス様の御言葉が生活の中に生きている人達です。後者は、イエス様の御言葉を聞いたのだけれども、ただ聞いただけの人達です。

 イエス様の御言葉を行う人と聞くだけの人

私達の多くが、礼拝で聞いた聖書の御言葉や説教を、礼拝堂を出たら、忘れてしまうことを経験しています。聞いても忘れます。だから、よほど気を付けていないとイエス様の御言葉を聞いて行うには程遠いのです。

聖書は、2種類の人をはっきりと区別しています。一方は賢い人、もう一方は愚かな人、はっきりと分けてしまっています。なぜなら、聞いて行う人は、先ほど申し上げた、最後の審判の時に、永遠の命を与えられる、でも、聞いても行わない人は、永遠の滅びに至る、賢い人は神様と共に永遠に生き続けるけれども、愚かな人は滅びてしまう、そういう大きな分かれ道に私達は立っています。本当に大きな二者択一を私達は迫られています。イエス様の御言葉を行う方を選ぶのか、いや聞くだけでいいとするかは各々の決断にかかっています。

 イエス様の御言葉を受け入れる

今日の新約聖書箇所の直前7章21節にこうあります。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」イエス様の御言葉を聞いて行うのか、行わないのかということは、つまり、私達がイエス様を受け入れるのか、受け入れないのかということが問われているのです。夫婦関係、親子関係、近しい人間関係で、関係がぎくしゃくすると、相手の言葉を聞こえないふりをして、行動に結び付きません。聞いて行わないとは、まさに、相手を受け入れていないということです。相手を受け入れるということは必ず行いに出るわけです。ですから、イエス様の御言葉を聞いて行う人は、イエス様をしっかり、自分の主として心から受け入れている人です。そういう人は、イエス様が望んでおられることは何かということを一生懸命追い求めます。そして、何とか、イエス様に喜んでいただきたいと願う人です。

 主は生きておられる!

そうすると、不思議なことに、イエス様が生きて働いてくださることが、ひしひしと感じられるのです。イエス様が生きておられる!今、私のことを助けてくださった!そのことがよく感じられるのです。神様、イエス様、ありがとうございますということが、毎日の生活の中で、本当に時々刻々感じられるようになります。毎日の生活が喜びと感謝に満ち溢れます。

私事ですが、今年2月に私はパートナーを亡くしました。彼は結婚する前から病気がちで、長くは共に居られないと覚悟して結婚しましたが、足掛け47年の結婚生活となりました。大腸がんや心臓病など様々な大病をしましたが、絶対に体にメスを入れない、治療をしないという姿勢を貫きました。結局、47年間、共に過ごすことが出来ましたし、彼は、この間、説教を続けることを守られ、倒れる当日まで説教することができました。この経験によって、私は、「主は生きておられる!」と実感し続ける日々を与えられ、そのように確信しているのです。

また、仙台南伝道所の土地建物・私の教会の土地建物が与えられた経緯を考えても、「あー、神様は生きて働いてくださっている、私達の及ばない悠か遠くを見渡して、一つ一つを備えてくださっている」と感じますし、義子先生ともそのように語り合っています。

神様が生きて働いてくださる証し

「神様は生きて働いてくださる」本当にすごい御方なのです。今日の旧約聖書箇所の列王記(上)17章の箇所は私の大好きな箇所です。「壺の粉が尽きず、油が絶えない」というところが大好きです。神様を信じていれば、必ず必要な分は与えられるのです。

この旧約の箇所では、預言者エリヤは、神様がおっしゃった御言葉を即実行していますし、やもめ(未亡人)もエリヤの言った、神様の御言葉をそのとおり行っています。エリヤもやもめも、神様のおっしゃるとおりに、すぐ行ったのでした。それで、神様の恵みを受けることができました。2人は神様の御言葉に従って、すぐ行動しなければ、命が無かったのですが、2人はすぐ行動に移しました。それによって彼らは命をいただき、そして、エリヤもやもめも「主は生きておられます。」と告白したのです。

 私達も「主は生きておられます!」と実感できます

イエス様の御言葉に素直に従って、それを行うときに、私達も「主は生きておられます」と実感することができます。確かに主は生きておられます!途切れることなく、私達に愛を注ぎ、私達と共に生きて、働いてくださるのです。

今週も「主は生きておられる!」ということをはっきり、日々、心で、体で、魂で感じて、イエス様にしっかりつながって、毎日毎日を過ごしていくことができるよう、祈り求めましょう。