3月3日の説教要旨

ホセア書6:1-3  ルカ福音書24:1-12

「主の復活①」 平賀真理子牧師

*はじめに

今週の水曜日6日は「灰の水曜日」で、この日から受難節が始まります。但し、私達は、ルカによる福音書を読み進めてきて、先週の礼拝で既に「主の死と埋葬」の箇所まで終わりました。他の教会の多くは主の御受難をこれから読んでいくと思われますが、私達は、十字架後の「主の復活」という希望に向かって一足早く先取りしていきましょう。

*主の十字架

 主の十字架は、「神様を信じ通せない」という私達の罪を、イエス様が御自分の命を代償にして、私達信仰者が再び神様との絆を回復させるためと先週までにお伝えしました。神の御子の命という、何物にも代えがたい犠牲が献げられたのですから、この世の人間を支配してきたサタンも、文句が言えない、完璧な代償なのです。神の御子イエス様は、父なる神様の御心に従った「救い主」として「苦難の僕」の役割を果たされ、みじめで苛酷な死を遂げました。それが主の十字架です。武力等で押さえつける方法ではサタンは心から屈服はしないでしょう。救い主がみじめに死ぬことこそ「完璧な贖い」であり、サタンもそのような「救い主」には、心から屈服せざるを得なくなるわけです。

*預言されていた「主の死と復活」

 マタイ・マルコ・ルカ福音書では、イエス様が十字架への道が間近になるずっと前から、御自身の「死と復活」について3度預言なさっていたことを記しています。「キリスト教」「イエス様」と言えば、そのシンボルは十字架であり、十字架は人間の贖罪として大変重要ですが、実は、「十字架」の後の「復活」こそ、神様の完璧な勝利の証しと言えます。

*「主の復活」についてのルカ24章

 ルカによる福音書は、最後の章24章全体を使って、「主の復活」について証ししています。そして、その最初の段落1節-12節の小見出しは「復活する」となっています。「誰が」でしょうか?もちろん、イエス様ですね。ところが、1節-12節までは、実は、復活したイエス様が直接御姿をお見せになっているわけではありません。1節―2節で、婦人達が、処刑日の金曜日に確認した「主の御遺体を納めた御墓」に、日曜日の日の出頃来たものの、入り口の大きな石は取り除かれていて、あるはずの御遺体が無いことを発見したとあるだけです。(が、復活の主はまだ現れていません。)

*天使二人の出現とその証言=「主の預言を思い起こしなさい」

 次に現れたのも、復活の主ではなく、「輝く衣を着た人」です。これは、当時の表現で「天使」のことです。しかも、二人です。ユダヤ社会では、一人だけの発言は確かな証言とは見なされません。二人以上の複数の言葉で、証言として認められるのです。彼らの確かな証言は、ガリラヤから主に従ってきた婦人達がかつて聞いたはずの「主の死と復活の預言」を思い起こすようにという内容でした。つまり、様々な出来事で心惑わされている婦人達に、「主の御言葉」をまず思い出すことが重要だと伝えているのです。そして、婦人達はその証言に従い、使徒達に伝える役割を果たしました。

*婦人達の証言を聞いた「使徒」や男性の弟子達の反応 

 天使の証言を聞いた婦人達は、裏切り者「イスカリオテのユダ」を除く使徒11人や男性の弟子達に、「空の墓」や「天使の言葉」を知らせたにも関わらず、彼らは、それを「たわ言」だと思ったのです。当時のユダヤ社会では、女性を一人前の人間と見なさなかったので、仕方のないことだとは思います。ところが、ルカによる福音書では、ただ一人、例外の使徒が居たことを伝えています。それが、一番弟子ペトロです。

*主の御言葉を信じる者達が確信する「主の復活」  ペトロは、自分を愛し育んでくださったイエス様を3度も否認した経験があり、また、十字架の時も主を助けられませんでした。主との絆において、辛く悲しいままで終わりたくなかったでしょう。婦人達の言葉に希望を見出して行動し、証言どおりの様子を見、主の預言の成就を確信したはずです。死を超える「復活」は、主の御言葉を信じる者達に実現するのです。

5月28日の説教要旨 「主の昇天」 牧師 平賀真理子

ホセア書6:1-3 ルカ福音書24:44-53

 はじめに

先週の木曜日5月25日は、教会暦において特別な日=「主の昇天を覚える日」でした。事前にお知らせできずに申し訳ありませんでした。来週の日曜日がペンテコステ(聖霊降臨)なので、今回はその前に「主の昇天」のことを深く学んでおきたいと存じます。

 復活の主の御姿

ルカによる福音書の最終章24章には、イエス様は十字架の死の後、復活なさり、その事実を弟子達が次第に理解していく様子が記されています。「弟子たちに現れる」という見出しの段落では、「復活の主」との出会いを体験した弟子達が話し合っていると、そこへ復活したイエス様が現れたことが証しされています。ここで改めて思わされたのは、復活の主は肉も骨もあり、食事もできたことです。主の御言葉から、復活の御姿は、私達の知識を越えた存在であることが推測できます。

 「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する」(46節)

理解の範囲を越えた「復活の主」と出会い、「うろたえ、心に疑いを持ったりした弟子達」に、イエス様は御自分のことを証しなさいました。即ち、十字架に至る御受難と、この時点で起こっている復活について、それは聖書に預言された「神様のご計画」どおりであることをもう一度伝えているわけです。この告知を、十字架の前に、イエス様は3度も弟子達になさっていました。でも、聞いた当初、弟子達は、あまり理解できなかったと思われます。でも、そのとおりのこと=「十字架と復活」が起こった直後ならわかるだろうとイエス様は思われて、弟子達に、忍耐強く、更に教えようとなさっていると感じられます。主の十字架と復活は、私達の信仰の要です。だから、説教の中でも、強調されてきたことです。ただ、それを聞くことに慣れてしまってはならないと思います。罪のない主が、私の為に大変な痛みと苦しみを代わりに担われたことを痛感し、心静めて掘り下げる必要があります。

 罪の赦しを得させる悔い改めを、全世界に宣べ伝える役割の弟子達

更に、復活の主は、この時新たな内容を告げられました。それは47節の前半の御言葉=「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ということです。「イエス様の十字架(贖いの御業)と復活(神様から賜った栄誉)を『自分が罪赦されて救われる為に行われた』と信じること」が、ここで言われている「悔い改め」です。それによって、神様から「罪の赦し」をいただける、そして、そのような「主の御名による救い」が全世界に広がる、そして、その役目を弟子達が任せられるようになる、そこまでが「神様のご計画」に入っていると、復活の主は新たな真実を知らせてくださったのです。そのような弟子達に対し、「あなたがたは(救いの御業の)証人となる」(48節)とおっしゃいました。「証人」とは裁判用語ですが、ここでは第三者として語るだけではなく、「当事者」、しかも、神様の救いのご計画の一部を担う者としての「当事者」であることを意味しています。

「弟子達を祝福されたイエス様」と「主を初めて伏し拝んだ弟子達」

50節からは、「主の昇天」が証しされています。イエス様は手を上げて弟子達を祝福されました。そして、弟子達は、この時初めて「イエス様を伏し拝んだ」のです。復活だけでなく、昇天の御姿をお見せになることにより、弟子達はイエス様の偉大さを更に思い知ったのでしょう。弟子達は、この後、大喜びで神様をほめたたえる生活をすることになりました。そうしながら、主の御命令のとおり、「父が約束されたもの聖霊(神の霊)」を待っていたのです。

昇天後のイエス様と弟子達

昇天後のイエス様については、私達が礼拝で信仰告白している使徒信条に「天に昇り、全能の父なる神の右の座し」ておられるとあります。神様と同じ存在になったのです。しかし、イエス様はそこに安穏と座っておられる御方ではなく、信じる者が助けを祈るなら、この世に必ず働きかけてくださいます。イエス様は「聖霊」を送って、この世の人や出来事を動かせる力をお持ちです。

一方、弟子達は、集まって祈る日々を過ごし、今後の福音伝道の準備を行った(12人目の使徒の選定)と使徒言行録1章にあります。2章では、五旬節(ペンテコステ)に初めて「聖霊」が降った出来事が記され、福音伝道が開始されました。信仰者は心が祈り等によって神様の御心と一致した時、神様のご計画に用いられます。私達も主の御心に自分の心を合わせられるよう、祈りましょう。

2月12日の説教要旨 「わたしたちの帰る場所」 吉田 新 先生(東北学院大学)

ホセア書21619 マルコ福音書13539

 祈りの二つの目的

本日は、「祈り」について皆さんと共に考えたいと思います。祈りには、二つの目的があると私は思います。最初の祈りの目的とは「退く」ことです。大切なときに気持ちが焦り、冷静さを失ってしまう。それは誰しも経験することです。そうならないために、どうしたらいいのか。まずは「退くこと」です。大切なことを前にした時、重要な決断をしなければならない時、人生の節目にあった時、その場からひと時、退くことです。キリスト教ではそれを「リトリート(retreat)」と呼んでいます。「リトリート(retreat)」というのは、「退く」「後退する」「退却する」という意味ですが、キリスト教では普段の生活を離れ、神様との交わりを深める時間のことを指します。そのようなリトリートの起源はイエス・キリストに遡ります。本日の聖書箇所に記されたイエスの姿です。イエスは人々に教えを宣べ伝える活動の前に、一人で人里離れたところに行き、祈ったとあります。イエスはまず「退いた」のです。本当に自分にとって大切な決断を下す時、自分の向かうべき道がわからない時、焦って前のめりに進むのではなく、一歩後ろに退いてみる、神様と静かに対話する時を持ってみるのです。その時を少しでも持てば、私たちは私たちがなすべきことが自ずと知らされると思います。最初の祈りの目的とは「退くこと」です。

 荒野、神の声を聴く場所

聖書の箇所には「人里離れた場所で祈っていた」とあります。マルコ福音書ではこの箇所だけでなく、イエスが活動の合間に一人で祈られる姿がしばしば記されています。祈りとイエスの活動は不可分に結びついています。

新共同訳では「人里離れた場所」と訳されておりますが、原文では「荒れた場所、耕作されていない荒地」という意味だと思います。「人里離れた」という形容詞を名詞にしますと「荒野」です。ちょっと人ごみから離れて休息を取るといった意味ではなく、厳しい場所にあえて身を置いたことを意味すると思います。おそらく、このようなイエスの祈りの姿が、後々、過酷な環境に身を置き、祈りに専念する修道生活の伝統を生み出していったと考えます。

では、なぜ祈るために厳しい場に身を置くのでしょうか。先ほどイエスは「荒れた場所、耕作されていない荒地」に向かったと言いましたが、聖書において「荒野」とは単に荒れた土地という意味ではなく、荒野は「神の声を聴く場所」でもあります。実際、旧約聖書の預言者たちは荒野で「神の声」を聴きます。ですから、荒れた地に赴くとは、神の声を聴くために、「出向く」ということです。ここに祈りの二つ目の目的があります。「自分から神の方に向かうこと」です。日々、私たちは様々な場面で祈りますが、どれくらい「神の方に向くこと」を意識して祈っているでしょうか。それを自分に問いかける必要があるかもしれません。

長く、教会生活を送っている方々は、習慣として祈っていると思います。しかし、いま一度、祈りの最も基本的な姿勢を味わっていただきたいと思います。「祈り」とは「退くこと」、そして「自分から神の方に向かうこと」、つまり「神の方に帰る」ことです。

 神の方に帰る

では、神の方に帰り、私たちは何をすべきでしょうか。自分のお願いや希望を述べるべきでしょうか。そうではありません。日常生活を退いて、神の方に向き直し、神の方に帰り、私たちは私たちを差し出すのです。飾らない、ごまかさない、嘘のない自分を神に差し出しましょう。神が求めているのはありのままのあなたです。いまのあなたを差し出すことこそが本当の祈りです。そうすれば、あなたの心は確実に楽になると思います。

一日の生活の中でひと時の祈りの時に、神の方に向き直ることを意識すれば、私たちの世界はまた違って見えてくるはずです。それを通して、私たちが帰る場所も見えてくると思います。そして、そこで私たちは自身を神に差し出しましょう。