2022年8月7日の説教要旨 民数記11:24-30・Ⅰコリント12:12-26

「神様からの贈り物」       加藤 秀久伝道師

*はじめに

 私達が信仰を与えられた時、一人ひとりに与えられた神様の霊とはどのようなものであったのでしょうか。又、その後、私達は神様の霊との交わりはどのようになされているでしょうか。本日の旧約聖書では、神様の霊が、信じるリーダー達の上に降(くだ)ったことが記されています。

*モーセの訴え

 本日の民数記には、モーセによってエジプトから導き出された民が、旅の途中でさまざまな不満を訴えてモーセを苦しめました。モーセが、その重荷を一人で担いきれないことを神様に訴えたことから始まります。民たちは実際、神様が共にいて下さる「しるし」を見ているのです。それは、9章15節以下に記されている幕屋での雲の存在です。幕屋を建てた日に「雲」は幕屋を覆(おお)いました。夕方になると、それは朝まで燃える火のように見えました。この雲が天幕を離れて昇ると人々は旅立ち、雲が一つの場所にとどまると、そこに宿営しました。彼ら達はこのように神様の存在と導きを雲によって知ることになり、神様が身近にいて守って下さっていることや、神様の凄さを体験していました。それにもかかわらず民たちはエジプトでの生活を思い出し、食べることで神様につぶやき始めたのでした。神様は私達に、十分すぎるほどの恵みと愛と祝福を与えて下さっています。けれども私達は、神様からの祝福を受けて、満たされているにもかかわらず、あれも、これも、それもありません と、目に見えるもの、感じるものを、イスラエルの民と同じように、欲する気持が出てきて「不満・つぶやき」が生まれるのではないでしょうか。

*神様からの応答

 神様はモーセに、民の長老はじめリーダーになり得る人を70人選ぶように言われ、翌日、彼らが聖別して幕屋の周りに立った時、神様は雲の内にあって降り、モーセに授けられている霊の一部を取って、長老にも授けられました。霊が彼らの上にとどまると、彼らは預言状態になりました。

 このような記述は、サムエル記上10章9-12節にも登場します。イスラエル王国の初代の王・サウルは、祭司であり預言者でもあるサムエルから聖別の油を注がれて、「主があなたに油を注ぎ、御自分の嗣業の民の指導者とされた」と告げられました。そして、この後の出来事(預言者の一団に会い、サウル自身も預言する状態になる)を予告され、その予告は実現し、聖霊が降った時、彼らは預言状態になりました。(が、続くことはなく、サウルの場合、神様はサウルの心を新たにされた・・とあります。サムエル記上10:9 )。

*聖霊の働き

本日のコリント書12章では、聖霊の働きについて記されています。聖霊の賜物は、人々の意識を高め、心を強くし、「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるため」(12:7)です。1節には著者パウロが「霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいて欲しい。」と告げ、神の霊によって語る人は「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」と述べています(3節)。

神様から私達に与えられた霊は同じ霊であり、それぞれに与えられた霊の力により、私達はイエス様の身体の一部として働きます。

これらの働きによって教会全体の力や徳が高められていきます。霊の働きが、信じる者一人ひとりに現われる時、私達は、心の内で神様との関係を深め、それぞれが自分に与えられた場で働き、教会全体が良い方向へ進んで行くことが出来、神様の栄光を輝かせる結果となることをパウロは私達に伝えています。

*イエス様を信じた時に

旧約時代と違い、現代を生きる私達には、イエス様の十字架による死によって私達の罪が贖(あがな)われて、イエス様を信じたその時から、神様の霊が私達の心の中に与えられています。それゆえ私達は、神様の声をいつでも、どこででも、聞くことが出来ます。今週も神様との与えられた時を感謝しながら、イエス様と共に歩みを進めて参りましょう。

10月14日の説教要旨 「使徒たちへの愛」 平賀真理子牧師

民数記12:1-8 ルカ福音書22:24-34

 

 はじめに

 イエス様は、「最後の晩餐」の時には、御自分の十字架の使命を悟っておられました。それで、御自分の亡き後、信仰者たちが この時の「晩餐」の記念(「聖餐式」)を受け継いでいけるように示していかれました。それまで、イスラエル民族は「過越祭」を継承していましたが、新しい「過越の食事」として、イエス様御自らが「聖餐式」を定めてくださったのです。ここで注目したいことは、イエス様は使徒たちに、1つのパンを裂いて与え、1つの杯から葡萄酒を回し飲みするように、給仕なさったことです。

 

 一つになるべきなのに、早速、分裂し始める使徒たち

十字架で犠牲になった一人の主であるイエス様から恵みを分かち合うという意味を持つ「聖餐式」の制定時に、ルカ福音書では、主は使徒たちの中から裏切り者が出ると告げられたと記します。言われた使徒たちは、誰が主を裏切ろうとしているかについて論争を始めましたが、次第に脱線していきます。常日頃からの疑問「12使徒の内、誰が一番偉いのか」という問題です。「聖餐式」がこの世で行われるようになって、神様にとって喜ばしいことが始まったのに、この世の長であるサタンが早速、神様側の出来事を妨げ始めたのでしょう。1つの主から分かち合う喜びを味わったはずなのに、使徒たちは「競争心」に付け込まれ、もはや分裂の危機にあるのです。このことにイエス様はお気づきになり、そうであってはならない理由を新たに教えてくださったのです。

 

 「一番に偉くなりたい動議」

私達人間は「偉くなりたい!一番になりたい!」という願望を持ちやすいものです。偉くなって、世の中のために粉骨砕身頑張るつもりでしょうか?多くの人がそうではなく、偉くなって、自分の欲望どおりの生活をして、自分の力を示したいと考えるのではないでしょうか。しかし、欲望まみれの人間が次々と現われ、先にその座についている人を蹴落とそうとし、そのグループの団結は崩壊します。だから、ふつうは「偉くなろうと思うな!」という教えになりそうですが、イエス様はそうではなく、偉くなりたいという動機を神の民として正しい方向へ導かれたのです。つまり、偉くなるのは、周りの他の人々に仕えるためであると教えてくださったのです。そのように語るイエス様御自身が、「聖餐式制定」の時、御自分でパンを割き、杯を回す奉仕をなさって、模範を示されました。更には、「十字架上での死」こそが、究極の奉仕と言えます。自分の命を犠牲にして、私達のような罪深き人間に奉仕されたのです。

 

 「神の国の民」は分かち合ったり、仕え合ったりする喜びで満たされる

更に、イエス様は、神の国の偉くなりたいルールに従う者には、御自分と共に食事の席に着き、イスラエルを治める王座に座る権利をくださると約束してくださいました。しかし、ここで誤解してはなりません。神の国で欲望まみれの暮らしができるということではありません。イエス様の十字架と復活の恵みの素晴らしさを理解している信仰者は、イエス様と同じように、神の国のために何か奉仕をしたいと思う人間であるというのが大前提になっています。将来、好き勝手な生活が保証されるから信じるというのでは「御利益宗教」の域を出ませんし、イエス様の伝えた「神の国の素晴らしさ」は、そんな欲望に由来するものではありません。他の人々に奉仕したいと願う者が集まる群れで「主において一つ」となり、分かち合ったり、互いに仕えたりする喜びで満たされるのが「神の国」です。

 

 使徒たちに、謙遜で、限りない愛を示されたイエス様

「神の国」の民として、別の言い方では、「謙遜」という姿勢が求められると言えます。聖書での「謙遜」とは、ただ「腰が低い」というものではありません。悩み苦しむ者と同じ立場になり、そのような人々を救い出そうとする「本当の神様」が居てくださり、そのような神様なくして自分は存在しない、そのような信仰が「謙遜」と言われるのです。そのような神様を仰ぎ、そこから自らを省みてへりくだるのが、真の信仰者です。

先の問答の直後に、イエス様はサタンが使徒たちを試みるし、その一人シモン・ペトロもその試練を受けると預言なさいました。ペトロは、主の御言葉より、自分の言葉を信じようとしましたが、実際は、主の御言葉が実現しました。そんなペトロのために、主は祈り、励ましてくださいました。主は使徒たちに、謙遜で、限りない愛を注いでくださる御方なのです。

7月9日の説教要旨 「目を覚ましている僕」 牧師 平賀真理子

民数記152731 ルカ福音書123548

 はじめに

今日の新約聖書の箇所では、「主人と僕」の例え話が2つ出てきます。ほぼ同じ内容を記しているマタイによる福音書により、この話が、世の終わり=「終末」の時のことを例えているのは明らかです(24:36-51)。

 「終末」について

「終末」と聞いて、私達は遠い将来に起こることと何となく思ってしまっているのではないでしょうか。確かに、「終末」は、世の終わりであることは間違いないけれども、しかし、それは、遠い将来ではなく、もう既に始まっていることを想起していただきたいのです。イエス様がこの世に来てくださって、救い主としての御業を成し遂げてくださったという時点で、この世の終わりが始まっているのです。この場合、終末とは、短い時を指すのではなく、ある長い期間を指すことになります。イエス様の出来事から約2000年経っていても、その期間ずっと終末であるということです。ですから、現代に生きる私達に対して、神様は、終末に生きる者として、救い主イエス様の御心に適った生き方をするように期待してくださっているのです。今、イエス様が私達の方から見えなくても、イエス様の方からは見えている、このことについて、自覚していれば、自分の欲望に任せた好き勝手はできない!のです。

「終末」については、もう一つ、将来に起こるはずの「世の終わりの終わり」が必ずあると聖書は告げています。私達はその時を知りたいのですが、それはイエス様の父なる神様だけが御存じです(マタイ24:36)。人間にとっては、突然「終わりの終わり」がやって来ます!マタイ福音書には「終わりの終わり」の恐ろしい現象が記されていますが、私達信仰者が覚えておくべきことは、「終わりの終わり」には、イエス様が再びこの世に来てくださる=「再臨」を約束してくださったという希望です。

 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」(35節)

いつ帰宅するかわからない「主人」とは、再臨の時が人間に知らされていない「イエス様」を例えていますし、また、「僕」とは、イエス様の再臨の時を知らされていない「信仰者」達のことを例えています。だから、主を信じる者達は、いつも「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」と教えられているのです。「腰に帯を締める」とは、きちんとした服装で居ることです。主人の前にいつ出てもいいように準備が整っている状態です。また、「ともし火をともしている」状態も、主人の帰還の時が暗い時間でも支障ないように、ランプの油や燈心のチェックを終えて万全に準備できている状態の例えです。どのような状況でも、できるだけ早く帰ってきてほしいという、敬意と愛情を基にした準備です。私達は、日々の生活において、そのような思いで、また、そのような状態で、再臨の主を待ち望んでいるのかどうか、つまり、「目を覚ましているのかどうか」を自分自身で吟味するよう、求められています。

 ペトロの質問(41)に対しての2つ目の例え話

ルカによる福音書では、2つ目の例え話に入るに当たり、ペトロの質問を独自に記しています。「一つ目の例え話」が自分達のような直弟子に対してなのか、この時たまたま話を聞きに来た群衆に対してなのかが、ペトロは気になったのでした。その質問について、イエス様は、言葉の上で直接返答なさらず、2つ目の例え話をすることによって、返答となさったのでした。

2つ目の例え話の「僕」とは、召使達の長、ここの表現では「管理人」と置き換えられています。また、この「管理人」は「主人の言われたとおりにしているか」「自分の欲望に従った管理をしているか」で、主人からの賞罰がはっきり分かれることが記されています。このことから、2つ目の「僕」=「管理人」とは、主を信じる人々を管理する立場に置かれた者のことを指します。ペトロの質問にはっきり答えるならば、イエス様の語られる例え話を理解して従うことについて、直弟子達が一番責任が重いと教えておられます。現代の教会で言えば、牧師や役員の責任が重いと言われており、その当事者として私は慄然とします。

 まず、私達の「僕」として、私達を救ってくださった救い主イエス様!

ただ、会員の方々も、恵みに先に与った者として、人を導くことになり、より重い責任を問われる時が来て、「管理人」と同じ立場になります!責任の重さは、神様からの期待の重さとして感謝できるようになりたいものです。私達は、自分より先に、私達の罪を贖うという「僕」の役割(十字架)を負ってくださった、イエス様の大いなる恵みを知らされており、その御方に応えたいと願うからです。