1月21日の説教要旨 「新しい救いの恵み」 牧師 平賀真理子

イザヤ書66:18-23 ルカ福音書17:11-19

はじめに

今日の新約聖書箇所の冒頭で、イエス様がエルサレムを目指して旅を続けておられることを私達は再び想起させられます。思えば、ルカ福音書9章51節からの段落で、イエス様は御自身で天に上げられる時期が近づいたと悟られ、エルサレムへ向かったと書かれています。また、13章33節では、神様の使命を受けた預言者として、イエス様は聖なる都エルサレムで死ぬ定めだと示されています(「主の十字架」)。救おうとするユダヤ人達により、その救いが理解されずに殺される定めです。それは神様の御計画で、その為にこの世に来られたイエス様は、その過酷で孤独な道を従順にたどっていかなければなりませんでした。

重い皮膚病を患っていたユダヤ人とサマリア人が協力し合う

今回の箇所では、ユダヤ人とサマリア人という民族同士としては仲の悪いはずの10人が、重い皮膚病にかかっていたために共に暮らしており、大変な癒しの力があると噂されるイエス様から癒しを受けるべく、呼び止めようと協力し合っています。更に、イエス様に近寄りたい気持ちを抑えつつ、律法に則って距離を取りながら「この病いを癒してください」と願っていたわけです。人の心に何があるかを見抜かれるイエス様は彼らの苦しみを理解し、すぐに救ってあげたいと思われたのでしょう。この後すぐに彼らの身の上に癒しが起こるとわかっておられた上で、彼らに「祭司に体を見せなさい」とお命じになり、実際に彼らはその途上で重い皮膚病から癒されました!

癒された10人の内、サマリア人1人だけが戻ってきた

この癒しを受けた10人の内、癒してくださったイエス様に感謝を献げるために戻ってきたのは1人で、それがサマリア人だったことをルカ福音書は重要視しました。ユダヤ教の中で神の民とされたユダヤ人達が「汚れている」と蔑んだサマリア人、しかも、そんなサマリア人の中でも更に「汚れている」とされた重い皮膚病の人が戻ってきて、癒しの源であるイエス様に感謝を献げたのです。実は、イエス様は御自分はユダヤ人の救い主として遣わされたと自覚されていたようですが、福音宣教の旅でイエス様からの救いを求める異邦人と度々出会うことにより、ユダヤ人か異邦人かは問題ではなく、御自分を救い主として受け入れるかが重要だという思いを深められたのではないかと想像します。

「立ち上がって、行きなさい」(19節)

イエス様の憐れみを受けて救われることのすばらしさを理解し、イエス様を救い主と受け入れ、その恵みに感謝を表そうとひれ伏した、このサマリア人に対して、イエス様は「立ち上がって、行きなさい」という御言葉をかけてくださいました。「立ち上がって」という言葉は、元々の言葉では「よみがえる」という意味を持っています。イエス様と出会うまでは死んだようにしか生きられなかった、このサマリア人に、イエス様は「よみがえって、自分の人生の旅を続けるように!」と励ましてくださいました。

「あなたの信仰があなたを救った」(19節)

イエス様は最後に「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃったのですが、このサマリア人を救った直接の源は、イエス様の癒しの力です。聖書で証しされてきた本当の神様は、へりくだりを愛する御方で、決して御自分が癒したと声高く主張される御方ではありません。そんな神様の御力に対して人間ができることは、主の恵みを信じて、感謝して素直に受け入れることです。そうすることで、人間は神様と豊かに交流でき、ますます満たされていきます。実際、この話の中でも10人の人々が救われるほど、主の憐れみに由来する神様の御力は大きかったのに、その恵みに感謝を献げるために戻ってきて癒された上に、更に主から御言葉を賜るという交流に進んだのは、このサマリア人、たった一人です。

「新しい救いの恵み」に感謝を献げましょう!

「神様による人間の救い」は、古い形ではユダヤ人かどうかが問われましたが、新しい形ではイエス様を救い主と信じる信仰が問われます。それは、主の十字架によって自分の罪を肩代わりしていただいたと信じるかどうかです。私達信仰者は、神様の一方的な恵みを受けて「新しい救い」で神の民とされました。その大いなる恵みの素晴らしさを本当に理解しつつ、礼拝等で感謝を献げることを喜べるよう、聖霊の助けを祈り続けましょう。

1月7日の説教要旨 「異邦人の救い主」 牧師 平賀真理子

詩編47:2-5  マタイ福音書2:1-12

はじめに

昨日は1月6日で、教会の暦では「公現日」という特別な日でした。イエス様が御降誕され、その栄光が異邦人の世界にまで広まったことを祝う日です。東の方から占星術の学者達(異邦人)が来て、イエス様を礼拝したという出来事(マタイ2:1-12)を覚える日です。

イエス様がお生まれになった時の状況

今日の箇所の冒頭1節で、イエス様がこの世にお生まれになった時と場所が書かれています。ヘロデ王という極めてこの世的な王の支配下にあった時と場所であったというわけです。なぜ、この世的かと言うと、この世の長サタンと性質が似ているからです。自分の利益のためにずる賢く立ち回り、権力を横取りし、しかも心根が冷酷で疑い深いのです。神の民ユダヤ人達が、このような支配に苦しめられていた状況下で、神様は約束どおり、「救い主」イエス様をお送りくださったのです。

「異邦人の国」から来た占星術の学者達

しかし、本来その出来事に一番に気づいて喜ぶべき「神の民」ユダヤ人達よりも、「異邦人」が先にその出来事に気づき、ユダヤ人達に知らせたことを今日の箇所は語っています。「東の方」とはユダヤ地方から見て、ペルシャ(今のイラン)周辺ではないかと言い伝えられています。

「異邦人の国」から異邦人の占星術の学者達が、まずエルサレムに来て、「ユダヤ人の王」の誕生を知らせました。「占星術の学者」とは、当時は、天文学をはじめとする自然科学全般についての専門知識を有する知識人であり、時の権力者に助言を求められる存在です。ユダヤ人達は、自分達が「神の民」として選ばれて神の言葉である「律法」をいただいたという自負があった故に、異邦人については「神様に選ばれておらず、『律法』も知らない、軽蔑すべき人々」とみなしていました。そんな「異邦人」から、ユダヤ人達は一番大事な「救い主誕生」の知らせを受け取ることになったと聖書は示しています。

ユダヤ人の「民の祭司長達や律法学者達」

一方、ユダヤ人の知識人ともいえる「祭司長達や律法学者達」は、この知らせに対し、その預言をヘロデ王に冷静に伝えただけです。本来、彼らこそ、救い主誕生は神の恵みだと、よく知っているはずなのに、その救い主を拝みに行っていません。神様の出来事を無視したのです。

神様の導きに従った「異邦人の占星術の学者達」

一方、異邦人の占星術の学者達は、律法は与えられていなくても、この世に現れた神様の真理=科学的法則を常に求め、その法則とは違う動きを察知し、それを神様からのしるしと悟り、それに従い、旅の危険を顧みずに救い主誕生の出来事に積極的に参加しました。彼らは一度エルサレムに来て、王に頼ったように見えますが、それは彼らが「預言」に出会うためであり、むしろ、彼らの旅を導いたのは、特別な星だったのです。「星」と「預言」=神様の導きを表すものに彼らは従って行動し、救い主との出会いに導かれて喜びに溢れ、礼拝する恵みを得たのです!

イエス様の救い主としての役割を暗示する献げ物

救い主への献げ物は「黄金・乳香・没薬」という3種類だったと記されています(彼らは「東方の3博士」と言われていますが、3名だったという記述は実はありません)。「黄金」はこの世の栄え、つまり、王様を意味します。(イエス様は政治的な王様にはなっていませんが、この世を支配して人間を苦しめていたこの世の長サタンから、この世の支配を取り戻したのですから、この世の新しい王様となられたのです!)「乳香」は、神殿で献げ物をする時に焚く香料なので「祭司」を意味し、「没薬」は死体を包む時の防腐剤なので「死」=「十字架による死」を意味します。後のイエス様の歩みを象徴していると言えます。

異邦人にも届く「救い主」の栄光の証し人として

神様はユダヤ人を救いの起点とされましたが、その救いは全ての民族(異邦人)に及ぶと旧約聖書には幾つも記されています。私達は、肉体的にはユダヤ人ではないので、この占星術の学者達の行動を、同じ「異邦人」として誇らしく感じます。しかし、今や、イエス様を救い主と信じる私達が「神の民」です。当時のユダヤ教宗教指導者達のように「神様のしるし」を無視していないかを留意しつつ、これから「神の民」となる方々のためにも「神の栄光を写し出す証し人」となれるよう、祈り続けましょう。

12月31日の説教要旨 「シメオンの賛歌」 牧師 平賀真理子

ゼカリヤ書12:10 ルカ福音書2:25-38

はじめに

主の御降誕を祝う降誕節に入りました。今回、アドベントに入ってから、ルカによる福音書の中にある3つの賛歌(神様をほめたたえる歌)を学んできました。今日は3つめの「シメオンの賛歌」を中心に見ていきたいと存じます。

ご降誕なさった幼子イエス様が神殿に来られるまでのいきさつ

ルカ福音書の2章の前半では、イエス様がこの世に実際に誕生され、その出来事を知らされた羊飼い達が幼子イエス様を探し当てたことが書かれています。続いて、イエス様は天使のお告げどおり、イエス(「ヤハウェは救い」という意味、ヨシュアのギリシア語名)という名が付けられたと記されています。この世での両親であるヨセフとマリアは、ユダヤ教の律法に従い、「生まれた子供を聖なる者」として献げるため、神殿に来たことから、今日の出来事は起こります。

シメオンが神殿で幼子イエス様に出会うまでのいきさつ

イエス様がこの世にお生まれになった頃、イスラエルの民は、異邦人ローマ人が支配する「ローマ帝国」による非情な圧政に苦しんでいました。そんな困難な状況の中、シメオンは信仰深く生きていました。そして、神様が自分にしてくださった約束「救い主を見るまでは死なない約束」を信じ続けたのです。異邦人の武力支配の中、本当の「救い主」がこの世に来られ、本当の救いをもたらす御方としてこの世に生まれたことを、聖書は「聖霊の導き」によるものだと証ししています。

シメオンの賛歌(「万民の救い主」と出会った喜び) 

待ちに待った「救い主」に会えるだけでも恵みですが、シメオンはその腕に抱くことができ、それを神の恵みとして実感としたことでしょう。そして「シメオンの賛歌」が彼の口を通して表わされました。その前半(29節―30節)では、神様が遣わしてくださった「救い主」に出会えたこと、神様が自分との約束を果たしてくださったこと、その恵みを体験できたことを喜び、神様に感謝を献げていると思われます。

「救い主に出会う」という喜びが与えられたことについては、私達信仰者も同じです。私達は思いがけず、福音に出会う機会を神様によって与えられました。救い主の存在を知らされ、その教えに従って生きることを許されています。それでも、教えどおりにできないことは多いかもしれません。けれども、そんな自分を、神様がその都度許してくださり、神の民として必要としてくださる、そのことに大きな喜びを覚えます。

さて、「シメオンの賛歌」の後半(31節-32節)は、30節の「神様が人間のために準備してくださった救い」とは何かを説明しています。救い主イエス様は「万民のための救い」である、更に進んで31節では「異邦人を照らす光」であるとあります。マリアの賛歌もザカリアの賛歌(預言)も、どちらかというと「イスラエル民族の救い」が中心に謳われていました。イエス様はイスラエル民族の男子として生まれて育つので、その民族の救いが期待されるのは勿論ですが、福音が広がれば、「救い主」を産み育てたイスラエル民族の誉れも大きくなります。しかし、シメオンの賛歌では、イエス様はイスラエル民族だけの救い主にとどまらず、異邦人に「本当の神様」を知らしめる御方であると謳われていることが、他にはない特徴です。

救い主イエス様の十字架についての預言

「シメオンの賛歌」については、もう一つ、但し書きのような、付け足しの預言があることも特徴です(34節b-35節)。福音書にもあるとおり、この後、イエス様の御言葉や歩みによって、イスラエルの人々は、それを支持するのか反対するのかで、大きく動揺していきます。権力者は倒され、その権力者から貶められていた人々は、イエス様から立ち上がる力をいただきました。しかし、権力者達の反感は大変大きく、悔い改めない人々の罪により、イエス様は刺し貫かれること(十字架刑)となり、母親であるマリアがそれを見て心を傷める出来事の預言がなされています。

女預言者アンナの役割

この時、「救い主」イエス様に出会った女預言者アンナが人々に幼子イエス様のことを話したことも大事な役割です。シメオンは救い主に出会って神を賛美し、アンナは人々に伝えました。聖霊に満たされた人間の様々な働きを通し、福音伝道は神様主導の出来事として成就されていくのです!

12月24日の説教要旨 「救い主の御降誕」 牧師 平賀真理子

イザヤ書9:5-6 ルカ福音書2:8-20
*はじめに
クリスマスおめでとうございます。教会のクリスマス礼拝にお越しくださる方々は12月25日が「イエス・キリストの誕生日」とされており、教会ではそれ以前の近い日曜日にクリスマス礼拝を献げるのだと知っておられることと存じます。クリスマスはイエス様のお誕生日が起源なのですが、クリスチャンの少ない日本では、サンタクロースが来る日とだけしか知らない人々もいるようです。是非、本来の意味を知っていただきたいです。
*この世に救い主が実際にお生まれになった!
今日の新約聖書箇所の直前の段落であるルカ福音書2章1-7節には、この世にいよいよイエス様がお生まれになったことが書かれています。待ちに待った救い主誕生ならば、最高の環境で、人々の大歓迎を受けつつ生まれてもよいはずなのに、全く逆の状況であったことが記されています。この世での両親が権力者によって旅を強いられ、その旅先で、しかも、人間の部屋でないところ(聖書には具体的な表記はありませんが、言い伝えによれば「馬小屋」)でお生まれになった上に、幼児用のベッドではなく、家畜のえさを入れる飼い葉桶に寝かされたと書かれています。これは、人間の心が神様を受け入れるスペースを持ちにくいことを暗示しています。
*人間界で低く見られていた羊飼いに、神様は救い主御降誕を知らせた!
人間の状況にかかわりなく、神様の御計画は御心のままに着実に進んでいきます。ルカ福音書1章では、イエス様の先導者として洗礼者ヨハネの誕生も、そして救い主イエス様のご誕生も、神様が主導して起こしてくださった出来事であると示されています。そして、それを素直に受け入れた人物として、この「羊飼いたち」が2章に書かれています。彼らは、職業柄、定期的な礼拝が守れないので、低く見られていました。しかも、労働条件の厳しい割には、それほど収入がたくさんある仕事でもありませんでした。人間社会の中では尊敬されない人々でした。しかし、神様の評価は違います!人間界では一番に恵みをいただくことが決して期待されない羊飼いたちに、神様はまず、御自分が救いの出来事を起こしたことを知らせてくださったのです。「救い主を『ひとりのみどりご・ひとりの男の子』として与える」という預言を実際に実現してくださり、しかも、この羊飼いたちに、そのことを天がどんなに喜んでいるかを見せてくださっています。天使の言葉や天の大軍としての大勢の天使による賛美が、この羊飼いたちをどれほど圧倒したことでしょう。その大きな喜びに押し出されるようにして、羊飼いたちは、その赤ん坊を探し出そうと出かけました。もちろん、イヤイヤではありません。「急いで行って」(16節)という言葉は、元々の言葉では「喜び勇んで」という意味が含まれています。
*「しるし」をたよりに、羊飼いたちは「救い主」を探し当てた!
羊飼いたちは天使の言葉をヒントに「救い主イエス様」を探し当てました。天使の言葉の中で、救い主の「しるし」として「布にくるまって飼い葉桶に寝かされている乳飲み子」であると告げられていました。イエス様は、両親が旅の途中だったので産着の準備もなく、宿屋でもない馬小屋で生まれたので、まさしく、この時、「布にくるまって飼い葉桶に寝かされている」唯一の乳飲み子だったのでしょう。詳細は書いてありませんが、ここには、聖霊の導きがあったのではないかと推測できると思います。神様は選んだ人々には、事前に知らせてくださり、そのとおりのことを実現し、聖霊(神様の霊)によって、彼らを導いてくださる御方だからです。
*神様の出来事を素直に信じられる喜び
羊飼いたちは、天からのお告げが現実になったことを体験しました。彼らの体験した一連の出来事で、神様の出来事は御心のままに確実に進むけれども、人間はただ単に神様の奴隷のように言いなりに働かされるわけではなく、御心に適った人々には、それが神様が主導で起こされる出来事だとわかるようにしてくださること、そして、そのような神様の恵みが自分に降ると素直に信じられる人は、その恵みがわかった後は黙っていられず、話さずにはいられないほどの喜びにあふれることがわかります。
*「神をあがめ、賛美しながら生きる人生」
最終的には羊飼いたちは「帰って行った」(20節)ので、元の持ち場に帰ったわけであり、表面上は彼らは何も変わっていません。けれども、心が変わったのです。この出来事より前には、ただ単に生きていたであろう彼らが、この出来事の後では「自分を・自分の人生を神様が覚えてくださり、神様の出来事に参加させてくださる」ということが実感としてわかり、これ以降の人生において「神をあがめ、賛美する」ように変えられたのです。それが信仰を持つことの醍醐味です。同じ出来事を体験しても、信仰者は、(表面的な幸・不幸にとらわれず)どのような出来事でも神様が共にいてくださることを信じ、「神をあがめ、賛美する」大いなる喜びに導かれていくのです。私達を本当の喜びに導くために、神の御子が「救い主」として、人間の中でも最弱の姿(赤ん坊)となってこの世に降りてきてくださったのです!

12月17日の説教要旨 「ザカリアの預言」 牧師 平賀真理子

イザヤ書40:3-11 ルカ福音書1:67-80
*はじめに
イエス様の御降誕に寄せて、ルカ福音書に記録されている3つの賛歌を学んでいます。今日は2つ目のザカリアの賛歌(聖書の小見出しには「ザカリアの預言」と書かれています)を学んでいきましょう。
*主の御言葉を信じられなかったザカリア
ザカリアは祭司であり、その年、主の神殿の聖所で香をたいている時に、天使の訪問を受けて、主の御言葉をいただくことになりました。
その内容は、不妊の女と言われて老齢になった妻エリサベトが子供を産むということ、そして、その子供は「救い主」の前に来ると預言されていた「先導者」であるということでした。しかし、ザカリアはこれを信じられなかったために、そのことが起こるまで口が利けなくされてしまいました。ザカリアの家庭に子供が授かることは、私的な面でも大きな喜びですが、「救い主の先導者」が生まれるということは、イスラエル民族が待望していた「救い主」誕生が近いということの証しであり、公的にも大きな喜びです。祭司ザカリアはそれを一番に知らされたにもかかわらず、信じられなかったのです。
*主の御言葉を信じなかった人間が許されて聖霊に満たされた!
今日の箇所の直前の段落で、ザカリアに息子が生まれ、先導者として「洗礼者ヨハネ」が本当に生まれたことが書かれています。主の御言葉を信じられず、一時的に罰を受けたザカリアは、主の御計画である子供の誕生の直後に、その罰を許され、聖霊に満たされて、今度は神様を賛美する歌を残す役目を与えられました。ここに、人間の救いの形が表されているように思います。まず、神様の御言葉を人間が信じない罪に陥ります。そして、神様の恵みである才能を制限される罰を受けます。しかし、その間も神様の御計画は着々と進み、不信の人間はその経過を黙って見ているしかできなくなります。その人は、神様の偉大さをしみじみ感じるようにされ、一方、我が身の罪深さを思い知り、悔い改めに導かれるようになります。恐らく、ザカリアもそのような体験をしたと推測することも可能ではないでしょうか。
*ザカリアの預言(賛歌)
神様の恵みによって聖霊に満たされたザカリアの賛歌(預言)も、マリアの賛歌と同じように、神様をほめたたえることから始まっています。そして、イスラエル民族を御自分の民として愛し導いてこられた神様=「主」と呼ばれた神様を賛美しています。この預言は内容から見て、3つの部分に分けられます。
第1部の68節―75節では、ザカリアが祭司として学んできたこと、体験したことが反映されていると見ることができます。マリアの賛歌はマリアの素朴な信仰が表れていますが、ザカリアの預言では、ユダヤ教で教えられている内容で溢れています。神様は人間を通して働いてくださることも多いのですが、用いられる人間の才能を充分に生かしてくださる御方であることも見受けられます。
第2部の76節―78節1行目で、ザカリアの息子「ヨハネ」が、イザヤ書40章やマラキ書3章で預言された「救い主の先導者」=救い主の先を歩んで「主の道」を備える者としての役割を担うことが預言されています。このヨハネは、生まれからして特別で、人々に期待されましが、「いと高き方(神様)の預言者」に過ぎないことを父ザカリアはここで預言しました。(一方、イエス様は「いと高き方の子と言われる(1:32)」と預言されており、二人は明確に区別されています。)
このヨハネの「主の道を備える」役割とは、具体的にどういうことでしょうか。それは、彼自身が人々に「悔い改めにふさわしい実を結べ(3:8)」と述べたことからわかります。これまで当たり前だった自己中心の生き方から、神様の基準(神様がご覧になって喜ばれる生き方)に方向転換するように人々に教え導くという役割です。この神様に心を向ける心の準備ができた人の上に、「救い主」が天から来てくださり、本当の意味で「罪の許し」をなさることができるのです。神様を求める心の上に、神様の恵みが降り注いだ時、その恵みは本当に生かされるのです。準備できていない心の上に神様の恵みが降り注いでも、それは無駄にされ、更には、恨み・つらみ・背きを返すことになります。
第3部の78節2行目―79節では、神様がイスラエル民族になさった救いの約束の最終目的「救い主を遣わすこと」について述べられています。「あけぼのの光」(78節)と比喩された「救い主」が天から来られ、絶望にある人々を照らし、本当の平和へ導くという恵みが明示され、救い主御降誕の希望が謳われています。

12月3日の説教要旨 「主の御降誕の予告」 牧師 平賀真理子

イザヤ書51:4-11 ルカ福音書録1:26-38
*はじめに
今日は、キリスト教会の暦の上では、いわゆる「元日」に値する「歳の初めの日」です。また、私達の仙台南伝道所では、もう一つ記念すべき日です。それは礼拝開始15周年を迎えたということです。この伝道所で礼拝が始まる以前には、その存続を危惧する方々もいたそうですので、人間の予想を越えたこと、つまり、神様が御計画されたことが起こっていると言えると思います。ここで、洗礼を受ける思いを授けられた会員や充実した信仰生活を送っている会員がいること、また、求道者の方々が与えられていること、このことに改めて感謝を献げたいものです。
*「救い主の御降誕」の前に、「洗礼者ヨハネ」を準備された父なる神
さて、今日から「アドベント」「待降節」に入りましたが、主の誕生日とされる12月25日までの期間は、救い主を迎える準備をする時です。今日の新約聖書箇所の一つ前の段落は「洗礼者ヨハネの誕生の予告」について書かれていますが、その中の1章17節では、洗礼者ヨハネは「『準備のできた民』を主のために用意する」者だと天使が告げたと書かれています。神様が救い主イエス様をこの世に送ってくださったことも感謝ですが、その前に、人々が救い主を迎えられるために、その準備をする人物さえも御計画してくださったことに更なる感謝を覚えます。
*御降誕についてのルカによる福音書の特徴
新約聖書では、救い主イエス様の御降誕について、マタイによる福音書とルカによる福音書、この2つに具体的に書かれています。ルカ福音書の特徴として、イエス様だけでなく、その先駆けの「洗礼者ヨハネ」の誕生も、神様の御計画のうちであることが示されていると言えます。
イエス様も洗礼者ヨハネも、主なる神様の御心を、親になる人物に告げられています。洗礼者ヨハネの場合、父親である「祭司ザカリア」に天使ガブリエルが現れます。一方、イエス様の場合は、母親となる「ナザレ町の若い娘マリア」に同じ天使が現れました。ここに、ルカ福音書の特徴が現れています。人間社会で尊重される、男性・身分の高い祭司・年長という要素が揃った「祭司ザカリア」のところではなく、女性・田舎の庶民・若年という、人間社会では軽んじられる要素しかない「マリア」に、神様
は、御自分の御子・愛する人類の救い主を託したのです。これは聖書で証しされてきた神様の特徴と一致します。軽んじられる立場・弱い立場の人間を愛してくだるという特徴です!
*マリアが救い主の母に選ばれた理由
このようなマリアが、「救い主の母」として神様に選ばれたのには、理由があるはずです。たくさんあるのでしょうけれども、今日の箇所から、二つの理由に思い至りました。一つは、マリアがダビデ王の家系の男性ヨセフと婚約していたことです。ダビデ王にナタンという預言者が「あなたの身から出る子孫に跡を継がせる」と神様の預言(サムエル記下7:12)が伝えられていて、それをイスラエルの民全体が知っていたからです。神様が預言を実現される、まさにその時に、神様に導かれて、ダビデ家の男性と婚約していた女性がマリアだったのでしょう。二つ目は、マリアが、思慮深い性格であり、信仰によって物事を肯定的に捉えられる女性だったと思われるところです。29節の天使の祝福の最初の「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」という謎めいた言葉に最初は動揺したものの、その意味を「考え込んだ」とあるからです。この「考え込んだ」という言葉は、元々の言葉では、否定的な意味はなく、「思案を巡らす」です。
*ザカリアの不信とマリアの戸惑い
一つ、気になることがあります。神様の出来事が身に起こった時、通常、人間は驚いて、すぐに信じることは難しいと思われます。実際、ザカリアとマリアも、間髪を入れずに信じるとはならず、両者とも、まず驚いています。ザカリアの方は、天使を見て「不安になり、恐怖の念に襲われた」と1章12節にあります。ここから、ザカリアは祭司なのに、神様の出来事が実現すると100%の思いで信じているわけではないと、不信な思いが透けて見えるように思います。案の定、彼は「主の言葉」を信じなかった罰として、子供の誕生まで口がきけなくされました。一方、マリアの疑いは「戸惑い」と表現され、天使の抽象的な言葉に対して、「どういう意味?」という「信じたい思い」からくる積極的な問いだったと思われます。そのような素直な問いには素直に答えたくなるものです。天使も、マリアの問いに対して答えていき、天使とマリアの間で一問一答のように、会話の形が成立していきます。救い主の母となる人物に対し、その重要な役割を理解してほしいという神様の願いも天使は背負っていたのでしょう。
*「お言葉どおり、この身になりますように。」(38節)
聖書の「神様」は、この世に対し、御自分主導の出来事を起こせる御方であり、救い主を本当にこの世にお送りくださったのです!私達信仰者は、マリアのような素直な信仰によって、主からの出来事を待ち望みましょう。

11月26日の説教要旨 「天地を造られた主」 牧師 平賀真理子

詩編146:1-6  使徒言行録17:22-31
*はじめに(収穫感謝礼拝の由来)
今日は収穫感謝礼拝の日です。その由来は宗教改革が始まった1517年から約100年後の出来事です。ルターが口火を切ることになった宗教改革ですが、プロテスタントの教えはその後いろいろ分かれ発展していきます。その中でも3つの教えが主流となっていきました。ルター派・改革派(カルバンが提唱)・イギリス国教会派(日本では聖公会)です。
16世紀の間にイギリスでは政治的な動きと相まって、カトリック教会を離れて、国王がイギリス国教会を率いることになりました。ところが、イギリスの中で既に改革派のtおいう教えを信じていた人々にとって、それは生き辛い社会となりました。彼らはイギリスを出て、改革派が主流だったオランダに一度移住します。しかし、子供達が自分達の言葉を受け継がなくなっていくことに愕然とし、新天地で自分達の言葉や教えを継承できることを志しました。1620年の夏に2艘の船を手配して、当時の新天地アメリカへ旅立ったのです。ところが、航海は2度失敗し、3度目にやっと1艘だけ(メイフラワー号)、66日かけて、予定地より北のプリマスという町に着いたのです。ここまででも大変ですが、この後は更に大変でした。冬を越すのが厳しく、イギリスで船に乗り込んだ約100名のうち、半数が飢えと寒さで死んだのです。翌春には、この状態を気の毒に思った原住民の人々がトウモロコシの種を彼らに与え、これが秋に実って、待ちに待った「収穫」ができたのだそうです。イギリスから渡った、これらの人々は、助けてくれた原住民の方々をその秋に招き、新天地で実りを与えてくださった神様に感謝を献げました。
これがアメリカで大々的に祝われている収穫感謝祭の由来です。日本基督教団でもこの行事に倣って、アメリカでの収穫感謝の祝日(11月の第4木曜日)に近い日曜日に、収穫感謝礼拝の日を設けています。
*アテネの町で
 今日の新約聖書の箇所は、イエス様の死後、福音を全世界に告げ知らせることに貢献した「使徒パウロ」が、アテネで行った説教を記したところです。アテネはギリシア哲学の中心地と言ってよいでしょう。
この町の人々は、広場で論じ合う習慣があり、また、何か新しいことを見聞きすることが大好きだったことが、前の段落からわかります。人知の粋や目新しい情報を求めて一喜一憂する姿は、都市生活をする者、即ち、私達にも共通する性質だと思います。
もう一つ、この町についてパウロが嘆いているのは、アテネの町に偶像が溢れていることでした。パウロは人間が手で作る神様や維持するために人間の働きが必要な神殿は、本当の神様でもないし、そのような神殿も神様の住まいとはなりえないとパウロは主張しています。そして、アテネの人々が何となく感じてはいても名前すら付けられない「知られざる神」について、パウロは説明を始めたのです。まさしく新しい情報です!
*「本当の神様」=天地を造られた主
ユダヤ人が奉じていた聖書には「本当の神様」のことが知らされています。しかし、ユダヤ人でない人々(異邦人)は、聖書で証しされている「本当の神様」を知りません。そこで、パウロは異邦人であるアテネの人々に「本当の神様」が天地を造ったところから説明を始めました。天地のものすべてを造った「本当の神様」は、人間を造られ、「命」や「息」や「必要な物」すべてを与えてくださったと語りました。それだけではなく、「本当の神様」は人間それぞれに相応しい「時」と「場所」を設定して、この地に人間を配置して、その中に示されている神様を、人間がわかるようにされていると述べました。それは、アテネを含むギリシアの人々も漠然と感じていることが詩に示されていると例証しています(28節)。そして、人間の働きや技巧によって作られる偶像礼拝は、神様を決して表していないことを29節で重ねて論じています。
*「本当の神様」が新たになさったこと=「イエス様の復活」
これまでは、異邦人には漠然としか感じられなかった「本当の神様」、即ち、異邦人には「天地を造られた神様」としかかわからなかった「本当の神様」について、もはや「知らない」では済まされないことを、パウロは主張します。それは、イエス様が復活されるという出来事が起こったからです。そして、それが言葉によって述べ伝えられるようになったからです。人知を越えた神様が、人知では理解の範囲を越えた「死からの復活」という栄誉を、「救い主イエス様」に与えたからです。人知を越えたものは、神様のなさったこととしか言いようがありません。イエス様の復活によって、神様が人間を御自分の方へ導いていると言えるのです。だから、アテネの人々だけではなく、私達も、今やはっきり知らされた「本当の神様」に心を向け(悔い改め)、「神の国の福音」を受け入れて、新しい「神の国の民」として歩むように神様から求められているのです。私達は、復活のイエス様によって御自分を啓示なさる神様から大きな恵みを受けているのです。

11月5日の説教要旨 「死と復活」 牧師 平賀真理子

詩編16:7-11  Ⅰコリント書15:42-58

*はじめに
今日は召天者記念礼拝の日です。信仰を持って生き、天に召された方々を思い起こし、その信仰を受け継ごうという思いを新たにする日です。この方々の「信仰」とは、一言で言えば、イエス・キリストを自分の救い主として信じる信仰です。彼らは、この世での肉体をいただいて生きている間に福音に出会い、「イエス・キリストは自分の罪を贖ってくださるために十字架に架かって犠牲になられた」と信じ続けました。確かに、それが信仰の第一歩です。しかし、それだけを強調するのは不十分です。信仰者は、主の十字架だけでなく、主の復活を知らされ、信じて生きるのです!

 

*コリントの信徒への手紙一15章
「主の復活」については、今日の箇所、Ⅰコリント書15章も、それを証ししている箇所の一つです。この書の著者パウロは、ここで3つの内容に分けて、信仰者に思い起こしてほしいことを書き送っています。
聖書の小見出しに沿って、最初の段落「キリスト復活」の中で、パウロは、キリストが、聖書に書いてあるとおり自分の罪のために死んだこと(十字架)、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに三日目に復活したこと、ケファ(ペトロ)に現れ、その後12人(主要な弟子)に現れたこと、その後、五百人以上の兄弟達(信仰者)に同時に現れ、生きた証人がたくさんいることを証ししています。
次の12節からの段落「死者の復活」では、多くの証人が「主の復活が事実だ」と証言できるのだから、イエス様の復活がなかったとは決して言えない、むしろ、「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人々の初穂となられました」(20節)とパウロは宣言しました。そして、人類の祖とされる「アダム」によって、神様を信じないという罪で、すべての人が死ぬことになったという内容(ローマ書5:12-14)を記し、その対比として「キリストによって、すべての人が生かされることになる」(22節)とあります。それは、アダムから累々と流れる人類の罪すべてを贖うために、イエス様が十字架という苛酷な運命に従順に従われたので、父なる神様がそれを祝福して「死からの復活」という栄誉を与えたことを意味します。そして、その恵みがイエス様だけに留まらず、その意味を理解して受け入れる信仰者にも与えられると言われています(ローマ書3:22等)。
更に、15章23-24節では、復活の順番について、「最初にキリスト、次いで、キリストが来られるとき(キリスト再臨の時)に、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来る」と書かれています。イエス様はすでに復活なさっていますから、主の再臨の時に、イエス様を救い主として信じる者は復活させていただけると宣言されています!

 

*「種」の例え
このようにパウロは説明し、次いで、コリントの集会の人々のために「具体的な『復活の体』」について、具体的な説明を続けます。「種」の例えです。種は、一つの物体のように死んでいるような様子に一度はなりますが、違う姿で生き返ってくるように見えます。死んだような「種」の状態が「この世での肉体上の死の姿」であり、「新しい命が出てきた姿」が「復活の体」のようだと例えています。そして、神様は全能の御方なので、それぞれにふさわしい体を与えてくださるとパウロは説明しています。

 

*死の状態と復活の状態の例え
今日の新約聖書箇所に入りまして、前段落の例えを基本に、パウロは別の表現も試みました。「死の状態」を、蒔かれる時に「朽ちるもの」・「卑しいもの」・「弱いもの」であっても、芽を出す時のような「復活の体」を「朽ちないもの」・「輝かしいもの」・「力強いもの」と表現しています。更に、死んで復活することを「『自然の命の体』が蒔かれて『霊の体』に復活する」とも表現しました。

 

*「アダム」と「イエス様」
次いで、再び、人類の祖「アダム」のことが出てきます。アダムは神様から命の息を鼻に吹き入れられて生きる者となった(創世記2:7)のですが、最後のアダムと例えられているイエス様は十字架と復活を経て「神様」の御姿に戻られたのです。そして、人間は、「土でできた最初の人であるアダム」のように、この世での物質でできた体で生きるようにされていますが、信仰者達は「天に属する第二の人」であるイエス様の似姿になって「復活」することができるとパウロは教えています。

 

*「朽ちないもの」「死なないもの」を着る恵み
私達信仰者は、天に属するために「朽ちないもの」、すなわち「永遠のもの」を着ることが許されていると50節以降に記されています。52節の「最後のラッパが鳴るとき」とは、終末(この世の終わりの時)であり、キリスト再臨の時ですが、この時、信仰者達は「朽ちないもの」「死なないもの」を必ず着るようになるとパウロは語りました。復活の主の恵みを、何の功績もない私達が着ることが許されている恵みに感謝です。

 

*「死」・「罪」・「律法」⇔「命」・「救い」・「信仰」
パウロは、「この世のこと」を表現する時、「死」「罪」という表現を用いますし、救いの古い方法である「律法」が支配する世界と表現しました。そして、これに対抗して、というよりも、これを凌駕するものとして、「(天に属する、永遠の)命」と「救い」とし、そして、救いの新しい方法としての「福音への信仰」という表現を好んで用いています。
54節の後半から、パウロの特徴の、その言葉が出てきます。「罪」の最たるものが「死」であり、罪の虜の人間は「死」を最も恐れて生きざるを得ない状況に置かれてきました。しかし、イエス様の十字架と復活という救いの御業によって、人間の罪が覆われ、憐れみ深い神様は、人間に対して過去の罪は問わないとしてくださいました。「死の世界」が誇っていた「罪」に対して、イエス様が勝利されたのです。「人間の罪を自覚させ、恐怖に陥れ、人間を悪の方へがんじがらめにする」おおもとになっていたのは「律法」でした。イエス様は、それらすべてに打ち勝ってくださったのです。だから、私達はかつて自分の内側に潜んで力を奪っていた「罪意識」、もっとはっきり言うと、「私なんかダメだ!」「私には生きる価値がない」といった絶望から、イエス様を信じる恵みによって、「私は神様が目をかけてくださる存在」「神様の御心に適う生き方ができると期待されている存在」「神様に愛されている存在」だという希望が持てるようになるのです。それが神様に祝福される、本来の人間の姿ではないでしょうか。

 

*復活の主に結ばれて、主の業に励む喜び
今日の箇所の最後に、パウロは主を信じる者達に、主に結ばれて、主の業に励むことを勧めています。それは、すなわち、信仰の先達、この方々が、その人生において行ってきたことです。今日の箇所のパウロの言葉に励まされ、また、これらの先達の生き方に倣いながら、私達は、神様の御前に、再び生かされている恵みを感謝し、主の御用のため、特に、福音伝道のために用いられたいと願います。そして、それを心から感謝し、喜べる信仰者へ成長していけるように、聖霊の助けを祈り求めてまいりましょう。

 

10月22日の説教要旨 「神様の憐れみ」 牧師 平賀真理子

エレミヤ書31:20 ルカ福音書15:11-32
*はじめに
ルカによる福音書15章は3つの有名な例え話から成り立っています。
3つの共通点は、「見失ったもの」を「あるじ」が必死に探して見つけ出し、見つけ出したら、仲間や近隣の人々と共に大喜びし合うことです。
*前の2つの例え話と異なる点
今回の「放蕩息子」の例え話では、「二人の息子を持つ父親」というのが「あるじ」であり、「下の息子」(以降「弟」と表記)が「見失われるもの」です。この「見失われるもの」と例えられる弟は、父親に従わないという意志があるようです。この反抗的意志があることが他の例え話とは違います。この弟は、敬意や感謝を父親に示さず、財産の生前贈与を要求し(かなり失礼な事)、取り分をもらうとサッサと遠い国に行って、元々は父親のものだった財産を使って放蕩な生活を送りました。
*「弟」の罪の姿が比喩するもの
自分の欲望の虜となって、神様や周りの人への配慮や感謝を忘れてしまう姿になるとは、この弟だけが悪い性質なのでしょうか?もしも、私達も時間と資金が潤沢にある環境に置かれたら、この弟のような自堕落な生き方を一瞬たりとも絶対にしないと言える人がいるでしょうか。「あるじ」から離れて、その存在を忘れて、自分の欲望のままに好き勝手に生きたい!という誘惑を退けられる人はほとんどいないのではないでしょうか。日頃の自分の生活を見れば、自分がいかに欲望に弱いかわかりますね。
*放蕩の末に困り果てた「弟」
この弟は、財産を使い果たし、そこで大飢饉が起き、豚の世話係にまで身をやつしました(ユダヤ人にとって豚は汚れた生き物で、この仕事は屈辱的です)。欲望を満たそうと躍起になり、神様を平気で忘れ、挙句の果てには苦しむ人間の罪の姿が示されています。神様は、この愚かな弟をこのような困窮と屈辱に追い込むことにより、「あるじ」のもとに居ることがいかに素晴らしいことかを、骨身にしみて悟らせようとなさったのだと思います。
*「天に対しても、またお父さんに対しても、罪を犯しました」(18・21節)
この試練を通して、この「弟」は、神様に喜ばれるように変えられていきます。欲望まみれの自分の罪を深く自覚して「天にも、父親にも、罪を犯した」と言うと決意しました。そして、その悪い状況を引き延ばさず、惨(みじ)めな自分を晒(さら)しても「あるじ」である父親の元に帰ろうと決意できたのです(18節)。更に次のことが重要です。実際に、この弟は悪い状況から立ち上がり、親元に帰り、決意したとおりに、自分の罪を告白したのです!以前の彼なら、自分の罪さえ自覚しないし、たとえ自覚しても、うやむやに誤魔化し、親元に居座るようになったと想像できます。しかし、欲望に従った生き方の限界を知った弟は、無条件で愛してくれる父親の元で大歓迎を受けても甘えずに、自分の罪深さをしっかり言い表しました。神様から試練を与えられることによって成長させていただいたのだと思います。
*「神様の憐れみ」
例え話の「あるじ」である「父親」の方に目を向けると、「一日千秋」の思いで毎日毎日待っていたと推測できます。というのは、この弟息子が挫折の末に帰って来た時に「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけ」(20節)て大歓迎したからです。そして、父親が弟息子を「憐れに思い」(20節)という言葉に注目したいと思います。これは、聖書で語られる神様の御性質の一つです。単なる同情だけではありません。弱い立場で苦しみ、助けを求める人間を放っておけずに、同じ思いになり、その状況を根本的に解決するように実際に働いてくださる、それが「神様の憐れみ」です。ユダヤ教指導者達は神様を恐い冷徹な存在と強調しましたが、神の御子イエス様は、父なる神様の御性質をよく御存じで、この父親に「憐れみ深い父なる神様」の本質を重ねておられます。人間が欲望に引きずられて、本当の「あるじ」である神様の元を離れても忍耐して帰りを待ち続ける御方であり、一方、人間の苦しむ姿には耐えられず、御自分の民として生きる幸いをいつでも授けようと待ち構えていてくださる御方であります。
*「神様の憐れみ」を究極的に示したのが「主の十字架と復活」
今回の話の「兄息子」は直接的には「ファリサイ派の人々や律法学者たち」(15:2)を例え、「弟息子」は「徴税人や罪人」を例えています。「あるじ」と例えられる「父なる神様」の御心に従い、イエス様は、神様から離れていた「徴税人や罪人」が神様の元に帰りたいと願うように彼らの中に入り、福音を宣べ伝えたのです。ファリサイ派や律法学者達が「自分達は神様側に居る」と言いながら、神様と共にいる恵みを感謝できずにいる姿を、イエス様は「兄息子」の様子で比喩なさいました。一方、イエス様は「神様の憐れみ」を理解して従う御方です。その「主の十字架と復活」こそ、罪に苦しむ人類を救いたいと切望する「神様の憐れみ」ゆえに為された御業です。私達は、その恵みに与って生きることを許され、感謝です!

2017・10月15日の礼拝説教要旨 「私の助けはどこから?」 佐藤 義子

詩編121:1-2・ヨハネ福音書3:16
*はじめに
今日は、一年に一度の子供と大人の合同礼拝です。教会学校では、旧約聖書ではアブラハムさんなど、聖書に出てくる人達がどのように生きたのかについて学んできましたし、新約聖書ではイエス様についてやイエス様がして下さった「たとえ話」などを学んできました。今日は、旧約聖書の詩編の言葉、そして新約聖書ではヨハネ福音書の有名な言葉のお話です。
*「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。」
これは今、読んだ詩編の1節です。この時、これを書いた人は「助けてほしい」と思っていますね。私達が誰かに助けてほしいと思う時は、私達が困った時です。子供の時は、大人の人に助けてもらうことが多いですが、大人になっても困ることはいろいろ起こります。そういう時は誰かに助けてもらわなければなりません。この詩編を書いた人は、何に困っているのかというと、これから長い旅に出ることになり、その旅には沢山の危険が予想されていたからです。たとえば山の向こうまでいく道には、でこぼこ道や、急な坂、深い谷間があるだろう。沼や川や、途中でへびとかクマが出るかもしれない。又、強盗が待ち伏せして襲われるような危険な目に会うかもしれない・・などと考えたのでしょう。そのような心配が心の中に広がってきて、「わたしの助けはどこから来るのでしょう」と、誰かに聞いているようです。あるいは、自分の心に聞いているのかもしれません。
私達が今、生きている時代は大変な時代です。「テロ」とか「ミサイル」という言葉を何回も聞くようになりましたし、地震や津波や火山の爆発などの自然災害も多く起こっています。そのほか事件や事故も多く、そして、大人であれば、自分の健康のこと、仕事のこと、家族のこと、人間関係や将来の進路などなど、先が良くわからないことについての心配や不安などを持っている人は、きっと沢山いることでしょう。それらを心配している人と、今、この詩編を書いた人・・遠くて長い、危険をともなうこれからの旅を前にして、山々を見上げ、不安な気持でいる人と、とても良く似ていますね。
*「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから。」
「わたしの助けはどこから?」という質問の答えが、2節「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから」です。「どこから?」と聞いている人が、この答えを出したのなら、この人は神様からの声を聞いたに違いありません。又、もし誰かに質問したのであれば、答えを返した人は、当時の「祭司」と呼ばれた信仰のリーダーでしょう。
*天地を造られた主
「主」とは神様のことです。なぜ助けは、天地を造られた神様から来るのでしょうか。それは、天と地上を造られただけでなく、世界中の人達すべて(私達も!)皆、神様が命を与えて生かして下さっているから、だから、人間を救う力も、もちろん持っておられるからです。
3節以下には、神様は、私達が生きていく上で足がよろめかないように(ふらふらしないように)助けて下さるお方であり昼も夜も眠ることなくいつも見守って下さるお方であり、いろいろな災いを遠ざけて下さるお方であり、どこに行っても守って下さるお方であると書かれています。この神様への信頼を持ち続けている限り、私達は決して倒れません。
*「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」
神様の独り子はイエス様です。神様はイエス様を、私達の住むこの地上に遣わして下さったことによって、私達は神様のことを正しく知ることが出来るようになりました。そして、それまで神様を正しく知らないで生きてきた「罪」を悔い改めて、イエス様を信じることにより、永遠の命をいただけることが、(ヨハネ福音書)3章16節に記されています。
私達が、「神様、助けて下さい」とお祈りする、そのお祈りは、実は、イエス様が、神様に伝えて下さっているのです。私達のお祈りが神様に届くようになったのは、イエス様が十字架で死んでくださって、神様が私達の罪を赦して下さったからなのです。神様は、イエス様を3日目に復活させて下さり、今は、神様の元に戻られています。そして毎日の私達の祈りを神様に伝えて下さり、聖霊を送って下さっています。
それで、私達は、お祈りの最後に、必ず、「イエス様のお名前を通して」とか、「イエス様のみ名によってお祈りします」と祈るのです。
*讃美歌301番
「山辺(やまべ)に向かいて我(われ)、目を開(あ)ぐ、助けは何処方(いずかた)より来(きた)るか、天地(あめつち)の御神より 助けぞ 我に来(きた)る」
今朝、歌った讃美歌301番は、121篇の「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから」が もとになって作られました。最後に、この御言葉と共に歩まれた「山本つち先生」についてお話したいと思います。
山本先生は、私が卒業した女子学院という中学高校の女の院長先生です。先生は学校のすぐそばに住んでおられました。学校では毎朝「礼拝」があり、礼拝前にはいつも301番の讃美歌のチャイムが流れていました。ある朝の礼拝で山本先生は、詩編121篇を読まれて、学校が火事になった時のことを話されました。その後、火事について書かれた本なども読む機会がありました。それによると火事は1949年5月に起こりました(私の入学前です)。午後10時、先生が寝ようとしたその時、不意に聞こえて来た女の人の叫び声と窓ガラスにうつる炎に、先生の家にいた皆が燃える校舎に駆けつけました。その後,近所の方々や消防や警察の方々にも助けられ、ピアノや机いすなど出してもらったそうですが、あとはすべて焼けてしまいました。焼けた校舎は、以前、戦争で焼けた後に一年前、苦労してようやく建った新しい校舎でした。その校舎が再び今度は不審火による火事で失われてしまったのです。翌朝何も知らずに登校してきた生徒達はショックで泣いたりしていたそうですが、先生は、火事以後、祈られた夜を過ごし、朝には、凛として焼け跡に立ち、礼拝で詩編121篇を全員で読み301番を歌い、目には見えない神様への信仰を語り、火事によって一人のけが人も出なかったことに感謝の祈りを捧げたとのことでした。
ここに、121篇「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから」を確信して、自分に与えられた重荷を担って前に進む信仰者の姿を見ます。
この伝道所にも礼拝を知らせるチャイムを求めていたところ、幸いにも、女子学院の鵜﨑院長のご紹介で、女子学院チャイムと同じ音源を使用する許可をいただきました。このチャイムを聴きながら、私達はこれから何が起ころうとも、ゆるぎない神様への信頼をもって歩み続けていきましょう。