8月19日の説教要旨 「内側を見る神様、外側を見る人間」 平賀真理子牧師

詩編4:3-6 ルカ福音書20:45-21:6

 はじめに

私達の主イエス様は、神の都エルサレムに入られてから、反対派の人々に論争を挑まれました。しかし、仕掛けた反対派の人々が、神様の知恵をお持ちのイエス様に完璧に負けてしまったという出来事が起こったのです。イエス様は「神様の知恵」によって、反対派が全く反論できない答えを示されました。その機会に、反対派の人々がその態度を悔い改め、イエス様を受け入れる機会を御自ら与えようとなさったと思えます。しかし、彼らは悔い改めずに、イエス様を亡き者にしようという決意を益々固めていきました。エルサレムの有力者達が頑な心のままで御自分を救い主として受け入れないなら、近い将来、大切な神殿が崩れるという裁きを受けるとイエス様は預言されました(21:6)。

 

 信仰深いと外側に装っている「律法学者達」

その前に、神様の御前に、間違った態度で信仰している律法学者と、神様に喜ばれる信仰を持つ人である「やもめ」を、イエス様が続けて示して教えてくださったように、ルカ福音書は記しています。

まずは、民衆を前に、イエス様はお弟子さん達に、律法学者の間違った態度を指摘して、彼らに気を付けるようにおっしゃいました。有力者の中でも「神様の御言葉」に最も詳しいはずの「律法学者達」は、その御言葉にではなく、周りの人間に自分が尊敬に値する人物だと見られることに最大の関心があることが、その行動からわかるからです。地位が高いことを示す長い衣を着て歩き回ったり、礼拝が行われる会堂でも、日常生活の中の宴席でも上座に座って偉い立場にあることを世間に示したがるのです。更に、イエス様が最も許せなかったのは、夫に先立たれた寡婦、社会的弱者の象徴として考えられていた「やもめ」から、宗教的・法律的アドバイス料、または祈祷料を名目に多額の謝礼を要求する律法学者が結構居たことです。神様の御言葉を知っている律法学者がこんな態度を取ることは、イエス様にとって許しがたいことでした。彼らの行動は、神様の御心とは全く真逆です。神様の御言葉を通して、御心を当然知っているはずの律法学者達が、それに従わないならば、必ずあると言われる「裁き」の時に、知らない人よりも罪が重いとされ、厳しい裁きを受けると言われたのです。律法学者の間違いを指摘なさるのは、御自分の死後、弟子達が、当時の律法学者のように、指導者になることを見越しておられたからでしょう。御自分の弟子達は、偽物の信仰者であってはならないというイエス様の思いがにじみ出ています。

 

生活費を全部神様に献げた「やもめ」

イエス様は、律法学者にいつも搾取されている「やもめ」達の内の一人で、エルサレム神殿での献金において、立派な信仰を示した女性をご覧になり、その信仰をとても喜ばれたことが2番目の段落に書かれています。レプトン銅貨2枚とは、現在で言えば、約100円~200円です。

当時の献金システムでは、献金者は名前と金額とその主旨を係の人に告げ、係の人が復唱していたようです。近くの人々に丸聞こえです。金額だけ聞けば、お金持ちの人々はもっと多くを献金できたことでしょう。しかし、イエス様は、金額ではなく、献金者の心の内側をご覧になると示されています。生活費の余りを献金するのではなく、生活費全部を最初に献金するほど、この「やもめ」は神様へ全幅の信頼を寄せています。主は、外側に示される金額ではなく、生活費に対する割合の切実さを、心の内側にある信仰に比例するものとして重要視なさっています。

 

「神の神殿」の内側にあるべきもの 

続く段落(21章5-6節)でも、人間が外側だけを重視することが明らかになっています。ユダヤ人が大事にしているエルサレム神殿で、人々が見ているのは、建物に使われた石と、奉納物による飾りです。神殿において、神様への信仰という内側ではなく、建物に現れた外側を人間は見ています。本当は、エルサレム神殿の内側には「イエス様を救い主とする信仰」が立てられるべきなのに、人間は外側に現れた形の美しさや数の多さを見ています。神様と罪深い人間とは、価値観が正反対です。新約時代においては、私達信仰者が「神の神殿」です。教会でも自分一人であっても外側を飾るのではなく、その内側に主に対する信仰が立てられているかを吟味し続けられよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。

8月5日の説教要旨 「『ぶどう園と農夫』のたとえ」 平賀真理子牧師

詩編80:15-20 ルカ福音書20:9-19

はじめに

私達の主イエス様の、この世での最後の一週間の出来事を読んでいます。神の都エルサレムでの出来事です。この都に居た権力者達は、イエス様に対し、反感を持っていました。彼らは、政治と宗教の両方に対して、最高権力を持つ「最高法院」の議員達です。具体的には、「祭司長や律法学者達や長老達」などです(以下、「反対派」と記す)。彼らは、イエス様に対する民衆の支持をなくそうとして、イエス様に論争を吹きかけ、失言させようと画策していったのです。

 

救い主(イエス様)と神の民(イスラエル民族)についての預言 

反対派が仕掛けた論争の最初の論争が、今日の箇所の直前の段落にある「権威についての問答」です。その論争の後に、イエス様は民衆の前で「ぶどう園と農夫」のたとえを語られました。反対派の人々もそこに居ました。彼らの多くは宗教指導者でもあり、旧約聖書の中の有名な「ぶどう園」のたとえを思い出したはずです。イザヤ書5章1-7節に記された預言です。この話の「ぶどう」とはイスラエル民族のたとえであり、このぶどうを植えたのが「わたし(ここでは「神様」)の愛する者」と書かれています。そして、結局、この「ぶどう」は良い実を実らせず、酸っぱい実しかならなかったと表現されています。神様の愛する者である御子イエス様が一生懸命宣教したにもかかわらず、イスラエル民族は「信仰の実」を実らせられなかったと、ずっと昔に預言されていたのです。イエス様は、御自分を認めないことを画策していた反対派に、御自分や御自分に託された神様の御心を悟ってくれることを願っておられたのだろうと思われます。

 

「僕」(預言者)は排除され、「愛する息子」(御子イエス様)は殺される

今回のたとえ話では、ぶどう園の持ち主の「僕」が3人出てきます。これは、イエス様以前の「預言者」達のたとえです。この話の中で「僕」は持ち主から派遣されていたにもかかわらず、そこで働く農夫達は、「僕」を追い出しています。「農夫」とたとえられたのが、ユダヤ社会の指導者達であり、かつて預言者達を排除する愚行、つまり、神様の御言葉や御心を拒否する不信仰を繰り返してきた姿をたとえています。イエス様は、反対派の人々に過去の失敗例を思い出させようとなさり、悔い改めない限り、「愛する息子が殺された」ように、彼らが御自分を殺すことになると御存じだったと思われます。その過ちの結果、イスラエル民族は、都エルサレムを滅ぼされ、国土を持たない「離散の民」とされることがイエス様には見えていて、その悲惨な将来を避けるために、イスラエル民族の指導者達に、悔い改めて、御自分を受け入れてほしいと切に願っておられたのだと思います。

 

「隅の親石」

「ぶどう園と農夫」の話に続いて、イエス様は「隅の親石」のたとえもお話しになりました。「隅の親石」は「家を建てる者の捨てた石」とも言われています。エルサレム神殿を中心とした「ユダヤ教の信仰共同体」を立てる役割のユダヤ教指導者達が「家を建てる者」とたとえられ、その人達が「捨てた石」とは、反対派が排除しようとするイエス様をたとえています。人間が不要と判断したものを、神様は重要として立てられるとされています(神様と罪の人間とは価値観が逆です)。そして、この「石」(イエス様)の威力に、人間は一たまりもなく、この「隅の親石」に反対する者は「死」しかないと言われています。ここで言われる「死」とは、医学的な死ではなく、神様から隔絶されること、神様と何の関係もないものとされるという宗教的意味の死です。これが、聖書で問題視される「死」です。

 

イエス様による「新しい救い」を受け入れることのできる恵み

反対派は、2つのたとえ話が自分達へ語られていると理解しながらも結局、受け入れず、悔い改めませんでした。更に、彼らは、神様を第一に畏れるべきなのに、それよりも人間を恐れました。これも「罪」の姿です。この「罪」も背負い、イエス様は十字架にかかられました。救い主の死が人間の罪を贖うとされるのが「新しい救い」です。反対派をはじめ、人間は、自分の力だけでは罪から解放されないのですが、神様の助けを受ける恵みを得て、イエス様を救い主と受け入れる人々は確実に増やされています。その証しとして、私達信仰者は立てられてもいるのです!

7月22日の説教要旨 「神の御言葉、とこしえに」 野村 信 先生(東北学院大学)

イザヤ書40:6-8 ヨハネ福音書1:14

 はじめに

本日は、皆さんと一緒に、聖書の御言葉を味わいたいと思います。イザヤ書40章6節-8節に集中して、お話をしていきたいと思います。

 

 「草は枯れ、花はしぼむ」→この世の「栄枯盛衰」を表す

砂漠は温度が高い所ですから、朝に草が生えても夕方には焼けて干からびてしまいます。しかし、ここで、イザヤは植物のことを言いたいのではありません。栄えていたものもいずれは衰えます。企業も団体も国もそうです。これは万物の法則と言えるでしょう。栄枯盛衰はこの世界の定めです。この世界に全く変わらずにいつまでもあり続けるものがあれば、それは頼りがいがあるに違いありません。

 

 この世に、本当の意味で頼りがいがあるものがあるのか?

この世で頼りがいのあるものは何でしょうか?答えとして、今も昔も「お金」だったり、「幸福」とか「愛」とか「家庭」とか「健康」等があげられるでしょう。しかし、死にゆく時はすべて捨てていかなければなりません。この世で完全なものはありません。

 

 「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」

今日の旧約聖書の御言葉「神の言葉はとこしえに立つ」は、旧約聖書全般を通しての教えです。いつまでも神の言葉はなくならない、存続すると言っています。それはそれでわかりますが、何か頼りないと私達は感じます。言葉は、言いっぱなしで人をその気にさせますが、私達は手で触れて確かめることのできるものを信頼したいと思ってしまいます。

 

 人間が発するのではなく、神様からいただいた「預言」

このイザヤの預言は約2500年前になされましたが、この時代に頼りになったのは、多くの兵隊や軍隊、大きな要塞、豊かな食料や宝石などだと考えられた時代です。そんな時代に「神の言葉がとこしえに立つ」と宣言した教えは、この時代では、異様なことでした。これは人間には言えないことで、神様が預言者イザヤや民に教えてくださった大切な御言葉だと心に留めたいと思います。

 

 イスラエル民族の歴史を振り返って

イスラエルの民の国家であるイスラエル王国は、ダビデ王やソロモン王の時、大変栄えました。しかし、その王国もやがて北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂しました。そして、北王国はアッシリアに滅ぼされ、南王国だけになりました。それもまた、紀元前586年に、バビロニア帝国に滅ぼされました。南王国の王様と貴族は、バビロニアの都バビロンに連行されました。イスラエルの民にとってつらいことは、国を失っただけでなく、「神から見捨てられた」ことで、大変に絶望しました。アブラハムの時代から、神様にお前達は特別だと言われていた民にとって、ショックだったことでしょう。その時こそ、預言者達が活躍し、彼らは、イスラエルの神様に従わなかったことで不幸がもたらされたと言いました。こういう中で、イスラエル民族は、旧約聖書を巻物として整え、今まで気づかなかったことに気づいていくようになります。

 

 奴隷に自分達の神々の像を拝ませたバビロニア帝国

さて、バビロニアは、征服した敵国の人々を奴隷にして、都バビロンで繁栄しました。そのバビロニア帝国は、年2回のお祭りをして、バビロンの神殿(高さ90m)で、奴隷達をバビロンの神々の巨大な像の前で跪かせて拝ませました。イスラエル民族は神の像を刻まない民なのは幸いだったと言えるでしょう。ところが、約50年後にバビロニア帝国は東から興ったペルシャ帝国に滅ぼされ、イスラエルの民は晴れて故郷に帰れるようになりましたが、故郷は廃墟と化し、復興の苦労が続きました。

 

 バビロンにあった、巨大な神々の像の末路

バビロンから解放される時、イスラエル民族は凄いものを見ました。それまで拝まれていたバビロンの神々の巨大な像を撤去せよということで、家畜を使って、多くの巨大な像が丸太の上を砂漠に向かって転がされ、砂漠の果ての死の世界にまで運ばれる様子です。彼らはこの時、「草は枯れ、花はしぼむ」ことが身に染みてわかったのです。この世の物、地上の物は土くれのように失われると教えられたのです。

 

 「神の言葉を心に刻め」

イザヤ書46章1節以降にそのことが表現されています。ここで言われる「ベル」は「マルドゥーク」というバビロンの最高神の別称ですし、「ネボ」はその息子と言われています。その巨大な神々の像が横たえられて、家畜によって運ばれ、重荷となり、沈んでいく、滅んでいく…。

ここに、繁栄したバビロニア帝国が滅びた様、神々を祭った人々の滅びが描かれています。地上のものを神と祭ってはならないとイスラエルの民は悟ったのです。砂漠で神の像を刻んだ宗教は全部滅びました。十戒にあるように「あなたがたはいかなる像でもって神を刻んではならない」のであり、「神の言葉を心に刻め」と「神の民」は言われていたのです。この戒めを守って生きていくことこそ、神の民に相応しいのです。これがイザヤ書40章になり、それが新約聖書に受け継がれました。

 

 旧約聖書を受け継いだヨハネ福音書:「神の言葉が肉となった」

ヨハネによる福音書1章14節には、「神の言葉」が肉となり、私達の間に宿られた、それが、イエス・キリストであるとあります。そのことをヨハネは感動の思いで記しています。民が長い間待ち望んだ神の言葉が、人間となったことが素晴らしいのです!

「イエス・キリストは偶像じゃないのですか」と問う人がいます。しかし、初期の教会の人々は、イエス・キリストを像に刻まず、偶像化しませんでした。その言葉や教えを心に刻みました。その御言葉を大事にすることを使徒パウロは「信仰」と呼び、ガラテヤ書4章で「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、産みの苦しみをする」という内容を記しました。この「形」は言葉です。この言葉を信仰として心に刻み、愛に満ちて生きていくように言われています。このように、イザヤ40章8節は未来に向けて語られた言葉であり、これがイエス・キリストに集約して、預言が完成して、新約聖書に記されています。

 

 福音書の疑問:主イエスが言葉を発するだけで実現するのはなぜ?

主が言葉が発するだけで、なぜ事実が伴うかという問いが生まれます。癒しにおいて、イエスが「清くなれ」と言うと相手は即刻癒されました。中風の人に床を担いで歩きなさいと言うとその通りになりました。

修辞学者でもあったアウグスティヌスは、言葉は何かを指し示すために使うものであると言っており、だから「言葉が肉を取り、イエスにおいて、言葉と現実が一つになったのだ」と言ってやまないのです。

一つの例として、主イエスが、ナインで一人息子を亡くした母親を見て憐れに思い、その息子に甦(よみがえ)るように言われて、そのとおりに生き返った出来事がありました。イエスの御言葉が素晴らしいだけでなく、現実にその通りになりました!人々は旧約の預言が、現実に肉となってイエス・キリストになったことに感動しているのです。旧約で教えられた「神の言葉」が、私達の中に現れたのが、イエス・キリストです。

 

 今や、「神の言葉」は主イエスの中に現れている!

 「言葉」とは出来事の葉っぱです。旧約聖書の時代では、神の言葉を頭につけたり、衣の裾に書き入れたりしていたのですが、今や、新約時代になりますと、イエス・キリストの中に神の言葉は凝縮されて現れたのです!人々は、この御方を心に受け入れて、生活を始めたのです。

 

 ヨハネ福音書における「主イエスの御言葉」

「真理はあなたがたを自由にする」(8:32)とは、何かの奴隷になっている私達を、真理(キリスト御自身)が解き放ってくださっていると言えます。また、「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)の御言葉も挙げたいと思います。主は、私達人間に、何かをしなさいとはおっしゃっていません。わたし(主イエス)自身が道であり、真理であり、命であるから、わたしの上を通っていけ」とおっしゃっいました。その他にも、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(15:5)という御言葉もあります。人はその御言葉につながり、そのまま聞いて心に留めるべきであり、イエス御自身が貴い「神の言葉」です。また、死んだラザロも、主イエスに出て来なさいと言われて、甦りました!(11章)主イエス御自身も、3日目の復活を預言し、現実になりました。私達は新しい目や新しい心をもって、聖書を読むべきです。

 

 聖書の読み方

今日の旧約聖書箇所のイザヤの預言が、主イエスに具体的に示されていることが新約聖書に現れており、その恵みに私達は預かっています。私達はそのように受け止めて聖書を読んでいきたいと願います。

7月15日の説教要旨 「祈りの家」 平賀真理子牧師

イザヤ書56:1-8 ルカ福音書19:45-48

 はじめに

イエス様がついに神の都エルサレムに入っていく、いわゆる「エルサレム入城」直後になさったことは、エルサレム神殿に入られたことでした。この神殿は、イスラエルの民にとって大変重要な場所で、イエス様が最初にここに入られたことは、本当の「救い主」として御自分を公けにする証しとなるはずでした。

「救い主」についてのイスラエルの民とイエス様との認識の相違

「主なる神様」は人類の救いの起点として、イスラエルの民を選び、導いてこらました。それは、出エジプトの出来事やバビロン捕囚後の帰還許可の出来事として、歴史の上でも顕著に現れました。イスラエルの民は、あのダビデ王やソロモン王の時に繁栄したイスラエル王国のような国が建てられることが「救い」だと思い込み、「救い主」は国を建てる政治的力のある御方であると期待したのです。ところが、イエス様は、「救い主」の使命は、人間を「主なる神様」を第一として生きるように変えることだと御存じでした。そのために、「神の国の福音」を告げ知らせ、人々を神様へと目を向けさせたのでした。また、「神の国」の先取りとして「神様の御力」が人間に及ぶとどうなるかを知らせるために、癒しなどの奇跡を行ってこられたのでした。「救い主」は、決して政治的権力を求めて働くものではないことを示しておられました。

 

イエス様が「父の家」で見たこと=祭司長達の罪深さ

イエス様は12歳の頃、エルサレム神殿を「自分の父の家」とおっしゃったことがあります(ルカ2:49)。この神殿に祭られている「主なる神様」が送ってくださった「救い主」が「父の家」に帰還した時、それまでに管理を任されていたはずの「祭司長達」は、本来なすべき「主なる神様への祈り」ではなく、この世で権力を持つ金銭を儲ける「商売」に心を奪われ、第一のこととして考えていたのでした。彼らは、神殿税を徴収する時に手数料を必要以上にたくさん要求しましたし、また、罪を肩代わりさせるための犠牲の動物を、神殿内の祭司長一族の経営する店で高値で買わせるように仕向けて暴利をむさぼっていました。神様の名を利用して、自己の利益を図った上に、それを悪いとも思わない、なんと罪深いのでしょう。イエス様は、これは、父なる神様の御心とは全く逆だと、「主なる神様」の独り子として、明確に示す必要がありました。優しいイメージのあるイエス様も、このような不義を見過ごすことはなさいません。

 

「古い救い」から「新しい救い」へ

イエス様がエルサレム神殿で商売人達を激しく追い出されたことは、教会では「宮清め」という呼び名で有名です。祭司長達と、また、彼らと結託した商売人達の不義を明らかにして悔い改めさせるという目的以外に、もう一つ、この「宮清め」には大きな意味があります。それは、イエス様が「古い救い」を終わらせ、「新しい救いの到来」を公けにすることです。神殿を託されていた祭司長達は、結局は罪深さから解放されませんでした。そんな彼らが、民の罪を清めることなどできませんでした。神殿で祭司長が罪人の肩代わりの動物を犠牲にするという「古い救い」は、人間の罪によって実現できませんでした。そこで、罪のない「神の御子」であるイエス様の大いなる命の犠牲によって罪が赦されて神の民とされるという「新しい救い」がイエス様の救いの御業によって、実現されることになったのです。イエス様の十字架が「自分の罪の贖いである」と信じるだけで、何の功績のない私達、後の時代の信仰者までも、救いの恵みをいただけるとは、本当に感謝なことです!

 

今や、私達一人一人が「祈りの家」

私達は、自分の罪の赦しの源である「主の十字架」での受難を想起し、礼拝において、この呼び集められた礼拝堂で、感謝の祈りを より一層熱心に献げる群れとなりたいものです。聖日の礼拝だけでなく、日頃の生活でも、感謝の祈りをもっともっと献げるようになりたいものです。Ⅰコリント書3:16には「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」とあります。「新しい救い」では「私達一人一人が祈りの家」なのです!そこに不義が入り込んでいたら、聖霊によって追い出して清めていただき、救い主イエス様への感謝の祈りで満たすことができるよう、祈り求めましょう。

6月24日の説教要旨 「失われたものを捜して救う主」 平賀真理子牧師

エゼキエル書34:11-16 ルカ福音書19:1-10

はじめに

十字架にかかる地エルサレムに向かうイエス様御一行の旅も終わりに近づいてきました。今日の新約聖書箇所にある出来事は、エリコという町で起こったこととして、教会では有名な話であり、教会学校でも「ザアカイさんのお話」として度々お伝えしています。

 

イエス様見たさに木に登ることを思いつくザアカイ

イエス様が自分達の町を通り過ぎるということで、エリコの人々はイエス様の周りにひしめき合います。その噂を聞きつけた「徴税人の頭」であるザアカイもイエス様を見たいと思ったのでしょう。けれども、背の低いザアカイは、その周りに人々がいるために、その思いが叶わないことを予想しました。そこで、良いアイデアが浮かびました。木に登れば、人々に取り囲まれているイエス様を、上から見られると気づき、いちじく桑の木に登ったのです。

 

 ユダヤの民衆に除外されていた「徴税人の頭ザアカイ」

 ザアカイの仕事である「徴税人」とは、神の民ユダヤ人から、異邦人の国ローマ帝国への税金を徴収する仕事をする人々のことでした。同胞を痛めつけて異邦人の利益のために働く仕事をしていたのです。しかも、それだけではありません。徴税人の多くは、ローマ帝国から指示された金額に上乗せした金額をユダヤ人から徴収し、その上乗せした額を自分の懐に納めていました。「私腹を肥やす」という不正を行う人々だったのです(十戒の「むさぼってはならない」という掟を破っています)。だから、神の民ユダヤ民族が「神の前に正しく生きるように指導している」(つもりの)ファリサイ派の人々にとって、徴税人という人々は「汚れた罪人」の最たる者達でした。だから、その教えを受けているユダヤの民衆も「徴税人」を軽蔑しました。ザアカイは、徴税人の中でも「頭」だったのですから、一応は肩書や権力があるにも関わらず、だれかが道を譲ってあげるなど、あり得ませんでした。ファリサイ派やユダヤの民衆は、彼を排除すべき人物と見ていたのです。

 

 罪深いとされたザアカイの心の叫び

ザアカイは、イエス様を見てどうするつもりだったのでしょうか。表面的には、単に「イエス様を見たい」という思いだけだったのかもしれません。しかし、本当にそれだけだったのでしょうか。同胞を痛めつけて異邦人の利益のために働いている罪悪感、更には、社会からの疎外感、彼自身も気づいていなかった「心の叫び」が彼を突き動かしたのではないでしょうか。罪人だと言われている自分でも、イエス様との出会いによって、神様の恵みを感じられるのではないか、救われるのではないかという希望が頭をもたげてきたのではないでしょうか。

 

「急いで降りて来なさい」5節)

そんなザアカイの心の叫びを、イエス様は感じ取られたのでしょう。自分のアイデアで木に登っていたザアカイに対して、イエス様は、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(5節)と語りかけてくださいました。自分の思いつきで高みに登り、主を見下ろしているザアカイに、イエス様は急いで降りて来て、御自分の御前に立つようにお命じになりました。ザアカイはそれに従い、イエス様の御前に立ち、主を喜んで迎えることができました。私達も、日頃、自分で高みに登ろうとしているのではないでしょうか。イエス様は、急いで降りて来て、御自分の前にしっかり立つように求められます。

 

「失われたものを捜して救う主」(10)

更に、人々に罪人と呼ばれたザアカイも「『アブラハムの子』なのだから」救われたと明らかにされています。聖書で証しされた神様は、「アブラハム」という信仰深い人に、本人と子孫への祝福を約束なさいました。アブラハムの子孫であるユダヤの民は「神の民」なので、神様の祝福から漏れることはありません。ユダヤ人であるザアカイは、罪深さにより、聖い神様から一度見失われたにも関わらず、一度御自分の民と決めた者を神様は諦めずに、むしろ、捜して救おうと情熱を燃やす御方だと証しされています。実は、私達も新約時代の「神の民」と予め定められています。イエス様の「救いの御業」によって、罪の世から捜し出されて救われたのです!神様の恵みに感謝し、主の御前にしっかりと立ちましょう。

6月17日の説教要旨 「見えるようになれ」 平賀真理子牧師

詩編53:2-7 ルカ福音書18:38-43

はじめに

イエス様は、人々の罪を贖うという救い主の役割を果たす時が近づいたことを悟られ、宣教の本拠地だったガリラヤ地方から、十字架にかかる地エルサレムに向かって南下しておられました。エルサレムに近い町エリコの手前で、今日の新約聖書箇所の奇跡の出来事は起こりました。これは、イエス様の数多くの癒しの奇跡の最後の奇跡です。それが「目が見えない人がイエス様によって見えるようにされた」というものです。イエス様によって「見えない人が見えるようになった」わけですが、これは単に、肉体的な視力の回復だけを指しているのではありません。そのことを学んでいきましょう。

 

「ダビデの子」(38節、39)

一人の盲人が、多くの人々が近くを通り過ぎる物音や雰囲気を感じ取り、周りの人に「これはいったい何事ですか」と尋ねました。その答えは「ナザレのイエスのお通りだ」という言葉でした。ところが、この盲人は、イエス様への呼びかけとして、聞いたとおりの「ナザレのイエス」ではなく、「ダビデの子イエス」という言葉を使いました。「ダビデの子」の「ダビデ」は、イエス様の時よりも更に千年程前にイスラエル王国が最も栄えた時の王様です。ダビデ王は、主なる神様から愛され、強い敵国との戦いでも、主の助けをいただいて勝利し、その恵みを感謝する王様でした。また、ダビデ王の子孫から「救い主」が生まれるという預言があって、イスラエルの民は皆それを知っていました。だから、イエス様を「ダビデの子」と呼ぶことは「あなたこそ、救い主だと私は信じます」という信仰告白でもあったのです。

 

「わたしを憐れんでください」(38節、39)

続いて、この盲人は「わたしを憐れんでください」と懇願しました。これは「あなたの力でわたしを助けてください」という意味です。自分の苦境は、自分や人間の力では解決できないから、もう神様に頼る他ないと心から思っていたことを意味しています。そして、「先に行く人々」の静止も聞かず、更に激しく、イエス様の助けを求めました。

 

「見えるようになれ」(42)

必死で助けを求める人を、イエス様は決して無視する御方ではありません。御自分を「救い主」と信仰告白した盲人に対して、自分の願いを口で表明するように導き、その願いを叶えてくださいました!御自分を救い主として受け入れた人の気持ちに寄り添い、願いを実現してくださったのです。「見えるようになれ」という言葉は、まさしく、「救い主の憐れみ」の言葉であり、それが実現し、盲人は望みどおり、見えるようになりました!そして、本人も、周りにいた民衆も神様を賛美するようになりました(43節)!「見えるようになる」という奇跡は、視力の回復はもちろんですが、彼らが、神様の人間への愛、特に、御子イエス様を通しての救いの御業の偉大さを、霊の目で「見えるようになってほしい」という、神様の御心が明らかになった出来事と読み取れます。

 

「あなたの信仰があなたを救った」42節)

イエス様は、御自分の御力を自慢するために奇跡を行ったのではありません。神様の力がこの世に現れるとどのようになるかを人々に知らせるためでした。今回の奇跡でも、イエス様が憐れんでくださった結果、神様の御力によって、この盲人は癒されたのです。ところが、イエス様は御自分のおかげだと言うような御方ではありません。この盲人の信仰ゆえに救われたのだとの励ましの御言葉をかけてくださったのです。

 

 「神の救いが見えるようになれ」

それまで、この盲人は、その社会で大変に傷つけられてきたことでしょう。このように身体や体の機能が不十分な人々を本来配慮すべき宗教指導者達は、彼らが神様から罰を受けていると言い、自分達の社会から排除すべきだとしていたからです。その一方、イエス様は、救い主としての憐れみを求める声を聞くとすぐに、それに向き合い、憐れみ、望みを実現するべく働かれる御方です。私達は、このようなイエス様を救い主として信仰しています。この盲人だけでなく、私達の神様の助けを求める叫びを聞き、「神様の救い」が見えるように導いてくださる御方です。霊の目が開かれ、その恵みを感謝できるよう、祈り求めましょう。

5月13日の説教要旨 「キリストの昇天」 牧師  平賀真理子

イザヤ書45:1-7 ヨハネ福音書17:1-13

 はじめに

先週の木曜日は「主の昇天を記念する日」でした。復活の主が40日間弟子達に現れたと聖書にあります(使徒言行録1:3)。教会暦では今年のイースターは4月1日で、40日後の5月10日が昇天記念日でした。

 

十字架に向けての逮捕直前の「告別説教」とその後の「イエスの祈り」

今日の聖書の直前には、イエス様が十字架へ向けて逮捕される前の「告別説教」があります。ここで、イエス様は弟子達にたくさん語っておきたいことがある!でも、彼らにはなかなか伝わらないという状況だったことがわかります。しかも、弟子の一人が、反対派をイエス様の所へ導いて来る時が迫り、その他の弟子達は不穏な雰囲気を感じ取って不安になっています。そこで、イエス様は、告別説教の内容については、御自分の昇天の後で、天の父なる神様がお遣わしになる「聖霊」が弟子達を悟らせると預言なさいました。(イエス様の死後、その通りでした!)

告別説教の後に、イエス様は「天の父なる神様」に向かって祈りを献げました。その祈りを、今、私達は聖書で知ることができています。これこそ、奇跡です!前述の通り、弟子達は、イエス様の遺言と言える「告別説教」をその瞬間には理解していたとは思えません。後に、聖霊をいただくようになって、「告別説教」と、その直後の「イエスの祈り」の意味を悟ることができるようになり、こうして、後の時代の信仰者のために、大事な御言葉を残したと言えるでしょう。これこそ、イエス様が約束なさった「聖霊」が弟子達に降った証しの一つです。人間の知識や判断を越えた「神様の働き」が起こった、つまり、弟子達に降った「聖霊」が、彼らを通して働いたのです。

 

父なる神様の栄光を何よりも尊重する

イエス様は、今日の箇所の「祈り」において、まず、父なる神様の栄光のために、御自分に栄光を与えてくださいと祈られました。イエス様の生涯は、天の父なる神様を第一の御方とすることで貫かれています。それがここにも表れています。何よりも「自分の栄光」を求めてしまうような罪深い私達人間と、イエス様は全く違う御方なのです。

 

「永遠の命」

この「イエスの祈り」の前半で、「永遠の命」について、イエス様が、はっきり言及なさっていることに驚かされます。3節「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなた(父なる神)と、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」とおっしゃいました!

 

父なる神様と御子イエス様を「深く知る」

3節で、もう一つ注目したいことは、「知る」という単語です。元々の言葉(ギリシア語)では「内面まで深く知ること、または知るようになること」という意味があります。「単に知識として表面的に知っている」ということではありません。その点、イエス様の直弟子さん達はうらやましい限りです。イエス様と寝食を共にしていたのですから、イエス様がどういうお人柄か、「深く知る」ことができたわけです。けれども、後代の信仰者の私達も、イエス様を「深く知る」ことができます。一つは「聖書」によってです。イエス様がどのような御方なのかを深く知るために福音書が読めます!もう一つは「聖霊」によってです。父なる神様と御子イエス様の御心を行う聖霊は、イエス様を深く知りたい、その御心に従いたいと願う信仰者を助けてくださいます。「聖霊の助け」を祈り求めていくのに限界はありません。救い主イエス様の昇天後=イエス様が神様として天におられる今、私達は「聖霊の助け」を賜り、時空を超えて、イエス様を「深く知る」ことに励むことができるのです!

 

 弟子達(まだ見ぬ弟子達=「私達」をも含む!)への愛

この「祈り」で、イエス様は弟子達を父なる神様から与えられた人々であり、父なる神様から御自分に託された御言葉を守った人々であると言って喜び、今度は彼らを御自分の喜び=本当の喜びで満たしたいという愛で溢れておられると感じます。更に、20節「彼らの言葉によってわたしを信じる人々のために」と祈ってくださいました。まさしく私達のために、もっと言えば、私達一人一人が神様に背いていた時からずっと、イエス様は既に私達のために、父なる神様に執り成しの祈りをしてくださっていたのです!その大きな深い愛に心から感謝するものです!

4月15日の説教要旨 「まことの羊飼い」 牧師  平賀真理子

エゼキエル書34:7-16 ヨハネ福音書10:7-18

 

はじめに

今日の新約聖書の箇所は、キリスト教会では有名な箇所の一つで、イエス様が御自分が良い羊飼いであると証しされています。それも重要ですが、読み返すと、それ以外にも大変重要なことが語られていることがわかりました。そのことをお伝えしたいと思います。

 

前の9章を受け、「羊の囲い」(16)の例えを理解する

10章から読み始めると、いきなり「羊の囲い」の話が始まり、この1-6節の段落の話を受けて、今日の箇所の7節からは「羊の門」や「羊飼い」という言葉に続きます。イエス様は、「羊の囲い」に入る時に「門」を通らないでほかの所を乗り越えて来る者を、「盗人」や「強盗」とおっしゃいました。が、これは例えです。「盗人」「強盗」とは、その前の9章に書かれている「ファリサイ派の人々」を例えたものです。

9章では、生まれつき目の見えない人をイエス様が癒して見えるようになさった出来事を通し、ファリサイ派の人々が、その明白な事実を、頑なに否定しようとする様子が記されています。彼らは、イエス様の癒しの御業が神様からの御力をいただいた結果だと認めるのは、イエス様が神様が遣わされた御方だと認めることになると知っていました。だから、癒された本人が「あの方は神のもとから来られた(9:33)」と証ししているにも関わらず、ファリサイ派の人々は、証言者の人格否定をして(9:34)、この証しも否定しました。ファリサイ派はユダヤ教指導者として、ユダヤの民衆(羊と例えられる)を導く使命を神様から与えられているはずなのに、彼らは、民衆を慰めたり導いたりすることに留意せず、弱い立場の人を助けずに無視し、民衆からは利益や尊敬を搾取することだけを主眼にしていたのです。それは、当時の宗教指導者だけの過ちではなく、昔から「牧者」と例えられる宗教指導者が犯してきた罪の姿だと、今日の旧約聖書の箇所からもわかります。ファリサイ派の人々は、民衆を神様に導くはずなのに、自分の方へ導こうとしていました。その姿は、「本当の救い」をもたらすためにこの世に来られたイエス様から見れば、「盗人」「強盗」と同じだったのです。「羊の囲い」とは本当の神様から全権委任されたイエス様の「救いの枠」、または「神の国」とも言えるでしょう。

 

「羊の門」を入った羊(人々)が「良い羊飼い」(イエス様)に導かれる

イエス様は御自分のことを「羊の門」であり、「良い羊飼い」であるとの2種類の言葉で御自分を再び゙例えようとなさいました。「羊の門」とは、具体的には、イエス様を救い主として受け入れることで、神様の救いを受ける基準を満たすことを表しています。「わたしを通って入る者は救われる(9節)」とあるとおりです。また、正しい門から入った羊だけが、牧草を見つけて豊かに生きるとは、イエス様の本当の救いに与る者だけが、神様から永遠の命をいただけることを意味しています。更に、イエス様は、御自分を表現なさるのに「羊の門」という「基準」を表す、旧約的な例えだけでは足りないと思われたのか、「羊飼い」という例えも重ねられました。これは、羊を所有する羊飼いなら、羊の命が危険な時は、自らが自分の命を懸けて羊を守る姿を例えたもので、「良い羊飼い」とはイエス様が、神様から救うべき人々を託され、命を懸けて愛する御姿の例えです。(一方、雇われ羊飼いは、責任を持っていないので、羊の命よりも自分の命を優先すると言われています。ファリサイ派の人々の例えです。)

 

十字架と復活の告知がここにも!

「良い羊飼い」の箇所で、今回の発見の最大のものは、17-18節に「主の十字架と復活」が告知されているということです。イエス様が御自分の命を、再び受けるために、捨てること、それ故に父なる神様がイエス様を愛してくださり、再び命を受けることが、主の御言葉として述べられていて、「十字架と復活」の別の表現がなされていると改めて認識しました。新約聖書の大事な使信がここにもあると驚かされ、感動しました。

 

「囲い」に入っていない ほかの羊も導かなければならない(16節)

最後に、16節から、イエス様が救いたいと願う人々がユダヤ人だけでなく、全世界にいるのだとわかります。主の熱意を受け継いで、私達一人一人が福音伝道に励むようにとの、イエス様からのメッセージが送られています!そのために主によって用いられたいと祈り求めましょう。

4月8日の説教要旨 「見ずして信ずる者は幸福(さいわい)いなり」 佐藤 義子

詩編145:1b-9,17-21 ヨハネ福音書20:19-29

はじめに

イエス様が復活した! 死人がよみがえった!   教会が知らせる、この素晴らしいニュースは、人知を超える出来事ですから、普通の感覚であれば、あり得ないこと、信じ難いこととして受け止められます。それゆえ、イエス様が十字架というむごい死刑で死なれたこと、しかも死で終らずに三日目に復活されたことが、伝道を困難にしていると考えて、もしも宣教内容を、イエス様の「十字架の死と復活」を背後にまわして、前面には「神の愛、キリストの愛、隣人愛」だけを大きな声で語り続けていくならば、教会は教会でなくなってしまうでしょう。キリスト教は確かに、私達人間が正しく生きる生き方を指し示していますが、その大中心にあるのはイエス・キリストの十字架の死と三日後の復活の出来事(その根源には神の愛・キリストの愛がある)であり、これこそキリスト教がキリスト教として立ち続けている土台です。

 

家の戸に鍵をかけていた弟子達

今日の聖書には、イエス様の十字架に伴うご受難と死と埋葬の出来事(18-19章)に続く、三日目に起こった復活の出来事が記されています。20章前半には、マグダラのマリアが復活されたイエス様と最初に会い、弟子達に、イエス様とお会いしたことと受けた伝言を伝えたことが記されており、今日の箇所は、同じ日の夕方、復活されたイエス様がトマスを除く弟子達の集まっている所に来て下さったこと、後半には、その八日後、再びイエス様が、今度はトマスもイエス様とお会いした出来事が記されています。 今日読んだ最初の19節には、弟子達がユダヤ人を恐れて家に鍵をかけていたとあります。弟子達は、今まで主と仰ぎ、先生と慕ってついてきたイエス様を失い、大きな失意と悲しみの中にいただけではなく、神を冒涜したとして処刑された犯罪者イエスの弟子・仲間であるとの理由で、イエス様を憎んでいたユダヤ人達から、いつ襲われるかもしれないという不安の中に、身をひそめて過ごしていたことでしょう。

 

シャローム(あなた方に平和があるように)

そこへ突然、復活されたイエス様が来られ、真ん中に立たれて「シャローム」と挨拶されました。復活体のイエス様は空間と自然を支配されておられます。「シャローム(あなたがたに平和があるように)」の平和とは、人間の全領域にわたっての、神様のご意志に基づいた真の望ましい状態をさす言葉です。イエス様は、この挨拶のあと,ご自分から十字架の釘あとが残る手と、兵士の一人が やりでわき腹を刺したその傷跡を弟子達にお見せになりました。それによって弟子達は、今目の前に立たれているイエス様が、三日前に死んで葬られた自分達の先生であるイエス様だと確認して、「弟子たちは喜んだ」(20節)とある通り、それまで部屋に満ちていた、おそらく暗い絶望的な空気を吹き飛ばすかのように大きな喜びが弟子達の間に満ち溢れたことでしょう。イエス様は再び「シャローム」と言われました。弟子達が、神様の御心に沿う望ましい状態の中で生きていくことを強く願われていたことを思わされます。そしてイエス様は、弟子達に大きな使命と権限を与えていかれました。

 

大きな使命と権限

大きな使命とは、イエス様が生前、父なる神様から派遣されて宣教してきたように、今度はイエス様から弟子達に派遣命令が出されたのです。弟子達は、これまでイエス様と共に宣教活動を行ってきましたが、その宣教をこれからも中断することなく引き継ぐことを命じられました。

そしてもう一つなされたことは、この宣教活動に不可欠な「聖霊」を、弟子達に与えられたことです。この聖霊が与えられたことによって、弟子達には「罪の赦し」と「罪の留保」(罪が赦されないまま残る)という、二つの権限が委託されたのでありました。

 

教会へ引き継がれる

ここで大切なことは、復活のイエス様が弟子集団に与えた大きな使命と権限が、この時以後、ペンテコステの出来事を経て、教会へと引き継がれ、私達の仙台南伝道所も又、一つの教会としてイエス様の派遣命令を受けて立ち、宣教の使命を果たすべく日々歩んでいるという事実です。

そして、聖霊の導きのもとに行われるバプテスマ式、すなわち「イエス様の十字架の死によって、自分の罪が贖われ、赦されたことを信じる」信仰告白に基づいて行われるバプテスマ式を通して、今も、すべての教会は、委託された罪の赦しの権限を正しく行使することが求められています。

 

復活のイエス様にお会いできなかったトマス

24-25節には、不在の為、復活のイエス様に会うことが出来なかったトマスと他の弟子達との会話が記されています。弟子達はイエス様とお会い出来た喜びの中で、仲間のトマスに、口々にイエス様のことを、興奮と感動をもって伝えたことでしょう。しかしトマスはこの嬉しい大ニュースを聞いて一緒に喜ぶことは出来ず、こう言います。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。

 

トマスの不信

トマスは、なぜ信じられなかったのか、と私達はトマスを批判することは許されないでしょう。と申しますのは、20章の最初には、マグダラのマリアからお墓が空になっていることを知らされたペテロと、もう一人の弟子が、お墓まで走って確かめに行くことが記されていますが、二人は、中にあった遺体がなくなっていることを確認したものの、イエス様の復活と結びつけることは出来ないまま帰宅しています。その行動に対して聖書は、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」(9節)と説明しています。又、ルカ福音書24章36節以下には、復活されたイエス様が弟子達の所に来られた時、弟子達は、「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」と記されています。 さらに、その前には、エマオへの途上で、二人の弟子が途中からイエス様と同行する出来事が記されていますが、二人とも食事をするまでイエス様のことが分からなかったことが記されています。さらに又、マルコ福音書に出てくる女性達についても以下のように記されています。「若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。(中略)さあ、行って、弟子達とペトロに告げなさい。『あの方は、あなた方より先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(16:6-)

 

不信のトマスにイエス様は・・

トマスは八日間、不信の中で苦しんだことでしょう。彼は自分の前にイエス様ご自身の姿が現れて、自分に満足を与えて下さることに固執していました。ただ見るだけでなく、その姿が亡霊でないことを確かめるために、自分の手を使って直接その部分に触れることを望んだのです。再会されたイエス様は、トマスに「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい」と、トマスが望んでいたことをするように許可されました。トマスは自分の願い通り、確認したのでしょうか? 聖書はそう書いていません。トマスは(おそらくそのお姿に圧倒されて)何も言えず、口から出た言葉は、ただ、「私の主、わたしの神よ」との信仰告白でした。これは最も古い信仰告白の言葉とされています。私達も又、イエス様にこの告白の言葉を捧げた時、私達は新しく造り変えられていくのです。

 

「見ずして信ずる者は幸福(さいわい)いなり」

イエス様はトマスに「見たから信じたのか」と、トマスの不信仰と、かたくなな心を おとがめになっています。そしてこのあと、「見ないのに信じる人は幸いである」と言われました。聖書に登場する弟子達や婦人達の姿の中に、私達は、私達の中にも入り込もうとする不信や、かたくなさや、自己主張や、弱さを見ます。にもかかわらず、イエス様は、すべてをご存じの上で、私達を赦し、聖霊を与えて下さり、教会を通して伝道へと派遣されておられます。イエス様から送られてくる聖霊の導きの下で、見ないで信じる幸いな多くのクリスチャンが、2000年以上たった今も尚、生れ続けており、私達の伝道所でも10人の方々が見ないで信じる幸いな人として加えられました。何と素晴らしい大きな恵みでしょうか。最後に、第一ペテロの手紙1:8-9(p.428)を読みます。

あなた方は、キリストを見たことがないのに愛し、今、見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れています。それは、あなたがたが信仰の実りとして、魂の救いを受けているからです。

4月1日の説教要旨 「キリストの復活」 牧師  平賀真理子

イザヤ書41:10-17 マルコ福音書16:1-8

はじめに

本日はイースターです。「主の復活」を共に祝えることを、心から感謝いたします。本日は、最初に書かれたと言われている「マルコによる福音書」の中で「主の復活」の証言を読んでいきたいと存じます。

 

マルコによる福音書の本編の最後

今日の新約聖書箇所マルコ福音書16章1節―8節の後に、聖書では「結び」として9節以降の記述がありますが、専門家の研究によって、後の時代の人々の付加だとされています。従って、今日の箇所が、マルコ福音書の本編の最終部分です。そして、この箇所を詳細に読むと、復活の主には、従ってきた者の誰もが、未だ出会っていないとわかります。証言の内容は、十字架上で亡くなったイエス様の御遺体を納めたはずの墓が空っぽだったこと、天使によって「主の復活」が宣言されたこと、そして、それを聞いた女性達が恐ろしいと思ったことです。

 

主の御遺体に香油を塗って差し上げたいと行動した女性達

イエス様が十字架にかかって息を引き取られたのは、過ぎ越し祭の週の金曜日の午後3時でした(マルコ15:34-37)。ユダヤ教では安息日は土曜日で、具体的には、金曜日の日没から土曜日の日没までです。安息日は労働することが禁じられたので、イエス様が亡くなった日の午後3時から夕方までの2時間程度しか、作業する時間がなかったことが想像できます。主の御遺体を十字架から降ろして運んで、横穴式の墓に納めるだけで精一杯の時間だったと思えます。主を信じ従ってきた女性達が香油を塗って差し上げたいと思っても実行不可能だったでしょう。安息日は土曜日の日没に終わりますが、当時のランプの弱い明かりでは、お墓の中での作業は難しいことから、彼女達は、香油を塗る準備を整え、日曜日の日の出を待ち、主のお墓に来たのでしょう。主の十字架を前に逃げた男性の弟子達とは違い、従ってきた女性達の中では、主への敬意を示そうと行動できた者達がいたのです。

 

人間の心配を先んじて取り除いてくださる神様

お墓へ来た女性達の道中での心配は、お墓の入り口にある大きな石を動かす力のある人を見つけねばならないだろうということでした。ところが、これはもう、事前に神様が取り除いてくださっていました。彼女達の望みは、主は死んだままではおられずに復活するという神様の御計画と一致していたため、神様が人間より先に働いてくださったのです。*天使の言葉「預言どおりにイエス様は復活なさった」

彼女達にとっての次の望みは、お墓の中の御遺体に香油を塗ることでしたが、それは叶えられませんでした。なぜなら、その御遺体自体が存在していなかったからです。そこにいたのは、白い長い衣を来た若者でした。これが「復活の主」かと思いきや、この人は天使です。原語では白く輝く上衣という意味があって、これは「天使」を暗に示しています。天使は、彼女達が探しているイエス様は復活なさり、死人のいる墓にはおられず、復活してガリラヤに行かれたので、そこでお目にかかれると弟子達に伝えなさいと告げました。それはイエス様の生前の預言「わたしは復活した後、弟子達より先にガリラヤへ行く」(14:28)の実現でした。(事前に言われた預言が実現することが神様であることの証拠です!)

 

十字架を乗り越えた女性達も「主の復活」の真実を前に圧倒された!

天使から言葉をかけられた女性達は「震え上がり、正気を失って、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(8節)と証言され、ここで、この福音書は終わりです!最初に書かれた大事な福音書が、こんな表現で終わるのかと私は長年疑問でした。しかし、東日本大震災を経験し、7年たって落ち着いた今だから言えることがあります。自分の想定を超える圧倒な出来事について、あの時、本当に恐ろしかった、その思いをすぐには表現できず、平静を装っていたと。次元は違うかもしれませんが、自分の想定を超えた、神様が働かれた圧倒的な出来事に対し、人間はまず恐ろしくて、しかも、誰にも言えないと心を閉ざす反応をするのだと今ならわかります。「恐ろしかった」で終わるのは、この出来事が絵空事でなく、彼女達が本当に体験した事実だという裏付けです。「キリストの復活」は本当に起こりました!人間を圧倒する神様主導の出来事「主の復活」により、後代の私達信仰者も恵みを賜り、救われているのです。