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■住所 宮城県仙台市太白区山田船渡前17-4(旧教会地より約300m先に移転)Tel/Fax:022-243-6710

仙台南伝道所 礼拝説教集

伝道所開設10周年記念の礼拝説教集ができました。ご希望の方は牧師までご連絡ください。

「神の聖者」 平賀真理子牧師

/n5月3日の説教要旨 詩編37:12-24・ルカ4:31-37 /nはじめに  今日の聖書箇所の直前で、私たちの主イエス様を「メシア」としてではなく、 同郷人としか見ることのできなかった「心の狭さ」と自分達の利益を最優先にする「罪」によって、 ナザレの町は、宣教の拠点となるべき使命を果たすことができなかったわけです。 /n同じガリラヤ地方の「カファルナウム」で受け入れられる  ナザレからガリラヤ湖へ東に約20km離れたところに「カファルナウム」という町があります。 ルカ福音書4章14~15節や23節後半から推測すると、恐らく、このカファルナウムで宣教活動を始められた イエス様の評判が良くて、ナザレに招かれたと考えられます。 しかし、最終的に受け入れられずに、イエス様はカファルナウムに戻られたようです。 「ナザレ人イエス」と呼ばれた主によって、ナザレは有名ですが、実はカファルナウムの方が「神の国の福音」の宣教活動の拠点となった町であり、信仰者としては、より一層重要な町として覚えるべきだと言えるでしょう。 /nイエス様の御前にやってきた悪霊  ユダヤ教の礼拝所である「会堂」でイエス様が話をされている時に悪霊が、一人の男の体を用いて、 主の御前にやってきました。「霊」の話については、科学的思考に慣れた私達には、信じがたいと思われる方がおられるかもしれません。けれども、人間の居る所で、科学的に割り切ることのできないこと、「霊」の働きと思わざるを得ないことが、必ず存在します。昔だけでなく、現代にもあります。昨年、この仙台南伝道所で礼拝説教してくださった「ウェイド・マカーグ宣教師」の証しにも「霊」の働きにまつわる内容がありました。アメリカの先住民族の方々に伝道していく中で、ある時、「悪霊」を追い出し、「神の国の救い」を彼女や周りの人々に実際に示した出来事を語ってくださいました。この先生の伝道への熱意ある祈りが神様に聞かれ、イエス様が待っておられた悪霊を追い出すという神様の御業が現れたと思われます。  さて、今日の聖書箇所に戻ると、本来イエス様から遠ざかったままでいるべき「悪霊」がイエス様の御前に来ました。「荒れ野の誘惑」(ルカ4:1~12)でイエス様が「悪霊」に打ち勝ったことは「霊」の世界では知れ渡っていたのでしょう。「悪霊」とは「デーモン」と呼ばれていて、「悪魔(サタン)」の手下と考えられていました。「悪」の側の者達は「悪」を装っていますが、彼らこそ「善」の素晴らしさがわかり、心の底では憧れているのです。「自己中心」や神様に背くという間違った方向性を悔い改めれば、彼らも救われます。けれども、極限まで追い詰められないと、彼らは「善」への方向転換をする勇気を持てずに悪の状態に甘んじるのです。「悪霊」は「かまわないでくれ」と言いましたが、実は裏返しの表現で、心の底では「かまってくれ」、「救ってくれ」と言っているのです。 /n「かまわないでくれ」=「あなたとわたし、何の関係もない」  「かまわないでくれ」という言葉は、原語で直訳すると、「あなたとわたし、何の関係がありますか?ありません」となります。この言葉は、イエス様が故郷ナザレで話された「預言者エリヤとサレプタ地方のやもめ」の話の中に出てくる言葉です。(ルカ4:26)息子の死で絶望したやもめがエリヤに投げかける言葉です。しかし、エリヤは死んだ息子を生き返らせ、彼女に神の救いの偉大さを知らせました。ユダヤ人達は、絶望した者の叫びである「神様との関係断絶」のこの言葉を聞くと、神様の偉大な力を実現したエリヤを思い出し、イエス様がエリヤの力を受け継ぐ御方だとわかり、その後、奇跡が起こることを予感したのです。 /n「神の聖者」  イエス様の救い主として偉大な勝利と権能をいち早く知った「悪霊」が、イエス様に使った称号が「神の聖者」です。「聖」とは、神様に属する者として取り分けられるという意味があります。後に、イエス様の一番弟子ペトロがイエス様を証しするときに、この称号で呼びました。(ヨハネ6:69・使徒3:14) 「悪」なるものが「善」なる者より先に「救い主」を察知する例です。「神の聖者」であるイエス様は、この後、悪霊に、黙って、男から出るように率直に指示し、御言葉が実現しました。イエス様を「神の聖者」だと知りながら、主にへりくだって従う方に変わらなかった悪霊は、主の御前に留まれませんでした。イエス様は御自分の前で悔い改め、信じて従う者を探し出し、「神の国」の拠点とされます。

説教要旨   「主にのみ仕える」   牧師 佐藤 義子

/n 申命記6:13-19 /n ルカ福音書4:1-13           /n はじめに  今日の聖書は、イエス様の荒れ野の誘惑の出来事です。この出来事は、イエス様が成長されて、神様から神の御子としての働きへと召し出す声を聞かれ、ヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた直後のことでした。神の御子としての働きを始めるそのスタートを切る直前に、イエス様は、神様によって荒れ野に導かれ、悪魔の誘惑を受けられました。悪魔の原語の意味は「悪しき告発者」です。悪魔の力は私達の罪の上に立ち、私達を滅ぼすために私達の罪を大きく明瞭にします。そして、私達の悪を探し出し、告発し、人間と神とを分離・敵対させるのが仕事です。荒れ野での誘惑も、イエス様と神様との深い交わりを絶つことが目的でした。 /n 荒れ野の誘惑の意味 イエス様の、神の御子としての働きとは、すべての人を神様のもとに立ち帰らせること、すべての人が悔い改めを通して罪の赦しが与えられ、神の国の民とされること、すべての人がイエス様を神の御子と信じイエス様に従うことです。この目的のために、イエス様はこれからどのような方法・仕方でご自分を人々の前に現わされようとしているのか。神様は、御子イエス様が、その使命を果たされるにあたり、その姿勢と覚悟を、この世の闇の支配者である悪魔の前で明確になさるために、荒野へ導かれたように思います。2節には、イエス様が40日間、何も食べずに空腹を覚えられたとあります。40日の断食後の空腹感は、私達の想像を絶するものであったでしょう。肉体を持つ人間の極限状況の中で、悪魔はイエス様を、三度にわたって、自分の支配下に置こうと誘惑を試みるのです。 /n「石をパンに変えよ」 空腹のイエス様に、悪魔は「あなたが神の子ならば、石をパンに変えよ」と誘惑した目的は、自分の命を保つためならば、神の子に与えられている奇跡を行う力を使っても何の問題もないだろうというわけです。拡大解釈するならば、石を(人間の命を基本的に支える)パンに変える奇跡を行うなら、イエス様が人々にご自分を神の子と信じさせる目的は、成功するだろうとの誘惑があります。(ヨハネ6:26参照)。イエス様はこの誘惑に対して、申命記8章3節「<span class="deco" style="font-weight:bold;">人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる</span>」と答えられました。神様を信頼して生きる者は、生命維持のために自分の力でパンを獲得するのではなく、養って下さる神様から必要なものを受け取ること、又、命を支える手段はパンだけではない。神様が「光あれ」と言われて光があったように、神様が「生きよ」と言って下さるなら、私達には生きる道が備えられるということです。大切なことは、私達の肉体への配慮ではなく、私達の魂が神様に向かい、神様からの言葉と神様の命をいただくことです。 /n「もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」  第二の誘惑は、「全世界の国々のすべての権力と繁栄を与える」です。イエス様がこれから人々に伝道していく時、何か手段となるような地位も栄誉も権力も富も何もありません。それに対して悪魔はそれらすべてを持ち、多くの人々はそれを得ようと必死です。そこで悪魔は、もしもイエス様が「神様」にではなく「悪魔」にひれ伏すなら、それらすべてを与えると誘いました。悪魔は、この世における悪魔の支配をイエス様に承認させようとしたのです。この誘惑に対し、イエス様は申命記6章13節「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕える</span>」の御言葉で退けました。ここに「神様への無条件の信頼」と「神様への完全な服従」があります。 /n「神殿の屋根から飛び降りてみよ」  第三の誘惑は、悪魔が聖書の言葉「どこにおいても、天使が助ける」(詩編91:11-12)をもって、イエス様に「神の子」証明をさせることでした。しかしイエス様は、ご自身が神の子であることを証明するために神様が天使を遣わされることを良しとされませんでした。神殿から飛び降りることは神様の御命令ではありません。御命令でなければ何もしない。ただ神様に服従して導きを待つ。イエス様は、申命記6章16節「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなた達の神、主を試してはならない</span>」で答えられました。こうしてイエス様は、私達信仰者にも、悪魔の誘惑に勝利する道を明らかに示されたのです。神様に対するゆるぎない信頼と完全な服従、生も死もすべては神様の御手の中にあるゆえ、神様に自分の全存在を委ねる道です。

「死に至るまで従順に生きる。」  牧師 佐藤 義子

/nイザヤ書53:1-5 /nフィリピ2:5-11   /nはじめに  今日は、「しゅろの聖日(主日)」です。今日から受難節の、最後の一週間が始まります。イエス様がエルサレムの町にロバの子に乗って入城された時期、ユダヤでは「過越しの祭り」(ユダヤ教の三大祭の一つ)のため、大勢の人々がエルサレムに集まっていました。イエス様が来られると聞き、群衆が「しゅろの枝を手にとり、町の門まで出迎えに集まり、口々に「ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように」と叫び続けたことがヨハネ福音書に記されています。(新共同訳:なつめやしの枝)。マタイ福音書では、「大勢の群衆が自分の服を道に敷き、又ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行くものも、後に従う者も叫んだ。『ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。』」と記しています。(「ホサナ」は、元来、神様に向かっての叫びで『救いたまえ』という意味がありますが、時代と共に変化し、この時、「栄光あれ」という意味でつかわれたようです。) /n受難週 エルサレム入城後、イエス様はユダヤ教の指導者達から遣わされた人々によって捕えられ、ユダヤの最高議会で裁かれて死刑が宣告され、更に、ローマ帝国からの許可をとるためユダヤ総督ピラトのもとに送られ、死刑が確定し、わずか6日後の金曜日に十字架刑で殺されました。 今日から始まる受難週を、特に、イエス様のご生涯に深く心を向けて、過ごしたいと思います。私達は、受難週に入ったことを知らされても日常の忙しさに追われると、つい忘れがちです。イエス様のご受難を覚える為の、自分に合った「時の過ごし方」を持てたら良いと思います。(余談ですが、私の父は受難週には朝食をとりませんでした。断食は、旧約聖書では悲しみを表す他、特に懺悔の気持の表われとしてなされ、イエス様の時代も行われておりました)。 /nイエス様とは誰で、何をされたお方か。 今朝のフィリピ書には、私達が信じるイエス様はどういうお方であるかが述べられています。6節に、「神の身分でありながら」とありますから、イエス様は神です!7節に、「自分を無にして、人間と同じ者になられた」とあります。神が、私達と同じになる・・!私達と同じように罪の支配下にご自分の身を置いて生きられたということです。それは不自由な生活を意味します。肉体を持てば、肉体が求める本能との戦いを余儀なくされます。事実、イエス様は断食後「空腹を覚えられた」とあり、サマリヤの女に出会ったのは「<span class="deco" style="font-weight:bold;">旅に疲れて座っておられた</span>」時でしたし、十字架上では「<span class="deco" style="font-weight:bold;">渇く</span>」と言われました。刑に伴う鞭打ちや一連の残虐行為を受けられた苦痛は、私達の経験をはるかに越えるものです。 /n「へりくだって」 神の御子が神の身分を捨てて、私達と変わらない人間となられたことは、それだけで「へりくだり」の生涯ですが、さらにご自分を高い地位に置くことをせず、徹底してご自分を低くされました。一般社会の人々よりもさらに低く、公の生涯に入られてからは、ひたすら神の国の福音伝道への旅を休むことなく続けられました。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところもない</span>。」(マタイ8:20) /n死に至るまで従順に生きる。  イエス様は、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">十字架の死に至るまで従順でした</span>」(8節)。イエス様は、神様から強いられてではなく(「神であることに固執しようとは思わず」6節)、ご自身の御意志によって、最後まで神様に従い通されました。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなた方は、私達の主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなた方のために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるため</span>」でありました。(?コリ8:9)。神様は、私達人間を愛するがゆえに、私達を罪の支配から神様の支配へと救い出すことを願われ、イエス様は、この御心を知り、私達に代わって、その聖い(きよい)血を流されて罪をつぐなって下さったので、私達は神様から罪を赦していただけました。この大きな愛と犠牲により、今の私達があります。神様は、従順に生きられたイエス様を、三日目に復活させ、天に高く上げられ、全世界に君臨する「主」として立てられました。私達は、声高らかに『イエス・キリストは主である』と告白し、神様をたたえます。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">世に勝つ者は誰か。イエスを神の子と信じる者ではないか</span>。」

「葬られた救い主」  牧師 平賀真理子

/nイザヤ5:8-16 /nマルコ15:42-47      /nはじめに 今日の新約聖書箇所では,私達の主イエス・キリストの遺体の埋葬の様子が詳しく証しされています。十字架の少し前のイエス様逮捕の時から、ぺトロを初めとする「弟子達」は逃げ去りました。彼らとは違った人物として、アリマタヤのヨセフの働きが新たに記されています。  4つの福音書の記述を拾い上げてみると、次のことが分かります。アリマタヤのヨセフは、ユダヤ社会で有力な議員であったにもかかわらず、イエス様に対する信仰を持っていたこと、しかし、主の生前は周りの人々を恐れてその信仰を公に出来ずにいたこと、一方、十字架と主の死を経験した後では、主のご遺体を引き取られるように自ら積極的に動き出し、「救い主」として相応しく遺体を取り扱い、新しい墓に埋葬したことです。 /nアリマタヤのヨセフの働きと神様の御計らい  有力議員ということは、地位に伴い、多くのお金も持っていることになります。そのような者は、多くの場合は思い上がっており、それをひたすら自分のために用いるために、神様からの祝福がないのです。しかし、この時、アリマタヤのヨセフは、富も地位も自分のためでなく、主の埋葬のため、ひいては、敬愛する主の尊厳のために使ったのです。  信仰告白を公にしないことに対して、先に信仰告白した者達は裁きの思いを抱くことがあります。しかし、神様は、未だ信仰告白していない、このヨセフを、主の埋葬という大事な働きに用いられました。主に愛された弟子達が本来するべきだった大事な役目を、このヨセフが果たしたのです。 /n主の十字架刑でも希望を失わなかったヨセフ   弟子達が主の十字架刑が現実のものとなった時に絶望してしまったにもかかわらず、アリマタヤのヨセフは「神の国を待ち望む」希望を捨てませんでした。このことも神様は受け取られたのでしょう。主は、至らないところを裁く方ではなく、僅かばかりの良いところを探して拾い上げてくださり、ご計画に用いてくださる方であるとの思いを強くします。 /nピラトと百人隊長 イエス様の埋葬を巡って、十字架刑の判決をしたローマ帝国総督のピラトと、部下の百人隊長が再び登場します。ピラトは最後までイエス様の不思議さに捉われながら、神の御子と認めませんでした。一方の百人隊長は、イエス様を「神の子」と既に信仰告白している人物です。神様の前に、人間界での上下関係など意味がないことが暗示されています。 /nマグダラのマリアとヨセの母マリア  主の十字架上での壮絶な死と埋葬を見守り続けたのは、主に従ってきた女性達でした。彼女達はユダヤ社会の律法では、希望を持つことができない者達でした。しかし、主の福音に照らされると、女性であるいう条件は、何の障害にもならなくなりました。主を信じ従い続けようとしているかどうかだけが、救いの条件となり、彼女達は、次なる希望「主の復活」の証人にされてゆくのです。 /n人間の肉体をとって世に来られたイエス様 主の埋葬には様々な人物が関わりましたが、最も思い起こすべき御方は、私達の救い主イエス・キリストです。イエス様は、神の御子でありながら、へりくだって人間として歩まれたことに感謝したいと存じます。ご誕生の時も旅先の家畜小屋の飼葉桶に寝かされる惨めな状況でしたし、宣教活動中も多くの困難に苦しめられましたし、最後は十字架で死刑になって亡骸を人間に晒して葬ってもらい、その後に暗い墓に入るという悲惨なものでした。しかし、イエス様が人間の肉体を持って過ごされて本当に悲惨な経験をされたが故に、同じように肉体を持ってこの世に生きている私達人間の本当の「救い主」の役目を全うされるようになったのです。主の十字架と、その先の復活こそ、私達の希望です。

「主に依り頼み、強くなりなさい」  牧師 佐藤義子

/nエレミヤ書2:1-13 /nエフェソ書6:10-20   /nはじめに 私達は、世界をつくり、私達に命を与え、私達を日々生かして下さっている神様から毎週の礼拝に招かれてここにいます。本来私達はこのような恵みにあずかることの出来ない者たちです。なぜなら私達は自分を見ればわかるように、神様の愛・神様の正義・神様の聖(きよ)さに程遠いからです。そのような私達を、神様に近づけてくださったのがイエス様です。 /n十字架による「罪の赦し」と「神様との和解」 神様と私達を遠く隔てていた「私達人間の罪」を赦し、断絶していた神様と私達人間との交わりを回復する為に、神様は、御子イエス様を私達に遣わして下さいました。イエス様は全人類の罪を背負い、私達が負わねばならない罪の結果としての罰を引き受け、十字架で血を流されました。それによって私達には神様との和解が与えられ、神様を賛美し、祈り、神様の御言葉を聞き、神様と親しく交わる恵みの時が与えられていることは、本当に幸せなことです。今や信じる者は誰でも、「罪が支配するこの世界」から引き上げられ、「神様の支配する世界」に移されています。 /n罪が支配するこの世 今、私は「罪が支配するこの世界」と申しました。毎日流れてくるニュースには、「何でこのようなことが」と思える事件・事故が次々と起こり、犯罪・戦争・憎しみや恨みから生まれる暴力や殺人などが横行しています。本来助け合うべき家族の中にも亀裂が生じ、子供達は傷つき、社会も愛が不足し、さらには良いこと正しいことが社会に受け入れられない現実も多く存在し、教会も又、社会から攻撃を受けてきました。このような世界を動かしている力を、聖書は、「支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊」と呼んでいます。つまり私達が住んでいるこの世界には、目に見えない力が働いており、私達人間を支配しているのです。そして人間は、知らず知らずの内に闇の力に引き込まれて生きています。神様に従って生きていく私達は、攻撃してくる相手に対して、相手だけに目をとめるのではなく、その人達を背後で動かしている闇の支配者の存在を意識しなければなりません。しかし敵は強く、戦う武具がなければ私達は簡単に負けてしまい、敵側の捕虜となり、イエス様の十字架で流された血は全く空しくなってしまいます。 /n戦うための武具 そこで今日の聖書は、やみの支配者と戦う武具を、神様は私達のために用意して下さっていることを教えています。ここには<span class="deco" style="font-weight:bold;">、『真理』『正義』『平和の福音』」『信仰』『救い』『霊すなわち神の言葉』</span>が挙げられています。真理も正義も、人間が理論的に捉えることは出来ません。神様が定められ、神様が人間にあらわされるもので、信仰者の性質ではなくて、信仰者がそれにつかまることのできる「標識」であり、神様の武具です。履物を履いて相手に向かう目的は、「平和の福音を告げる」ことです。又、敵から飛んでくる火のついた矢を消し去るのが「信仰」、攻撃用の剣に譬えられるのが「聖霊」です。今日の聖書では、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい</span>」とありました。聖霊が降る時、それは神の言葉(聖書の御言葉)となって私達を突き動かすということでしょう。 /n「どのような時にも、霊に助けられて祈り」 今日の後半では、「どのような時にも」祈ること、すべての信仰者の為に、絶えず目を覚まして根気よく祈るように命じています。更に、手紙の差出人パウロが、適切な言葉で福音の神秘を大胆に示すことが出来るように祈って欲しいと頼んでいます。信仰の戦いは祈りなくしては継続困難です。闇の支配者が私達の信仰を打ち落そうとあの手この手で攻撃をしかけてくるからです。先ずは礼拝生活を大切にしましょう。そして、日々御言葉を読み、御言葉を蓄え、自分の為、同じ信仰者の為、そして福音宣教の担い手の為に祈り、神様への信頼が揺るぎのないものとして確立し、神様の偉大な力によって強くされていきましょう。

「救い主の死(1)」牧師 平賀真理子

/n詩編22:1-24 /nマルコ福音書15:33-38     /nはじめに  今年の受難節(レント)は3月5日の水曜日から始まりました。初日の水曜日は特別な日で、「灰の水曜日」”Ash Wednesday”と呼ばれています。聖書で「灰」は、懺悔や深い悲しみ・嘆きを表わします。「灰をかぶる」とは、心からの深い悔い改めの思いを抱いていることを表します。そして、灰をかぶって祈ることは、罪を自覚して(告白して)嘆き、悔い改めの祈りを献げることです。私達も同じように受難節の期間、主の十字架の苦難と死を思い起こし、主が命をかけて贖って下さった自分の罪を深く見つめ、悔い改めと祈りの時をいつもより多く持って過ごしたいと願っています。 /n全地は暗くなり(33節)  イエス様が十字架につけられたのが午前9時(15:25)で、今日の聖書には、その3時間後の正午、真昼間に真っ暗になるという天変地異が起こったことが記されています。これは天の父なる神様の御心が悲しみで暗くなったことを象徴的に表しているように私には思えます。命に溢れるはずの神様の世界が、人間の罪という暗闇を愛するサタン側の攻撃に襲われ、そこから人間を救い出すための「御子の苦しみ」を見ておられる父なる神様の悲しみです。 /nなぜわたしをお見捨てになったのですか 十字架上では、最期にイエス様の大きな叫びがありました。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか</span>」。 主がなぜこの言葉を言われたのか、本当の御心を知り尽くすことはできませんが、二つのことが推測されます。一つは、この御言葉が詩編22編の冒頭の言葉であることです。22編は、ダビデが敵に囲まれた苦しい状況を神様に訴えて助けを求める祈りで始まり、最後は、神様は絶対助けて下さるお方であり、自分のみならず世界中に、後々まで恵みの御業を広めて下さる、との賛美で終ります。イスラエル男子は幼い頃から詩編150編を全て暗記するように教育されていたとのことで、おそらく22編の冒頭を聞けば22編全体が想起されたことでしょう。イエス様はこの時、ご自分の思いを詩編22編に載せつつ、父なる神様への揺るぎない信頼と従順を表明されたと考えられます。もう一つ考えられることは、父なる神様が、御子イエス様を見捨てることを、涙をのんで実行されたということです。罪を犯されなかったイエス様が、罪を背負い罪多き罪人と同じになられました。罪とは神様に背くこと、神様から遠く離れること、神様に従わないことです。神様のいない世界に行くことを望むことです。それは神様の豊かな恵みを拒否して、神様から見捨てられることです。イエス様は、罪人の受けるべき十字架で身体的には瀕死の状態となり、精神的にも人々からの嘲りなどの屈辱の中で徹底的に痛めつけられて、神様から見捨てられた状況(人間として最も悲惨な状況)に置かれたのです。それでもイエス様は死に至るまで従順でした。 /n神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた この垂れ幕は、神様の臨在を象徴する「契約の箱」が置かれている「至聖所」と祭司達が奉仕する「聖所」の間を仕切るものです。年に1度だけ、大祭司が垂れ幕を通って至聖所に入ることを許され、動物のいけにえを捧げて、イスラエルの人々の罪の贖いをしていました。イエス様の十字架の死によって、この垂れ幕が真っ二つに裂けたということは、ヘブライ書にあるように「<span class="deco" style="font-weight:bold;">イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道を私達の為に開いて下さったのです</span>。」(10:20)。それまでの動物の犠牲による「あがない」が終り、イエス様の犠牲こそが、神様と人間を再び結びつける役割をするという神様の新たな救いの御業の始まりと見ることができます。  救い主イエス様の死という究極の悲しみは、神様から見捨てられるという絶望に陥ったように見えながら、実は、三日後の復活で、全く逆の、死への勝利となることを告げ知らされています。そして、主を信じる者なら誰でも救われて、神の国の民として招かれています。 受難節の期間、かつての罪を繰り返して再び闇の世界に戻ることがないように、聖霊の助けを祈り求めてまいりましょう。

「これほど大きな救い」   牧師 佐藤 義子

/nヨナ書1:1-2:1 /nヘブル書2:1-4     /nはじめに  ヨナは、神様からニネベの都に神様の言葉を伝えるように命じられますが命令に背き、ニネベの町とは逆のタルシシュ行きの船に乗ります。ところが途中、海は大荒れとなり船は沈没しそうになり、この災難は誰が引き起こしたのか全員くじをひくことになり、くじはヨナに当たります。ヨナは自分が神の命に背いて逃げて来たことを白状し、自分を海に放り込むようにと言い、乗組員達は躊躇(ちゅうちょ)しながらもヨナを海に投げこみます。すると海は静まり、人々は神様を畏れます。海に投げ出されたヨナは大きな魚に飲み込まれ、三日三晩、魚のお腹の中で生かされ、神様に、悔改めの祈りをささげます。そして、魚はヨナを陸地に吐き出します。 /n神様に従ったヨナ 神様は再びニネベ行きを命じ、ヨナは「直ちに」ニネベの町を巡り、命じられた通り語ります。それは「40日後に、ニネベの町は滅びる」でした。町の滅亡を伝える仕事は気が重かったことでしょう。しかも滅ぼされる理由は「彼らの悪」(1:2)の故です。罪を犯し、堕落した生活を送っている人々は、ヨナの言葉を聞く耳を持っていないかもしれませんし、「滅亡」を叫べば殺されるかもしれません。それでもヨナは叫び続けました。 ところがヨナの想像とは違い、ヨナの言葉を聞いた人々は断食して悔い改めていくのです。滅亡の預言は王様の耳にも入り、王様は、このことが起こらないように町中の人々に断食命令を出し、悔改めて悪の道から離れるように命じます。それをご覧になった神様は町の滅亡を思い直されます。 /nヨナの不満 ヨナは、神様が町の滅亡を思いとどまったことに対しては不服でした。義である神様が、悪に対して裁かれるのは当然であると考えていたからでしょう。それなのに神様は気持を変えられたのです。ヨナは神様に、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしにはこうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です</span>。」と訴えています。 /n救いの御計画 ヨナは暑い日差しに苦しめられます。そこで神様はヨナのために、とうごまの木を生えさせ日陰をつくりヨナを日差しから守りました(とうごまの茎の高さは4mにもなり、大きな葉っぱが交互に出て日陰を作る)。ヨナはとうごまの木をとても喜びますが、翌日、神様は虫に木を食い荒らさせ、木は枯れてしまいます。ヨナは再び暑さにぐったりとして「死んだ方がまし」と神様に訴えます。その時、神様の言葉がこのように臨みます。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、12万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。</span>」 /n「これほど大きな救い」 今日のヘブル書の3節に「これほど大きな救い」とあります。具体的には、終末における裁きの時、神様を信じて従った者達に約束されている「永遠の命」をさします。この救いは、イエス様から弟子達に、更に御言葉を聞いた全ての人々に、確かなものとして証しされています。 ですから、地上でどのような困難や迫害があっても、私達に与えられているこの「大きな救い」に対して、むとんちゃくでいてはならない。 もっとまじめに、もっと真剣に、神様に従って生活をしていくようにと警告しています。ニネベの人々や王様は自分達に滅びが待っていることを知らされた時、食べることも飲むこともせず、あら布をまといひたすら救われる為に祈り願い、悪の道を離れました。神様は私達に「大いなる救い」を与えて下さる為に独り子イエス様を下さいました。私達は「大きな救い」をいただいた者にふさわしく歩んでいきたいと願うものです。

「救い主の十字架」   牧師 平賀真理子

/n詩編22:17-31 /nマルコ福音書15:21-32     /nはじめに  今年の受難節は3月5日から4月19日でイースターは4月20日です。少し早いですが、主の十字架における苦難の御姿を学びたいと思います。 イエス様は、ローマのユダヤ総督ピラトの裁判を受け、判決後に鞭を打たれました。鞭は先の方に骨片や小石などがつけられ、それで打たれると気絶し、死にそうになったそうです。しかし十字架前に死なせてはならず、今日の聖書のように、十字架を別の人間に背負わせたようです(21節)。 /nキレネ人シモン たまたまそこを通りかかった人が「キレネ人シモン」でした(キレネは今の北アフリカ)。過越祭のためかその他の理由か、エルサレムに来た目的は知る由もありませんが、シモンは人間的な見方からすれば偶然、主の十字架を肩代わりして負う役目を与えられたのです。しかしこれは、おそらく父なる神様のご計画の一端を顕著に表すものと見ることができるように思います。本来、主の十字架を共に負うのは弟子達のはずでした。ところが弟子達はイエス様の逮捕に恐れをなし、「死なねばならないとしたら共に死にます」と誓ったにもかかわらず逃げ去ってしまいました。予定されていた者(弟子達)ではなく、全く備えのなかった者(キレネ人シモン)が神様の特別な恵みにより十字架を負う大変重要な役目を果たすことになりました。 /n「アレクサンドロ」と「ルフォス」の父  シモンは「アレクサンドロとルフォスとの父」と記されています(21節)。この二人の名前は、当時の教会の人々(A.D.70年頃)には知られていたのでしょう。シモンも二人の息子も異邦人伝道の初穂として、父なる神様に選ばれたのではないでしょうか。  思えば私達も、神様の一方的な恵みの内に、福音を信じる者として変えていただきました。最初は「神様の導き」を無理やりな感じで受け取られた方もいらっしゃるかも知れません。しかしその選びによって、私達は、「罪の世」から解放されて「自由」の恵みを受けたのです。 /n「ヴィア・ドロロ―サ」(苦難の道)  裁判の場所から処刑場のゴルゴタの丘までの道を「ヴィア・ドロロ―サ」と呼ばれています。巡礼者達が主の苦難を偲んで歩む道です。  ゴルゴタの丘では、イエス様は十字架にかけられる直前、慣例に従い、没薬をまぜた葡萄酒を飲ませられようとします(十字架の苦痛を和らげる鎮痛剤として)。しかしイエス様はお飲みにならず十字架につけられました。旧約聖書詩編22編にある「救い主が罪人に囲まれて、悲惨な目に遭う」ことが、イエス様の十字架で本当に起こった!預言が成就した!との聖書の証言が、24節の詩編引用聖句を通して私達にも伝わってきます。 /n主に寄り頼む者の勝利  詩編22編は、ダビデ王が敵に囲まれて絶体絶命の中、神様に助けを求め、その救いを信じ続けて本当に助けていただき、そのことによって、神様を賛美する気持がわき起ることをうたっています。敵に囲まれ悲痛な心情から救いを得て、最後は神様の救いが世界中、子子孫孫に広がることを預言し、その世界を賛美しています。この詩編が預言として示されていることは、現状がいかに悲惨で負けているような状態でも、「主」により頼む者の最後は、「主」による勝利、時空を越えた喜びの世界の到来の「希望」を持つことができるということを暗示しています。イエス様がゴルゴタで、人間界の刑罰による死を迎えようとも、その先には「神様側の絶対的な勝利の希望」があるのです。 /nイエス様の愛  今日の聖書では、救い主イエス様の愛が三つの形で表わされています。一つは、十字架の前を通りがかった人々から「他人は救ったのに、自分は救えない」とののしられながらも御自分の為にその御力を使うことはなかったことです。二つには、筆舌に尽くしがたい苦痛の中に置かれても神様からの「人間の罪を肩代わりする使命」の為に、「神の御子」の身分を捨ててへりくだって忍耐されたことです。三つには、苦しみを伴う役割を、薬などで誤魔化さず、正面から受けられたことです。このイエス様が、後に授けられた復活の勝利により私達を招いておられます。

 「神の知恵を知る道」   牧師 佐藤 義子

/n箴言1:7、2:1-12 /nコリント一 2:6-11    /nはじめに 使徒パウロは、熱心なユダヤ教徒であり、又、ファリサイ派の指導者として有名なガマリエルの門下生として厳しい教育を受けてきた人です。 「自分は律法に関しては非の打ちどころのない者であった」と自己紹介しているほどです。その彼が、イエス・キリストに出会い(天からの声を聞き)、キリスト教徒となり、さらにキリスト教の大伝道者となりました。では、パウロはそれ迄に身につけてきたユダヤ教の高い学歴と深い教養を、自分の武器の一つとして伝道で使おうとしたかといえば、答えはノーです。彼は、これらの知識はキリストのゆえに「損失」とみなすようになったと言っています(フィリピ書3:8)。今朝の聖書でも「この世の知恵」に関してイザヤ書29:14の、神様の言葉を引用します「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。</span>」(1:19)。 更に、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私の言葉も私の宣教も、知恵にあふれた言葉によらなかった</span>」(2:4)と述懐します。この世の知恵は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">滅びゆく支配者達の知恵</span>」(2:6)なのです。 /n宣教 では、伝道がこの世の知恵の言葉によらないとするならば、どうやって宣べ伝えるのでしょうか。今日の聖書で、パウロは、「“霊”に教えられた言葉」(13節)によって語り、神様が、世界の始まる前から定めておられた「隠されていた、神秘としての神の知恵」(7節)を語ると言っています。 そして人々が、人間の知恵によって信じるのではなく、神様の力によって信じるようになるために、自分がこれまで身につけてきた「この世の知恵の言葉」によらず、「“霊”と力の証明」によって伝道したことを告白しています。霊は、言葉以上のものです。なぜなら霊は、私達の命をその根底から揺り動かし、私達を神様に結びつけ、私達の中に愛を呼び起こすからです。そして御霊の働くところには力が伴なうのです。信仰が起こされるところには、必ず、“霊”と力が働いています。 人が神様に初めて向かう時、神様を知らなかったがゆえに犯してきた罪・・特に自分を神様の位置に置いて生きてきた罪・・を知らされ、心の中に悔改めが生まれます。その時、私達の内面の命の中に活動が起こり、その活動によって信仰は確かになり、私達の愛は強くされ、私達の神様への服従は完全なものとされていきます。これが霊と力です。 /n信仰者の目 神様の御業を見ることは、普通は隠されています。信仰を与えられた者だけが、ある事柄を見て、それを神様の恵みとして喜び、感謝して受けることが出来ます。信仰者の目は時代を超えて、神様の永遠の救いの御計画を見上げることが出来ます。「この世の知恵」と「神様の知恵」が完全に違っていることは、十字架に目を向ける時に明らかになります。  2000年前イエス様を十字架につけた人達は、イエス様を通して神様の栄光を見ることは出来ませんでした。なぜなら彼らは、イエス様をこの世の知恵で判断し、無力な者・有罪判決を受けた者とみなしたからです。イエス様を断罪した祭司や律法学者達は無知ではなく当時の人々が持ちうる知恵・知識を十分持っていました。彼らは神様を知っていたがゆえに、当時の律法にのっとって死刑を求刑しました。「人の目と心の思い」だけでは神様の知恵に到達し得ないことを先のイザヤ書は告げています。 /n<span class="deco" style="font-size:small;">神からの霊を受けた者が、神から恵みとして与えられたものを知る</span>  教会には神様の御業としての永遠の命の栄光が与えられており、その命は「キリストの体」を構成している私達(信仰者)の内面的命としっかり結びついています。この命は神様が愛する者たちに用意された命です。神様が召されるのは「この世の知恵で神様を理解している人々」ではなく、「神様を信じる者達」です。「イエス様は私の罪のために死なれた」と信じる信仰によって神様からの愛を受け取り、永遠の命の栄光が用意されている群れ(教会)の中に加えられました。そして目の前に起こる現実的な事柄の中に、力を伴なう“霊”の働きを見ることが出来、神様から恵みとして与えられたものを知るようになりました。神様は、今も常に働かれ、その愛は私達に日々降り注いでいます。日々起こる神様の御業を多く見ることが出来るように、今週も歩みたいと願うものです。