7月19日の説教要旨 「主は近くにおられる」 牧師 佐藤 義子

詩編97:7-12

フィリピ書4:2-7

 はじめに

パウロがフィリピの町での伝道を始めるにあたり、2節に登場するエボディアとシンティケの二人の婦人は、他の協力者達と共にパウロをよく助け、支えました。今、パウロは、信頼しているこの二人に向けて、「主において同じ思いを抱きなさい」と勧めます。教会は同じ信仰告白をする者の群れです。生まれも育ちも置かれている環境も、そして考え方や感じ方も違う者達が、信仰によって一つとされた群れです(エフェソ4:4「主は一人、信仰は一つ」)。パウロがこの勧めの言葉を語る背景に、二人の間あるいは、二人と教会の人達との間で、何らかの考えの違いが出てきたと思われます。しかし、教会の中で不協和音があっては、教会としてはなりたたなくなるのです。教会の一致への道は、「主において同じ思いを抱く」ことです。

 主において

「主において」とは、「主」を共通の基盤とする、「主」を根拠にすることです。クリスチャンは「主」に属する者であり、主に属する者は「主によって規定される」ことです。教会の最高責任者はイエス・キリストです。教会は、イエス・キリストが「かしら(頭)」であり、牧師をはじめとする信仰者は、頭であるイエス・キリストの体です。それぞれ神様から与えられている賜物に応じて教会の働きを担っています。教会活動の根本ルールは、何事も「主において」することです。イエス・キリストを見上げ、イエス・キリストに徹底的に服従する信仰に立つ、今与えられている恵みの中に立つ、教えられてきた福音の中に立つ、ことです。

 「主において常に喜びなさい」

4節でも「主において」常に喜ぶように命じます。「常に」とは、とても喜べないような状況の中でも喜びなさいということです。この喜びは、一回限りの喜びではなく、継続的に喜びの状態に「とどまり続ける喜び」です。それは、主イエス・キリストを根拠とした喜び、主イエス・キリストから湧き出てくる喜びであり、この世の喜びとは違う喜びです。このフィリピの教会に宛てた手紙は、パウロが投獄されて自由が奪われている中で書かれました。それでもパウロには喜びがあり希望がありました。パウロは、「主において常に喜こんで日々を生きていたのです。

「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」

「広い心」とは、あることに執着し、こだわり、しがみついたりせず、自由に行動できる心です。ファリサイ派や律法学者達のようにではなく、ご自分の権利を捨てて(神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執せず、かえって自分を無にして人間と同じ者になられたイエス様の生き方が示している「広い心」です。その土台となっているのは愛です。愛から出る行動は、あらゆる執着から私達を解き放ち、柔軟で寛容な考え方を生み出します。クリスチャンは、そのようなイエス様の似姿に近い者とされていく歩みへと招かれています。これはクリスチャンの特権です。

 「主はすぐ近くにおられます」

パウロは、この手紙の前半で、獄中で自分が世を去る可能性があることを考えており、後半では、終末と再臨の時への思いを強くしています。 今、世界を見る時、イエス様が預言された終末のしるし・・「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる」が現れているのを見ます。私達が地上を去る時、又、終末に思いを巡らす時、「主が近くにおられる」という信仰は、私達からこの世の一切の思い煩いを遠ざけ、私達をまことの祈りへと導きます。その祈りは「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明ける」祈りとなります。私達の人生には苦難がいつも伴います。しかし、神様は、神様を信じて従っていく者に、いつも目を注いで下さいます。どのような状況になろうとも、最善の道を備えて下さり、その恵みの体験を重ねるごとに、私達は感謝を込めて祈りと願いを捧げ続けることが出来るのです。すべての良きことは神様から来るのであり、神様の内に一切の希望と富があります。それゆえ私達は、何を計画し、何をしようとも、神様の御心にお委ねするのです。その時、「人知を超える神の平和が、私達の心と考えとをキリスト・イエスによって守る」のです。

今日の*花クラブ*

仙台南伝道所 *花クラブ*

 

ジャーマンカモミール

一年草、こぼれ種で増える。

花言葉)  逆強に負けない強さ•苦難に耐える・清楚・親交

科•属名)  キク科•マトリカリア(シカギク)属

今日の みことば(詩篇46:1)

《神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。

      苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。》

 

 

7月12日の説教要旨 「罪人を招く主」 牧師 平賀真理子

詩編25:6-14

ルカ福音書5:27-32

 はじめに

みもとにやって来た「中風の人」と運んできた仲間の信仰をご覧になったイエス様は、「罪の赦し」と「病いの癒し」をなさいました。そこでは、神様への賛美が起こりました。しかし、イエス様は御業を誇ることなく、福音を広める旅を続けるため、すぐ出発されました。

 徴税人「レビ」の召命=イエス様の方からの呼びかけ

イエス様は道中、心の中で救いを求めていたであろう人を見つけ、ご自分の方から「わたしに従いなさい」と声をかけられました。「レビ」という徴税人です。当時、税金を取り立てる「徴税人」は人々から嫌われ、軽蔑されていました。自分達と同じユダヤ人でありながら、自分達を支配しているローマ帝国やヘロデ王家(異邦人)のために大事なお金を税金として取り上げる仕事を「徴税人」がしていたからです。また、彼らの多くは、本来の税金よりも多くのお金を人々から徴収して、私腹を肥やしていました。異邦人と交際している「徴税人」は、神様に背いて生きていると軽蔑されていた「罪人(つみびと)」とされていました。しかし、「徴税人」にならざるを得なかった事情が彼らにあったかもしれません。また、そんな仕事を続けていくことは精神的・社会的に辛いことだったでしょう。絶望的な思いを抱いて、「レビ」は仕事場に座っていたのでしょう。イエス様は人間の心の中を見抜かれ、「救い」を求める人を決して見過さない御方です。憐れみをもって、レビを「本当の救い」に招いてくださいました。「中風の人」の場合と違い、今回は「救い」を求める人に、主の方から来てくださり、「本当の救い」に招いてくださったのです。

 主の招きにすぐに応えた「レビ」

イエス様の招きに応じて、28節に「彼(レビ)は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」とあります。すべてを捨てて主に従う姿は、主の弟子シモン・ペトロ達と全く同じです(5:11)。主の招きを受けた者は、すぐに従うべきだと伝えていると読み取れます。

 主のための宴会に同席した者と同席できなかった者

本当の救いという恵みをいただいた「レビ」は、盛大な宴会を催しました。イエス様に対する感謝を表すためだったと思われます。自分のために貯めていた財産を主のために使うと言う、180度の方向転換です。この恵みの席に同席したのは、「徴税人」や「罪人」です。一方、宗教的聖さを重んじるファリサイ派や律法学者達は、彼らと同席できませんでした。しかし、とても気になって、様子を外から遠巻きに見ていたのでしょう。そして、恐らく、弟子達が外に出てきた時にでも、自分達の疑問を投げかけたのではないでしょうか。「宗教的に汚れた人々と食事を共にするなんて、どういうつもりだ?」そんなことをすれば、聖い自分達も汚れて、神様の御前では「罪人」とされると彼らは考えたのです。

 罪人を招くために来た主

その質問にイエス様自らがお答えになりました。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく、病人である。」これは、次の32節の例えです。「わたしが来たのは、正しい人を招くためでなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」救い主としてのイエス様がこの世に来られた目的を、御自身で明らかになさいました。質問した反対派が自分達を「正しい」と考えているので、その考えに合わせて答えられました。「正しい、つまり宗教的に聖いと自負するあなた達には、救い主は必要ないですね。あなた達が汚れているとみている罪人こそ、救い主は必要ですね」と言われたのです。「罪人」と呼ばれた人々と共にいて、彼らに神の国を知らせることこそ「救い主」である御自分の使命だとおっしゃったのです。

 「罪人」とは?

「罪人」とは誰かを考え直す必要があります。社会の中で苦しんでいる人々を「ダメな人達だ」と裁くだけで助けようとしない反対派こそ、「罪人」の最たるものでしょう。ここで、「罪人」は2種類あると考えられます。神様の律法を守れない人と、律法を守らない人の事情を配慮せずに裁くだけで助けようとしない人です。新約時代の私達は、福音によって神様の御心を知らされています。自分自身を振り返ってみて、常に神様の御心に従っていると言えるでしょうか。神様の御心に従っていない人を見て裁くだけになっていないでしょうか。それでは「罪人」に逆戻りです。しかし、そんな「罪人」である私のためにイエス様は「悔い改めて神の国の民として生き直す」ように招いてくださっているのです。

仙台南伝道所*花クラブ*について

仙台南伝道所では、主による自然の恵みに感謝し、心の癒しが与えられるよう、有志による花クラブ活動をしています。
ここでは、伝道所に咲く花だけでなく季節の花々や花言葉を、みことばと共に紹介するコーナーにしたいと思います。
楽しみながら、みことばに触れていただければ嬉しく思います。

7月5日の説教要旨 「『人の子』の権威」 牧師 平賀真理子

ダニエル書7:13-14

ルカ福音書5:17-26

 はじめに

イエス様がなさった「神様についてのお話」と「病いの癒しの業」によって、その評判はガリラヤ・ユダヤ地方一帯に広まり、エルサレムにも届きました。前者は、今までのユダヤ教の先生方の話とはずいぶん違うことで評判になりましたし、後者は、病いが目の当たりに治るのですから、人々は大変感動し、その素晴らしさは瞬く間に広まったでしょう。

 ファリサイ派の人々や律法学者達の批判的な思いの中で

噂を聞きつけて、当時のユダヤ教の指導者達がやってきました。ファリサイ派と呼ばれる人々と律法学者達です(参照:聖書の「用語解説」)。彼らは噂の「ナザレのイエス」の言動を偵察に来たのです。彼らの批判的な眼差しの中でも、イエス様は「主の力」によって癒しの御業を続けられました(17節)。「主の力」は人間の思惑や行動で左右されません。ファリサイ派の人々や律法学者達は、自分達の眼の前で確かに行われている「主の癒しの御業」について、何も言えなかったに違いありません。

 「中風の人」への御言葉「あなたの罪は赦された」

しかし、「中風の人」に対してイエス様が言われた御言葉に対して、ファリサイ派の人々と律法学者達は、敏感に反応しました。イエス様の所に押し掛ける人々が非常に多くて、通路がないために天井を壊して床ごとつり降ろしてでもイエス様の御力を信じて癒して欲しいと必死だった「中風の人」と運び込んだ人々の「信仰」をご覧になったイエス様が、「あなたの罪は赦された」と言われた御言葉に対して、反感を持ちました。ファリサイ派の人々や律法学者達は、この御言葉は神様しかおっしゃることはできないし、「罪を赦すこと」が実際におできになる御方は神様しかいないと知っていました。彼らは、イエス様に対して、「人間であるのに、神様を冒瀆している」と考えたのでしょう。

 「人の子」が罪を赦す権威

そんな反対派(ファリサイ派の人々と律法学者達)の考えをよく知り抜いたイエス様が、不思議な問いかけをされています(23節)。「罪を赦された」と言うのと、「起きて歩け」と言うのと、どちらが易しいかという質問です。多くの方がどちらだろう?と疑問を持つでしょう。しかし、これは、単なる質問ではありません。次に続いている御言葉に繋がっています。「『人の子』が地上で罪を赦す権威があることを知らせよう。」このことが重要です。「人の子」とは、やがてこの世に来ると預言されていた「メシア」のことです。この世を創られた父なる神様から、権威・威光・王権をすべて譲り受けて、この世を治めてくださるようになる御方が「人の子」です(ダニエル7:13-14)。「人間の姿をしたメシア」をこの世に送ってくださるとの神様の約束が預言書ダニエル書に書かれていて、ユダヤ教はそれを伝えてきました。イエス様はご自分のことを話される時に、この「人の子」という言葉をよく使われました。ご自分が、聖書で預言されてきた「メシア」であることを暗示しておられたわけです。イエス様は、神の御子として、父なる神様が人間を罪から救いたいと何よりも願っておられるという御心をよくご存じでした。そして、その使命のために生き、また、そのために死なねばならないこと(十字架)もわかっておられました。神様の御心と御言葉は必ず実現します。だから、イエス様が「ご自分には罪を赦す権威がある」とおっしゃって、実際に「中風の人」は罪が赦された結果、この世での目に見える形として、病いの癒しが行われて、起きて歩けるようにされたのです。

 「神を賛美する者」へ変えられる

ルカによる福音書では、この「中風の人」はイエス様の御言葉によって、「立ち上がり、(中略)…神を賛美しながら家に帰って行った」とあります。イエス様の憐れみによって、実際に癒され、更に、「神を賛美する者」に変えられました。この人だけではなく、この素晴らしい出来事を目撃した人々も、メシアによる救い(罪の赦し)の証し人とされ、すべて一斉に、神を賛美し始めました。そして、「今日、驚くべきことを見た」と賛美せずにはいられなくなったのです。恐らく、反対派の人々も含まれていたでしょう。神の恵みはそれほど豊かです。また、「今日」という言葉は、約二千年前の当時だけを指すのではありません。現代の私達の「今日」をも指しています。イエス様の十字架と復活を信じる者は、「聖霊(神の霊)」によって、現代でも「罪の赦し」を実際にいただくことができるし、また、「罪の赦し」の出来事の証し人として用いられます。永遠なる父なる神様からすべての権威を神の御子イエス様だけが譲り受けておられるからです。

KC3Z0057

7月12日 礼拝後墓地清掃

6月28日の説教要旨 「主よ、御心ならば」 牧師 平賀真理子

レビ記14:1-9、19-20

ルカ福音書5:12-16

 はじめに

イエス様は、神の国の福音を宣べ伝えるために、ユダヤ中の諸会堂を巡っておられました。そのお話は、他の人の話とはずいぶん違ったようで、多くの人々が福音を聞きにやってきました。更に、イエス様の御業の一つである「病いの癒し」は、神の御力を目に見える形で知らせることができたので、多くの人々がイエス様の所に癒しを求めて、押しかけました。

 「重い皮膚病」

今日の聖書でも、宣教の旅の途中で、全身「重い皮膚病」にかかった人がイエス様の所へ来て、癒しを求めました。この「重い皮膚病」については、古い年代に出版された聖書では、「らい病」となっています。しかし、この病名は差別的な意味を含んでいるので現在は使用されません。この病いの病原体を発見した人の名前が付けられて「ハンセン氏病」と呼ばれています。旧約聖書のレビ記13章には「重い皮膚病」の細かな症状が書かれています。医学や歴史の研究の結果、この「重い皮膚病」と「ハンセン氏病」が、ぴったり一致するわけではないことが、現在はわかっています。聖書における「重い皮膚病」とは、ただ一つの病いを指すのではなく、様様な皮膚病の症状が混ざって書かれたのだろうと解釈されています。それでも、レビ記等に詳細にこの病いの診断の仕方や、治癒後の儀式が書かれているのは、見える部分(顔・手足)に症状が出て醜くなるために、この病いの人は、神様から罰を受けて「汚れている」と考えたことが背景にあるかもしれません。「神から選ばれた」と自負するイスラエルの民は、神様の性質である「聖さ」に連なる者でなければならず、外見上「不完全な者」は、社会の中で疎外される定めでした。この病いは、身体的なつらさは もちろん、精神的・社会的なつらさを引き起こし、人を苦しみに縛り付けるものだったと言っていいでしょう。

 イエス様の前にひれ伏し、へりくだった「重い皮膚病の人」

そんな中、この「重い皮膚病の人」は、イエス様を見て、まず、「ひれ伏し」ました。元々の言葉では「顔を突っ伏して身を投げ出し」という意味を含んでいます。神の御力をお持ちのイエス様に全てを委ねたいという切実な思いを表した態度だと思います。更に、この人は「主よ、御心ならば」と言った後で、自分の願いを述べています。「主よ」とは、この直前の段落で、弟子としてイエス様に招かれた「ペトロ」も同じように言った言葉です。「救い主」であるイエス様を完全に信頼していることを意味しています。そして、「御心ならば」という言葉が実に印象的です。元々の言葉から見て、「あなたが私と同じように、この病いを癒したいと思ってくださるならば」という意味です。ここには、神様にお願いだけして、「当然癒してくださいますね!」といった思い上がりがありません。願い事ばかり言って、神様からの御声を聞こうとしない、不遜な祈りと違って、「救い主のイエス様が、私と同じように思ってくださり、病いを癒してくださるとよいのですが…」というへりくだりの思いが溢れています。

 手を差し伸べ、触れて、心を寄せてくださる主

この「重い皮膚病」の人に向かって、イエス様は手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ。」と言われました。大変な苦しみの中、イエス様の救い主としての御力に完全な信頼を寄せ、へりくだった、この人に、イエス様は手を差し伸べて触れられました。ユダヤ教の指導者達は、このような人々を隔離して、疎外しました。一方、イエス様は手を差し伸べて触れられたのです。私達の信じるイエス様はそのような御方です!そして、「よろしい」とは、「私もあなたと同じ思いです。」という意味で、この直後、御言葉どおりに癒されたのです!

 人間にではなく、「まず、神様に心を向ける」

「重い皮膚病を癒された人」は、イエス様から二つのことを指示されます。一つは、この奇跡を誰にも言ってはいけないということ、もう一つは、癒された体を祭司に見せて、律法どおりに祭司に清めの儀式をしてもらって、人々に証明するということです。一見矛盾しているようです。けれども、恐らく、この癒された人が、自分の身に起きた奇跡を人々に伝えたいという思いに駆られる前に、まず、本当の癒し主の神様に感謝を献げることが一番重要だと、主は教えたかったのではないでしょうか。人々に惑わされず、まず神様に心を向ける、イエス様ご自身も神様への祈りを一番大事にされました。更に、イエス様は、祭司に「預言どおりの救い主到来」の証拠を見せる役目をこの人に与えたと見ることもできます。主の御用のために用いられるという恵みをも、この人は受けたのです。

6月21日の説教要旨 「一匹の羊」 牧師 佐藤 義子

詩編 139:7-10

ルカ福音書15:1-10

はじめに

ルカの福音書15章には、「見失った羊」、「無くした銀貨」、「放蕩息子」の三つのたとえが記されています。イエス様がこれらのたとえを語られたのはエルサレムへ向かう旅の途上でした。エルサレムへの旅は、「ヘロデがあなたを殺そうとしています」(13:31)との忠告をうけながら、イエス様は、「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」と答えられ、その旅の行き着く先には、十字架の死が待っていることを、すでに承知されておられた旅でもありました。

ある注解書によれば、この15章は、ルカ福音書の心臓部と呼ばれているそうですが、それは、これらの譬えの中でイエス様がこの地上に来られた大きな目的が語られているからでしょう。今朝は、最初の二つのたとえについて、ご一緒に学びたいと思います。

ファリサイ派の不満・不平

1節に、徴税人や罪人がイエス様の話を聞こうとして、イエス様に近寄ってきたとあります。徴税人(税の徴収者)も、罪人(律法を守れない人、守らない人、異邦人、遊女など)も、当時のユダヤ人社会からは疎外されていた人達です。それを見てイエス様のそばにいたファリサイ派や律法学者などは、イエス様に対して批判し、不平を言い出しました。彼らは律法に従い自分にも厳しく、正しく生きている人達であり、民衆の見本でもありました。彼らは、「律法」を忠実に守ることこそが救われる道であり、神の国に入ることが出来ると信じていましたから、神の国について教えているイエス様が、なぜ、神の国から遠く離れて生きている罪人たちを拒まず受け入れるのか、平気でつきあっているのか理解できなかったからでしょう。イエス様は、彼らの批判にこたえる形で、の三つの譬えを語られました。

見失った羊の譬え

最初のたとえは、100匹の羊を持っている主人が、一匹の羊を見失った時、99匹を野原に残して、いなくなった羊を捜しに行く話です。羊飼いには、持ち主自身が羊の世話をする場合と、雇われた羊飼いがいます。雇われた羊飼いであれば、周辺を捜して見つからなければ、岩山から滑り落ちたのか、オオカミの餌食になったのかもしれないと、あきらめて帰る場合でも、持ち主の羊飼いであれば、「見失った一匹を見つけ出すまで捜し回る」(4節後半)のです。母親が、わが子を捜し回るように、真剣に必死に、少しの物音にも注意を払いながら捜し、見つかるまでは決して帰らないという捜し方であり、ついに、羊を捜し出すのです。

悔い改める一人の罪人に伴う大きな喜び

羊を見つけ出した羊飼いは、疲れも忘れて羊を肩に乗せて帰り、友人や近隣の人々に報告し喜びを共にするのです。このたとえの羊飼いは、神様のこと、イエス様のことです。100匹の羊とは、すべての民です。ファリサイ派の人々や律法学者のような、律法を守る人達だけが数に入っているのではなく、徴税人や罪人と呼ばれる人達も、神様の愛する100匹の中の一匹です。しかしいろいろな事情のもとで、神様からも、律法で教える生活からも、遠く離れて生きている人々が「見失った羊」にたとえられています。その人達が、今、イエス様の話を聞きにやってきたのです。見失った羊が、今、羊飼いの所に戻ろうとしているのです。もし、徴税人や罪人がイエス様の話を聞いて、それまでの生活から神様に従う生活へと方向転換するならば、羊飼いの、見失った羊を見つけた時のあの大きな喜びが与えられ、その時、神様のおられる天においても、大きな大きな喜びがわき起こるのです。

一緒に喜んでください

「無くした銀貨」のたとえも、ある女性が、無くした銀貨一枚を必死で捜して、ついに見つける話です。彼女も、見つけた喜びを一人で喜ぶのではなく、友人や近所の人達を招いて、このことを報告し一緒に喜んでもらいます。いったんは手元から離れたものが、必死に捜すことによって再び戻ってくる・・。それが、失われた魂であったとするならば、再び神様のもとで新しく生きる魂の誕生の喜びは、どんなに大きな喜びとなるでしょうか。 これらのたとえは、正しく生きていると自負して、神様から離れている人達を嫌うファリサイ派や律法学者のような人達に、「わたしと一緒に喜んでください」とのイエス様の招きの声です。