10月18日の説教要旨 <教会学校との合同礼拝> 「新しい誕生」  牧師 佐藤 義子

詩編 30:2-6・ヨハネ福音書 3:1-15

 はじめに

私達は毎週日曜日に、神様を礼拝するために教会に来ています。いつもは、子供と大人の礼拝時間は違いますが、今日は一緒に礼拝をささげます。礼拝では、神様をほめたたえるために讃美歌を歌い、お祈りをし、聖書からお話を聞きます。聖書には何が書かれていますか? そうです。神様について書いてあります。 神様を見たことはありますか? 神様に会ってお話ししたことはありますか? 誰もいませんね。なぜなら、天におられる神様は、私達の目には見えないからです。

 神様のことを知らせてくれた人

でも、目に見えない神様のことを、私達人間に知らせに来てくれた人がいます。神様のことを知らせるためには、神様のことをよく知っている人でなければなりません。神様のことを良く知っているのは、神様と一緒にいた神様の息子です。神様は、ご自分の息子を、私達が住むこの世界に、人間として生まれさせてくださいました。そう、イエス様です。イエス様は、みんなに神様のことを教えただけでなく、神様から力をいただいて沢山の病気で苦しんでいた人達を治しました。私達はイエス様を通して神様のことがとてもよくわかるようになりました。

 ニコデモさん

今日の聖書は、イエス様とニコデモさんとのお話です。ニコデモさんは、旧約聖書のことをとてもよく勉強していて、みんなに教えていましたし、又、議員もしていて人々のリーダーでもありました。このニコデモさんが、イエス様のお話を聞いたり、イエス様が病気の人を治されたりする奇跡を見て、もっとイエス様とお話したいと、ある夜、イエス様を訪ねました。

 イエス様とニコデモさんとの会話

ニコデモさんはイエス様を「先生」と呼んで、「あなたは神様のところからいらしたということが私にはわかります。なぜなら病気を治したり奇跡を行えるのは、神様が一緒でなければできません」と言いました。イエス様のお返事は、3節『人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない』。そして5節「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」というものでした。

イエス様のおことば

私達が、「神様を信じます。イエス様を信じます。」と、自分の心の中にある「信仰」を口で言い表すことは、とても大事なことです。しかしイエス様は、ニコデモさんが、もっと大切なことを知らなかったので、そのことを教えられました。それが、「人は、新しく生まれなければ、神様のところには行かれません」ということでした。

ニコデモさんの驚き

ニコデモさんは年をとっており、もう一度生まれるなんて無理ですし、それに、ニコデモさんは神様を信じていて神様の教えも守っていましたから、神様のおられる天の国に自分はもちろん入れると考えていました。ですから、このイエス様の言葉を聞いて、どんなに驚いたことでしょう。

新しく生まれる

「新しく生まれる」とは、「上から生まれる、天におられる神様の働きによって新しく生まれる」ということです。お母さんのお腹から生まれ直すことではありません。神様から「神様の霊」をいただいて、新しい自分に(心が)生れ変わる=神様に変えて いただくことです。

イエス様は、「霊」を風にたとえて説明されました。風は目に見えませんが、風が吹くと木の葉がゆれるのでわかります。でも私達は、風が、どこから吹いて来て、どこに向かっていくのかわかりません。神様の霊も風と同じように、私達の目には見えないけれども、いつも働いておられて、風が吹いたことが後でわかるように、神様の霊の働きを受けた人には、必ず目に見える変化がその人に生まれ、周囲の人にもわかります。神様の霊は神様の御意志によってのみ働きます。私達には祈り求めることが許されています。それと同時に、いつでも「神様の霊」を受ける心の備え(毎週の礼拝・日々の御言葉に親しみ祈る生活)もしましょう!

10月11日の説教要旨 「平地の説教⑤-御言葉を行う-」 牧師 平賀真理子

詩編19:8-15・ルカ福音書6:46-49

 はじめに

キリスト教界で一般に「平地の説教」と言われている箇所を読み進めて5回目です。今日の箇所は、「平地の説教」の最後の部分、結論にあたる部分ですから、今までにもまして重要だと推測できます。

 「主よ、主よ」と呼びながら、言われたことを行わない者 

イエス様のことを「主」と呼んで尊敬しているようで、しかし、その教えを実行しない人がいるとイエス様はおっしゃっています。「主よ」と呼びかけをするばかりで、自分を御言葉に従わせようと考える人が少なかったということでしょう。この「平地の説教」は、弟子達やイエス様に従って御言葉を聞いている人々に向かって教えられたことです。そういう人々の中にさえ、うわべだけの信仰者がいたわけです。

 「神の国」の御言葉を聞ける恵み

イエス様の素晴らしさは溢れて、多くの人の心を動かします。現代の人々の中でさえも、福音を伝えると、「イエス・キリストっていいこと言うわね」「なんか清められたわ」と言う方はたくさんおられます。しかし、話を聞き終わって教会を出たら終わりで、教会に来る前と何ら変わることなく、この世に再び埋没してしまう人達が多いものです。イエス様が教えてくださった「神の国」は、神の愛の溢れた世界です。それは、この世=自分が一番大事という罪の世界とは全く違う世界です。「神の国」に入るには、人間の力だけでは無理で、神様の霊(聖霊)の助けが必要です。実は、福音を聞いた方々というのは、「神の国」のことを聞くことができたということで、聖霊の助けをいただいているのです。

 聞いて、信じて、行う

このように、御言葉を聞けたということは大きな恵みです。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ロマ書10:17)という御言葉どおり、御言葉を聞くことは信仰の出発点ですが、その「聞くこと」から、信じ、そのとおりに行い、更に、成長していくことを、私達は神様から期待されています。

 行わなければ、忘れる

御言葉を聞くだけ、御言葉を受けっぱなしで何もしないままでは、大事な御言葉を忘れてしまうことが、私達人間は多いものです。ヤコブの手紙2:23-24には、御言葉を聞くだけで行わない者について、自分の顔を鏡に眺める人のようだと書いています。その場を離れると忘れてしまう、人間の忘れっぽさを思い起こさねばなりません。大事な御言葉もただ受けただけでは、残念ながら、人間は忘れることが多いのです。けれども、実行しようとして労苦した場合には、決して忘れませんし、むしろ、労苦が多ければ多いほど、心に刻み付けられます。

 御言葉を行うことの労苦

御言葉を行うことは労苦を伴います。例えば、この「平地の説教」の中にある「敵を愛しなさい」とか「人を裁くな」という御言葉を実行しようとすれば、自分の感情や考え方を犠牲にしなければなりません。簡単にはできません。心の中では「血を流す」感覚と言っても過言ではありません。それまでは、「自分を憎んでいる人は自分も憎いから憎む」「自分の基準に合格しない人はダメ人間のレッテルを貼る」といったこの世の常識の中にいました。しかし、聖霊の恵みに

よって御言葉を聞けたことを感謝するならば、その御言葉を本気で実践したいと願うでしょう。そして、自分を御言葉に合わせるよう、努めるでしょう。

 岩の上に土台を置いて家を建てる

イエス様御自身は、「御言葉を行う」ことを、家を建てる時の土台を据える作業に例えられました。「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた」とおっしゃいました。反対に、御言葉を聞くだけで行わない、つまり、楽な作業をする例として、掘り下げる労苦はせず、一見安全に見える平坦な砂の上に家を建てることを挙げられました。表面的には、同じように家が建ちますが、「川の水」が押し寄せると、楽に建てた家はひどい倒れ方をするのです。「洪水」や「川の水」とは、試練とか、欲望とか、思い煩いなどの例えです。そのようなことが信仰者の人生を襲った時、岩の上に土台を据えた信仰者は押し流されずに済みます。難儀なこと=御言葉を聞いて行うことに努めた信仰者には、「岩」と例えられる神様がしっかりと土台となって支えてくださいます。洪水になって「川の水」が押し寄せて来ても 揺り動かされない家を建てるような信仰者となるために、御言葉の実践者として歩んでいきましょう。

10月4日の説教要旨 「平地の説教④-良い実を結ぶ-」 牧師 平賀真理子

箴言11:30・ルカ福音書6:43-45

 はじめに

キリスト教界で一般に「平地の説教」と言われている箇所を読み進めて4回目です。今日の箇所の直前にイエス様は「人を裁くな」という教えを語ってくださっています。他の人のことを、心の中や口に出して、裁くことの多い私達に対して、です。

 「人を裁くな」 

「人を裁くな」の御言葉の段落で2つのことを知らされています。一つは、自分が周りの人に当てはめている秤で自分が量り返されることです。「人を裁くな」はイエス様が私達に語ってくださった御言葉ですが、その教えに従っているか、自分を振り返って、すんなりとOKと言えるでしょうか。残念ながら、主の恵みの洗礼を受けた後でさえも、私達は、「人を裁く」習性から抜けきれていないのではないでしょうか。 だから、日々の悔い改めが必要なのです。もう一つは、信仰者として思い起こすべき「主の十字架」です。イエス様は「神の御子」として「人間を罪から救う」という、最高に善い目的のためにこの世に来られたのですが、イエス様に反感をもった「敵」と言うべき人々は、自分達で解釈した「律法」という秤で、主を裁いて十字架につけました。にもかかわらず、イエス様は神様に彼らへの赦しを願い、「執り成しの祈り」をなさり、裁くことをしなかったのです。

 誰に向かって語られたのか?

今日の箇所は、同じ内容がマタイによる福音書7章にもありますが、そこでは、偽預言者を見分けるために語られました。しかし、ルカによる福音書では、弟子達やイエス様に聞き従おうとする者に対して語られています。イエス様の恵みによって「主から訓練を受け、主に近づこうとする者」の生き方を指し示す御言葉として伝えられています。

 「木」と「実」

 43節、44節では、木の性質が語られています。神様が「天地創造」で木をそのように造られたのです。朝顔の種からは朝顔、ひまわりの種からはひまわりの花しか咲かない、違うものには絶対にならない。よくよく考えると不思議です。これは、この世の大きな決まりであり、神様がそのようにお決めになったということです。 例として挙げられている「いちじく」と「ぶどう」は、共に、豊かな実り、平和と繁栄の象徴として、旧約聖書では良いものとして表現されてきました(ミカ4:4等)。一方、「茨」や「野ばら」は、土地を荒らすもの、または、土地が荒れた結果、生えるものと言うように、性質の悪さを表すものとして表現されてきました。

 「実によって木を知る」

「木は、それぞれ、その結ぶ実によって」分かります。「毒麦の例え」(マタイ13;24-30)のように、当時の人々は、実によって、その木が何の種類なのか、最終的に判定したこともあったでしょう。神様による「天地創造」の法則を掘り下げて考えると、神様から授けられた本来の性質に従って、木は、神様から決められた実を結ぶように成長していくということになります。その原則を45節では人間に当てはめています。善い性質の人は、良いものを心の倉に入れて、良いものを出す、逆に悪い性質の人は、悪いものを心の倉に入れて、悪いものしか出せない…。結局、人の口からでる言葉が「実」として、その人の心の倉に何があるかを明らかにしていると主はおっしゃるのです。

 「悪い実をつける悪い木」のままの人間

「悪い言葉」が実となって口から出てくる例の一つに、「人を裁く」ということがあります。信仰者は、神様の憐れみによって赦されていて、罪から卒業することを保証されているのに、「人を批判する」、つまり、悪い言葉を「実」として口から出してしまうということは、その人はまだ悪い性質の「木」のままであることを暴露しています。

 「良い木となって良い実をつけるために」

「良い木となって良い実をつける」には、良いもので心の倉を満たす、良いものを収穫することが必要です。キリスト者は、信仰によって、救い主イエス様の木に接ぎ木され、根から豊かな養分を受けられるようになった者であると、ロマ書11章17-24節にあります。養分を受け続けましょう。

9月27日の説教要旨 「平地の説教③-人を裁くな-」 牧師 平賀真理子

詩編79:8-9・ルカ福音書6:37-42

 はじめに

キリスト教界で一般に「平地の説教」と言われている箇所を読み進めて3回目です。今日の箇所の直前は「敵を愛しなさい」という教えです。私達にとって、この教えは高い目標ですが、イエス様は十字架で「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ23:34)と敵のために祈られています。

 「裁く」「罪人と決める」「赦さない」

「裁く」とは、良いものと悪いものとに区別するという意味があります。区別するには「基準」が必要になります。自分の考える基準に達しないものに対して、「悪い」と言ってとがめだてることを人間はしがちです。今日の御言葉はまだ続きます。自分以外の人を悪い者、つまり、「罪人」として決めつけたがる…、多くの方が思い当たる節があるのではないでしょうか。御言葉は更に深くなっていきます。「赦しなさい。」(37節)……人を「罪人」と決めつけて「赦さない」という人間に対して、「赦す」という大変大きな目標が掲げられます。

 「自分の量る秤」

そのような人間の中心にあるのは「自分の量る秤」です。人には、各々が正しいと思う秤=基準があって、その基準に合えば「良い」としますが、自分の基準に合わないと「悪い」として、その範囲に入る人を裁き、罪人と決めつけ、更には、「赦せない!」と思う傾向があるように思います。「自分の秤」は正しいと多くの人が思うのです。けれども、本当にそうでしょうか。限界のある人間が、不完全なこの世の中で、時間や範囲が限られた世界の短い人生経験の中で、正しいと思っている基準が、永遠で無限で完全な神様の基準と比べて、絶対に正しいと言えるでしょうか。

 「押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして」

38節の「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられる」の目的語は「秤」です。「量りをよくして」とは、「量りを大きくして」という意味です。自分の持っている秤の枠を押して広げ、中身がより多く入るように秤を揺すって、秤をあふれ出るほどにして、自分の秤の容量を増やすよう求められています。中身である相手ではなく、相手を裁こうとしている自分の秤の方を変えて大きくすることを求められています。

 「量り返される」

自分の秤を大きくするように求める理由を、イエス様は「あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」(38節)とおっしゃいます。では、誰に量り返されるのでしょうか。一つは、周りの人々(自分が裁こうとした人々)に。もう一つは、神様に、です。信仰者は、やがて自分が神様の御前に立たされて、神様から裁き(良い悪いという評価)を受けると知らされています。その時の神様の秤が、自分が他人を量った秤の大きさと同じだと言うことを肝に銘じなければなりません。だからと言って、自分の秤を持つことを否定しているわけではありません。御言葉に従って自分の量る秤を持つことは、信仰者として成長するために必要です。しかし、それを、他の人に当てはめることを、主は戒めておられます。自分の基準は、人に当てはめられません。人それぞれ、神様が与えられた賜物や生まれ育った環境で感じ方・考え方が違います。コリントの手紙Ⅰの8章の「強い人」「弱い人」の話を思い出します。信仰において、「強い人」と「弱い人」があるのですが、強い人が弱い人に対して配慮すべきことが書かれています。なぜなら、強い人のためだけでなく、弱い人のためにも「キリストが死んでくださった」(11節)からです。主の十字架に示された自己犠牲の愛は、「私に」だけでなく、主に導かれた人すべてに分け隔てなく注がれています。

 イエス様が話された2つの例えから

39節の「盲人達」は、自分の大きな欠点で人や物事を正しく見ることが出来ない人々であり、主に出会う前の人々と言えます。その人々が、「師」と言われるイエス様に出会い、訓練されれば、主の正しい基準によって人や物事を正しく見ることが出来るようになることを例えています。

後半41節以降の「兄弟」とは、神様によって兄弟となった信仰者同士です。「兄弟の目の中のおが屑」とは、「他の信仰者の僅かな欠点」です。「丸太」と例えられる自分の大きな欠点に気づかず、他人の小さな欠点が大きく見えて「裁く」人間の罪深さが表されています。罪深い人間の基準はあやふやで、愚かなものです。私達は、自分自身の基準から、イエス様がくださった基準のもとに歩めるよう、訓練されていきたいと願っています。