12月20日・クリスマス礼拝の説教要旨 「天からの贈り物」 牧師 佐藤 義子

イザヤ書9:1-6・ヨハネ3:31-36

 はじめに

今日の聖書には、「天から来られる方」という言葉と、「地に属する者」という言葉が出てきました。地に属する者とは、地上で生まれ、地上を離れては生活出来ない私達人間のことです。それに対して、聖書は、「天から来られる方」という言葉を用いて、地に属する者とは全く次元が違う「天」があることを教えています。

聖書で「天」とは、神様のおられるところを意味します。神様は、この世界と人間を創造されたお方です。創世記には、神様が、闇の中に光を与えて、昼と夜に分け、次に大空を作り、次に陸と海を分けられて、陸に植物を、空(宇宙)に太陽と月と星、海に魚を、大空に鳥を、陸には家畜や獣や這うものを造られ、最後に人間をつくられたことが記されています。

 すべてのものの上におられる神

今日の聖書に、「上から来られる方は、すべてのものの上におられる」とあります。地上に属する人間は、どんなことをしても神様のおられる天の高みにまでは行くことは出来ません。すべてのものの上にある天には、世界を創造した神様と、神様の御子イエス・キリストがおられます。 天は、時空をこえた永遠の世界であり、世界が創造される以前の永遠の昔から、父なる神様と御子イエス様がおられ、今も、そしてやがて必ず来る世界の終わり(終末)のあとも、永遠におられます。

 クリスマス

今日はクリスマス礼拝です。 クリスマスの出来事とは、天におられ、世界と私達人間を創られた神様が、今から約2000年前に、御子イエス・キリストを、天から地へと送り出した、世界が創られた以来の大事件、大きな大きな出来事なのです。話は変わりますが、20年以上も前のことです。家族5人でイギリスに一年間の予定で滞在した時、誰も知り合いはなく、住む家を決めた後も、日本と連絡をとる手段がありませんでした。電話の設置には一か月以上待たなければならなかったからです。待つ間、日本とイギリスが海を隔てた遠い国であることを実感し、それだけに一本の電話線が日本に住む家族との間をつなげてくれた日の喜びを忘れることは出来ません。クリスマスの出来事とは、人間が、決して行くことも出来ず、目にも見えない、天におられる、霊である神様とつながるための一切の手段を持っていなかった約2000年前に、神様が、人間の住む地上に、イエス・キリストという神様の御子を天から送り出して下さり、地上と天上とをつなぐ道を人間のために作って下さった、ということです。それは、人間同士の関係(横の関係)を結ぶ電話線がつながる喜びとは全く次元が違う、天上と地上(縦の関係)がつながるという奇跡の出来事でした。

クリスマスの意味

神様は、御子イエス様をなぜ地上に送ろうとされたのでしょうか。それは、神様によって造られた人間が、神様の教えから離れ、罪のために苦しんでいたからです。2000年前も、それ以前も、それ以後も、人間が罪の為に苦しんでいる状況に変わりはありません。私達人間の心の底にある罪は、テロを始めとするあらゆる形の殺人、暴力、虐待、裏切り、人間関係から起こる悲惨な事件、詐欺などを生み出していきます。

これらはすべて、神様に命を与えられ、生かされ、支えられているのに、神様のご意志をまず一番に仰ぐことをせず、自分を神様の座るべき場所に座らせて、自分の本能や欲望、あるいは自分中心の考えや意志に従って行動しているからです。神様を無視した歩み・・・これが罪です。罪は私もあなたも、すべての人がもっています。この罪のゆえに神様と断絶していた人間に対して、神様は、私達を愛するがゆえに、関係回復の為の「和解の道」を用意して下さいました。これが、御子イエス様の御誕生から十字架の死に至るまでの全生涯です。

イエス様は、私達に神様のことを伝え、罪の赦しが与えられる道となり、神様とつなげて下さいました。クリスマスは、御子イエス様を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得ることが出来るようになった日!です。イエス様は、神様からの素晴らしい愛の贈り物!なのです。

12月13日の説教要旨 「イエス・キリストの誕生」 牧師 平賀真理子

ミカ5:1 ルカ福音書2:1-7

 はじめに

イエス様がこの世にお生まれになった時の出来事を具体的に記して証ししているのは、4つの福音書の内の2つ、マタイによる福音書とルカによる福音書です。アドベントやクリスマスの時期にミッションスクールや教会学校で行うページェント(イエス様の降誕劇)は、この2つの福音書を基にしています。

 2つの福音書の相違点

イエス様のご降誕をめぐる記事で、2つの福音書の内容には共通点と相違点があります。相違点の方から見ると、マタイによる福音書では、天使のお告げを受けるのが父親役を担うヨセフであること、最初の礼拝者は東方の博士達であること、当時の権力者の様子としてヘロデの対応が詳細に書かれていることが特徴です。一方、ルカによる福音書では、天使のお告げを受けるのが母マリアであること、生まれたイエス様の姿を具体的に描いていること(飼い葉桶に寝かされる姿)、最初の礼拝者は羊飼い達であること、当時の権力者としてローマ皇帝やシリア総督の名を具体的に挙げていることが特徴です。

 2つの福音書の共通点

最初の礼拝が行われるまでの出来事として、2つの福音書の共通点は3つです。一つ目は天使による人間へのお告げがあったこと、二つ目は誕生地がベツレヘムであること、三つ目は両親として選ばれたヨセフとマリアが時の権力者の思惑によって安心安全な生活が出来なかったことです。一つずつ、見ていきましょう。

 天使による受胎告知

「天使による受胎告知」が示すことは、イエス様のご降誕が、神様の御計画の下に行われた「救いの御業」だということです。神様が人間に何も知らせないで一方的に行ったのではなく、天使を派遣して神様の御言葉として人間に事前に知らせてくださっているということです。ヨセフとマリアはその御言葉を人間的な葛藤の後に受け入れ、御言葉の送り主である神様だけを信頼して困難を乗り越えていったのです。

 ベツレヘムでのご誕生

イエス様ご誕生の何百年も前に、救い主に関する預言がいくつかありました。代表的な例を2つ挙げます。神様は救い主をベツレヘムに誕生させる(ミカ書5:1)という預言。もう一つは、かつて繁栄したイスラエル王国のダビデ王の子孫という血筋にあたる者の中に「救い主」を送るという預言(サムエル記下7:12-13)です。この世での父親という役割を担うヨセフがベツレヘムを本籍とするダビデ家の子孫だったと、ルカ福音書では2箇所(1:27と2:4)にあります。神様が人間との約束を果たしてヨセフを選ばれたことが示されています。

 この世での両親ヨセフとマリアの境遇

ルカによる福音書は、ユダヤ人でない人々、つまり旧約聖書にある御言葉を知らない人々に向けて書かれたので、当時のユダヤやガリラヤ地方、更に周辺の地中海地方での政治的出来事を目印として書く必要がありました。イエス様がお生まれになり、福音の宣教活動をされ、十字架にかかり、復活された後に弟子達が宣教活動を引き継いだ時代に、この地域一帯を支配していたのが、繁栄を誇った「ローマ帝国」でした。その初代皇帝だった「アウグストゥス」が、強大な武力に支えられた権力によって、属国ユダヤから税金を搾取する目的で行ったのが「住民登録」です。また、本籍地を離れた人々は、自己負担で帰省せざるを得なかったのです。更に条件が悪いことにマリアは身ごもっていました。妊娠中、しかも出産間近に旅をするなど、本当に避けたいことです。しかし、拒否する権利は全くありません。ヨセフとマリアは、強い権力者の意向に無理矢理従わざるを得ないような、弱く無力な境遇にありました。それは、そのような無力な状況の中に、神様が敢えて御自分の御子を低く置かれたことを意味します。この世では無力な者達をこそ、神様は愛し、救いたいと願われたからでしょう。

 この世での居場所がなかったイエス様

イエス様は両親の旅の途中に生まれたので、産着の準備もなく、人間のための宿屋すら与えられず、更には、柔らかいベッドにではなく、固く冷たい飼い葉桶に置かれました。この世での場所が準備されなかったのです。にもかかわらず、私達は主を信じる恵みを受けました。一人一人の心に主を迎えられるよう、自分の信仰を吟味し、「神の宮」として歩めるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。

12月6日の説教要旨 「イエス・キリストの誕生の予告」 牧師 平賀真理子

イザヤ7:14 ルカ福音書1:26-38

 はじめに

見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」とイザヤ書7:14に預言があります。神様はずっと昔から、救い主である人間をこの世に送ることを、人間達に約束してくださっていて、確かに実現してくださる御方なのです。その救い主の到来の前に、救い主を証しする重要な人物をこの世に送ることをも預言し、約束してくださっていました。その重要な人物が、「洗礼者ヨハネ」として、その誕生を父親ザカリアが天使ガブリエルから預言されたことは、今日の箇所の直前の段落に書かれています。

 ダビデ王の子孫ヨセフの婚約者マリアへの預言

ザカリアに主の御言葉を伝えた6か月目に、天使ガブリエルは再び神様から任命され、人間へ御言葉を伝えることとなりました。いよいよ、「救い主」の母となるマリアへ神様の御言葉を伝える使命です。救い主はダビデ王の子孫から生まれるという預言(サムエル記下7:12-13)があり、マリアはダビデ王の子孫ヨセフの婚約者でした。それで、マリアは預言どおりの「救い主」の母として神様に選ばれたのでしょう。

 「救い主」の母マリアへの天使の挨拶

天使の「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」(28節)という言葉は、信仰者への最高の言葉のプレゼントだと思います。「おめでとう」は元々の言葉では「喜べ」という意味があります。「喜べ、あなたは神様から恵みをいただいている。神様があなたと共におられる。」天使も、救い主の母となるマリアに「言葉の献げ物」をしたのかもしれません。

 考えて、主の御言葉を受け入れようとするマリア

しかし、天使が現れて自分に語り掛けるようなことを見た場合に、人間は普通の状態でいられるでしょうか。もちろん、マリアもまず、「戸惑い」ました(29節)。これはかなり抑えた訳し方で、元々の言葉では、もっと動揺している感じ、取り乱す感じが含まれています。その混乱の後、マリアは天使の言葉を一生懸命考え込んでいます。信仰深く、慈愛に溢れた人という一般的なイメージに加えて、マリアは言われた言葉をよく考えるという思慮深い人だったと思われます。

 「聖なる者、神の御子」の誕生の預言

30節以降の天使の言葉はザカリアに対する言葉と同じく、また「詩」の形をとって書かれています。真実で美しい、主の御言葉が伝えられているのでしょう。マリアがこれから身ごもり、男の子を産む定めにあることを知らされ、その子の名前を「イエス」と名付けるよう告げられたのです。また、その子は「聖なる者、神の子」と呼ばれるようになり、先祖ダビデ以上の王として、人々を治めるようになることが伝えられました。

 「聖霊が降り、いと高き方の力がマリアを包む」

天使をとおして告げられた「主の御言葉」に対して、子供が産まれる関係をまだ結んでいないのに、自分が身ごもることはあり得ないと、マリアは人間的判断で答えました。これに対して35節の天使の答えが実に重要です。「聖霊がマリアに降り、いと高き方(神様)の力がマリアを包む、そうしてマリアは神の子を身ごもる」と説明しています。イエス様は人間としてこの世に来てくださるために、胎児として人間の歩みを始めるのですが、人間と全く同じではなくて、最初から「神の子」なのです。「神の霊」である「聖霊」は、神様の御心を実現するためにこの世に働きかけて、どんなことでも実現することがおできになります。聖書の最初に書かれている「天地創造」を思い出していただきたいのです。全くの「無」から、御言葉によってこの世をお造りになることがおできになるのが神様であり、その力を神の霊である聖霊は持っておられます。聖霊は「救い主」の母としてマリアを選び、「包む」ことにより、マリアと共に居て、守り、愛し、その結果、神の御子が産まれる奇跡が起こったと思われます。神様の「救いの御計画」を、人間は、ただ信じて受け入れるのみです。

 マリアの大いなる信仰=「お言葉どおり、この身に成りますように。」

マリアに確信を与えた「しるし」として、親類のエリサベトの妊娠が挙げられます。「不妊の女」という不名誉な呼び名から解放なさる神様を信じる決意をマリアはすぐにしたのです。マリアは、姦淫の罪を犯したと誤解されて死罪になるかもしれない使命を、敢然と受け入れる信仰を示しました。「お言葉どおり、この身に成りますように(38節)。」その信仰を手本として、待降節を過ごしましょう。

11月29日の説教要旨 「洗礼者ヨハネの誕生の予告」 牧師 平賀真理子

マラキ32324 ルカ福音書1520

 はじめに

神様は、御自分から離れた人間達との関係を取り戻すために、救い主をこの世に送り、その御方を救い主と信じる者達を救う御計画を立て、預言者に御言葉を託されました(イザヤ書7:14等)。また、救い主が来られる前に「道を備える者」をこの世に送る御計画さえも預言をとおして知らせてくださっていました(マラキ3:1、23)。神様から離れたがる罪深い人間を相手に、神様は御計画を教えてくださり、その御言葉の約束を必ず実行してくださる御方です。

 「道を備える者」の誕生の前に

「道を備える者」と預言されていたのが、「洗礼者ヨハネ」でした。それはマラキ書3:23にある「預言者エリヤ」の霊と力で、洗礼者ヨハネが主に先立つ者になると天使が言っていることからもわかります(ルカ福音書1:17)。神様は救い主の前に私達の心を準備させるために、長い時間をかけ、大いなる熱情を持って、洗礼者ヨハネを前々から準備してくださっていたのです。今日の新約聖書箇所では、「洗礼者ヨハネ」の両親の話から始まります。ザカリアと妻エリサベトは神様の御前に正しく生きていて「非の打ちどころがなかった」夫婦でした。彼らが血筋も行いも正しい人として歩み続けたのに、神様の祝福の証しと考えられていた子供に恵まれませんでした。それは、どんなに苦しいとげだったでしょうか。この苦しい状況の中でも、彼らは神様から与えられた律法に従い、神様の前に正しく生きていくことをやめずに続けました。人間の考えでは祝福されているように見えなかったザカリア夫婦は、長い忍耐の末、神様の御計画の中で重要な使命を担う子供を与えられました。自分の願いだけにとどまらず、神様を信頼して「本当の救い」を待ち続けるという、更なる信頼を神様に献げるよう、神様は願っておられるのではないでしょうか。大変過酷な運命の下に置かれても、神様を信じ続けるという忍耐をとおして、神様に用いられる信仰者の典型が示されています。

 天使ガブリエルをとおしての御言葉

ザカリアは祭司で、エルサレム神殿で大事な務めを果たしている時に、天使に出会って主の御言葉をいただきました。それは、元々の言葉では「詩」の形で書かれています。「詩」は、欧米では、尊敬されているものの一つです。それは真実で、美しい言葉として研ぎ澄まされたものだからです。ザカリアが天使の「真実で美しい、主の御言葉」を聞くことができたのは、彼がそれにふさわしく整えられていたからでしょう。本当は主の御言葉はもっと惜しみなく与えられているのかもしれません。ただ、それを受け取る私達が、神様に心を合わせようとしていないのかもしれません。私達は、主の御言葉を受け取れるように、真実で、美しく、清められたいと本当に願っているかが問われていると思います。

 3つのキーワード

天使ガブリエルの言葉は、主と呼ばれる神様が、天使に託した、神様の御言葉です。その中から、3つのキーワードについて、お伝えします。一つ目は、15節「(洗礼者ヨハネは)既に母の胎にいる時から聖霊に満たされていて」の「聖霊に満たされて」という言葉です。ルカによる福音書とその続編と言われる使徒言行録は、特に「聖霊(神の霊)に満たされ」とか「聖霊に導かれて」といった表現がよく出てきます。神様が直接この世に働きかけてくださり、神様の御心どおりに福音が広まっていくことを証ししているのです。

二つ目は、17節「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ」というところです。左欄の「『道を整える者』の前に」というところで書いたように、洗礼者ヨハネが、預言者マラキの預言の実現として、エリヤの再来としてこの世に遣わされていることを証ししています。

三つ目は、17節の最後「準備のできた民を主のために用意する」という御言葉です。救い主イエス様に導かれるために、洗礼者ヨハネが何をしたのかが、ルカ福音書の3章の初めにあります。「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」のです。「罪の赦し」は救い主イエス様のみの権能ですが、その前段階として、「悔い改め」が必要とされます。それを洗礼者ヨハネは、ユダヤの人々に呼びかけました。自分の欲望や利益のためだけに生きていた人々を、神様の御前で正しく生きるように方向転換するように勧めたのです。罪を悔い改めたいと願う心の準備をした者に、救い主による罪の赦しの恵みが充分にもたらされるのです。

11月22日の説教要旨 「幸せへの道」 デイビッド・マーチー先生(東北学院大学教授)

詩編1:1-6

 はじめに

人間は、幸せを得るために人生の道を選びます。幸せになるために、多くの人は、財産や所有物(車・家など)を得ようとしたり、身近な快楽を経験しようとしたりします。しかし、その望む状態になっても、今度は、それが当たり前になり、心は満たされません。また、教育を受けたり、気楽な友達を求めたり、快適な生活や老後のために蓄えるという、普通の人が行う方法でゴールにたどり着いても、虚しさや不満が残ります。待ち望んだ「幸せ」にはなれません。「本当の幸せ」は物質によっては得られません。

 詩編で示されている「幸せ」「幸せな人生」

聖書では、「幸せ」とは、人間が神様の意志の中に生きる時に見つかると教えています。神様と共にある人生こそ「幸せ」であると、困難な時にこそ、よくわかるのです。これがまさしく詩編第1編のテーマです。この1編は、精神的な困難や悩みを経験した人が書いたと思われます。この著者は、神様からの慰めを求めたのです。この詩の表現は簡単ですが、どんな人が幸せかという私達の疑問への、奥の深い答えを示しています。「本当の幸せな人生」とは、神様の思し召しと御言葉に根を下ろした人生であり、そうすれば、幸せな人生は消え去らないと告げています。

 詩編第1編から見る「幸せ」

第1節では、「神に逆らう者・罪ある者・傲慢な者」という「世」、つまり「神様を信じない空気」に支配されてはいけないと言っています。もし、そのような「世」に同調したら、今は歩けても、次第に動けなくなり、やがてあざける者の中に座らせられるようになり、神様を信じない世界に陥るのです。そのように、神様から遠ざかる者、神様を馬鹿にした呼び名で呼ぶ人を「高慢な者」とも言いますが、箴言21:24には「増長し、高慢な者、その名は不遜、高慢の限りを尽くす」とあります。詩編第1編の著者は、高慢な者達に囲まれた厳しい状況に居たのでしょう。高慢な者達は神様の御言葉を受け入れません。その本当の理由は、神様の御言葉によって私達が要求されるものよりも、神様の約束の恵みの方がずっと大きいと知らないで、「神様の要求が厳しい」と誤解しているということです。

3節では、神様の無い世界と神様の下にある生産的な人生が大きく違うとあります。神様の意志に根付いた生活こそが神様の導きに富んだ、豊かな生活であり、決して厳しくて、枠の中に捕らわれた生活ではありません。「枠」というと旧約聖書の「律法」を思い出されるかもしれませんが、それも、窮屈で面白くないものではありません。「律法」は神様の恵みにある自由な生活を送る人の羅針盤です。

 「神様の御言葉」を喜んで受け入れる

詩編第1編によれば、幸せな人は、神様の掟=神様の御言葉の恵みを喜び、昼も夜も口ずさむ人です。愛する御方の掟への服従は決して苦しくありません。私達を愛してくださる神様の御言葉は喜んで受け入れられるはずです。しかし、私達は本当に神様の御言葉を喜んでいるでしょうか。ダビデ王は、神様の御言葉を喜びとしていました(詩編19:10-11、119:92-93)し、 修道院の信仰者達の生活は神様の御言葉を毎日読むことの大切さを想起させてくれます。クリスチャンが神様の御言葉に自分自身を献げるならば、一人一人が変わり、人間関係が変わり、そして、神様と自分との関係が変わります。

 「神様と共にある人生」と「神様のいない人生」の対比

3節と4節には、「神様と共にある人生」と「神様のいない人生」という対照的な関係があります。イスラエルの民は日照りや飢饉に苦しんだので、水のありがたみを知っています。神様の御言葉を愛する人は、水の流れのほとりの木で、実を結ぶと表現されています。年をとっても、霊的な実を結ぶと保証しています。それは「永遠の幸せ」と言えます。これは、神様からだけいただけるものであり、神様からの約束の恵みであり、これこそ神様に従う本当の喜びです。決して虚しいものにはなりません。反対に、神様に逆らう者は虚しいものであることを「もみ殻」(4節)と例えています。神様のいない人生、我が道を行く悲劇を表しています。虚しく、役立たないのです。更に、詩編第1編の最後は、我が道を行く人への警告で終わります。神様から離れて自分勝手に歩む道は、当座は魅力的でも、決して神様の裁きに堪え得ません(ナホム書1:6、詩編130:3)。一方、 神様の御言葉を聞いて深く考えて従う人を神様は見守ってくださいます。聖霊に導かれるクリスチャンは、神様の御言葉と祈りに没頭する時、幸せな生活が体験できます。