3月13日の説教要旨 「一粒の麦」 牧師 佐藤 義子

詩編 22:25-31・ヨハネ福音書 12:20-26

 はじめに

今日の聖書は、何人かのギリシャ人が、イエス様にお会いしたいと、弟子のフィリポに申し出たところから始まります。イエス様の伝道はユダヤ社会の人々が対象でしたし、ユダヤ人はユダヤ人以外(異邦人)との交際も禁じられていました。それに対して異邦人の中には、ユダヤ社会の、律法を中心とする倫理的にも高い生活をしていることや、性道徳が一般世界で乱れる中、一夫一婦制を守り、子女の教育などもしっかり行っているユダヤ教徒にひきつけられる異邦人が出てきておりました。この時 応対した弟子のフィリポは、おそらく、異邦人である彼らをイエス様に会わせるという、ことの重大さを考えて、アンデレに相談し二人で、ギリシャ人訪問の件をイエス様に伝えたと思われます。その時、イエス様は次のような言葉を語られました。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。 一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

 「人の子が栄光を受ける時が来た。」

聖書で「時」という言葉はとても大切な言葉です。「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(コヘレトの言葉3:1)は、良く知られていますが、ヨハネ福音書にも「わたしの時はまだ来ていません」(2:5、7:6)や、「イエスの時はまだ来ていなかった」(8:20)とあります。そして今日の箇所では、イエス様ご自身が、「人の子(イエス様)が栄光を受ける時が来た」と宣言されています。私達の社会で「栄光を受ける」とは、勲章や表彰など、人間が人間の功績を称える時、名誉・栄誉を受けることです。けれどもイエス様がここで言われる「栄光を受ける」とは、人間からではなく、「父である神様」からいただく栄光のことです。

では、イエス様が受け取ろうとする栄光とは、何によって与えられる栄誉なのでしょうか。それは、あとに続く「一粒の麦」のたとえで示されています。

 「一粒の麦」

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(12:24)

種は、安全に保存されているだけでは実を結ばず、役に立ちません。しかし土の中に落ちて水分が与えられると、種としての形がなくなっていき、新しい生命活動が始まります。イエス様はこの時の情景を「一粒の麦の種が土に落ちて「死ぬ」と表現され、ご自分を、その「一粒の麦」に、たとえられました。二人の弟子から、数人のギリシャ人がイエス様に会いたいと訪ねて来たことを聞いた時、イエス様はこれまでの伝道が、今や、ユダヤ人には十分知れ渡り、ユダヤ人の枠を超えて、ユダヤ人以外の外国人にまで知られるようになってきたというその事実をもって、ご自身が神様から「栄光を受ける時」、すなわち一粒の麦の種として死ぬための「時」がきたことを悟られたのです。

  死は滅びであり、絶望である

私達人間は神様に似せて創られ、自由意志を与えられ、神様に従って生きていく限り、神様からの祝福をいただいて幸せに生きるように定められています。ところが私達人間は、神様に従うことよりも自分の思いに従うことを選び、神様から離れていきました。神様に従うとは、神様の御意志(御心)に従うこと(イエス様が教えて下さった生き方)です。神様を愛し、隣人を愛し、正義を愛し、不義を憎む生き方です。私達が何か特別に悪いことをしていないと思っても、自分に命を与え、生かして下さっている神様のことを忘れて、自分の思いを何よりも第一にして生きて来たならば、誰も神様の前で「自分には罪はない」とは言えず、その結果、すべての人の行く先には滅びが待っているのです。ロマ書には「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている」(3:23)とあります。つまり、すべての人はみんな、その持てる罪のゆえに神様の栄光を受けられない、つまり、死によって滅びるしかありませんでした。「罪が支払う報酬は死です。」(ロマ6:23)。死は絶望そのものでした。

 神様の御計画

しかし私達人間を愛して下さる神様は、罪の結果、滅びるしかなかった人間に対して、「救いの御計画」を立てて下さいました。但しそれは御子の犠牲を伴うものでした。というのは、罪には罰が伴いますが、私達の罪は、この世の服役のように、自分でつぐなうことはできません。この罪を赦していただくためには、罪のない者が、その罪を引き受けて処罰されなければなりません(罪は負債(借金)にたとえられ、借金のない者だけが他の人の負債を負える)。しかし「正しい者はいない。一人もいない」(ロマ3:10)のです。神様の「救いの御計画」とは、神の御子であるイエス様を、地上に送り、全人類の「罪と罰」を、人間に代わって引き受け、その代償として、悔い改めた者には「罪の赦し」が与えられ、滅びの世界ではなく、「神様と共にある世界」に、招き入れられるというものでした。

 「イエス様の死によって、私達に新しい生命活動が始まる」

イエス様は、私達と同じ肉体を持ちながら、生涯、罪を犯されませんでした。そこで神様は、罪を犯されなかったイエス様に、すべての人間の、これまでのすべての罪と、これからの罪のすべてを、十字架上の死という形で、一度限り、断罪される御意志をイエス様に託されたのです。イエス様は、この「罪ある人間を、滅びの世界から救い出す」という壮大な救いの御計画を知り、ご自分がそのご受難の使命を担っていることを、弟子達にも語られました。それは、同時に「死ねば、多くの実を結ぶ」ための歩みの始まりでもあります。

「多くの実を結ぶ」とは、イエス様の尊い犠牲の血(十字架上で流される血)によって、神様から罪の赦しをいただいたことを信じ、離れていた神様のもとに立ち帰り、新しく神の子として歩み始めた(新しい生命活動が始まる)魂が、神様のもとに集められることです。

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いのわざを通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ロマ3:23-24)。「贖いのわざ」とは、罪を引き受けて死んで

下さったこと、「義とされる」とは、神様から「良し」とされることです。

 「わたしに仕えようとする者は、私に従え。」

「一粒の麦」のたとえに続き、さらにイエス様の言葉は、続きます。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、私に従え。そうすれば、わたしのいるところに、私に仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。

私達は、自分の命を守ろうとする本能的欲求があります。選択する時、

先ず、自分の利益を中心に考えるものです。それに対してイエス様は、先ず、神様を中心に生きることへと転換を求められます。神様に従っていこうとする者は、イエス様のように、神様の御心を優先させることが期待されています。しかし、自己主張する私達の心は、わかっていても従い得ないのです。赦さなくてはと思うけれども赦せない。愛さなければと思うけれども愛せない。深刻な内心の葛藤、戦いが始まります。

イエス様が「自分の命を憎む人は・・」と言われるのは、強烈な決然たる態度無くしては、自分の内心の心を屈服させることは出来ないからです。神様に心から従うためには、この強烈な自己主張との激突を避けることは出来ません。だからと言って自己否定や、自分を押し殺すことでもありません。太陽と北風の話のように、古い自己という上着を、厳しい寒風(自分の義務感)で頑張っても、上着は吹き飛ばされません。けれど、やさしく太陽(神様とイエス様の愛)で、暖められるならば、古い自己という上着は自然と脱げるようになるでしょう。そして、イエス様に従っていくことを決めるならば、イエス様のおられる所に私達もいることが出来るとイエス様は言われます。そして、いつも一緒にいられるだけでなく、イエス様に仕えていくならば、父である神様も、私達を大切にして下さると、イエス様は約束されるのです。

さて、受難節40日間の28日が過ぎました。神様とイエス様の愛が注がれている中で、残る今週と来週、週報にありますように、続けて、克己(内心の衝動と欲望の克服)、修養(精神を磨き、良き人格形成に努める)、「悔い改め」(神様のもとに立ち帰る)を覚えて、歩み続けていきましょう!

3月6日の説教要旨 「主の母、兄弟」 牧師  平賀真理子

詩編112:1-10 ルカ福音書8:19-21

 はじめに

イエス様の周りには、いつも多くの人がいました。そのお話が、それまでのユダや教の教師達とは全く異なって、権威があり、かつ、素晴らしかったのです。それだけでなく、病人等の癒しの御業によって、イエス様は神様の力がこの世の力をしのぐものであると、明らかに示してくださいました。イエス様の御許に来た人々は、イエス様に出会い、神様の素晴らしさを実感し、神様を讃美する者に変えられました。逆の見方をすると、それまでに権威を持っていたユダヤ教では救われない人が多くいたと言えると思います。

 当時のユダヤ教の問題点とイエス様の新しい教え

当時の社会で大事にされていたのは、ユダヤ教の教えと血縁(血のつながり)でした。当時のユダヤ教は、律法を守ることが第一でした。最も大事にすべき神様のことを伝えようとは努めていなかったし、困っている人を助けようともしない状態でした。神様によって自分達は神の民として選ばれたのだから、その血筋を受け継いで、律法を守っていれば、神様に喜ばれると慢心していました。一方、イエス様の教えは、「あなたの神である主を愛しなさい。自分と同じように隣人を愛しなさい。」に代表されるように、悔い改めて自ら神様を求める心と、周りの人を助けて生きる喜びを人々に思い起こさせ、当時のユダヤ教の形式重視で表面的な教えを革新するものでした。だから、多くの人が引き付けられました。

 「群衆」と「主の母、兄弟たち」

当時の常識としては、大事にされるべき、イエス様の血縁の「家族」が、今日の箇所では、イエス様との間を群衆に阻まれ、遠くに置かれ、直接話すことができませんでした。間に人が入って伝言がなされ、「家族」が近くに居ることを知ったものの、イエス様は会いにいくことはせず、まず、自分に従っている群衆の方を大事にしている旨の答えをなさっています。イエス様の新しい教え、神の国の福音では、当時大事にされていた血縁の家族が最優先ではなく、「キリストに結ばれて、新しく創造された者」(Ⅱコリント5:17)達からなる「神の家族」が最優先されるのです。

 主の母マリアと主の兄弟ヤコブ

主の母マリアも兄弟たちも、神様によって血縁の家族として選ばれた人々でしょう。しかし、「神の御子・救い主」イエス様にとって、それは最大の価値ではありません。「御言葉を聞いて従う」ということにおいて、改めて「神の家族」とされることが必要です。母マリアは、イエス様が生まれる前の受胎告知で「お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1:38)という模範的な信仰を示した人です。「種を蒔く人」のたとえの表現を借りるなら、信仰において「良い土地」の状態だと言えるでしょう。その上で、イエス様の宣教活動の場に来て、初めて「神の御子・救い主」としてのイエス様の御言葉を聞き、「神の言葉」の種が母マリアの心にきっと根づいたと思われます。自分の息子という価値から「神の御子・救い主」という価値に置き換えられたのです。主の兄弟たちの心にも同じことが起こったと思われます。特に、その一人は「主の兄弟ヤコブ」と呼ばれて、イエス様亡き後に初代教会のリーダーとして活躍しました。ヤコブも、肉親の兄としてではなくて「神の御子・救い主」としてのイエス様に、この時出会い、御言葉を心に蒔かれ、信仰者となるように導かれたのでしょう。他の福音書によれば、主の母と兄弟たちは、この時は、イエス様の福音活動に反対していたようです。けれども、ルカによる福音書の続編というべき「使徒言行録」1章には、全く逆に、イエス様を信じる群れの中に名前が挙がっています。主の肉親も、神の言葉を聞いて行う人に変えられて「神の家族」となる恵みを受けたのです。

 「神の言葉を聞いて行う」

ルカによる福音書には「種を蒔く人のたとえ」「ともし火のたとえ」「イエスの母と兄弟たち」が続けて書かれています。神の言葉をよく聞き、それに従って行動することは忍耐が必要だが、その忍耐に勝る、神様からの豊かな祝福を得られると述べられています。イエス様と家族としてつながるために重要なのは、神の言葉に聞き従うことだとはっきり示されています。同じ内容を記した、他の福音書では「主の母、兄弟たちとは、神の御心を行う人である」とあります。「神の御心を知る」には、特別な霊的な能力が必要だと錯覚しがちですが、そうではありません。イエス様は「神の言葉を聞いて行う」のが大事だと語りかけてくださっています。私達は神の言葉を聞くことを最優先し、学び、行動していきましょう。

2月28日の説教要旨 「『ともし火』のたとえ」 牧師  平賀真理子

詩編119105112 ルカ福音書81618

 はじめに

 今日の新約聖書の直前の箇所では「種を蒔く人のたとえ」とその説明が書かれています。イエス様ご自身によって、明確に説明されています(11~15節)。「種」、つまり「蒔かれた種」は「神の言葉」です。また、種が落ちた土地の状態は、神の言葉を聞いた人の心の状態をたとえたものです。「ともし火」のたとえも、その延長線上で語られ、理解できるものです。

 「ともし火」は「神の言葉」

16節は、たとえの表現ですが、説明が無ければ、人間の一般的な行動が単に書かれているだけです。しかし、ここでの「ともし火」は、「種」と同じで、「神の言葉」であると理解することができます。ともし火は、闇を照らすために灯します。だから、ともし火を隠したりする人は、まず、いません。ともし火から生まれる光が闇を照らし、人は見えるようになります。だから、光が見えるように、その源のともし火は、上に、表に、隠されないで掲げられます。

 神様からくる光

私達のような、聖書が書かれた後の時代の信仰者は、この「光」は、神様からくる光として、真理の性質を帯びていることを知らされています。イエス様は御自分のことを「わたしは世の光である」(ヨハネ8:12)と証しなさいました。また、イエス様は「光を与える御方」でもあります(ヨハネ9章)。その「光」のことを、もっと根源的に考えれば、ヨハネによる福音書の冒頭に書かれていることが思い浮かぶでしょう。イエス様は、父なる神様と世の初めから共にあって、言(ことば)であり、命であり、人間を照らす光であるという内容です。そのような御方が、御自分の本質でもある「神の言(ことば)」を教えてくださるという恵みが、約2000年前に本当に起こったのです。そして、「神の言(ことば)」を聞いて従う者には、本当の命を与えてくださり、更に「神の言(ことば)」をこの世に広めるという重要な役目を任せてくださるのです。

 まことの光であるイエス様

先に挙げたヨハネによる福音書1章によれば、「まことの光は、この世に来て、すべての人を照らす」とあります。「まことの光」とたとえられているのがイエス様のことです。同じ個所で「神の言(ことば)」とも言われているイエス様は、「自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」とも証されています。神の子となる資格を人間達に与えるための御業が「十字架と復活」です。十字架と復活によって、イエス様は、「既に(この)世に勝っている(ヨハネ16:33)」のであり、真理の光を輝かし続けることのできる御方です。

 イエス様を受け入れた人、その名を信じる人々

「まことの光」であるイエス様、そして「神の言」とたとえられるイエス様を受け入れた人、その名を信じる人々とは、御言葉を掲げて、その真理の光の中を歩む者達です。このような者達は、この世の長であるサタンが好む不正や、今が良ければいいといった「事なかれ主義」に妥協できません。生きる指針が、「神の言葉」であり、主の生き方にあるのですから、この世の多くの人が従っている方法に無感覚に従って生きることは決してできません。しかし、この世への未練を断ち切れない人にとっては、知らない方が良かったという厳しい道ともなります。この世の人が難なく行う行動一つ一つが、「神の国の民」にとっては、試みの時となるでしょう。

 「神の国」の原則

しかし、17節の御言葉が、弱っている私達の信仰を奮い立たせます。「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない」のです。この世に妥協する方法は、根本的解決にならず、本当の解決がより困難になることばかりです。一方、神様の真理の原則に従えば、初めは葛藤や苦しみがあっても、結果的に罪を重ねずにすみ、神様からくる光の中を堂々と歩めます。私達を「神の国」に招いてくださるイエス様は、神様がくださる本当の救いを与えてくださることができる御方です。「神の国の民」は、神の言葉を理解し、心に刻み、それに自分を従わせる人、そして、それを表に輝かす人です。最後の18節の「持っている人、持っていない人」は、「神の国の原則」をたとえていると言えるでしょう。前者は、神の言葉を守り、福音を広める恵みを与えられている人であり、神様の御心に適う人として、神様の祝福を益々受けるようになります。後者は、本当の救い・神様の恵みから益々遠ざかることを示しています。私達は前者を目指し、御言葉に従っていきましょう。

2月21日の説教要旨 「光を与える方」 牧師 佐藤 義子

詩編 18:26-35・ヨハネ福音書 9:1-12

はじめに

私は学生時代、聖書を読む時の姿勢として、当時の学長から、「私にとって」、「今」、「ここで」という三つの視点を教えられました。それは、聖書を読む時、ここに書いてあることは、この「わたし」にとって、過去でも未来でもなく「今現在」、自分の置かれている「この状況の中で」、何を語っているかを聞きなさいということでした。その後、牧師になってから、有志の集まる牧師会の勉強会で学んだことは、「あなたは今、聖書の出来事の中で、どこに自分を置いて読んでいますか?」という視点です。

(*多くの場合、第三者的な読み方で、そこに自分はいないのでは?)

主役は、いつもイエス様

新約聖書では、それがどのような場面であれ、主役は常に「イエス様」です。私達はイエス様のお言葉に、しっかり耳を傾けます。そのほか、さまざまな人物が登場します。今日の福音書では、イエス様と、同行していた弟子達と、生まれつき目が見えず物乞いをしていた盲人と、この盲人を以前から見ていた人々です。

私はこの出来事を読む時、以前は弟子(イエス様への質問者)の側に身を置いて読んでいました。しかし牧師会で学んだ後では、弟子ではなく盲人として自分をそこに置かなければイエス様には出会えないのではないかと思いました。

 弟子達の質問

イエス様と弟子達の一行が通りすがりに物乞いをしていた盲人を見た時、弟子の一人が「ラビ(先生)、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」と尋ねました。当時のイスラエルの人達は、神様がなさることはすべて神様の正しい秩序のもとでなされるので、悪を行えば苦痛が、罪を犯せば、その結果として苦悩が生れると考えていたからです。特に十戒の中に「神様に対して拒む者には、その罪を子孫の三代、四代にまでも問う」との文言があるため、生まれながら負っている障害は、生まれた子供の両親か、その先祖の罪の結果だと考える人達が多かったようです。弟子達もそのように考えていたのでしょう。

  因果応報に対するイエス様のお考え

この盲人は、生まれながら目が見えないという困難を背負っていただけでなく「物乞い」という人の憐れみに頼らなければ生きることが出来ず、又、18節で両親が登場していますから、親の保護も受けられない状況にいたことになります。さらに追い打ちをかけているのは、弟子の問いに見られるような「その不幸をもたらした原因」は、「本人か親か先祖の罪」とする社会からの冷たい目でした。

弟子達の犯人捜しのような質問に対して、イエス様は「本人でも両親の罪のためでもない。」と言い切られました。盲人にとってイエス様のこのひとことは、それまで抱えて来た重苦しい重圧、周囲の人々からの裁くような空気、あるいはどこかで自分を責めるような思いなど、これまで背負ってきたすべてから解放される言葉でした。

「神の業が、この人に現れるためである。」

さらにイエス様は、盲目の理由は「神の業が、この人に現れるため」と言われました。<自分自身を盲人に置き換えるならば>自分の境遇を嘆き、将来に希望が持てず、あきらめの気持が自分を支配している時、イエス様は、私が今ここにいるのは、「神様のみ業が、現れるため」と言われます。わたしという存在を通して神様の偉大さがおおやけにされる。それまで無価値だと考えていた自分の運命が、神様に役立つために用いられる。そうなるために、私は今、ここにいる!と、言われます。

さらにイエス様は「わたしは世にいる間、世の光である」と言われて、安息日であるにもかかわらず、禁止されていた作業(つばきを使って土を作り、盲人の目に塗り、「シロアムの池に行って洗うように」とお命じになりました。その結果、盲人の目は見えるようになりました。

私達は光として来られたこのイエス様を「私の救い主」として信じることにより闇から救い出され、光の道を歩み続けていくことが出来ます。

2月14日の説教要旨 「『種を蒔く人』のたとえ」 牧師  平賀真理子

イザヤ書6:9-10 ルカ福音書8:4-15

 はじめに

 イエス様は、よく、例え話を用いて、人々に話をなさいました。特に、この「種を蒔く人」のたとえは、例え話自体と、イエス様ご自身からの説明が、聖書に共に書かれています。それで、後の時代の私達は、例え話の本当の意味をすぐに知ることができます。でも、イエス様の御許に来た群衆は、4節から8節の例え話と「聞く耳のある者は聞きなさい」という御言葉だけを聞いたことをあえて認識しておきたいところです。

 種の4種類の成長結果

イエス様は話を聞きに来た一般民衆のほとんどが従事していた農業の中から、興味を持ってもらえるよう、「種まき」の話をされたのでしょう。4~8節では「種」と「種を蒔く人」と「種が落ちた土地の状況」が語られる主な内容です。「種を蒔く人」の「種を蒔く」という同じ行為により、4種類の成長結果となったことが話されています。1つ目は、種が鳥に食べられて種自体がなくなり、芽さえ出なかったこと、2つ目は、芽は出たが、根が張れずに枯れてしまったこと、3つ目は、芽が出て茨と共に伸びたが、茨に覆われて成長できなかったこと、4つ目は、良い土地に育ったために百倍の実をつけるほど成長したことでした。これだけ聞くと、農業の技術的な話?とか、種まきをする注意点?という疑問がわいてきそうですが、次の11~15節にあるように、この例え話が神の国の福音宣教の結果を預言されたものであることが明らかにされていきます。

 土地の状況に起因する成長結果の違い(実を結べない3種類)

種の成長結果は、種の落ちた土地の状況によることがわかります。土地の状況とは、本当の意味では、神の言葉が降って来た人(心の状態)のことです。

1つ目の道端(畝と畝の間で人の通り道)に落ちて、人に踏みつけられ、鳥に食べられたとあるのは、「神の言葉を聞いても、ないがしろにし、挙句の果てには、悪魔に取られてしまう人」を例えています。

2つ目の石地のものとは、「神の言葉を育てるために耕すことを怠っている」心の状態にある人のことです。種の成長のために土という環境を整えることが大事なことです。それを怠ると、まだ成長過程の植物は、根も弱くて硬い石に打ち勝つことができないことを「試練に遭うと身を引いてしまう人たち」と表現しています。

3つ目の茨の中に落ちたものとは、心配事や富や生活の楽しみの方を、神の言葉を信じて生きることよりも優先して生きている人達のことです。ある程度、信仰を続けることはできるかもしれませんが、信仰者として本来結ぶべき、信仰の実をつけることができない人々です。信仰の実とは、別の言い方をすれば、「聖霊の結ぶ実」とも言えます。それは「喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ書5:22-23)です。

 良い土地に落ちた種の成長

4番目の良い土地に落ちたものとは、「立派な善い心で」と言われる人たちです。では、立派な善い心とはどういう心か、それは、すぐ次に書かれています。「御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人」です。まず、御言葉を聞き、それを心に留める、そしてそれに従って行動するということです。その時に必要とされるのが「忍耐」と書かれています。この「忍耐」の元々の言葉は、「重い荷を背負ってじっと留まる」という意味から生まれたものです。しかし、その忍耐の果てには、信仰者として実を結ぶ恵みが与えられています。実を結ぶとは、2つの意味があると思います。一つは、種が百倍にもなることであり、もう一つは、その種の成長にふさわしい状態の土があるということが外からもわかるということです。イエス様が御自分の使命として大事になさった神の国の福音がその人の心に育って実った結果、種と表現される信仰者がたくさん生まれることが示され、福音を告げる使命を担う者や、イエス様の証人として生きる者が豊かに生まれることが示されています。

 「神の国の秘密を悟ることができる」恵み

10節では、イエス様が、たとえを用いて話す理由を、イザヤ書6章9-10節を引いて語られました。「神の国の秘密」を理解することを許されていた弟子達と許されない群衆がいました。ここに「神の選び」が起こっています。神の国の民として招かれる人を選ぶのは、神様の主権の一つです。私達信仰者は神の国の秘密を悟ることができる弟子達に繋がっています。主の選びに心から感謝し、主の御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人になれるよう、聖霊の助けを祈り求めたいものです。