4月17日の説教要旨 「主の御力①」 牧師 平賀真理子

詩編46:2-12・ルカ福音書8:22-25

 はじめに

今日の話は、マタイ福音書にもマルコ福音書にも記されている、有名な話の一つです。内容をまとめると以下のようになります。「イエス様と弟子達一行が湖を船で渡ることになったが、イエス様は船で眠り込んでしまわれた。そこへ突風が吹き、船が沈みそうになって弟子達がイエス様を起こした。イエス様が風と荒波を叱ると静まって、凪になり、弟子達は、イエス様の御力の素晴らしさと御業の偉大さに驚いた。」

 ガリラヤ湖と突風

ここで言われている「湖」とは「ガリラヤ湖」です。ガリラヤ湖は海面より200mほど下にあるという特徴があります。夏には湖の水面が太陽の光で熱せられて水蒸気が上昇します。その熱せられた水蒸気の塊は、横に移動できずに、真上に上がり、上空の冷気の塊と衝突し、その温度差によって、激しい風が湖面に吹き下ろす現象が、ガリラヤ湖ではよく起こるそうです。

 ガリラヤ湖の突風を良く知っていた弟子達

弟子達の中にはガリラヤ湖の漁師出身の者が複数いました。12弟子のうち、4人はガリラヤ湖の出身だったと福音書から読み取れます。彼らは、ガリラヤ湖特有の突風について良く知っていたでしょう。自分達の知識と経験からその恐ろしさに脅えてしまったのではないでしょうか。突風が起こった時に船の上に居たら、波に襲いかかられて自分達は溺れて破滅すること間違い無しと恐ろしくなったことでしょう。

 イエス様に助けを求めた弟子達

弟子達は、危機に瀕して、やっとイエス様の存在を思い出し、助けを求めました。恐ろしさに右往左往するだけの弟子達とは異なり、イエス様は、起き掛けにもかかわらず、危機の原因を見極め、突風とそれにつられた荒波を叱り、御言葉と御力により、この危機を収めてくださいました。

 「天地」を従わせることができる御力

弟子達はそれまで、イエス様が病気の人々を癒す現場に共に居て、その素晴らしい御力を「癒し」の面で数多く見てきました。その上、人間以外の自然、つまり、神様が創られた「天地」にまで命令を出して従わせることがおできになるイエス様の御力を、弟子達は再び経験することになったわけです。

一番弟子のシモン・ペトロは、イエス様から弟子として召し出された時に同じような経験をしました。自分達の知識と経験を基に漁を夜通し行っていても魚が全く捕れなかったのに、イエス様の「漁をしなさい。」という命令に従ったところ、魚が大量に取れた出来事がありました(ルカ5:4-7)。この時、ペトロは、イエス様の命令を実行する前には、「先生」と呼びかけました(今回のルカ8:24と同じ言葉)が、命令を実行してイエス様の御力を知った後は、「主よ」という呼びかけに変わりました。海の中の魚を大量に集めてくださったイエス様の御力を知り、「主よ」と信仰告白し、「すべてを捨ててイエスに従った」(ルカ5:11)のです。

 危機に瀕して初めて「主の臨在」を思い起こす弟子達

弟子達は、イエス様から教えを受けましたし、癒しの場に立ち会ったりしたのですが、その御力をまだ切実に感じていなかったのかもしれません。自分達に関わる出来事、しかも自分が危機的状況になって初めて、主が共に居てくださること(主の臨在)を思い出し、主に助けを求めました。そのような経過を通して、イエス様を「先生」と言うよりも「『主』と呼ばれる本当の神様である」と仰ぎ見るようになる姿、弟子達のこの姿に、自分の姿を重ねる方も多いのではないでしょうか。

 「神はわれらの避け所また力である」(詩編462「口語訳」)

「このままで生きていては溺れそうだ」という危機的状況に陥り、神様の助けを求めて、教会に来られる方がおられます。そして、御言葉との出会いや聖霊が働いてくださったと思われる出来事を通して、イエス様を「救い主」とする信仰に導かれます。しかし、信仰者として歩むうちに、「神様が共に居てくださる」恵みが平常のことになり、それがいかに素晴らしいかを忘れてしまっていないか、また、主の存在を思い出さずに、自分の知識と経験を基に生きるという、信仰生活以前に戻ってしまっていないか、自分の歩みを吟味する必要があります。特に、「平常時」は要注意です。「平常時」こそ、主の臨在の恵みを数え、感謝する訓練を重ねましょう。そうして初めて、危機的な「非常時」に、本当の助け主をいち早く想起し、その御力に全幅の信頼を寄せることができます。苦難の時に神様を避け所として、また、乗り越えさせてくださる力の源として全面的に信頼を寄せるのが、詩編46編に謳われた「神様への信仰」であり、私達が継承している信仰です。

4月10日の説教要旨 「実を結ぶ枝となる」 牧師 佐藤 義子

詩編 139:1-10・ヨハネ福音書 15:1-11

 はじめに

今日の、ヨハネによる福音書15章は、イエス様の告別説教と呼ばれている中の一部です。告別の説教は14章から始まり16章まで続きます。

イエス様は、この告別説教のあと、大祭司の祈り(17章)とも呼ばれる長い祈りを捧げられて、受難(捕縛・裁判・十字架)の時を迎えます。 今日の聖書箇所を、イエス様が弟子達に語った遺言として聞き、ご一緒に学びたいと思います。

 ぶどうの木

ぶどうの木は、英語の聖書では「vine」という言葉が使われています。「vine」は、辞書で調べると、最初に「つる性の植物」とあり、そのあとに、「ぶどうの木」という意味も載っています。ぶどうの木は、木からつるが伸びていき、やがて若枝となり、又、その枝からつるが伸びて、その先端に花の穂を付けるそうです。ぶどうを作る人は、冬の間に木の形を維持するため枝を切り詰めて、棚(他に、垣根や支柱)などを作り、そこにつるが伸びていくように誘導しておくそうです。その一方で、古い枝や、生長を妨げる枝などは、不要な枝として切りますが、残した枝もそのままにしておかず、木の栄養分が枝や葉の方に回らないように枝の先端を切り詰めて、果実の品質を良くするということです。

 「わたしはぶどうの木、父は農夫、あなたがたはその枝」

今日の聖書では、イエス様はご自分をぶどうの木、ご自分の父(神)を「ブドウ園の主人(農夫)」と、たとえています。ぶどうの木は、ブドウ園主のために木からつるを出し、その実を実らせるためにそこに植えられます。木から伸びていく「つる」は、若枝となり、その枝は、イエス様の弟子達のことを指します。そして若枝がつける実りとは、弟子達がこれから伝道して、それによって神様のもとに導かれていく人達であり、その人達からなる教会の群れと考えることができるでしょう。イエス様は、ご自分から出たたつるが、実りをつける枝となるための方法を教えられました。

 「わたしにつながっていなさい。」

枝は、木から命の樹液を受け取ります。木につながっていない枝は自分では実をむすぶことが出来ません。たとえ、イエス様から訓練された弟子であったとしても、彼らは自立して一人で、人々を神様のもとに導くことは出来ません。なぜなら人間は、自分の中に真理を持っていないからです。真理は木であるイエス様が持っておられます。枝である弟子達は、木から命の樹液、真理を受け取るのであり、自分の考え、自分の力、イエス様に根差していないすべてのものは、実をつける働きを弱めるだけです。

つるが枝となり実りをつける場合も、ブドウ園主(農夫)の手入れが入ります。もっと豊かに実を結ばせるために、時に厳しいはさみの剪定(せんてい)を受けなければなりません。

 実を結び、弟子となる

7節では、もし弟子達がイエス様と密接につながり、イエス様の言葉が弟子達の心の中にいつもあるならば、その言葉は弟子達を支配し、何が必要かを見抜くことが出来、弟子達の祈りは聞き届けられることが約束されています。そして弟子達が、人々を神様のもとに招き、その人々の心の中にイエス様の光と命が入っていくならば、弟子達はぶどうの木を植えたブドウ園の主人である「神様の」栄光を現していくのです。

わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまる

イエス様が弟子達に求めておられる奉仕(人々を神様のもとに導く奉仕)の本質は、イエス様ご自身が弟子達に注がれている愛です。この愛がなかったなら、つるは実を結ぶことが出来ません。この愛は神様からきている愛です。弟子達がイエス様の愛から離れずその中にとどまるということは、神様から湧き出た愛がイエス様を通って弟子達に注がれている、その愛の中に入ることです。イエス様が父である神様に服従することを通して神様の愛にとどまっているように、弟子達も又、イエス様が教えられた「掟」を守る(服従する)ことによって、イエス様の愛にとどまり続けることが出来ます。

 イエス様の掟

イエス様が、「これにまさる掟はほかにない」、と言われた二つの戒めが、あります。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』。

第一の掟は、神様を愛することです。目に見えない神様を愛するとは、具体的には、(十戒にあるように)、天地創造主である神様だけを神様として、偶像礼拝をしないこと、みだりに神様の名前を唱えないこと(みだりに=空しく)、安息日(私達にとっては日曜日)を、他のウィークデーと区別して、聖なる日とする(礼拝を守る)ことです。

第二の掟は、「隣人を自分のように愛する」です。ルカによる福音書10章には、「隣人とは誰か」と質問した律法の専門家に対する答えとして、イエス様が、「良きサマリヤ人」のたとえ話を語られています。

 隣人になる

たとえ話は、「旅をしていた一人のユダヤ人が、途中強盗に襲われ、半死の状態で倒れているのを、三人の人達が通りすがりに気付きます。が、最初の人も二番目の人も、道の向こう側を通って行ってしまいます。しかし、三番目に通りかかった人は、ユダヤ人とは仲の悪いサマリヤ人でしたが、彼は倒れている人を憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱し、翌日になると宿屋の主人にお金を渡して、介抱してくれるように頼み、不足分が出たら、帰りがけに払うと言いました。」

イエス様は、このたとえ話をされた後、質問者に「誰が、この旅人の隣人になったと思うか」と問い返しました。質問者は「その人を助けた人です」と答えますと、イエス様は「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われました。このたとえ話に関連して書かれた書物の中に、イエス様の中では、すべての人が隣人であって、人を助けた人だけが、その人との「隣人である」という関係から「隣人になる」関係へと変えられたと記されておりました。

 イエス様につながり、イエス様の愛にとどまる

今から30年以上も前に、アメリカで出会った二人の女性のことを思い出します。二人は、家族連れで留学や研究に来ている外国人達の、家族のサポートをするボランティアグループのリーダー達でした。

ある日、私は、アメリカ人の夫を持つ二人の幼い子供がいる日本人の、若い母親の世話を、リーダーから依頼されました。母親は精神的に不安定になっており助けが必要でした。一か月位の期間を決めて引き受けましたが、その間、二人のリーダーは、彼女の為に日本語がわかる精神科医を捜し、通院の送り迎えなどで助けました。その結果、母親は次第に落ち着いてきました。やがて滞在期間が終る前日の夜、いつものように祈り、「頑張ってね」との私の言葉に、彼女も「頑張る」と約束したので、安心して翌日、自宅に見送りました。ところがその夜、彼女が薬を飲み、救急車で運ばれて入院したとの知らせを受けました。私は裏切られたように思い、約一か月の日々が、すべて空しく思えて気持が沈み、お見舞いに行く気になりませんでした。それに対して二人のリーダー達は以前と少しも変わらず、入院した彼女の為に、幼い子供達を祖父母のところに預け、病院には着替えなど毎日のようにお世話をし、「私達はただ必要なことをしているだけ」と言い、退院後も彼女を助け続け、離婚の話が出た時は弁護士を探してあげて、離婚後は、自立のために運転免許をとるために手伝い、その後、就職先を見つけて紹介し、自立させたことを、帰国後、日本人の友人から聞きました。

二人のリーダー達は、なぜこれほど外国人を愛することができたのでしょうか。そして私はなぜ、ほんの一時期だけしか「隣人になる」ことが出来なかったのでしょうか。その答えが、今日の聖書にあります。

私は、イエス様というぶどうの木にしっかりつながっておらず、木から送られる命の樹液を十分吸収しないまま、イエス様の愛の中ではなく、自己中心的な愛の中にとどまっていたからです。しかしリーダー達は、「イエス様につながり」、イエス様も「リーダー達につながって下さった」ので、豊かな実を実らせていく歩みを続けることができたのです。

4月3日の説教要旨 「弟子たちへの主の愛」 牧師 平賀真理子

詩編22:17-27・ヨハネ福音書20:24-29

 はじめに

イエス様は、金曜日に十字架にかかって息を引き取られましたが、三日目の日曜日の朝に復活されました。その同じ日の夕方、弟子たちの前に、イエス様は「復活の主」として御姿を現わしてくださり、弟子たちは大いに喜びました(ヨハネ20:19-23)。

 「復活の主」との最初の出会いの群れにいなかったトマス

ところが、ヨハネ福音書では、その喜ばしい出来事を体験できなかった弟子がいることを記しています。12弟子の一人「トマス」です。仲間と違い、その方に十字架の御傷があるかを確かめなければ「信じない」とトマスは言いました。自分の感覚を基準に、「主の復活」を測ろうとしました。

 「復活の主」と疑い深いトマスとの出会い

トマスを除いた弟子たちが復活の主に出会った日の8日後の日曜日、今度こそトマスは弟子たちと共にいました。そこへ、8日前と同じようにイエス様が現われ、「あなたがたに平和があるように。」と御言葉をくださいました。そして、イエス様は「何が人の心にあるのか、よく知っておられた(ヨハネ2:25)」ので、トマスに、「十字架の御傷を見たり、釘跡に指を入れたり、手をそのわき腹に差し入れたりすることで信じると言うのなら、そうしなさい。」と御自分の御体に触れて確かめることを許されました。

 イエス様の弟子たちへの愛

それは、トマスの立場に立ってくださった へりくだりの御姿です。これこそ、まさしく、「神様の愛」の特性です。弟子として愛した相手、特に成長が遅いと思われるトマスに、御自分を合わせておられます。きっと「忍耐」が必要だったでしょう。それでも、イエス様は「この上なく弟子たちを愛し抜かれた(ヨハネ13:1)」のです。

 トマスの特徴=人間の弱さと愚かさ

ヨハネによる福音書の中の他の箇所で、トマスの性格を表している所があります。一つは11章です。イエス様が愛したラザロという若者が死んだという知らせが来て、イエス様がラザロの所へ行こうと言われた時、イエス様が死へ赴こうとされていると勘違いして、自分も「一緒に死のうではないか(16節)」と言ったのです。しかし、主と共に本当に死ぬべき十字架への道にトマスが従った記述は、どの福音書にもありません。恐らく、他の弟子たちと同様、逃げ去ったのでしょう。勇敢なことを言っても実行できないという人間の弱さが浮き彫りになっています。もう一つの14章では、イエス様に従うことが救いの道であることが、トマスはわかっていなかったことも明らかになっています(5節)。肝心なことがわからず、愚かなトマスの姿はそのまま私たちの姿です。更に、今日の箇所で、トマスは自分の感覚などを通して確かめる「人間的な判断」=「科学的な判断」を、神様を信じる信仰の世界に持ち込んで、「復活の主」を疑う姿も見せています。

 主の愛を知ったトマスの信仰告白

そのようなトマスは、イエス様の自己犠牲の愛、へりくだる愛に直面し、自分がいかに罪深く、主を苦しめたかを感じ取ったのでしょう。しかも2度も苦しめました。1度目は十字架の時、2度目は「自分の確信のために御傷を見たり手を入れたりしたい」と言った時です。にもかかわらず、イエス様はトマスを見捨てず、「信じる者になりなさい」という励ましの御言葉をかけてくださっている、その深い愛を、トマスはようやく理解して、「わたしの主、わたしの神よ」という信仰告白の叫びが口をついて出たのでしょう。

 「見ないのに信じる」⇒「御言葉を聞いて信じる」

そんなトマスへ、「わたし(主)を見ないのに信じる人は、幸いである(29節)」という御言葉を主はくださいました。トマスを含め、弟子たちは、約二千年前に実際に「復活の主」に出会うという特別な恵みをいただきました。その後、「復活の主」は「四十日にわたって彼ら(弟子たち)に現れ、神の国について話された」(使徒言行録1:3)後、天に上げられました。それ以降の時代に生まれた信仰者たちは「主の復活の証言」だけを聞いて信じた者、つまり「見ないのに信じる人」たちであると言えるでしょう。トマスへ語られた29節の御言葉は、後の時代の信仰者にも主が愛によって語り掛けてくださったと受け取れます。ロマ書10書13節にも「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」とあります。私たちは「見ないのに信じる人」=「福音を聞いて信じる信仰者」として、主に愛され、主の祝福に希望を持ちつつ、歩むことが許されています。

3月27日の説教要旨 「復活の主との出会い」 牧師 平賀真理子

創世記2:1-7・ヨハネ福音書20:19-23

 はじめに

「主の復活」を祝う「イースター」を迎えました。キリスト教の3大祭りの一つです。3大祭りとは、クリスマス・イースター・ペンテコステ(聖霊降臨)です。日本ではクリスマスが一番有名ですが、キリスト教は歴史的に見ても、「主の復活」を祝う「イースター」から始まっています。

 「主の十字架と復活」

イエス様は、父なる神様からこの世に送られて、「神の国の福音」を宣教することを大事に歩まれましたが、最後には、「救い主」として、父なる神様と人間とを隔てている「人間の罪」を贖(あがな)う使命がありました。それが「主が十字架にかかる」意味でした。十字架にかかるのは、激痛・屈辱・孤独に満ちたもので、イエス様でさえ、容易には受け入れることはできず、ゲツセマネにおける祈りで、悩み、苦しまれたことが他の福音書に記されています(マタイ26:36-46、マルコ14:32-42、ルカ22:39-46)。しかし、救い主として十字架にかかることが、父なる神様の御心だと知り、イエス様は最後には決然と受け入れられました。そして、イエス様が「救い主」として「十字架」にかかられたことによって、父なる神様はイエス様に「復活」=「死に打ち勝つ」という栄光をお与えになったのです。

 弟子たちでさえ最初は信じられなかった「主の復活」

マグダラのマリアが、まず、「復活の主」に出会い、そのことを弟子たちに伝えましたが、彼らはその証言を恐らく信じられず、「ユダヤ人を恐れて」(19節)戸に鍵をかけて集まっていました。弟子たちは自分たちがやがて命がけで伝えていくことになる「主の復活の証言」を、彼ら自身さえ、最初は信じられなかったことがここで示されています。

 「復活の主」から弟子たちに会いに来てくださった!

主が復活された「最初の日」(日曜日)の夕方、この世の人間を恐れた弟子たちの前に、イエス様の方から先に恵みをくださいました。預言なさっていたように、本当に復活なさり、「復活の主」として御自分から弟子たちに会いに来てくださったのです。「鍵をかけた戸は通り抜けられない」という物理的法則を越えて、イエス様が彼らの真ん中に現れました。イエス様が既にこの世の法則を越えた存在だと示されています。「復活の主」は神様と同じ存在であり、「復活の体」をお持ちです。しかも、この世の経験を全く消した「傷の無い体」ではなく、十字架の時に付けられた傷がありました!それで、弟子たちも、突然現れた方がイエス様だとわかったのです。

 「あなたがたに平和があるように。」

信仰の弱い弟子たちを裁くことなく、「復活の主」が、まず、「あなたがたに平和があるように。」という弟子たちに必要な御言葉をかけられました。主は愛する者たちに、必要な時に必要な御言葉を与えてくださることがわかります。「平和」とは、単に戦争の無い状態をいうのではなく、神様の下にあって、何の欠けもない、満ち足りた状態のことを意味する言葉です。恐れに捕らわれた弟子たちは、この御言葉によって、かつて、イエス様と共に歩んだ宣教の旅での満ち足りた状態「主の平和」を思い起こしたことでしょう。

 弟子たちに息を吹き入れ、「聖霊」を送られたイエス様

「聖霊」とは「神の霊」とも言われ、「霊」という言葉は「息」とも訳されます。創世記2章7節に、神様が最初に人間をお造りになった時のことが記されています。

「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」本来の人間は、「神様からの命の息」を吹き入れられる必要があるのです。「復活の主」イエス様は弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」(22節)と言われ、その群れに新しい権能を授けてくださいました。

 「罪の赦し」

「罪の赦し」という権能を、「復活の主」は弟子たち全体に譲られました。「人の罪を赦す」など私達人間にはできません。信仰者の群れ全体=「キリストの体」である「教会」に、イエス様がお持ちの「罪の赦し」の権能を譲られたのです!だから、教会は、「罪の赦し」としての「洗礼式」を執り行うことが赦されています。主は、私達の教会に、洗礼志願者を与えてくださり、今日、このイースターの日に、洗礼式を行う恵みを与えてくださいました。私達の教会が「キリストの体」として正しく歩み続けられるよう、「復活の主」に祈り求めつつ、福音伝道にますます励みたいものです。

3月20日の説教要旨 「エルサレム入城」 牧師 平賀真理子

ゼカリヤ書9:9-10・ヨハネ福音書12:12-19

 はじめに

今週は「受難週」です。その始めの日曜日は「棕櫚の日曜日(主日・聖日)と呼ばれて、キリスト教では特別な日曜日の一つです。

ユダヤ人達が大切にしている宗教行事に「過越祭」というものがあります。かつて、ユダヤ人達がエジプトで奴隷として苦境にあった時、神様に助けを求めたら、エジプト脱出の道を開いて導いてくださったことを感謝し、子孫に伝えてきた祭りでした。その「過越祭」を神殿のある「エルサレム」で祝うことが、ユダヤ人達の大きな願いでした。

 イエス様の「エルサレム入城」

イエス様が最後の過越祭を過ごすためにエルサレムに入られ、大勢の群衆が「なつめやしの枝」を振りながら、イエス様を「救い主」として大歓迎したことを記念する出来事、それが「エルサレム入城」です。「なつめやし」は「しゅろ」の仲間の植物で、口語訳聖書では「しゅろ」と訳されていました。イエス様の十字架という御受難が起こる週が「しゅろの日曜日」から始まります。「十字架」は私達の罪の贖いのためです。主を信じる群れは、代々、この受難週を深く心にとめて、「悔い改めの時」として過ごしてきました。

 「救い主」とは?

実は、群衆の考える「救い主」とイエス様の考えていた「救い主」とは、意味が全然違っていました。群衆は、「救い主」とは、異邦人(ローマ人)から、自分達を救い出してくれる「政治的リーダー」であると考えていました。一方、イエス様は、「救い主」とは、「人々の罪の身代わりとして自分の命を献げる使命のある御自分のこと」であると既にご存知でした。このように、群衆とイエス様とは認識の違いがあるとはいえ、イエス様を「救い主」として人々が大歓迎した出来事は、神様の御計画の一つと言えるでしょう。この後、イエス様は十字架と復活を経て、罪の支配するこの世に勝利されました。「しゅろの日曜日」の群衆の大歓迎は、イエス様の大いなる勝利により、人々が救われて喜ぶ姿を、神様が予め示されたのだと思われます。

また、「救い主」の姿として、ゼカリヤ書9章9-10節もよく知られていました。神の御心に適う「救い主」とは、小さい「ろば」に乗って来る御方です。「ろば」は同じ種族の「馬」に比べて、小さく控えめですが、忍耐強く、人々の生活を助けます。一方、「馬」は体が大きく、足も速いので軍事力として有効です。ユダヤ人達にとって、「馬」は軍隊の強い異邦人達を連想させ、人々の生活を破壊するものと捉えられたでしょう。「ろばに乗る救い主」こそ、神様の御性質を表しています。忍耐強く、謙遜です。強引な武力は用いずに、人間を本当の意味で救い、平和のうちに助けるのです。イエス様は、人々の大歓迎の中で、御自分が聖書で預言された「救い主」であることを示そうとされたのです。

 「イエス様が栄光を受けられたとき」

群衆だけでなく、イエス様の教えを受けた弟子たちさえも、「棕櫚の日曜日」の出来事の意味がすぐには分からなかったことが16節に書かれています。彼らが分かったのは、「イエス様が栄光を受けられたとき」とあります。それは具体的にいつのことでしょうか。それは、イエス様が「十字架」という過酷で屈辱に満ちた犠牲の死を果たされたことによって、父なる神様から「復活」という栄光を授かったときです。そして、その50日後に、弟子たちは「聖霊」を受け、イエス様が本当に「救い主」であると分かるようになったのです。罪のない「神の御子」イエス様が、人間の罪の身代わりとなるために十字架にかかられるほか、人々が救われる道はありませんでした。「十字架」はイエス様の勝利の象徴であり、主に連なる弟子達、ひいてはその流れをくむ私達の救いの源です。

 「ラザロの生き返り」の出来事

イエス様のなさった奇蹟の中で疑いようもないのが、死んで墓に入っていたラザロという若者をイエス様が神様に祈って生き返らせたことです(11章)。命を支配される神様の御子だからこそできる「神様の御業」でした。イエス様こそ、神様からの「救い主」だとユダヤ人達は知りました。それで、群衆がエルサレムでイエス様を大歓迎したのだとヨハネによる福音書は伝えています。

 「何をしても無駄だ。世をあげて あの男(イエス様)について行った!

この反対派の嘆きは、この後、多くの人々がイエス様に従うようになることの預言と受け取れます。神様の救いの御計画の前に、人間が何をしても無駄です。主を信じるように導かれている私達は、十字架の苦しみを思いつつ、復活を希望に、主に従うことが赦されているのです!主の恵みに感謝して歩みましょう。