5月15日の説教要旨 「約束の聖霊が降る」 牧師 平賀真理子

 はじめに

今日はペンテコステ礼拝の日です。「ペンテコステ」とは「50番目の」という意味で、ユダヤ人が大事にしていた過越祭の50日後に当たる五旬祭のことを指します。私達イエス様を信じる者達が思い出すべきことは、約2千年前の過越祭の時に、イエス様が十字架にかけられて亡くなったことです。そして、その時の五旬祭の時に、今日の新約聖書箇所の「聖霊が降る」出来事が実際に起こったのです。(そして「教会」が誕生しました!)

 重要なことを前もって教えてくださる「主」

イエス様は、御自身が苦難の死の果てに復活なさることを、事前に預言されたと4つの福音書に共通して記されています。重要な出来事について、イエス様は弟子達に前もって教えてくださった御方です。そして、御自身に起こる出来事だけでなく、御自分がこの世を去った後の弟子達に起こる出来事「聖霊降臨」も、預言してくださったのです。神様は、お選びになった人間に重要なことを事前に預言される特性をお持ちです。

 「聖霊降臨」についての預言

ヨハネによる福音書14章に、イエス様から弟子達へ「聖霊降臨」の預言がなされたことが記されています。十字架にかかられる直前に、イエス様は、御自分の定めを知り、御自分がこの世を去った後には、弟子達は「聖霊」という神様からの霊によって守り導かれると教えてくださっていました。生前のイエス様だけでなく、十字架に付けられた後、3日目に復活されて、40日間弟子達を教え導いた「復活の主」も、やはり「聖霊が降る」ことを弟子達に預言してくださっていました。「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる。」(使徒言行録1:5)

 「聖霊が降った」様子

イエス様の弟子達の上に、主の預言どおりに約束された聖霊が初めて降った、それが「ペンテコステの出来事」です。

今日の箇所は、心を一つにして祈っていたと思われる弟子達に、本当に聖霊が降った出来事について述べています。まず、激しい風が天から吹いてくるような音と表現されています。そして、その音が弟子達の居た家中に響きました。その後は、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(3節)と書かれています。人間の様々な感覚を使って、神様が起こしてくださった「聖霊降臨」の出来事を伝えたいという思いが込められています。

 「舌」に含まれる意味

聖霊が降る様子の核となる言葉が「舌」ですが、この言葉は、「言葉」とか「国語」という意味もあります。そのような「舌」が、「分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(3節)とは、一人一人がそれぞれに与えられた国の言葉で、聖霊によって、神の偉大な業を語るようになることを暗示しているとも読み取れます。

 「聖霊降臨」の証人とされたエルサレムの人々

当時の国際都市エルサレムの多くの人々は、天からの大きな音に驚き、「聖霊降臨」が起こった家に集まって来て、「ナザレ人イエス」を信じる者達が自分の故郷や暮らしてきた地域の言葉で話しているのを目の当たりにしました。彼らは、聖霊が降った弟子達が語る言葉が、意味のない「外国語の音マネ」ではなく、神の偉大な業を証しする福音であるとの内容を聞き取って証明する「ペンテコステの出来事の証人」とされたのです。

 神の偉大な業を肯定的に受け取ろうとする人々と否定的に拒否する人々

この出来事の証人とされた人々は2つのタイプに分かれたことが書かれています(12-13節)。天からの出来事としか思えない出来事を体験して、それを真剣に受け止めようとする人々と、自分の考えの範囲を変えずに、体験したことを誤解だと否定する人々です。約2千年前のこの時だけでなく、福音を聞くことになった人間の反応は、いつの時代にも、このように2つに大別されます。

 聖霊降臨の直後に起こることは、神の偉大な業を語ること

今回、特にお伝えしたいのは、聖霊が降った信仰者にまず起こるのは「神の偉大な業を語ること」だということです。強制的に語らせられるのではなく、内側から語りたいという熱意によって喜んで語るようになるのです。弟子達が自分の能力では話せなかった外国語で福音を語ったことは、聖霊により、自分の能力を超えた範囲までに用いられるようになることを示しています。私達も聖霊をいただいて神様の偉大な業を語る恵みを受けるために、神様に心を向けて祈り、御言葉を蓄える学びを続けられるよう、更に聖霊の助けを祈り求めましょう。

5月8日の説教要旨 「主の御力④」 牧師 平賀真理子

詩編13:2-6・ルカ福音書8:42b-48

 はじめに

イエス様は大きな御力で「救い主」としての様々な御業をなさいました。

今日の箇所では、人の力では癒せない、長年の病いを癒してくださる御力です。新共同訳聖書では、「イエスの服に触れる女」とありますが、一時代前は「長血の女」と呼ばれていた、この女性の上に起こった出来事が、主の御力を証ししています。この女性は12年間も出血が止まらない病いにかかっていました。恐らく、婦人科系の病いだろうと想像されています。

 「出血が止まらない」病いによって

まず、私達は、出血が続けば、ふらふらして元気が出ないことを経験しています。この女性も日常生活を送るのがとても辛かったでしょう。次に、今日の箇所の43節にあるように、この女性は病いが治りたいと願っては医者にかかったので、治療代を払い、全財産を使い果たしたことが書かれています。この女性は経済的にも困窮していたわけです。

それだけではありません。更に、別の理由がこの女性を悩ませました。ユダヤ人社会における考え方です。ユダヤ人達は、旧約聖書のレビ記の「生き物の命は血の中にある(17:11)」の教えに基づき、血を神様からいただく大事なものと考えたのです。そのような大事な血が外に出て行く病いは、「神の民」ユダヤ民族の中にあってはならない病いと思われ、そんな病いにかかる人は、個人的に神様に背いたために神様から罰を受けた人、つまり、神様から見放された「汚れた」人と見なされ、社会から疎外されていたのです。この「長血の女」は、長い間、身体的苦悩・経済的苦悩・社会的苦悩という三重苦の中で打ちひしがれていた人間と言えます。

 後ろからイエス様の服の房に触れた女性

そんな状況の女性が、多くの人が集まるイエス様の所に来たこと自体、勇気のいることだったでしょう。更に、彼女は、自分の限界を超えた勇気を振り絞って、イエス様の服の房に触れました。女性が男性に触れるのは礼儀上失礼とされていましたし、「汚れた女」と人に蔑まれている自分が「神の御子・救い主」と呼ばれているイエス様の、その服の中で最も神聖な房に触れることも、宗教上よくないと思っていたでしょう。だから、この女性は遠慮して、イエス様の後ろからいただくわずかな御力でもいいからいただきたいと願ったのでしょう。

 イエス様の御力は心から救いを求める人間を救う

イエス様によって癒された人の多くは、イエス様に面と向かって懇願し、イエス様もその人の心をご覧になって、癒されました。しかし、この女性は、イエス様の知らない間に、イエス様の後ろからその服の房に触れたのです。相手はわからないものの、御自分から御力が出て行ったことを知ったイエス様は、神様からの御力がどんなものかよくご存じでした。イエス様を心から信頼して救われたいと手を指し伸ばした人間には、その御力が流れ出て、救いの御業が必ず起こることを確信しておられました!

 イエス様に促され、救いの御業を証しした女性

御自分に触れた人間を捜したイエス様の御言葉に促され、この「長血の女」は触れた理由と癒された次第を多くの群衆の前で証ししました。長年の病いが癒されたことも大きな恵みですが、更に、イエス様の「救い主」としての御力を群衆の前で証しするという働きをも、主によって与えられたと見ることができます。三重苦で打ちひしがれていた人間が180度変えられました。主の御力をいただくことで、癒されて元気になりました。更に、その救いの恵みを証しする役割を与えられ、社会から除け者にされていた人間が、喜びを持って神様を賛美する人間として、新たに生まれ変わらせていただいたのです。

 「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(48節)

実は、この女性を救ったのは、主の御力です。「へりくだり」の特性をお持ちの主は、御自分の「人間を救いたい」と思う真剣さと同じように、神様からの救いを真剣に受けたいと願う人間の信仰を、御自分の御力と同じものとして喜んで受け取る御方であると示されています。そして、救いを受けた人間に対して、神様に繋がって得られる平安の中で生き続けるよう、主は励ましておられるのです。

5月1日の説教要旨 「主の御力③」 牧師 平賀真理子

詩編30:2-6・ルカ福音書8:40-42a、49-56

 はじめに

イエス様は大きな御力で「救い主」としての様々な御業をなさいました。今日の箇所では、少女を死の世界から呼び戻した御力について語られています。その出来事の直前に、ガリラヤ湖東岸の異邦人の地方で、悪霊に取りつかれて苦しんでいた男に対して、イエス様は、その御力により、悪霊を追い出すという救いの御業をなされました。このことは、大変な噂となって、ガリラヤ湖周辺の町々を駆け巡ったことでしょう。

 ヤイロの願いを聞いてくださったイエス様

その出来事の後、イエス様はガリラヤ湖を船で渡り、対岸に戻って来られました。偉大な御力をお持ちであるというイエス様を一目見たいと群衆が集まったのでしょう。その中に、危機的状況で、本当に救いを求めていたヤイロという男がいました。ヤイロの12歳の一人娘が、瀕死の状態になっていて、娘がふせっている自宅へ来てくださるよう、ヤイロはひれ伏して懇願し、イエス様はヤイロの家へ向かいました。

 ヤイロの娘の死の知らせに際して

その途中で(別の女性が癒しの恵みを受けますが、それは次週お話しします)、 瀕死の娘がとうとう亡くなったという知らせが来ました。周りの人々は、イエス様の御力によっても、その娘は「死」の世界から生き返らないと思っていましたし、もしかするとヤイロさえも、希望を失いかけていたかもしれません。せっかく、イエス様の御力で助けていただけると希望を持ったのに、娘の死の知らせは、ヤイロを絶望に突き落としたことでしょう。ところが、イエス様御自身だけは、神様からいただいている御力を絶対的に信じておられました。そして、御自分と同じように、神様を信じることを求めて「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」(50節)とおっしゃったのです。人間は、「死の恐怖」「愛する者の死による絶望」にいとも簡単に捕らわれます。けれども、イエス様と共に居る者は、「死や絶望に捕らわれる心を、主なる神への信頼へ向けなさい!そうすれば、主があなたを救い出す」と主御自身が宣言されているのです。

 イエス様を信じたヤイロに起こった「救い」

そして、ヤイロとその妻(娘の母)は、イエス様の御言葉に従って、イエス様を信じる方を選ぶことにしたのでしょう。それは51節からわかります。人々がもう死んでしまったという娘のいるところに、イエス様はお入りになり、命を呼び戻す御業をなさいました。それは、主の御業の中でも、一番大変な御業の一つだったと思われます。神様の御力を最もいただかなくてはならない時に、一番重要なのは、「ただ信じること」のできる人々と共に、神様の御業が必ず実現することを待ち望むことです。だから、弟子達の中でも、主が一番信頼された3人、ペトロ、ヨハネ、ヤコブしか同席を許されませんでした。そして「娘の父母」であるヤイロとその妻も同席を許されました。この夫婦は、共に「娘の死」という絶望を目前にして、主を信じたいという気持ちしかなかったでしょう。そして、生き返りの御業がなされ、娘は生き返りました!

 この世だけでなく、陰府(よみ)をも治める権威をお持ちのイエス様

「娘よ、起きなさい。」(54節)という主の御言葉によって、娘は「霊が戻って、すぐに起き上がった」(55節)とあります。「死から生へ」という実現不可能なことが 実現しました。人間の言葉は実現できない場合がほとんどですが、神様の御言葉は必ず実現します。ここにも、イエス様が神様の御子であることが証しされています。そして、食べ物を与えるように指図されたのは、生き返った娘が幻ではなく、肉体もこの世に確かに戻ったことを意味します。イエス様は、死んだ人間を よみがえらせることがおできになる、つまり、この世だけでなく、陰府(よみ)(死者が集められる場所)をも治める権威をお持ちだということも証しされています。

 イエス様の御言葉に従い、御力を信じる

イエス様は、心から救いを求め、主にすがったヤイロとその家族を救われました。私達もヤイロと同じように、様々な困難に出会い、主の救いを信じて求める者達です。「ただ信じなさい。」イエス様の御言葉を素直に信頼して歩みましょう

4月24日の説教要旨 「主の御力②」 牧師 平賀真理子

詩編36213・ルカ福音書82639

 はじめに

イエス様は大きな御力で「救い主」としての様々な御業をなさいました。今日の箇所では、悪霊を追い出す御力について語られています。福音宣教の本拠地のガリラヤ湖東岸から、イエス様一行は船に乗って、反対側の岸の近くにある町、異邦人であるゲラサ人の住む地方に着き、一人の男に取りついていた悪霊どもを追い出し、イエス様はこの男を救われました。

 「悪霊に取りつかれている」?

「悪霊に取りつかれている」というと、大昔の合理的でない人々の感覚で、現代人の自分達とは関係ないと思う人もいるかもしれません。しかし、現代でも、悪い考え方に取り憑かれたようになり、抜け出せずに、身の破滅に突き進む人を見聞きします。最も顕著な例が麻薬やギャンブルに溺れる人の話です。わずかな興味や自己過信から、悪いと言われる物を一度だけ試してみる…。ところが、その魔力に溺れ、自分の地位や社会的信用を失う…。それまでの努力は水の泡となり、破滅する…。悪の力は、自分一人だけの力では決して抗えない、強い力です。「普通の市民」である私達でも、悪に引きずられる面があります。善いことをすべきとわかっていても、その通りにできない…。使徒と呼ばれたパウロでさえも、自分のことをこう嘆きました。「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行なっている。(ロマ書7:19)」

 神様でないものに入られる人間

聖書の最初の「創世記」には、天地すべて、もちろん、人間も神様が造られたとあります。殊に、人間は形作られた最後に、神様から「命の息」を吹き入れられて、「生きる者となった」とあります。人は、神様から命の息を吹き入れられるはずなのに、本当の神様でないものに入られる危険性があります。

 男に取りついていた多くの悪霊ども

この男に取りついていた悪霊は複数いて、ローマ帝国軍隊の単位「レギオン」くらい(約6000人)だったことが示されています。この多数の悪霊どもが、男を操り、イエス様に会いにきましたが、彼らは、イエス様の御力について、4つのことを既に知っていて、その御力の偉大さを恐れていました。1つ目は、イエス様を「いと高き神の子(29節)」と呼びかけ、イエス様の本当の御姿を証ししています。2番目に、「かまわないでくれ。頼むから苦しめないでくれ。」と言っています。イエス様の御力が自分達よりも上回っていることを、悪霊どもは知っていたのです。3番目に、「底なしの淵へ行けと言わないでくれ。」と懇願しています。「底なしの淵」とは、世の終わりの時、悪霊どもが神様から裁きを受けて永遠に繋がれる牢屋のことです。十字架と復活によって、悪霊どもやその頭サタンをも永遠に閉じ込める権威を、イエス様は父なる神様から与えられるようになります。そのような御業を、悪霊どもが先に察知し、牢獄に永遠に繋がれることを恐れたのです。また、同時に、イエス様の御言葉が必ず実現するという「神様の御言葉」であることも証しています。そして、最後の4番目に、徹底的に滅ぼされる前に、悪霊どもはイエス様に延命願いをしました。「豚に入ることを許してほしい(32節)」と。イエス様がそれを許す権威をお持ちのことも悪霊どもは知っていたのです。動物愛護の精神に満ちた方は、不思議に思うかもしれません。しかし、イエス様は、悪霊どもに取りつかれて本当に助けを待ち望んでいた、この男を憐れみ、一人の人間の救いを最優先されたのでしょう。

 この地方の人々からの拒絶

この出来事について、様々な意見があったなか、悪霊に乗り移られた豚が溺れ死んで大損害を受けた「豚飼いたち」をはじめ、この地方の人々は、総意として、イエス様に出て行くように求めました。御力の大きさを恐れた上に、そんな大きな御力を持つ主と共に生きる恵みを願うよりも、「自分達の今の生活」、つまり、自分達が享受している利益を最優先したかったのでしょう。

 神様の救いの御業の恵みを宣べ伝える者として用いられる

この町の中でただ一人、悪霊を追い出していただいた男だけが、イエス様と共に歩みたいと願いました。彼は心から救いを求めていたので、イエス様の救いの恵みがよくわかったからです。しかし、イエス様は、同行することよりも、更なる恵みへと彼を導かれました。以前の悪い状態を知る家族や地域の人々に、神様の救いの御業の偉大さを伝える証し人として生きるように命じられ、彼は御命令に従いました。私達も主の救いの御業の恵みを我が身に受けたことをよく知っています。家族や周りの人々に証しできるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。