6月12日の説教要旨 「主は生きておられる」 有馬味付子先生(成増キリスト教会協力牧師)

列王記 17:1-16 マタイ7:2427

 はじめに

 私は、佐藤義子牧師とは東京神学大学の同期入学の友人です。仙台南伝道所が開設された時の礼拝で奏楽を担当しました。また、2008年の開設4周年記念感謝礼拝で説教を担当しました。以前お会いした教会員の息子さんに今日お会いして、大きく成長された姿に驚かされました。私自身も(東京の成増で)開拓伝道しており、仙台南伝道所も開設以来の12年間で様々なことがあったと思います。神様はその一つ一つを恵みに変えてくださる御方です。また、成長の種を与えてくださる御方、成長の試練を与えてくださる御方でもあります。神様の御名をほめたたえます!

 大災害がなぜ起きるのか?(問いと答え)

さて、5年前には東日本大震災があり、この地域にいらした方々は、関東にいた私には計り知れない苦労を体験されたことと思います。多くの方が苦労され、現在も苦労の最中にいらっしゃる方もおられると思います。神様の助けを祈ります。

大災害と言えば、最近も熊本・大分で、大地震がありました。人々は、そのような大災害に遭うと「なぜ、私がこんな目に遭うのか。」と言います。そして「神も仏もあったものじゃない!」と言われるのを聞きます。2011年の東日本大震災の後に、私の教会でも、教会員のお嬢さんが質問してきました。「なぜ、神様はあのような災害を起こされたのでしょう?」いろいろなお考えがあると思いますが、私はこう答えました。「これは、神様が起こしているわけではない。神様はこのような事態をお許しになってはいるけれども、神様が起こされているわけではない。神様は確かにこの大災害をお見過ごしになっている。それは、神様のお考えがあるからだ。それは、この災害を通して、私達に何かを学び、何かに活かしなさいとおっしゃっているのだ。」と。

 人間の傲慢さに対する神様の警告

今、臓器移植や再生医療など、人間は「命」を自分達でどうにかできると思っていたり、自然や弱い者達へのいたわりを後回しにして、経済を最優先にして世の中を動かそうとしたりしています。そのような傲慢=人間の驕り高ぶりに対して、人間よりはるかに大きな力「神の力」があるということを神様は教えられています。私達クリスチャンの言い方をすれば、「天と地、その中のすべてを造られた創造主たる神様」、この神様が「わたしこそ、まことの唯一の神であることを知れ!」とおっしゃっているのです。

 まことの神を信じること

「創造主」は、私達が知っているとおり、たった一人のまことの神です。でも、他の神もあります。6千年前からあるユダヤ教より以前にある神は、人間が造った神です。ですから、イエス・キリストを信じるとは、本当の神様を信じることです。本当の神様を信じるか、信じないか、どちらかしかありません。グレーはあり得ません。「信じたいけど、信じられない」と言う方もおられるのでしょうが、まことの神はただお一人だけだということは覚えていただきたいことです。

 イエス様を信じる者達の使命

大災害を通して、神様は、私達人間に「あなたがたは、わたしに造られたちっぽけな存在に過ぎない。命、すべてがわたし(神様)のものだ!」とおっしゃっているのです。こう言うと、イエス様を信じる人達は「なるほど!」と納得していただけると思います。「そうか!そのとおりだ!では悔い改めて、新しい出発をしよう!」と次のステップへ行くことできます。けれども、イエス様をまだ信じていない人々は「そう言われたって…。」と言って、気持ちの切り替えができずに、苦しみが続くことになります。なかなか希望を持って立ち上がることができないのです。ですから、大災害を通して、先にイエス様を信じる者達は、こういう方々が本当の神様を知って、本当の平安を与えられるように、真剣に祈りなさいと神様がおっしゃっていると理解すべきです。(週報の右下欄の「お祈りください」の所の大災害に遭われた方々への祈りのとおりです!)

 イエス様を信じる者達の希望

ところで、私達イエス様を信じる者達の希望とは何でしょうか?人々はお金持ちになりたいとか、有名人になりたいといった希望を抱きます。しかし、クリスチャンの抱く希望はただ一つ、最高かつ最大の希望です。それは、復活の命・永遠の命に与ることです。朽ちない、霊の体に変えられることです。それが私達のたった一つの、どんな災害や出来事にも壊されることのない希望です。

 世の終わりの裁き

やがて、この世の最後が来ます。聖書の考え方は直線です。神様がなさった「天地創造」には初めがあり、そして終わりがあると考えます。その終わりの時、イエス様の裁きがあると聖書は教えています。そして、一見似ている「羊」と「山羊」が分けられるとされています(マタイ25:31-46)。「羊」とされた者(イエス様を信じる者)には永遠の命が与えられ、「山羊」とされた者(イエス様を信じない者)には永遠の命は与えられません。

 神様の愛

けれども、神様は私達人間が滅びることは望まれていません。聖書に「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ4:16)。」とあります。だから、神様はイエス様をこの世に送ってくださいました。

神様は一人も滅びないでほしいと願っておられます。ですから、私達は、神様の愛に応えたいと必死になって生きているのです。

 どうしたら、一人も滅びないでいられるのか?

今日の新約聖書の箇所マタイによる福音書7章24-27節に、私達がどうしたら、一人も滅びないでいられるかを、イエス様がわかりやすく例え話で話してくださっています。2種類の人が出てきます。一人は、イエス様の御言葉を聞いて行う人、実行する人です。もう一人は、確かにイエス様の御言葉を聞くのですが、それを聞いただけで行わない人です。前者は、イエス様の御言葉を行動に移し、毎日毎日の生活で実行する人、イエス様の御言葉につながって生きようと一生懸命しています。そして、その人達は、イエス様の御言葉が生活の中に生きている人達です。後者は、イエス様の御言葉を聞いたのだけれども、ただ聞いただけの人達です。

 イエス様の御言葉を行う人と聞くだけの人

私達の多くが、礼拝で聞いた聖書の御言葉や説教を、礼拝堂を出たら、忘れてしまうことを経験しています。聞いても忘れます。だから、よほど気を付けていないとイエス様の御言葉を聞いて行うには程遠いのです。

聖書は、2種類の人をはっきりと区別しています。一方は賢い人、もう一方は愚かな人、はっきりと分けてしまっています。なぜなら、聞いて行う人は、先ほど申し上げた、最後の審判の時に、永遠の命を与えられる、でも、聞いても行わない人は、永遠の滅びに至る、賢い人は神様と共に永遠に生き続けるけれども、愚かな人は滅びてしまう、そういう大きな分かれ道に私達は立っています。本当に大きな二者択一を私達は迫られています。イエス様の御言葉を行う方を選ぶのか、いや聞くだけでいいとするかは各々の決断にかかっています。

 イエス様の御言葉を受け入れる

今日の新約聖書箇所の直前7章21節にこうあります。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」イエス様の御言葉を聞いて行うのか、行わないのかということは、つまり、私達がイエス様を受け入れるのか、受け入れないのかということが問われているのです。夫婦関係、親子関係、近しい人間関係で、関係がぎくしゃくすると、相手の言葉を聞こえないふりをして、行動に結び付きません。聞いて行わないとは、まさに、相手を受け入れていないということです。相手を受け入れるということは必ず行いに出るわけです。ですから、イエス様の御言葉を聞いて行う人は、イエス様をしっかり、自分の主として心から受け入れている人です。そういう人は、イエス様が望んでおられることは何かということを一生懸命追い求めます。そして、何とか、イエス様に喜んでいただきたいと願う人です。

 主は生きておられる!

そうすると、不思議なことに、イエス様が生きて働いてくださることが、ひしひしと感じられるのです。イエス様が生きておられる!今、私のことを助けてくださった!そのことがよく感じられるのです。神様、イエス様、ありがとうございますということが、毎日の生活の中で、本当に時々刻々感じられるようになります。毎日の生活が喜びと感謝に満ち溢れます。

私事ですが、今年2月に私はパートナーを亡くしました。彼は結婚する前から病気がちで、長くは共に居られないと覚悟して結婚しましたが、足掛け47年の結婚生活となりました。大腸がんや心臓病など様々な大病をしましたが、絶対に体にメスを入れない、治療をしないという姿勢を貫きました。結局、47年間、共に過ごすことが出来ましたし、彼は、この間、説教を続けることを守られ、倒れる当日まで説教することができました。この経験によって、私は、「主は生きておられる!」と実感し続ける日々を与えられ、そのように確信しているのです。

また、仙台南伝道所の土地建物・私の教会の土地建物が与えられた経緯を考えても、「あー、神様は生きて働いてくださっている、私達の及ばない悠か遠くを見渡して、一つ一つを備えてくださっている」と感じますし、義子先生ともそのように語り合っています。

神様が生きて働いてくださる証し

「神様は生きて働いてくださる」本当にすごい御方なのです。今日の旧約聖書箇所の列王記(上)17章の箇所は私の大好きな箇所です。「壺の粉が尽きず、油が絶えない」というところが大好きです。神様を信じていれば、必ず必要な分は与えられるのです。

この旧約の箇所では、預言者エリヤは、神様がおっしゃった御言葉を即実行していますし、やもめ(未亡人)もエリヤの言った、神様の御言葉をそのとおり行っています。エリヤもやもめも、神様のおっしゃるとおりに、すぐ行ったのでした。それで、神様の恵みを受けることができました。2人は神様の御言葉に従って、すぐ行動しなければ、命が無かったのですが、2人はすぐ行動に移しました。それによって彼らは命をいただき、そして、エリヤもやもめも「主は生きておられます。」と告白したのです。

 私達も「主は生きておられます!」と実感できます

イエス様の御言葉に素直に従って、それを行うときに、私達も「主は生きておられます」と実感することができます。確かに主は生きておられます!途切れることなく、私達に愛を注ぎ、私達と共に生きて、働いてくださるのです。

今週も「主は生きておられる!」ということをはっきり、日々、心で、体で、魂で感じて、イエス様にしっかりつながって、毎日毎日を過ごしていくことができるよう、祈り求めましょう。

6月5日の説教要旨 「約束の聖霊を受けた人々」 牧師 平賀真理子

イザヤ571419・使徒言行録23742

 はじめに

ここ(37節)で書かれている「人々」とは、エルサレムに住む住民で、「聖霊降臨」の物凄い音や振動に驚いて集まって来た人々です。この「人々」は、その後、信徒達に「炎のような舌」が分かれ分かれに降るのを見、また、信徒達が聖霊から力を与えられて外国語で「神の偉大な業」を語るようになった、ペンテコステの出来事を目の当たりにしました。それに続いて、イエス様がお選びになった「使徒」の代表であるペトロが行った説教を聞くことになった人々です。

 ペトロの説教を聞いて受け入れた人々

人間的な弱さのあるペトロですが、この時の説教の第一部(14-36節)によって、「人々」に、救い主イエス様を十字架に付けた責任を痛感させ、彼らがイエス様に対して変わらなければならないことを理解させることができました。これはペトロ個人の力というよりも、聖霊の御力をいただけたからだと言えるでしょう。「人々」は、それ以前には指導を仰ぐことになるとは思ってもいなかった「ナザレ人イエス」の弟子達に対し、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と問い、それに答えて、ペトロは、イエス様を救い主として理解できた人が次に行うべき行動を指導しました。

 悔い改め、イエス・キリストの名による洗礼

「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって、洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(38節)というのが、ペトロの答えであり、主の約束でもあるのです。「悔い改める」とは、一言でいうなら、「心を入れ替える」です。更に詳しく説明すると、「神様なしで生きてきたこれまでの生き方を、神様を心の中心に据えた生き方に180度方向転換すること」です。38-39節で言うなら、イエス様の本当の価値を知らずに生きてきて、(積極的でなかったにせよ、)イエス様を十字架で殺す側にいた「人々」に対して、イエス様を無視したり、心の中で否定したりして、自分の好き勝手に生きるのをやめて、イエス様の本当の価値を理解して、その御方を心の中心に据える生き方を今すぐ始めなさい。」と勧めているわけです。

ペトロの説教(第一部)で語られたように、イエス様は神様によって救い主とされた御方であり、死から甦って復活された御方であり、更に、約束された聖霊降臨に至っては、弟子達だけでなく、ここに書かれた「人々」も証人とされました。この「人々」は、もうイエス様を知らないと言って生きていくことはできません。神様のご計画によって彼らの多くが、救い主イエス様の本当の価値を知り、更に、その救いの恵みを受けることが゙許されていることを知らされました。「イエス・キリストの名による洗礼」とは、神様と人間を隔てていた「罪」を、イエス様の十字架の贖いによって、取り除いていただくものです。「主の御名による洗礼」を受けることで、神様から「御自分の民」として認められるのです。

人間は、イエス・キリストの名による洗礼を受けて、罪を赦されることになり、神様とつながることができるようになります。その結果、神の霊である「聖霊」を受けて、神様の御用のために働くことを喜びと感じるように変えられていきます。神様につながるようになれることや神様の御用のために用いられることを喜べるようになるには、多くの場合、信仰の成長が必要です。信仰の目が成長していなければ、聖霊の助けを受けていると気づくことが出来ないからです。逆に言うと、自分の身に起こっている聖霊の助けをもっと知って、更に喜びに満たされるために、信仰の成長を求めていきたいものです。

 主が招いてくださる者ならだれにでも

39節には、イエス様が切り開いてくださった新しい考えを読み取ることができます。それまでは、神の民として神様が選ばれたユダヤ民族がまず救われるという考えが支配的でしたが、ユダヤ民族でなくても、イエス様を救い主として信じさえすれば、ユダヤ人でない「遠くにいる人々」も、イエス様によって同じように救われて、主が招いてくださる「神の民」となれることが示されています。

「邪悪なこの時代から救われなさい」(40節)というペトロの勧めには、「人々」がイエス様につながり、本当の意味で救われてほしいという愛が溢れています。

 「初代教会」が大事にしていたこと

こうして、エルサレムで最初の教会「初代教会」が生まれ、「使徒の教え」「相互の交わり」「パンを裂くこと(聖餐)」「祈り」が大事にされました。私達もこれら全てを網羅する「礼拝」を第一に生きる信仰者へ成長できるよう、祈り求めましょう。

5月22日の説教要旨 「使徒ペトロの説教」 牧師 平賀真理子

詩編16711・使徒言行録222243236

 はじめに

今日の箇所の直前には「ペンテコステの出来事」が記されています。

「イエス様を信じる者達が心を一つに集まっていると、聖霊が降った。それはイエス様が事前に約束されたとおりだった。そして、聖霊を受けた者達は、自分の知らない外国語で、神の偉大な業を語っていた。」のでした。その「神の偉大な業」という話の内容は具体的に何だったのか、それが、今日の箇所「ペトロの説教」に集約されていると思われます。

 預言されていたとおりの「聖霊降臨」

自分でもわからない外国語で信徒達が語っているという現象は、酔っ払いの戯言ではなく、旧約聖書のヨエル書で神様が預言者を通して預言してくださったことの実現であり、それが本当に起こっているのですよ、そして、それには大きな意味があるのですよとペトロは説明していくのです。

 「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です」(22節)

このペトロの説教の聴衆は、エルサレムの町に住んでいて、「聖霊降臨の出来事」に驚いて集まった人々です。彼らの多くが、イエス様を「ナザレの人イエス」と呼んでいました。病人の癒しや自然現象を越えた奇蹟等、人間の力ではありえない、神様の御力をいただかなければできない出来事を数多く行い、噂になっていた御方です。それを妬んだユダヤ教指導者が政治的権力を持つローマ人に訴え、イエス様を十字架に付けたことも聴衆の多くが知っていたはずです。十字架の時に起こった様々な不思議な出来事もよく知られていました。でも、それだけではありません。

 「神はこのイエスを死の苦しみから解放し、復活させられました」(24節)

24節は、神様が愛する者を死の世界に閉じ込めたままにしない(「復活」)と述べていますが、それを詩編16章10節から裏付けています。この詩は、ユダヤ人達が敬愛するダビデ王が神様に向かって謳った詩です。詩編16章10節では「わたしの魂を陰府(死者の行く世界)に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず」となっており、それを引用した使徒言行録2章27節では、「わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない」となっています。どちらの方も、ここで謳われた「わたし」が誰なのかが問題です。ペトロが話したように、ダビデ王の詩とはいえ、ダビデは死んでお墓もあるので、この詩の「わたし」には該当しません。それが、ダビデの子孫でもあったイエス様を指しているとペトロは説明しているのです。だから、イエス様は、ユダヤ人が敬愛するダビデ王が預言した「神様が復活させてくださった方」なのだとペトロは語ります。そして、この説教前に立ち上がった使徒達(2:14)は、復活の主に40日間出会い、教えを受けたことも事実だ(1:3)と証しできるとペトロは彼らを代表して堂々と語ったのです。

 十字架、復活、そして高挙

33節にあるように、十字架に付けられた主は、死の世界に勝利して復活されただけでなく、神がおられるという「天」に引き上げられ、神の右に座られています。これを「高挙」と言います。天に高く挙げられたのです。だから、神の霊である「聖霊」を父なる神様から受けて信じる者達に注いでくださることができるのです。

(「高挙」は、ルカによる福音書とその続編と言われる使徒言行録で特に明確にされています。)

 「あなたがたが十字架に付けて殺したイエスを、神は主とし、メシアとなさった」

ペトロの説教の結びの36節の御言葉を通して、人間の罪深さにもかかわらず、それでもなお、神様は人間を救おうとしてくださっている、そのような神様の愛の大きさとその御業の確かさを思い起こすことができると思います。その救いの御業とは、具体的には、イエス様の宣教と十字架と復活と高挙ですが、その先には、イエス様を信じる者達に聖霊が注がれて、自分では思ってもいない力が与えられるという望みを感じることのできる説教だと思います。

 聖霊を受けた後に「使徒」にふさわしい説教をするように用いられたペトロ

この説教をしたペトロは、人間的な考えによって様々な失敗をして、イエス様から度々指導を受けた人物として、福音書に記されています。生前イエス様が、そばに置いて、宣教できるよう教育し、この世の悪霊を追い出す権能を授けようと「使徒」に選ばれたのですけれども、聖霊を受けた後になって初めて、ペトロは「使徒」にふさわしい説教ができたと示されています。聖霊を受けると、このように、自分を越えた所で神の御業の一部を担わせていただく働きに用いられます。私達も「使徒」の流れの中に置かれる者達です。「使徒」に倣い、聖霊を受けて神の御業のために用いられるよう、聖霊の助けを更に祈り求めましょう。