10月16日の説教要旨 「祈るときには ①」 牧師 平賀真理子

エゼキエル書204144 ルカ福音書1114

 はじめに

今日の新約聖書の箇所の中心は「主の祈り」です。私達が礼拝の度に共に祈る「主の祈り」は、マタイ福音書6章9節からの御言葉の方が、より近い形です。マタイの方では、イエス様は、それまでのユダヤ教指導者達の祈りは間違った祈りであると語られ、新しい祈りとして「主の祈り」を教えられたとあります。一方、ルカの方では、イエス様の弟子達が、自発的に祈りを教わりたいと申し出たとなっています。

 「主の祈り」についての2つの起源

「主の祈り」で、ルカ福音書とマタイ福音書で、言葉の上で相違があることについて、聖書の研究によると、それぞれに起源があるそうです。主の祈りを教わった弟子達が、その精神を確かに押さえながらも、御言葉はそれぞれに記憶し、それぞれが導いた教会に伝えたようです。イエス様は、ユダヤ教指導者達が律法を形式重視で教えていたことを正そうとされたので、御自分も同じ方針を取られるはずはありません。祈りの言葉を間違わずに言うという形式よりも、「祈りの精神」を弟子達は理解して尊重する姿勢が求められるでしょう。それは、当時の弟子達だけでなく、使徒の教えを継承している私達にも当てはまります。

 「主の祈り」の大きな特徴

「主の祈り」は、前半は神様に関する祈り、後半は人間に関する祈りが示されています。イエス様は、神様の御心が実現されることを第一のこととして歩まれました。十字架につくことが父なる神様の御心と知り、「苦しみは避けたい」という御自分の思いを脇に置き、命を犠牲にされました。その精神が「主の祈り」にも貫かれ、まず、「神様の栄光」を願い、次に、「神の民」としての願望に添った祈りが許されることを教えておられます。

 「父よ」

ルカ福音書に記されている「主の祈り」では、いきなり、「父よ」という呼びかけから始まっています。神様を「父よ」と呼べることこそ、イエス様が「神の御子」たるゆえんです。そう呼ぶことが、イエス様御自身と、イエス様を救い主と信じる者達だけに許されているというのが凄いことです!

 「御名が崇められますように。」

「御名」とは「神様の名前」に敬意を示したものです。聖書を奉じる世界では「名前」とは単なる呼び名ではなく、その方の全人格(本質)を意味します。聖書で証しされる神様がどういう御方か、その本質的な中身=御心を知って、それを第一のこととして尊重するというのが「御名が崇められますように」の意味です。聖書の神様はこの世の全てを造った御方であり、中でも人間を愛してくださる御方です。人間は自ら罪の世界に落ちたのですが、人間の苦しむ姿に、憐れみ深い神様は根本的に助けたいと思い、働きかけてくださる御方です。そのために救い主を送ってくださいました。救われた人間は、救ってくださった神様を賛美して祈ることが、その人間のまず行うべきことであると教えておられます。

 「御国が来ますように。」

「御国」とは「神の国」の尊敬語です。「国」は元々の言葉で「支配」という意味があります。但し、「支配」というと、人間の世界では権力者が力で強引に人々を押さえつけるイメージが強いでしょう。しかし、「神の支配」は違います。そこに入ることを許された「神の民」は、神様を全面的に信じ、神様の掟に喜んで従い、神様の愛に倣って隣人を愛することができる世界です。

 「必要な糧を毎日与えてください。」

この世で、人間として歩まれたイエス様だからこそ、人間が食料をはじめ、衣食住の充足が人間にとって、どんなに切実なことかを良く知っておられ、そのことをまず願うことを許してくださっていることに大きな感謝を覚えます。

 「罪を赦してください。」

「罪の赦し」こそ、神様だけがおできになり、人間は赦しをただ請うのみですが、全知全能の神様でも、人間の罪を支障なく赦せるわけではないことを私達は思い起こすべきです。自分に害を及ぼした人を許す時のような負担を、自分の罪の赦しで神様におかけしていることを思い知って、悔い改める必要があります。

 「誘惑に遭わせないでください。」

信仰者の全人格に挑戦するような出来事=「誘惑」が起こることがあります。人間の弱さを御存じのイエス様は、そうならないように神様に祈れると教えてくださいました。私達は「主の祈り」を祈れる幸いを想起し、益々祈りましょう。

10月9日 教会学校と合同礼拝の説教要旨 「聞いて行う人」 牧師 佐藤 義子

ヨシュア記241415 マタイ福音書7:24-27

 はじめに

 今日は神学校日です。毎年10月の第二日曜日は、神学校(牧師になるために聖書を勉強している神学生と教師)のためにお祈りする日です。 私達の伝道所の牧師である真理子先生も私も、聖書の勉強をして牧師になりました。私は高校生の時、いろいろ苦しいことがありましたが、そういう時はいつでも「神様、助けて下さい」とお祈りしました。すると神様は、私が困らないように助けて下さいました。何度もそのように神様が助けて下さるので、神様は私を本当に愛して下さっている、守っていて下さっていることがよくわかりました。それで私は、いつか神様の為に働きたいと思いました。その後、「神学校に行って聖書を勉強したい」と強く思いました。神様を知らない人達に、いっぱい神様のことを伝えたいと思ったからです。

 仙台南伝道所から

 私達の仙台南伝道所から神学校に行った人に遠藤先生がいます。遠藤先生は、この伝道所に通うようになって一年位した頃、神様を信じてクリスチャンになりました。その後、大学を卒業して会社に勤めていましたが、ある時、神学校に行く決心をしました。それは、遠藤先生のお父さんもお母さんも神様のことを知らないので、家族にも神様のことを伝えたいと強く思ったからです。そこで遠藤先生は会社を辞めて神学校に行き、今は群馬県の教会の牧師として、毎週日曜日の礼拝で神様のお話をしています。

 今も、私達の伝道所から神学校に行っているお兄さんがいます。加藤のお兄さんです。加藤のお兄さんは高校生の時、初めて聖書の神様のことを聞き、神様を信じてクリスチャンになりました。そして将来は神様の為に働きたいと考えたそうです。でも、長い間、社会に出て働いていました。五年前の大震災の時、加藤のお兄さんは、津波に遭った人達の家の修復のために、大工さんとして、又、通訳として働きました。その時、遠いアメリカやカナダから来たクリスチャンの大工さん達と一緒に仕事をするうち、外国の大工さん達が、神様のことを日本人に一生懸命伝えている姿を見て、昔、高校生の時、神様のことを伝えたいという気持が再び強く起こり、神学校に行く決心をしたそうです。

 又、今日、一緒に礼拝をしている由子お姉さんも、今、大学で聖書を学び、将来、神様のことを伝えるために準備しています。

 それから今日は、自分の生涯を神様に献げる人達が、多く与えられるように祈る日でもあります。神様のお仕事で一番大切なことは、神様を知らない人達に神様のことを伝えることです。たとえば、家族やお友達を教会に誘うことは、とても大事な仕事の一つです。

  神様はここにおられるすべての方の働きを必要とされています。

  賢い人と愚かな人

  今日の聖書では、賢い人と愚かな人が登場します。二人とも同じような家を建てました。ある時、雨が降ってきました。そのうち大雨になり、風も吹いて暴風となりました。そして川の水が危険水域をこえて溢れてきました。二人の建てた家はどうなったでしょうか。

 愚かな人の家は、雨と風と川の氾濫にあって、倒れてしまいました。けれども、賢い人の家は、雨にも暴風にも川の氾濫にも流されずに、しっかり建ち続けていました。

何が違っていたのでしょうか。見た目は 同じようでしたが「土台」が違っていたのです。倒れた家は砂の上に建ててありました。倒れなかった家は、岩の上に建ててありました。

  このたとえの意味

  この「家」とは、私達が毎日過ごしている私達の人生、私達の毎日の生活の積み重ねです。大雨、暴風、川の氾濫とは、私達が生きていく中で、出会う苦しい出来事、たとえば病気やケガや、失敗や、むつかしい人間関係や、試練とよべるさまざまな出来事のことだと考えられます。最終的には私達が自分の人生を終える時のことも考えられるでしょう。

 このお話でイエス様は、私達が建てている家の土台のことを考えるように教えておられます。あなたの毎日の生活は、土台が「砂」ですか。それとも「岩」ですか。「砂」を土台にしている人とは、イエス様の言葉を聞いても、何もしない人=愚かな人 ですと言っています。

右の耳から聞いて左の耳に抜けて、心には何も残らない人です。それとは反対に「岩」を土台にしている人とは、イエス様の教えを聞いて行う人=賢い人 と言われました。

 私達はみんな、愚かな人ではなく、賢い人になりたいですね。

ところが、私達は時々、イエス様の教えられたことを聞いても実行せず、行なうことはむつかしいと言います。そしてイエス様の教えを守れないのは、みんなもそうだし、人間は弱いから「仕方がない」とよく言います。

 「仕方がある」

 今から40年前に宣教師として盛岡に来たシュレーヤ先生が、盛岡の新聞に、「仕方がある」という題の文を書いています。引用しますと、「多くの方々は『仕方がない』という言葉をよく使います。今から60年前、私がまだ日本に来る前、私の叔父クックは、宣教師として山形に住んでいましたが、彼は日本に来て『仕方がない』という言葉を何度も聞きました。つまり、『体が弱いから仕方がない』『借金があるので仕方がない。』『仕事があんまり難しいので仕方がない』・・・叔父は、こういう言葉を何度も聞かされるので、大変憤慨(ふんがい)して、ある時『仕方がある!』と大きな声で答えたところ、聞いていた方々はみんな大笑いをしました。『仕方がある』という言葉は日本では使われませんが、叔父は、『もし、ほかの方法でやってみたら・・』『あきらめないでやってみたら・・』『必ずできる。心配ない』と、いつもそう思っていました。

 シュレーヤ先生も、クック宣教師と同じような体験をして、おなじように考えていました。どんなことにも理由があると言っています。たとえば、火事で友人宅が燃えた出来事がありました。延焼して古い立派な家はみな燃えてしまいました。でもコンクリートのお店は焼けなかった。火事が延焼したのには「理由があった」と書いています。

 イエス様の教えを聞いて行う人

 イエス様の教えは、高い理想が掲げられているような、それを行うのは無理。出来ないのは仕方がない。と、簡単にあきらめてしまいがちです。「裁いてはいけない」「赦しなさい」とイエス様の教えを聞きながら、私達は出来ない理由や、しようとしない理由をあげて、「仕方がない」「しょうがない」と、自己弁護や自己正当化していないでしょうか。時には、まともに自分のしたことを見つめる勇気がなく、「仕方がない」という言葉に逃げてしまうこともあるように思います。

  行う人になるには・・・

  イエス様は、イエス様の教えを「聞いて行う人」になるように言われます。初めから無理なこと、出来ないことをイエス様は命じられません。必ずできる道が備えられています(開かれています)。

  もしも「本気」で、岩を土台とした家を建てたい、イエス様に従っていきたい、と願い、実践していこうとするならば、その過程(プロセス)の中で、自分が全く、イエス様の教えに従うことが出来ない人間であることを、改めて知らされます。「裁いてはいけません」というイエス様の教えの前に、それを守れない自分を発見します。本気で従おうとやってみるのです。すると自分が考えていた以上に、自分がだめな人間で、御言葉に従い得ない人間であることを発見(心の底から実感)するのです。その時初めて、自分がどんなに神様から遠く離れて生きてきたかを思い知らされます。そこで初めて、神様に自分の心のすべてを明け渡して、い改めの祈りをささげることができるようになるでしょう。

 神様から送られてくる力

 本当の自分の姿を知らされることから、土台作りは始まります。砂ではなく、土を掘っていき、土台とすべき硬い岩盤にぶつかります。その岩こそ、イエス様です。私達は、自分の本当の姿を知らされて、神様に悔い改めの祈りをささげる時、神様から赦されて、今度は、自分の中に自分の力ではない、神様から送られてくる力が働き始めます。すると、今まで許せなかったことを許すことができるようになり、今まで無理だ、仕方がない!と思ってきたことも、宣教師の先生たちのように「仕方がある」という生き方に変えられていくのです。ここにいるすべての人が、岩の上に家を建てる賢い人になれるよう、ご一緒に祈りましょう。

10月2日の説教要旨 「必要なこと」 牧師 平賀真理子

詩編274  ルカ福音書103842

 はじめに

今日の新約聖書の話に出てくるマルタ・マリア姉妹については、ヨハネ福音書11章から12章前半に、別の話が記されています。この姉妹にラザロという兄弟がいて、イエス様が一度死んだラザロをよみがえらせるという奇跡をなさったという内容です。その中で、この姉妹の出身地はベタニアだとあり、その村はエルサレムから15スタディオン(約3㎞)という近さにあると記されています。

 十字架が間近であるという大前提

今日の箇所の少し前(9:51)に書かれているように、イエス様は「天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」のです。つまり「十字架にかかる」日が近いということです。この世に存在する日々の終わりが見えてきた中で、イエス様の言動は大事なことに集中しています。それは、福音を一人でも多くの人々に伝え、神様の御心を知って行う「神の国の民」を増やすことです。

 イエス様一行をお迎えしたマルタとマリアの対照的な様子

ベタニア村のマルタという女性が、イエス様一行を迎え入れました。(マルタが姉、マリアが妹と推測されています。)マリアは、姉の決断の恩恵を受け、イエス様のそばでお話を聞くチャンスに恵まれました。

一方、姉のマルタはイエス様だけでなく、弟子達の分までという大勢の人々の接待のためにすることがたくさんありました。旅人の手足を洗うための水の用意、飲み物の用意、調理用の食材や水や火の調達・準備等、一人でも多くの助けを借りたかったでしょう。マルタが、そばにいても手伝わないマリアを見て、苛立ちを感じたのには同情を禁じ得ません。

 マルタの言動の問題点

それでも、マルタの言動には問題点が無いとは言えません。

一つは、大事なお客様であるイエス様に、自分の不満を訴えている点です。マリアに手伝いを直接頼むか、または、お客様が帰った後、注意する行動をとってもよかったのではないでしょうか。マルタは自分でイエス様を迎える決断をしたのに、周りから評価されたくて、もてなしを頑張りすぎていたのでしょう。助けを素直に求めればよかったのに、そうできず、イエス様の権威を借りて、妹を自分の意のままに動かそうとしたのかもしれません。

マルタはイエス様に呼びかけた時、「主よ」と言っています。これは、イエス様を「救い主」と理解していることを表しています。にもかかわらず、畏れ多いことに、イエス様の態度に対しても責めているというのが第2の問題点です。妹が話に聞き入っていることについて、自分の窮状に気づかないように見えたイエス様をも責めています。マルタは、自分で背負い込んだ、目の前の苦労の中で自分を見失い、本当に価値のあるもの=救い主との出会いを与えられたことへの感謝を忘れています。自分の窮状に捕らわれ、神様の恵みを見失い、「自分を助けてくれない」と神様を責めています。罪深い人間の一つの姿と言えます。

第3の問題点は、救い主を第一として行動していないことです。マリアだけでなく、マルタも、実はイエス様のそばに近寄ったのですが、他の用事のついでに、立ったまま、イエス様を見下ろし、自分の言葉を主に押し付けているように読み取れます。十字架に向かう主を理解し、敬愛しているようには思えません。

 良い方を選んだマリア

一方、マリアは、主の十字架への決意を感じ取ったのでしょう。イエス様を仰ぎ、主の御言葉を今後の人生でも守って生きる掟として、心の中に据えようと聞いています。それこそが、十字架を目前にしたイエス様が人々に望まれた働き、「奉仕」です。42節「マリアは良い方を選んだ」の「選んだ」は多くの選択肢から、本人が選び出したという意味です。他のどんなことを差し置いても「主の御言葉を聞く」のを選ぶことこそ、主が信仰者に求めている第一のことです。

 「主の御言葉を聞く」=「全身全霊で神様を愛すること」

この話の直前には「善いサマリア人」の話が置かれています。イエス様のこの例話が素晴らしいので、「自分が隣人となるために、助けの必要な人のところへ行く」ことを信仰者は目指すと思います。しかし、その段落の最初にもあるとおり、信仰者の大前提は「全身全霊で神様を愛すること」です。その具体的な行動として、他のことに惑わされず、「掟として、主の御言葉を聞くこと」を第一のこととすべきであると示されています。礼拝で御言葉を聞き、聖書を読んで御言葉を求める、これこそが、全身全霊で神様を愛することの証しなのです。

9月25日の説教要旨 「善いサマリア人」 牧師 平賀真理子

レビ記1918 ルカ102537

 はじめに

今日の新約聖書の箇所は、かつては「善きサマリア人(びと)」と呼ばれ、長年愛されてきた話です。それだけでなく、ルカによる福音書の中で、特に福音の真髄を伝えていることでも、信仰者が心に留めたい箇所です。

 「何をしたら、永遠の生命を受け継ぐことができるでしょうか」(25節)

前半(25節-29節)の律法学者の質問の中の「永遠の生命を受け継ぐ」について、説明が必要だと思います。

聖書の世界では、以下のように考えられてきました。「神様がいらっしゃって、この世や人間を創造なさった。にもかかわらず、サタンが最初の人間達を誘惑して、人間はサタンの支配下に入れられてしまい、サタンの性質と同じく、自己中心で考え、行動し、その結果いがみ合う罪の世界の中に生きるようにされてしまった。神様はそんな人間達をどうしても救いたいと、ユダヤ民族を御自分の民として『律法』を授け、信仰を貫くように導かれた。それでも、人間は信仰を証しできずに、神様が送ってくださる『救い主』を信じて従う者が『神の国に入る』とされるようになった。そのことを別の表現で、「神様の命」、即ち、「永遠の生命を受け継ぐ』と言うようになった」と。私達はイエス様を救い主と信じて歩んでいますが、この律法の専門家のように「永遠の生命を受け継ぐこと」を重要な課題として日々生きているかどうか、各自、吟味する必要があるのではないでしょうか。

 「神様の愛の性質で愛する」とは?

律法の専門家が質問したのは、御自分を試すためとイエス様は判っておられたので、逆に彼に質問し、「全身全霊で神様を愛すること」「隣人を自分のように愛すること」という答えを引き出されました。まず、「愛する」ことですが、ここの「愛する」は、神様の愛し方に倣って愛するという意味で、人間の「単に好きだから愛する」とは違います。27節の「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くし」を元々の言葉の意味に忠実に訳すと「感情すべて、魂すべて、意志力すべて、理解力(知性)すべてを使って」となります。自分の感情だけで好きだから愛するのではありません。愛すべき人だから愛するのです。場合によると、敵対していても「愛する」ことが必要なのです。特に意志力や知性が必要なのは留意すべきです。

この律法の専門家は、神様から賜った律法を研究してきたので、神様を愛してきたつもりだし、神様の民ユダヤ人達に律法を教えてきた点で、彼の中の答えである「隣人=ユダヤ人」をも愛してきたわけで、2つの条件を満たしており、「永遠の生命を受け継ぐ資格がある」とイエス様に言われたかったのでしょう。

 「わたしの隣人とはだれですか」(29節)

イエス様は、この問いを発する律法の専門家の根本的な誤りを指摘されるために、ある例話を話してくださいました。それが30節以下の後半部分です。

強盗によって半殺しの状態の旅人を見かけた3人の対応が書かれています。ユダヤ人が尊敬していた「祭司」や、祭司と一緒に礼拝に携わっていたために尊敬されていた「レビ人」は見て見ぬふりして通り過ぎ、ユダヤ人達が軽蔑してきたサマリア人を、助ける行動をした人としてイエス様は敢えて例えに用いました。神様の「人間を救いたい」という大きな憐れみの前に、人間がこだわる「民族の壁」等は意味がないことを主は示されました。自分を中心に据えて「隣人がだれか」と質問すること自体が神様の御心から離れていて、むしろ「助けの必要な人」を中心にして実際に助ける行動をすることが「隣人を自分のように愛しなさい」の教えに従う人の姿勢であり、神様の御心に適うと教えておられるのです。

 隣人を自分のように愛する

レビ記19章18節は、隣人を愛することの根拠の御言葉として知られています。私を含め、多くの人が、自分を愛する分量と同じだけ隣人を愛すると受け止めてきたと思います。しかし、元々の言葉(ヘブライ語)が含む意味は、神様が自分を愛しているという関係と同じように、神様は隣人も愛している、その関係が同じだという説に出会い、感銘を受けました。神様が自分を愛してくださる恵みを本当に感謝できるなら、同様に神様が愛している隣人をも愛せるはずです。

 本当の癒し主であるイエス様

実は、半殺しにされた旅人が私達、そばに駆け寄って助けたサマリア人こそがイエス様の例えだと見ることもできます。この世でひどく傷ついた私達は、福音によって救われました。私達を本当に癒してくださる主の愛に感謝しましょう。