12月18日の説教要旨 「インマヌエル預言の実現」 牧師 平賀真理子

イザヤ書71014 マタイ福音書11825

 はじめに

「インマヌエル預言」とは、今日の旧約聖書箇所イザヤ書7章14節です。「それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。/見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」

 預言

預言とは、神様から与えられた御言葉を、神様から選ばれた預言者が、王様や民衆に告げるように命じられて語られたものです。旧約聖書を奉じるユダヤ人達には、預言者達が折々に現れました。特に、ユダヤの王様や民衆が「主」と呼ばれる神様を信じない時に、「主」を信じる信仰に立ち返るよう、警告を発する内容が多くあります。インマヌエル預言も、まさにそのような時に預言者に与えられたものです。

 ユダの国王アハズの不信仰

イエス様がお生まれになる前、約700年前に実際に起こったことです。ユダヤ人の国ユダの王だったアハズは、先祖を導いた「主」を大事にせず、他の神々を信じる行動を取りました。自分の国が他の2国から攻められた時にも、「主」への信仰に立ち返ることなく、周辺で一番強いアッシリアの王を頼りにしました。そこへ、預言者イザヤが預言を携え、神様から派遣されました。そして、2つの国がユダ国に迫って来ても「恐れることはない。この2国は近い将来、必ず滅びる」と預言し、ユダの国とアハズ王の揺らぎを静めようと神様が働きかけてくださいました。「主」と呼ばれる神様は、イザヤを通し、本当の神様が働きかけてくださっていることを証明するため、「しるし」を求めることさえ、お許しになりました。

 アハズ王の罪深さ

これに対し、アハズ王は「主を試すようなことはしない。」と言いました。「主を試してはならない」とは、申命記6章16節にある掟で、アハズの答えは、一見、信仰的です。しかし、違います。列王記下16章に詳細にありますが、アハズ王は「主」への信仰に戻らず、この世の尺度で力強く見える人間、即ち、アッシリアの王を頼りにする決心を翻しませんでした。「主」を信じていないのに、信仰深いふりをする、そのような罪深い人間に対して、主は「もどかしい思いをされている」と預言者は語ります。(我が身はどうでしょうか。)

 人間の不信仰にも関わらず、この世に働きかけてくださる神様

そのような不信仰極まりない人間の言葉や態度に左右されることなく、主が直接この世に働きかけてくださると預言で告げられました。アハズ王のように、主を捨て、心の底では背いているのに、言葉では信仰深いように装おうとする罪深い人間が求めないのにも関わらず、憐れみ深い神様は、この世に働きかける「しるし」を送ると宣言されました。それが、インマヌエル預言です。

 インマヌエル預言の実現=「イエス」様

インマヌエル預言は、ユダヤ人達の歴史の中で、「主」が「救い主」を人間の男の子として自分達に送ってくださるという信仰へと発展していき、約700年後に、本当に、それが実現したのです!しかし、その男の子の名前は「イエス」と名付けるよう、天使がこの世の父親ヨセフに告げています。「イエス」とは、ヘブライ語の「ヨシュア」のギリシア語風呼び名で、「ヨシュア」とは「ヤハウェ(旧約聖書の神様の名前)は救い」という意味です。だから、今日の新約聖書箇所の21節にあるとおり、「自分の民を罪から救うから、『イエス』」と説明されているのです。

 私達に「インマヌエル(神は我らと共におられる)」をもたらすイエス様

「主」は私達人間を愛し、共に居たいと願われるゆえに、御子イエス様をこの世に送ってくださり、神様と人間を隔てる罪を贖うための十字架の犠牲とされました。そのイエス様を主と信じるだけで、私達は主の恵みによって「神様が共に居てくださる」、そのような人間に変えられるのです。だから十字架にかかり、贖い主となられ、神様から栄誉の復活を賜ったイエス様は、この世での名前のとおりに「ヤハウェは救い」であることを証し、かつ、「インマヌエル」=「神は我々と共におられる」という、隠された、別の名前(預言の名)の意味も全うされています。

 聖霊により御降誕されたイエス様と預言の実現を受け入れたヨセフの信仰

神の御子イエス様の御降誕は、聖霊の働きによるものだと、今日の新約聖書箇所2か所(18節と20節)にあります。ただ、メシアを待望するとはいえ、インマヌエル預言が我が身に起こったら、多くの人は受け入れ難いでしょう。でも、ヨセフは天からの御言葉を信じ、従順でした。ヨセフのように、天から来る神様の御働きを、この世の人間として受け入れ、従えるよう、聖霊の助けを祈りましょう。

12月11日の説教要旨 「救いの先駆者」  平賀真理子牧師

士師記13214マタイ福音書11219

 はじめに

今日の新約聖書の箇所はイエス様に洗礼を授けるという重要な役割を果たした「洗礼者ヨハネ」がイエス様に質問するために自分の弟子達を派遣するところから始まります。

 預言された「救い主」のなさること

洗礼者ヨハネの質問は「イエス様が来るべき方かどうか。それとも、他の人が来るべき方か。」ということでした。「来るべき方」とは、当時のユダヤ人達が信じていた、神様が送ってくださる「救い主」のことです。神様の御言葉を預かる預言者達によって、「神様がこの世に救い主を送ってくださる」と人々は知らされていました。その預言の一つが、イザヤ書61章にあり、その冒頭の1節は特に有名でした。救い主がこの世に来られたら何をなさるのか書かれています。「貧しい人に良い知らせをもたらす・打ち砕かれた心を包む・捕らわれた人には自由をくださる・つながれている人には解放を告知してくださる」のです。

 イザヤの預言がイエス様の御許で実現していた!

イエス様の御許で、イザヤ書の預言どおりのことが行われていました。多くの人々が病いから癒され、イエス様との出会いで希望を持つようになりました。そんなことができる人は、それ以前に存在しませんでした。ユダヤ教を教える先生達はいましたが、イエス様のなさった御業は、神様の御力をもってしかできないこと、つまり、「神の御子・救い主」にしかできないことでした。ヨハネの弟子達は、イエス様の所へ来て、現実を見たのであり、それをヨハネに伝えるようにイエス様はおっしゃいました。それは、預言を当然知っているヨハネが、弟子達の証言を聞き、イエス様が預言された「救い主」だと自ら悟ってほしいと願ってのことでしょう。

 「主の道を備える者」としての洗礼者ヨハネ

イエス様が公生涯を始められる前に、ユダヤ人達や周辺住民は、洗礼者ヨハネの悔い改めを勧める話を聞き、その洗礼を受ける人も多くいました(マタイ3:1-12)。「救い主」が現れる前に、「主の道を備える者」としての役割をヨハネは果たしていたのです(イザヤ書40:3)。人々が悔い改めに本当に励んでいたら、救い主が来られた時、人々の心の受け入れ準備ができているであろうと、神様が計画なさったのだと推測できます。だから、イエス様はヨハネについて、人間の中で一番偉大だと語られました。

 「救い」の新しい御計画

しかし、その直後に、こう語られました。「天の国で最も小さい者でも、ヨハネより偉大である。」。これは、神様の救いのご計画が、古い形から新しい形に移ったことが伏線として隠されています。神様は人間の救いのご計画を、最初は、ユダヤ民族を中心とした救いとされました。しかし、人々の不信仰で救いの実現が遠のきました。そこで、神様は「救い主」を信じる者達を中心とした救いのご計画を新しく立てられました。救い主イエス様を信じる者達が集うのが「神の国」「天の国」です。だから、最初の救いの計画の中にいたヨハネよりも、救い主を信じるという新しい救いの形で救われる者達の方を、主が偉大な者達として喜んでくださることが示されています。

 洗礼者ヨハネの先駆者

新しい救いのためには「救い主」が重要です。そして、その救い主の先駆けとして「主の道を備える者」だったヨハネは、救い主イエス様と繋がった存在として、神様のご計画のうちで重要な存在でした。神様は、救い主イエス様だけでなく、そのヨハネにも、先駆者を置かれました。ヨハネの先駆者として有名なのは、預言者エリヤです。ユダヤ人達は、エリヤを最高の預言者として尊敬しました。

 サムソン

しかし、エリヤだけでなく、それより以前のサムソンというリーダー(「士師」)も、ヨハネの先駆者として挙げることができます。今日の旧約聖書箇所でわかるとおり、生まれる前から(母親の胎内に入る時から)、神様のご計画のうちにあって、神様の御業を担う人間として、神様が特別に愛されたことがわかります。サムソンは、当時のユダや人の敵だったペリシテ人に打ち勝つために神様が初めから準備された人物です。このように、神様の救いの御業は、幾重にも重なった準備の上になされることが示されています。

 私達の先駆者、私達が先駆者!

このことは、救い主イエス様を信じて「神の国の民」とされている私達信仰者にも言えます。私達の救いのために神様がご計画くださり、誰か先駆者を通して、私達を救ってくださいました。神様が幾重にも準備してくださっているのです。それほどまでに憐れみ深い神様に感謝しましょう。そして、今度は私達が誰かの先駆者になれるよう、学び続け、祈り続けて参りましょう。

12月4日の説教要旨 「主は来られる」  平賀真理子牧師

イザヤ書591220マタイ福音書135358

 はじめに

先週の説教で「救い主を迎えるのに、ふさわしい心を用意しましょう。」と話しました。それは、具体的には、どういう心なのでしょうか。実は、「待降節」または「アドベント」の時に、特に大事なこととして勧められていることは、「悔い改め」です。

 「悔い改め」

 悔い改めとは、自己中心というこの世の価値観に基づいた生き方から、神様の御心を第一とした生き方に180度方向転換して生き始めることです。「悔い改め」の重要性について、今日の旧約聖書箇所にも書かれています。イザヤ書59章の小見出しは「救いを妨げるもの」とあります。人間が救われていない理由について、神様の力不足ではなく(1節)、人間の悪が神様と人間を隔てているから(2節)と確かに示されています。「人間の悪」が原因です。自分の本来の造り主である神様のことを考えずに、自分を中心に生きる習性=人間の悪が、神様からの救いを妨げ、神様と人間を隔てるために、人間は神様の許に帰れず、救われないのです。だから、そこから立ち帰る=悔い改めが必要です。

 「主に対しての『偽り』『背き』」

聖書で証しされている神様「主」は愛することを喜ばれる神様であり、正義を愛する神様です。だから、主を知らされた人間も、主に倣って生きるべきだと知っています。でも、現実はいつもそうできるわけではない、自分の日常生活を顧みれば明らかです。その時、私達はどのようにしてしまいがちでしょうか。本当は素直に謝ればいいのに、できません。そこで、イザヤ書59章13節にあるように、主に対する「偽り」「背き」へと傾いていきます。私達はまず、自己正当化しようとして言い訳を考えがちです。私達は、その言い訳を更に自分の都合いいように思ってもらおうと躍起になり、話を大きくしてしまい、最後には「偽り」にまで発展してしまいます。しかし、「偽り」を抱えた心の闇が神様にふさわしくないことだけは自分でわかります。だから、神様の目を恐れるようになります。神様の目をごまかそうとして、愚かにも、自分から神様に背を向けるようになります。それが「背き」です。そんなことを繰り返すことにより、私達は永遠に神様から離れ去ってしまいます。そのような人間達が集まって造る社会だから、中心にいるべき正義もまかり通らなくなります(14節-15節a)。

 「主は贖う者として」

しかし、そんな人間達を主は裁くのではなくて、贖う者として、私達の所に来てくださるということがイザヤ書59章20節にはっきり書かれています。「主が贖う」とは、自分から神様に背いた人間の罪を、主が代わりに背負ってくださるという意味です。「主」は、まず人間の罪を贖う御方であるということを、是非、覚えていただきたいです。

 「ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに(主は)来る」

次に20節に書かれている御言葉は「ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに(主は)来る」ということです。「ヤコブ」とは、創世記32章23節以降を読んでいただくとわかるのですが、主(の使い)と真剣に格闘した人です。主の祝福をいただくまで離さないと言って主(の使い)にしがみつき、とうとう「主の祝福」をいただき、主から「イスラエル」という新たな名前をもらった人です。つまり、神様なんてわからないとか信じられないとか言って斜に構える人ではなく、神様と真正面から向き合おうとする人のことです。そういった姿勢で生きる人で、しかも「罪を悔いる者」のもとに「主は来られる」のです。この世で生きる私達には、この世の常識や自己中心の思いに染まり、主がお嫌いになる「偽り」「背き」をしてしまうことがあるかもしれません。しかし、その時、素直に主の方に真正面に向き直り、謝り、次の機会には聖霊を送って助けてくださいと祈って、その都度、自分を主の御心に従わせる(悔い改める)ことが必要だと思われます。

 イエス様の故郷(ナザレ)の人々と私達の共通点

今日の新約聖書箇所では、ナザレの人々が、イエス様を人間としてだけ捉え、「救い主」として受け入れなかったと記されています。彼らは出来事を表面的に捉える目だけしか持っていませんでした。神様の預言を知らされていたユダヤ人ですから、神様の御言葉を信じて、人間的な見方にだけに縛られず、神様からの目をもっていたら、イエス様が実は「救い主」なのかもしれないと思えたかもしれません。主を知らされた人間は、自分の体験の奥に主の御心があるはずだという目を持たなければなりません。さて、私達の仙台南伝道所も福音伝道という主の御業のために立てられ、14周年を迎えました。私達は、主の御業を体験しているという点でナザレの人々と同じです。「教会」に招かれた体験を主の御業として受け入れ、「主が来られる」と言われた再臨の時を待ち望みましょう。

11月27日の説教要旨 「主を待ち望む」  平賀真理子牧師

イザヤ書215 マタイ福音書243644

 はじめに

今日から、キリスト教の暦では「待降節」または「アドベント」という、特別な期間に入りました。この期間、キリスト教会では、神様がこの世に救い主イエス様を送ってくださった恵みを感謝し、主が再びこの世に来てくださることを待ち望みつつ過ごします。本当のクリスマスの意味を知る私達は、主の御降誕を祝う「クリスマス」の前に、「アドベント」という期間を設け、救い主を迎えるのにふさわしい心を用意するのです。

 「終わりの時」

今日の新約聖書の箇所は、1ページ前の24章3節の弟子達の質問にお答えになったイエス様の御言葉です。36節の冒頭の「その日、その時」とは「主が来られて世が終わる時」(3節)を指します。聖書を奉じてきた民は神様が始められた「この世」には「終わりの時」があると考え、それが、いつ来てもいいように、その時の神様の裁きに堪え得る生き方をしたいと緊張感をもって生きてきました。だから、弟子達もイエス様なら「終わりの時」を御存じで教えてもらえると期待し、質問したのでしょう。ところが、イエス様は、それは天使も知らないし、神の御子の御自分も知らない、ただ、天に居られる神様=イエス様の父なる神様だけが御存じだと語られました。

 大きな出来事を突然受けるだけの人間

とすると、人間は大きな出来事である「終わりの時」を突然迎えることになります。そんなこと、実際にあるのでしょうか。しかし、イエス様は、人間の歴史の中で、突然「終わりの時」に襲われて、多くの人が滅んだ出来事が本当にあったことを想起させようとされました。「ノアの時の洪水」です。

 神に従う人「ノア」だけに訪れた救い

「ノア」と言えば、「ノアの箱舟」で知られている「ノア」です。創世記6章から9章までに「ノアの物語」が記されています。大きな洪水が起こったのは、人間が悪を思ったり行ったりすることが増え、神様が人間をお造りになったことを後悔され、人間を滅ぼそうとお考えになったからでした。しかし、ノアだけは「神に従う無垢な人」(6:9)だったので、神様がノアとその家族だけはお救いになりました。ノアの周りの人々は、この世での肉なる者として欲望中心に生きていたために、神様からの知らせを聞くことなく、何にも気づかずに突然「終わりの時」を迎えて滅びました。ノアは神様から知らせを受けていたために、突然でもなく、「終わりの時」に備えて、困難を乗り越える方法(箱舟を造って乗り込む)を神様に教えていただきながら、家族と共に滅びから救われました。この両者の違いを私達は認識すべきです!

 「神様の御心に従う心を眠らせてはならない」

だから、イエス様は「目を覚ましていなさい」(マタイ24:42)と教えてくださいました。もちろん、肉体的に眠ってはならないのではありません。「神様の御心に従う心」を眠らせてはいけないということです。神様の御心は福音の中に、また、神様の御言葉の中に表れています。また、マタイ福音書24章44節には、主は「用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」と語られていますが、何を用意するのでしょうか。それは「神様に向き合うのにふさわしい心、神様に素直に従う心」です。

 「再臨の時」に備えて

救い主イエス様は約2000年前に既にこの世に来てくださいました。そして、私達の罪を贖ってくださるために十字架で亡くなった後、復活され、そして昇天される前に「再びこの世に来てくださる」と約束されています。(使徒1:11) それを「再臨の時」と言いますし、世の終わりにその再臨の時が来ると伝えられています。先にも述べたように、それがいつなのか、当のイエス様さえ御存じないのだとすると、その重大な出来事を受けるだけの私達人間は、いつも「神様に従う心を大事にしていき、『終わりの時』がいつ来てもいいように歩むべきでしょう。

 「救い主」については預言されていた!

実は、ノアの時と同様、神様の御心に従う人々には、「救い」について何千年も前から預言され、旧約聖書に記されています。今日の旧約聖書の箇所もその一つで、「終わりの日」について預言されています。主の教え・御言葉が「ヤコブの神(天地を造り、「ヤコブ」を選んで人間を救おうと働く神)の家」から出て、全世界の民が従うようになり、本当の平和が訪れる希望が述べられています。

 「終わりの時」=「完成の時」

人間から見たら突然来る「終わりの時」は、実は、神様が御計画されてきた「救いの完成の時」です。イエス様の御降誕は救いの「完成の始まりの時」で、主の再臨の時が「完成の終わりの時」です。私達は、神様が人間を救おうとされる御業の完成の始まりと終わりの間の時に生きています。神様の御言葉を聞き続け、完成の終わりの時を待ち望みつつ、神の民としてふさわしい心を用意しましょう。

11月20日の説教要旨 「どこから来て、どこへ行くのか」 佐々木勝彦先生 (東北学院大学名誉教授)

マルコ福音書4192629

 はじめに

本日の収穫感謝礼拝の説教を依頼された時に、若い人達は収穫の経験があるのかと疑問に思いました。しかし、収穫の経験がなくても、今日の聖書箇所は、収穫のことだけを語っているのではないとわかります。このマルコ福音書4章を読んでいくと、人間の心の問題や人間の生き方の問題を例えているということがわかります。「収穫」とは勿論、自然の恵みのことを言っていると同時に、私自身の収穫について語られている、つまり、「私がどんな実を結ぶのか」ということが語られています。

 聞くための聖書

私達にとって聖書を読んでいるかが問題になりますが、元々、聖書は聞くものでした。聞くためには語ってくれる人が必要です。礼拝でも、聖書朗読が一番大事です。聖書を聞くことについて最近聞いたのですが、間もなく、新しい聖書が出るそうです。今の新共同訳聖書は、朗読されても、心に響かないと感じます。聞くに堪える聖書が求められています。私達は「聞く喜び」を求めています。人々は聞くことに飢えているのです。

 「種を蒔く人のたとえ」⇒「蒔かれた種」

マルコ福音書4章1節―9節は「種を蒔く人のたとえ」という小見出しがついていますけれども、なぜ、道端や石地や茨の中に落ちるように種を蒔くのでしょう。日本では、土を耕して種を蒔きます。しかし、イエス様が生きた地域「パレスチナ地方」の農法では逆に「種を蒔いて、土をかける」順番で種が蒔かれていたのです。この「種を蒔く人のたとえ」の話では、4章13節からイエス様の説明があるのですが、蒔かれた種が鳥に食べられる、その鳥とはサタンであると言われています。種を蒔く人の話から、蒔かれた種の方に話が移っています。更に読み進むと、石地だらけの土地に種が蒔かれたという表現があります。石地だらけとは「人の心」の状態の例えでしょう。石地だらけの土地に落ちた種が苦労するように「人間は苦しむ」ということを問題にしていると思われます。

 「サタンによって人間は苦しめられる」

人間の苦しみについて、サタンの仕業と考える場合が多いのですが、その「サタン」とは、私達人間を苦しめるものであり、人間の力を超える力を持っており、しかも人間を破滅させる力があり、人間から見たら「悪い」としか思えない存在と言えるでしょう。例えばパチンコにはまってしまう場合、それを聖書では「サタンが働いている」という訳です。人間の意志を越えて悪に引きずりこむ力を持つのがサタンと言われています。例にしたパチンコに最初にはまってしまう時、パチンコはその人にとって大変魅力的だったのです。「サタンは笑顔で来る」と言われています。

 苦しみに襲われる人間⇒「私はどこから来て、どこへ行くのか」

私事ですが、半年ほど前に、私達夫婦は住み慣れた仙台から広島へ行きました。仙台への未練を断つために仕事を辞め、家を売って広島へ行きました。私は信仰によって故郷を旅立った「アブラハム」になったつもりでした。ところが、広島で病気になって痛むために歩くのが困難になりました。新しい土地に来たのに、5か月間も外出できませんでした。そこで私の苦しみが始まりました。「自分は何をやっているのか?何かの罰か?」という疑問に襲われ、苦しみの原因を考え、「私はどこから来て、どこへ行くのか」をしみじみ考えるようになりました。

 「どこから来て、どこへ行くのか」を指し示すのが教会

外出できなくなる少し前に、広島のクリスチャンの会合に呼ばれて話をするように頼まれたので、来年迎える宗教改革500年記念に関する話をしようと提案しました。しかし、そこで拒絶に遭いました。今すぐにできる実践的な話をしてほしいと言われたのです。クリスチャンは、良い話を知っていて口で言うばかりで、実行しないという批判をよく聞きます。それで何か実践したいと思いがちです。それは正しいことです。しかし、もっと本質的な話、クリスチャンは「どこから来て、どこへ行くのか」という本筋を押さえた上で行う方が良いと切実に思いました。具体的に言えば、教会は福祉施設でしょうか?そうではありません。教会は、教会でなければできないことを大事にすべきです。私達は「どこから来て、どこへ行くのか」、その根っこを確認すべきです。「人間はどこから来て、どこへ行くのか」ということを、教会は指し示す役割があります。

 苦しみの中でも、神様の目で見つめる

今日の聖書箇所に戻ってみると、人間の苦しみについて、具体的に書かれています。人生とは思い煩いとの戦いであり、人間はお金(富)や権力、欲望との戦いに明け暮れます(仏教用語で「煩悩」と言い変えられるものです)。人間は思い煩いに負けてしまう時、良い土地にならねばならない!土地改良すべき!という目標を立ててしまいがちです。しかし、私はこう考えています。「自分は時には道端、時には石地、時には茨」と自分の状態をわかりながらも、「そんなことに目を止めなくてよい」と。それは今日の聖書箇所として挙げた2つ目の箇所「『成長する種』のたとえ」(マルコ福音書4章26節-29節)から わかります。土がひとりでに芽を出させるのです。人間は自分がどうかを見つめる傾向にあります。「隣人を愛しなさい」と言われるけれども、できない自分を見つめます。内側向きです。しかし、敢えて思い切って内側に向いている目を放し、外側から見る、つまり、私をお造りになった神の目で見ることをお勧めします。内側と外側が交差するところに人間が見える、それが「信仰」です。私が見ているのであり、同時に見られているのです。「信仰」とは複眼で見ることとも言えます。それがクリスチャンとクリスチャンでない人との違いです。クリスチャンは、自分の目と神様の目で見ることができます。「神様の目で見る」のは大変なことです。それを教会では、「聖書に聞く」、つまり、「神様の言葉を聞く」ことで行ってきました。別の言い方では、「私が読むことでもあり、読まれること」でもあります。見ることと見られること、これを合わせて、英語でhappening(出来事という意味)と言います。happeningが起こる、これが神様に出会うことと言えます。私が、聖書を、神様の御言葉を読んでいるうちに、実は、神様に読まれているとも言えます。

 「一粒の麦」

さて、聖書でもう一か所「種」と「麦」が出てくる話として忘れられないのが「一粒の麦」の話(ヨハネ福音書12章24節-26節)です。「一粒の麦」は死なねばならないと記されています。「一粒の麦」に例えられる私達は死なねばならないのです。「何のためにどのように死ぬのか」を考えなければならないでしょう。最初に述べたように、私達の人生は麦の収穫に例えられ、「実を結ぶ」ように求められています。先述した、私的な体験で、「私達は、このままでは実を結べない」と考え、「実を結ぶ」ために、自分達の年齢から推測して、働ける年数を「あと10年」と予想し、仙台に帰ってきました。「終わりの時」を考え始めたのです。「終わりの時」を考える時、人間は自分に何が出来るか、出来ないかを真剣に考え始めるのではないでしょうか。今まで話してきたとおり、信仰者は、土地は神様のものだと知らされています。土地が種を成長させてくれる、つまり、神様が私達「種」を成長させてくださると信じて感謝しつつ歩みましょう。以上