2月12日の説教要旨 「わたしたちの帰る場所」 吉田 新 先生(東北学院大学)

ホセア書21619 マルコ福音書13539

 祈りの二つの目的

本日は、「祈り」について皆さんと共に考えたいと思います。祈りには、二つの目的があると私は思います。最初の祈りの目的とは「退く」ことです。大切なときに気持ちが焦り、冷静さを失ってしまう。それは誰しも経験することです。そうならないために、どうしたらいいのか。まずは「退くこと」です。大切なことを前にした時、重要な決断をしなければならない時、人生の節目にあった時、その場からひと時、退くことです。キリスト教ではそれを「リトリート(retreat)」と呼んでいます。「リトリート(retreat)」というのは、「退く」「後退する」「退却する」という意味ですが、キリスト教では普段の生活を離れ、神様との交わりを深める時間のことを指します。そのようなリトリートの起源はイエス・キリストに遡ります。本日の聖書箇所に記されたイエスの姿です。イエスは人々に教えを宣べ伝える活動の前に、一人で人里離れたところに行き、祈ったとあります。イエスはまず「退いた」のです。本当に自分にとって大切な決断を下す時、自分の向かうべき道がわからない時、焦って前のめりに進むのではなく、一歩後ろに退いてみる、神様と静かに対話する時を持ってみるのです。その時を少しでも持てば、私たちは私たちがなすべきことが自ずと知らされると思います。最初の祈りの目的とは「退くこと」です。

 荒野、神の声を聴く場所

聖書の箇所には「人里離れた場所で祈っていた」とあります。マルコ福音書ではこの箇所だけでなく、イエスが活動の合間に一人で祈られる姿がしばしば記されています。祈りとイエスの活動は不可分に結びついています。

新共同訳では「人里離れた場所」と訳されておりますが、原文では「荒れた場所、耕作されていない荒地」という意味だと思います。「人里離れた」という形容詞を名詞にしますと「荒野」です。ちょっと人ごみから離れて休息を取るといった意味ではなく、厳しい場所にあえて身を置いたことを意味すると思います。おそらく、このようなイエスの祈りの姿が、後々、過酷な環境に身を置き、祈りに専念する修道生活の伝統を生み出していったと考えます。

では、なぜ祈るために厳しい場に身を置くのでしょうか。先ほどイエスは「荒れた場所、耕作されていない荒地」に向かったと言いましたが、聖書において「荒野」とは単に荒れた土地という意味ではなく、荒野は「神の声を聴く場所」でもあります。実際、旧約聖書の預言者たちは荒野で「神の声」を聴きます。ですから、荒れた地に赴くとは、神の声を聴くために、「出向く」ということです。ここに祈りの二つ目の目的があります。「自分から神の方に向かうこと」です。日々、私たちは様々な場面で祈りますが、どれくらい「神の方に向くこと」を意識して祈っているでしょうか。それを自分に問いかける必要があるかもしれません。

長く、教会生活を送っている方々は、習慣として祈っていると思います。しかし、いま一度、祈りの最も基本的な姿勢を味わっていただきたいと思います。「祈り」とは「退くこと」、そして「自分から神の方に向かうこと」、つまり「神の方に帰る」ことです。

 神の方に帰る

では、神の方に帰り、私たちは何をすべきでしょうか。自分のお願いや希望を述べるべきでしょうか。そうではありません。日常生活を退いて、神の方に向き直し、神の方に帰り、私たちは私たちを差し出すのです。飾らない、ごまかさない、嘘のない自分を神に差し出しましょう。神が求めているのはありのままのあなたです。いまのあなたを差し出すことこそが本当の祈りです。そうすれば、あなたの心は確実に楽になると思います。

一日の生活の中でひと時の祈りの時に、神の方に向き直ることを意識すれば、私たちの世界はまた違って見えてくるはずです。それを通して、私たちが帰る場所も見えてくると思います。そして、そこで私たちは自身を神に差し出しましょう。

2月5日の説教要旨 「ともし火」 平賀真理子牧師

詩編119105112 ルカ福音書113336

 はじめに

2017年の年明けから、ルカ福音書11章14節以降の「ベルゼブル論争」から読み進めてきました。今日の箇所で、一連の流れのお話は終わりになります。ルカ福音書の筆者は、「体のともし火は目」といった、今までの流れとは、一見関係ないような話を、この箇所に置いています。

 直前の段落「人々はしるしを欲しがる」から導き出されること

しかし、この箇所が直前の段落を受けて書かれていることがわかれば、今日の箇所が、私達に対する主の勧告だと理解できます。直前の段落で大事な「しるし」として語られているのは、イエス様の十字架と復活の御業による救いのことです。「救い主としてのその救いの恵みは全人類の救いのしるしとなる、つまり、主の十字架と復活の恵みは全人類に惜しみなく与えられていると語られています。

 「ともし火」=「主の十字架と復活の恵み」の例え

だから、今日の箇所では、「ともし火」とは「イエス様の十字架と復活の恵み」の例えと言えるでしょう。主の救いの御業の恵みはとても大きいので、隠せるようなものではなく、むしろ、その光を求めてやってくる人にはよく見えるようにふさわしい場所に置かれるべきものであると33節で語られているのです。

 人間の体の中で「ともし火」となるべきところは「目」

次の34節では、人間の体の中で「ともし火」となるべき個所は「目」であると語られています。医学的に言えば、「目」が光を受けて「光」を認識する器官であるということでしょう。その作りが完全で、完全に機能していれば、光を受けて体にも光が満ち溢れることになるし、そうでなければ、体がに光のない状態=闇に満たされることになると語られています。

 「目」=「心の目」

「目」とは「心の目」の例えです。「目が澄んでいれば」とは、元々の言葉で「目が単純であれば」という意味を含んでいます。それは何を言っているのかというと「心の目が単純であること」、つまり、「神様に二心を持たないこと」を指すそうです。唯一の神様だけを第一に敬う心の目が機能しているかどうかということです。ユダヤ人達の中で、「澄んだ目」とは「唯一の神様を信じる心」を例えたもので、「澄んだ目」を持った人だけが「唯一の神様を見ることができる」という考えがあったそうです。

 「目が濁っている」=「唯一の神様を信じない」

34節では、逆に、「目が濁っている」という表現がありますが、それは「唯一の神様を信じない」とか「複数の神々を信じている」とか「この世の価値観を第一に生きている」といった意味になるわけです。

 33節-34節のまとめ

イエス様の十字架と復活の恵みは誰にでも与えられる大いなる恵みなので、それを尊重して輝かせられるよう、ふさわしい「心の場所」に置かれるべきであり、そうすることで、自分も他者も、その恵みをいただくことができ、神様の御前に健全な存在となれます。そのような豊かな恵みをくださる「唯一の神様」を信じる「澄んだ心の目」でいられるように、イエス様が勧めておられるのです。

 「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」(35)

「澄んだ目」であれば、主の十字架と復活の恵みの素晴らしさがわかるはずです。でも、人間は一度わかっても恵みを忘れることがあることも、主はよくご存じだったのだと思います。だから35節で、その恵みを受けた光が消えていないかを注意するように教えておられます。

 「主の救いの完全な光に照らされ続けるならば」

そして、イエス様の救いの恵みの完全な光に照らされ続けるならば、私達人間は、神様から離れた闇の部分などなく、本当の恵みの光が、その人の全存在を輝かせるはずだと36節で語られています。

 2つの課題

今日の箇所から私は2つの課題を読み取りました。1つは「ともし火」が唯一の神様の御子イエス様の救いからくるものだと知ることです。ユダヤ人の多くは神の民として選ばれて愛されながら、イエス様を救い主と理解できませんでした。しかし、新約時代の私達は、聖霊の助けにより、そのことをわからせていただいていることに感謝しましょう。そして、2つ目の課題として、本当の光をふさわしい場所に高く掲げ続ける必要を痛感します。この世に対する証しとして、教会がその役目を第一のこととして負う責任を果たしているかを吟味し続けるべきです。そして、教会に連なる私達一人一人が、主の救いの恵みの光を高く掲げて、キリスト者としての生き方を貫くことも、主の恵みをふさわしい場所で輝かすことなのです。2つの課題に励めるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。

1月29日の説教要旨 「しるしを欲しがる」 平賀真理子牧師

ヨナ書3110 ルカ福音書112932

 はじめに

今日の新約聖書の箇所は、3つ前の段落の「ベルゼブル論争」の中の16節「イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者たちがいた。」の所を直接受けて書かれていると思われます。悪霊を追い出す御力、語られる話の素晴らしさなどから、イエス様の居られる所には、人々が次々に集まって来ました。けれども、この時には、その多くがイエス様を信じたいというよりも、信じないという反対派の人々が多かったようです。積極的に反対する人は、イエス様の御力が悪霊の頭からくるものだと言い出しましたし、そこまで激しく反対しなくても「イエス様が神様から送られた人なら、天からのしるしをすぐに見せてくれて、自分たちが信じやすいようにしてくれるはずだ」と思っていたようです。これは、神様を自分の思いどおりに動かそうとする「罪」=「傲慢」からくるものですが、イエス様は、17節にあるとおり、人々の心を見抜く御方です。彼らの罪からくる、反対の気持ちが強いこともわかっておられたようです。

 救いを求めていない人々、困っていない人々

人々がたくさん集まってきたら、普通は心地よい言葉から話し始めるのが、この世の方法ですが、イエス様は「今の時代の者たちはよこしまだ」との厳しい言葉から始めておられます。よく考えれば、この時の群衆は、イエス様がある人に取り憑いた悪霊を追い出して口が利けるようにする奇跡を既に見たのに、それ以上の奇跡を見たいと願ったわけです。彼らの要求どおりにしたら、彼らはイエス様を信じたでしょうか。答えは「否」だと思います。彼らはイエスを信じて本当に救われたいという思いよりもただ、凄い奇跡を見た!という経験を他の人に自慢したいだけだったと思われます。彼らは、その時点では、本当には困っていない、本当に救われたいと切望していない人々だと思っていいでしょう。

 「ヨナのしるし」

そんな人々にも与えられるしるしが1つだけある、それがヨナのしるしだとイエス様は語られました。「ヨナ」という人は神様から選ばれた預言者で、乗っていた船が嵐に巻き込まれた時に、人々の命を守るために自らが犠牲になって神様の怒りを静めようとしましたが、神様はヨナを死なせず、三日三晩大きな魚の腹の中に留まらせ、魚に命じて3日後に陸に吐き出させました。この後、ヨナは異邦人の町ニネべの人々に神様の言葉を伝え、彼らを悔い改めに導き、滅びから救いました。ニネべの人々にとって、ヨナの存在が神様に繋がる救いのしるしとなりました。ヨナが「三日三晩魚の腹に居て、再び陸に姿を現わす」という様子は、イエス様が「十字架にかかり、陰府(よみ)にくだり、3日後に復活する」ことを先取りした表現だとキリスト教界では説明しています。

 「ヨナがニネべの人々のしるし」=「人の子が今の時代の者たちのしるし」

30節で「人の子」とあるのは、「救い主イエス様」のことです。先述したように、ヨナがニネべの人々の救いのしるしとなったと言えるのですから、「十字架と復活の御業を成し遂げたイエス様の救いの恵みはとても大きくて、今の時代の者たちが救いを求める気持ちがたとえ薄くても、しるしとなってくださる」ということを意味しています。

 イエス様のメシア宣言:「ソロモン王や預言者ヨナにまさるもの」

31節では、「南の国の女王」とソロモン王のことが語られています。これは、旧約聖書の列王記上10章や歴代誌下9章に書かれています。イエス様が生まれる1000年程前のこと、イスラエルの民の国が栄えた時の王がソロモン王です。神様に自分の健康や富を願わず、神様から託された民を正しく裁くのに適切な知恵をくださいと願って神様が大変喜び、知恵を豊かに授けたことで有名でした。その名声を聞きつけて、南の国の女王(別名「シェバの女王」)がやって来たという話です。彼女は、ソロモン王に謁見するためにわざわざ遠い国からエルサレムにやって来て、その知恵を確かめ、その素晴らしさがわかったら、ソロモンに知恵を授けた神様を賛美して、献げ物をして帰って行ったのです。イスラエルの人々が知っている話を通して、イエス様は「異邦人がわざわざやってくるほどの知恵を持った偉大な王様ソロモンにもまさる『救い主』がここにいる!わたしがその救い主だ!」とおっしゃっていたのです。32節では、ヨナの話に戻っています。30節で、異邦人に悔い改めを起こす説教をした預言者ヨナがニネべの人々の「救いのしるし」という点で、「人の子」が今の時代の者たちに対するのと同じだと語られましたが、実は「救い主イエス・キリストは、本当は比べ物にならない程の大きな恵みをくださる救い主だ」と御自分のことを客観的に教えてくださっていたわけです。信じる者は勿論、その気持ちが今それほど高まっていなくても、救い主イエス様の救いの恵みは全人類に豊かに与えられています。

十字架と復活の主が、どんな人にも救いのしるしであることに感謝しましょう。

1月22日の説教要旨 「真の幸い」 平賀真理子牧師

詩編11918 ルカ福音書112728

 はじめに

今日の新約聖書の箇所は、2つ前の段落の「ベルゼブル論争」、その次の「汚れた霊がやって来る」の話の流れの中で、イエス様が2つのことと戦っておられたことがわかります。一つは、悪霊の頭ベルゼブルとその手下という、霊の次元の戦いです。もう一つは、イエス様を信じないことに懸命な人々です。積極的に反対する人は「イエス様の御力は悪霊の頭ベルゼブルからのもの」(11:15)と言っていました。別の人々は、既に悪霊払いのしるしを見たのに、更に、自分達の前でしるしを見せてほしいと要求する人々でした(11:16)。

この2つの段落を通して、2つのことが明らかにされました。1つは、救い主としてイエス様がこの世に来られた故に、神様の霊が悪霊に勝利することが起こっているということです。つまり、「神の国」がイエス様と共に居る人々の所に既に来ている(11:20)ということです。もう一つは、「霊の宿る場所」に今まで悪霊がいた人は、イエス様との出会いによって悪霊を払っていただいた後には、聖霊が住んでいただけるように、留意していかねばならないということです。

 イエス様への賛美の声を上げた女性

まさに、このように語られている時、ある女性がイエス様の素晴らしさに感動して、彼女なりの賛美の声を挙げました。それは女性ならではの感性からくる発言でした。「こんなに素晴らしい話をし、偉大な力を持つ方の母親は、どんなに神様から祝福を受けているのでしょう!」という意味でしょう。同じ女性として、母マリアへの賛美と受け取ることもできますが、最終的にはイエス様への賛美と受け取れるでしょう。ただ、この女性は、イエス様の価値(偉大さ)はよくわかっていたのですが、イエス様の価値観はわかっていなかったのです。イエス様が人々に伝えたいことを理解していなかったのです。3つの点で、イエス様が人々に求めていることと、この女性の言葉はずれていることがわかります。1つは、この女性は、マリアがイエス様を宿し、育てた体をほめたたえていますが、イエス様は「体は神様の霊が宿り、神の栄光を表すためのものだから大事」と伝えようとされていました。2つめは、彼女はイエス様が育たれた過去に目が向いていますが、救いの恵みに気づいて信仰生活をするのは、イエス様に出会っている現在と、そして信じ続ける未来です。過去に拘泥する必要はありません。3つめに、これが一番重要ですが、どのような役割にしろ、イエス様に出会って教えを受け、それを守る思いを与えられた人を、神様はどんな人をも祝福してくださるということです。役割の軽重は関係ありません。救い主の母という役割を与えられたマリアに対しても、イエス様への賛美の声を上げた女性に対しても、信仰者としての未来に期待されているのです。

 「幸い」=「マカリオス(ギリシャ語)」=「アシュレー(ヘブライ語)

聖書は、神様からの祝福を受けることで、人は「真の幸い」をいただくことができると教えています。あえて、新約聖書の原語であるギリシャ語でいうと「マカリオス」という言葉です。有名な山上の説教も、この言葉で始まります。

「幸いなるかな」=神様からの祝福を受けた、本当の幸いという意味です。人間は神様からの祝福を受けて初めて幸いに生きられる、これが聖書全体を通しての基本的な考えです。新約聖書だけでなく、旧約聖書もそうです。旧約聖書の原語はヘブライ語ですが、ヘブライ語で「幸いだ」は「アシュレー」という言葉です。神様からの幸いをいただきたいという思いを謳った「詩編」の第1編も「アシュレー」から始まります。また、詩編119編も「アシュレー」を目指して神様に憐れみを乞う詩になっています。その1-8節(今日の旧約聖書箇所)では、「主の律法」「主の定め」「主の命令」「主の掟」を守ることが「アシュレー」への道だとあります。今日の新約聖書箇所のイエス様の御言葉(11:28)と同じです。

 「神の言葉を聞き、それを守る」恵み

ここで、思い起こすべきことがあります。それは、私達が「神の言葉を聞く(11:28)」機会を与えられているということです。2000年前にイエス様に直接出会った人々は勿論ですが、私達も聖書を通して、「神の言葉を聞く」機会を与えられている、神様が私達をそのように選んでくださっている、その恵みを再び思い起こして、感謝したいものです。「神様はどのような御方か、何を喜ばれるのか、人間はどのようにしたら救われるのか、救われた後、そのように生きるべきか」ということを知らされている、このことも神様が私達を、幸いへの道に導いておられることの証しです。福音に出会う前は、この世の価値観や他人からの評価に苦しめられた人が多いでしょう。しかし、主の救いをいただいた今は、神の御言葉を聞き、それを守ろうという思いが聖霊によって与えられました。神様からの恵みと役割に応えるように歩む、これこそが「真の幸い」への道です。