5月14日の説教要旨 「主は道、真理、命」 牧師 平賀真理子

詩編9819 ヨハネ福音書14111

 はじめに

今日の新約聖書箇所は、イエス様が反対派によって逮捕されて十字架に付けられるという出来事の直前に、弟子達にお語りになった「告別説教」の一部です。言わば、イエス様の遺言であり、とても重要なことを語られました。今日の箇所の内容を考える前に理解しておくべきことが2つあります。1つは、イエス様御自身が、御自分の近い将来の死(この世から去って、天に帰るということ)をおわかりなっていて、弟子達に予告しておられるということです。2つ目は、イエス様の御言葉を受け、弟子達が大きな不安に陥っているということです。

 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」

だから、イエス様は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」(1節)とおっしゃったのです。そして、これが、この箇所で、イエス様が弟子達に一番伝えたかったメッセージです。この後の2節から11節までは、このメッセージの理由を述べているのです。

 「弟子達を決してみなしごにはしない」(14:18)

イエス様は、弟子達を父なる神様の御許に迎える用意をするために、天に帰る必要があり、その用意ができたら、戻って来て、弟子達を迎えると約束されました。それを「わたしのいるところにあなたがたもいることになる」と表現されました。イエス様は死んで弟子達には見えなくなるけれども、それは一時的で、永遠の別れでもないし、弟子達を主は決してみなしごのように一人きりにしないことを約束してくださり、そのような絶対的な信頼を寄せてよいと保証してくださいました。

 「十字架」という道を通って、「天に帰る」イエス様

イエス様は御自分がどこに行くのか、また、その道をも弟子達は知っているとおっしゃいました(4節)。御自分が天から来て、今や天に帰ること、そして、それは、人々の罪の贖いのために、最もへりくだった死(十字架)という道を通ることを、弟子達は教えられていたにもかかわらず、実際は、理解できていなかったことが、5節の弟子トマスの言葉でわかります。「主がどこへ行かれるかも、その道もわかりません。」弟子達のこのような無理解に対し、イエス様は更に御言葉を重ねて教えてくださいました!

 「わたし(イエス様)は道であり、真理であり、命である。」(6節)

①「わたしは道である」この直後に「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(6節b)と説明されています。救い主イエス様の重要な役割は、父なる神様の御心を行うことです。では、「父なる神様の御心」とは何でしょうか。ヨハネ福音書6章40節にあります。「わたしの父の御心は、子(イエス様御自身)を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させること」だとイエス様が語っておられます。「子を見て信じる」とは「何を信じるのか。」というと、イエス様を救い主だと信じることです。救い主として最も大きな役割は人間の罪の「贖い」=「身代わりに償うこと」です。神の御子ならば、人間のように「罪がある」わけではないのですが、イエス様は、人間の罪の贖いのために「神の御子の死」という尊い犠牲を引き受ける必要がありました。その結果、神様と人間を隔てていた罪が埋め合わされ、人間が神様に至る「道」ができました。だから、人間にとって、イエス様の十字架は自分の罪の贖いだと信じることが、神様に繋がる「道」となるのです。

②「わたしは真理である」ここでの「真理」とは、神様に関わる文脈で使われていて、科学や哲学で使われる「真理」とは次元が違います。この「真理」とは、元々のギリシア語では「アレテイア」という言葉で、「隠されていたものが明らかになる」という意味があります。「隠されたもの」とは神様のことです。8節の弟子フィリポのお願い「父なる神様を見せてください」に対する、イエス様の御言葉「わたしを見た者は、父を見たのだ」にも答えが暗示されています。ここでの「真理」とは、人間の目には見えない、隠された父なる神様が、この世で、人間として明らかになったのが、イエス様御自身のことだというわけです。

③「わたしは命である」イエス様は、自分達も死ぬかもしれないという弟子達の不安を取り除きたいと思われたのでしょう。御自分を救い主として信じて従うことは、父なる神様に繋がることができる、即ち、「永遠の命」をいただける、大いなる希望の道であると伝えたかったので、御自分を救い主と信じる者達は、心を騒がせるなとおっしゃったのです。私達も時空を超えて「弟子達」の一人一人と言えます。ですから、偉大な救い主イエス様への信仰を貫きましょう!

5月7日の説教要旨 「主は復活と命」 牧師 平賀真理子

ダニエル書1213 ヨハネ福音書111727

 はじめに

今日の新約聖書箇所は、死んで4日も経ったラザロという男をイエス様がよみがえらせた話の一部から与えられました。この話は、ヨハネによる福音書だけに記された話です。ラザロには、マルタとマリアという2人の姉妹がいて、マリアは、主の十字架の前に、その死を予感して、生前のイエス様に香油を塗った女性として知られています(マタイ26:6、マルコ14:3、ルカ7:36)。また、ルカ福音書10章38節からの段落では「マルタとマリア」と言う小見出しで、対照的な行動をする姉妹としても描かれています。

 イエス様に愛されたラザロ達

ユダヤ地方のベタニア(エルサレムから約3㎞)に住んでいた、この3人の兄弟は、これ以前に、イエス様と良い交わりをしていたと思われます。2人の姉妹がラザロの病気を主に報告する際に「あなたの愛しておられる者が病気です。」と言っているからです。しかし、イエス様は、ラザロの出来事は「神の栄光」のためであるとおっしゃり、すぐには出発されませんでした。一行がベタニアに到着した時には、ラザロは既に死後4日も経っていました。そこで、イエス様を先に出迎えたマルタがイエス様と交わした会話が、今日の箇所です。

 マルタの言葉にならない願いを汲み取り、かなえてくださる主

兄弟を失ったマルタは、イエス様がそばにいてくださったら、兄弟は死ななかったでしょうと、その御力を信頼しています。しかし、次の「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださる」とは、一体どういう意図で言ったのでしょうか。それは、次のイエス様の言葉から理解することができます。「あなたの兄弟は復活する」(23節)という御言葉です。人の心を見抜くイエス様が、マルタの心に秘めた願い「今からでも遅くないなら、神様に願って、ラザロを生き返らせてほしい」という、マルタの心の底にある思いを汲み取ってくださったのでしょう。主と良い交わりを重ねてきた この姉妹の思いをかなえるために、この後に働いてくださることを予め知らせておられるのだと読み取ることができるでしょう。

 「復活」について

主が深い憐れみによる御言葉をくださったにもかかわらず、マルタは、その意味をすぐに正しく理解できませんでした。「終末の日に、死者がいっぺんに復活する。」というのが、ユダヤ人の常識でした。ユダヤ人達は伝統的に「死んだ者が生き返る」ということにあまり関心がなかったようです(今日の旧約聖書箇所は、「死者の復活」を述べた、数少ない箇所の一つです。)。従って、「ラザロが生き返るのは終末を待たねばならない。」とマルタは考えていて、イエス様の御言葉が自分達の身にすぐに実現するのだとは全く期待していなかったでしょう。

さて、一度死んだ人間がどうしたら生き返るでしょうか。それは、命を取り去ることのできる御方が、同じように、命を与える権限を持って、その人に働きかけるという行為がなされなければなりません。その権限を、神の御子であるイエス様が持っているので、「わたしは復活であり、命である」とおっしゃることができ、しかも、御言葉のとおりのことが、ラザロを通して起こったのです。

「わたし(イエス様)は復活である」という中の「復活」とは「立ち上がらせる」という意味が原語にはあります。「死んだ人間を死の世界から立ち上がらせる、生き返らせる力がわたしにはある、その権限を持っている」ということです。

 「命」について

「わたしは命である」とは、「命を生み出し、与える権限がわたしにはある。」とイエス様が宣言なさったわけです。聖書では、この世のすべてのものに命を与えられるのは、神様だけというのが大前提です。その創造主なる神の御子だからこそ、イエス様は、死んだ人間に再び命を与えることがおできになるのです。

また、生物学的な「生」と「死」を越えた次元で、聖書では、「命」がある状態とは「神様と正しい関係にある」状態だと考えます。イエス様を救い主と受け入れて信じるだけで、罪ある人間が神様と繋がることができ、「永遠の命」の状態に入れられるのです!マルタはイエス様の御力の偉大さを「知って」いましたが、イエス様が最終的にマルタに確認なさったのは、イエス様が命をつかさどる神様の権限を持つことを「信じるか」ということでした。マルタのように、私達も御子イエス様への信仰を成長させていただけるよう、聖霊の助けを祈りましょう。

4月30日の説教要旨 「主の復活の恵み」 牧師 平賀真理子

イザヤ書651719 コロサイ書3111

 はじめに

今日の新約聖書箇所は「コロサイの信徒への手紙」から与えられました。「コロサイ」の場所は聖書の後ろにある地図9で見ると、真ん中より少し東側であるとわかります。主が十字架にかかったエルサレムから直線距離でも800㎞も離れた この町にも、この手紙が書かれた頃(紀元60年頃)には、主を信じる人々がいたのです。ところが、その群れの中に、当時流行していた「グノーシス主義」という、知識偏重の考え方が入り込んできて、それを心配したパウロが、福音の本来の正しい教えに帰るように、コロサイの信徒達に勧めているわけです。

 「キリストに結ばれて歩みなさい」(2:6)

今日の箇所は、2章20節からの「日々新たにされて」の段落の一部です。一つ前の段落「キリストに結ばれた生活」の段落の冒頭の6節には「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。」とあります。これがこの手紙の主題です。更に、その後の12節では(あなたがたは)洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」とあります。これを踏まえ、2章20節からの「日々新たにされて」の段落は、話が進められていきます。

 「キリストと共に死んだのか」

 2章20節から23節は、まず、信徒達がキリストと共に死んだということが大前提になっています。この「死」は、勿論、肉体的に死ぬということではありません。「この世の考え方や教えに支配された人間として、神様から離れた霊的存在の自分が一度死んだのか」と問われています。この手紙の内容から見て、コロサイの信徒達は、この世の考え方や流行していたグノーシス主義に左右され続けていたので、それは違うと著者パウロは言いたかったのでしょう。信仰者となる前と後とが変わらないならば、それはイエス様と共に死んだわけではないということです。これは、コロサイの信徒達だけに言われているのではなく、時空を超え、私達を含む、信徒達全員に問われていると読み取れます。

 「キリストと共に復活させていただける」

ただ、私達、主を信じる者は、イエス様と共に死ぬのであって、孤独に放り出されるわけではありません。この世で霊的に一度死んだ後に、今度は「復活したイエス様」を信じている故に、その恵みをいただいて、「神の国の民」として、霊的に復活させていただけると言えます。「主と共に」です。このことこそが、本当に大きな恵みをいただいていると言えるのだと思います。

 恵みをいただく前に、この世の考え方や生き方を脱ぎ捨てる

イエス様の十字架の意味=「私の罪の贖いのために神の御子・救い主が命を犠牲にされた」ということが本当にわかっているならば、それまでの考え方や生き方すべてを捨てていいと思えるのが、本当に主に出会った人の姿勢だと思います。私達日本人の中には、何かに一生懸命になっていることを見抜かれることを好まず、信仰者となっても以前の姿とあまり変わらないで過ごしたいと考えるクリスチャンが多いように思います。しかし、今日の聖書の箇所では、そうであってはならないと警鐘を鳴らしているのです。

 主と共に復活させられるだけでなく、終末の時には主と共に現れる

 キリストと共に確かに死んだ者は、「キリストと共に復活させられる(3:1)とパウロは語っています。それだけでなく、復活後に天に帰ったイエス様は、今や、神様と同じ存在になっておられ、今、私達には見えないけれども、歴史が終わる終末の時には現れてくださり、その時に、私達信じる者達も神の国の民として共に現れるようになれると、霊的な目を持っているパウロは保証しているのです。

 「古い人」を脱ぎ去り、「新しい人」を身に着け、日々新たにされる

この世では許容される「性的な乱れ」や「自分の欲望に引きずられて他人を軽んじる行為」を、信徒達はやめるように、更には、その源となる、悪い心や悪い言葉さえも、捨て去るように!とパウロは指導します。グノーシス主義では、天の秘密の知識さえあれば、この世で悪い言動をしても構わないとされたので、対照的です。主を信じる者達は、この世の言動と心根を持つ「古い人」を脱ぎ去り、造り主の姿に倣う「新しい人」を身に着けるように教えられています。しかも、洗礼の時の1度きりではなく、日々新たにされることで成長すると言われています。キリストだけを見つめて成長できるよう、聖霊の助けを祈りましょう。

4月23日の説教要旨 「主の復活の証し」 牧師 平賀真理子

詩編16311 使徒言行録132631

 はじめに

今日の新約聖書箇所は、ルカによる福音書の続編と言われる「使徒言行録」から与えられました。この書の1章3節からは、主が復活されて40日間も弟子達に現れたと書かれ、続いて、主の昇天が記されています。そして、2章では、ペンテコステ、つまり、主が約束なさった「聖霊降臨」が本当に起こったと証しされ、直後に、イエス様の一番弟子のペトロが説教したとあります。イエス様が救い主としてこの世に来られ、十字架と復活の御業によって、人々の罪を肩代わりしてくださったこと、このことを信じる者達が救いの御業の恵みをいただけるようになり、神様と繋がることができるようになったとペトロは説教しました。

 もう一人の重要な弟子パウロ

使徒言行録では、8章までは、だいたい、ペトロを中心とした使徒達が福音を告げ知らせて、主の恵みを拡げていったことが証されています。そして、9章になって初めて、サウロ(後のパウロ)と呼ばれる人と、復活の主との出会いが書かれています。パウロは、イエス様の教えは間違っていると思い、弟子達を逮捕する任務の途中で、主からの呼びかけを受けて180度の方向転換=回心し、今度はイエス様こそ約束の救い主であり、福音の素晴らしさを人々に伝える使命を果たしていくようになります。しかし、それまでのパウロの考えや動きを知っていたユダヤ人達は、信じられずに、パウロの命を狙うようになり、宣教活動を控えなければならなくなりました。再び、パウロの活動が記されるようになったのが13章からです。しかも、アンティオキア教会の指導者の中に名前が挙げられています。彼らが礼拝し、断食していると「バルナバとサウロを選んで派遣する」という聖霊のお告げがありました。

 ビシディア州の町アンティオキアのユダヤ教の会堂で

パウロの第1回目の宣教旅行が始まりました。今日の聖書の箇所は、ビシディア州のアンティオキアという町のユダヤ教の会堂で、パウロが話したことの一部です。恐らく、会衆のほとんどがユダヤ人だったことでしょう。パウロは、ユダヤ人の歴史を述べて、神様に選ばれた民としての誇りを会衆に思い起こさせようとしているのではないでしょうか。

 「救いの言葉」=「十字架にかかり、復活なさったイエス様」

26節の「この救いの言葉」とは、「十字架と復活」という救いの御業を成し遂げたイエス様のことを指しています。イエス様が、ユダヤ人達の歴史の中で預言として語られてきた「救い主」であることをパウロは懸命に証ししようとしていると感じられます。「救い主」と言えば、ローマ帝国の支配を終わらせ、自分達の国を作ってくれるような政治的リーダーをユダヤ人達は求めていたのですが、預言は、実は、そのように語ってはいなかったのです。預言では、「救い主」は「栄光の主」というよりも「苦難の僕」の姿を取る御方であり、それが、まさに「十字架にかかったイエス様」であったとパウロは述べています。

 「復活したイエス様が自分に現れてくださった!」

人間の知恵の範囲ではつまずきでしかない「十字架にかかる救い主」が、実は、敗北でなく、神様のご計画であり、その御計画を実現させたイエス様に対して、「復活」という栄誉を父なる神様が与えてくださったとパウロは語っています。この当時、復活のイエス様に出会った人々が数多く生き残っていました。Ⅰコリント書15章では、そういう人が使徒以外にも500人以上いたと証しされています。キリスト教を広める役割をした人々の多くは、恐らく、死んだイエス様が復活して「自分に現れてくださった!」と大感激したのでしょう。「この世の常識ではありえない、凄いことが我が身に起こった!もう否定できない!イエス様が約束してくださったこと、預言されていたことが我が身に起こった!」彼らの喜びは本当に大きいものでした。彼らのように、自分の理解を越えたことが我が身にも起こると受け入れる人々に信仰は与えられるのでしょう。キリスト教では、別の言い方もします。その人々に「聖霊が降った」のです。

 私達一人一人の人生に現れてくださる「復活の主」

神様が私達一人一人に聖霊を送ってくださるのですが、私達がしなければならないことは、神様から送られた「この救いの言葉」=「イエス様」を、私の「救い主」として信じたいという願いを持ち、そのように神様に祈ることです。実は、復活したイエス様は、私達一人一人の人生に現れてくださる御方です。

4月16日の説教要旨 「その時、わたしは ―イースターの光に包まれて―」 佐々木勝彦先生

イザヤ書53110  マタイ福音書266975   Ⅰコリント書15111

 はじめに

イースターに因(ちな)んだ聖書箇所で思い出されるのはどこでしょうか。マタイ、マルコ、ヨハネ福音書で共通する最後の御言葉は「出て行きなさい。」、更には「伝えなさい。」ということです。そして、それは「どこに」でしょうか。マタイ福音書を例に挙げれば、「すべての民の所に」であり、そこで具体的に何をするためなのかと言えば、「洗礼を授けるように」ということです。

 「イースター」を考える時

「イースターをどう考えるのか」というテーマを与えられた場合、「主の大宣教令」の中の「すべての民に洗礼を授けなさい」を思い起こすことができるでしょう。洗礼を既に受けた方は、自分が受洗した時、復活の主に出会ったと言えるでしょう。しかし、主との出会いを忘れてしまい、信仰生活から外れていく人もいますし、逆に持続する人もいます。次に、「飲み食い」=(教会では)「聖餐式」において、復活したイエス様に出会います。「聖餐式」の度に、復活したイエス様との出会いを考える機会があるのです。そうでなければ、大事なことを忘れていると言えます。

 ヨハネ福音書でのイエス様とペトロ⇒「語り部」となったペトロ

また、ヨハネ福音書21書15節以降の「復活の主と弟子ペトロ」の話も示唆に富んでいます。断絶した子弟関係を繫ぐ(修復する)ことが記されているからです。今日の新約聖書の箇所にもあるとおり、ペトロはイエス様を三度も知らないといった「ダメ人間」とも言える人物です。この箇所(ヨハネ21:15~)から考えられるのは、ペトロが「十字架にかかったイエス様が、ダメ人間の私を許してくださった!」と感謝し、それを伝えたということです。つまり「語り部」になったという訳です。東日本大震災の後にも「語り部」が現れました。キリスト教もそうだったのではないでしょうか。「語り部」が先に生まれ、その後に文字、つまり「聖書」が書かれていくのです。「語り部」が語ることは二つ、一つはイエス様に何が起こったのかということ(まず、これを正しく語れなければなりません。)、二つ目は「その時、わたしはどう思ったか?」ということです。語る事柄とわたしの気持ち、この二つが「語り部」には必要です。こうして、「語り部」の語ることが、キリスト教の中では「証し」や「説教」となっていったのでしょう。

 パウロとペトロ

私自身は、パウロがいかに素晴らしいかを語る牧師の説教を長年聞いて育ったので、パウロは好きですが、ペトロは好きではありませんでした。しかし、今回「主の復活」をテーマにもう一度、聖書を通読してみた結果、ペトロが「ダメ人間」だった故に、復活したイエス様から許されて受け入れられた喜びがいかに大きかったか、また、その経験によって、ペトロは「語り部」として神様に用いられていったのだということを発見することができました。

 イースターは「死」について考える時

さて、主の復活の讃美歌でも明らかなように、イースターは「死」について考える時でもあります。イエス様の宣教の第一声は「神の国は近づいた」です。神の国が近づくとは、終末のことです。終末とは、時間の死です。人間としての私の死だけでなく、時間の死も考えるべきことが示されています。つまり、イースターは自分を越えたもの、この世の終わりを考えよということです。ペトロの経験から言えば、イエス様の方から現れ、守ってくださり、自分を「語り部」として用いてくださるということです。イエス様は私達に「大丈夫だから、一緒に行きましょう!」と招いてくださり、大変な時には、イエス様が自分を背負ってくださいます。それは「あしあと」という詩に描かれたイエス様の御姿です。ペトロは、まさしく、イエス様に背負われて歩んだのではないかと私は想像します。

 イースターは復活したイエス様に光の中で出会う時

私達が復活したイエス様に出会うのは、洗礼を受けた時、また、聖餐を受ける時、更には、伝道する時や、死の克服(つまり「復活」です。参照:ローマの信徒への手紙6章3-11節)を感謝する時です。今日の説教題は「その時、わたしは―イースターの光に包まれて―」としました。「その時」とは復活した主に出会う時です。きっと明るい光に包まれていることでしょう。イースターの光の中で、私達は、主に背負われているか、共に歩いていただいているのではないでしょうか。その光はどこから来るのでしょうか。きっと後ろから、即ち、後光が指した中での出会いだと私は考えています。