7月30日の説教要旨 「時を見分け、救いを受ける」 牧師 平賀真理子

ヨナ2111 ルカ福音書125459

*はじめに

今日の新約聖書の箇所は、イエス様が群衆に向けた教えとして、ルカ福音書は記しています。12章1節から53節まで、イエス様の教えは、主(おも)に弟子達へ向けられています。イエス様は、御自分の救い主としての使命=「十字架と復活」だけでなく、この世を去った後に、再びこの世に来ること=「再臨」も前もってわかっておられました。だから、御自分を救い主として受け入れ、すべてを捨てて従っている弟子達に「目を覚ましている僕」の例え話をなさったのです。御自分の死後、弟子達が意気消沈せず、緊張感をもって主の再臨の希望を持ちつつ、この世での福音伝道という大事な使命を果たすようになるためです。イエス様の弟子として、それは、本来喜ばしいことです。しかし、この世の現実を鑑みるならば、イエス様を受け入れる者と受け入れない者とは、決定的な分裂が起こるとわかっておられ、それに備えて、彼らの心の準備をさせようとなさり、「分裂をもたらす」例え話をなさいました。

*群衆に対して

さて、群衆はどうでしょうか。彼らもイエス様の噂を聞き、そのお話を聞いてみたい!とか、癒しを受けたい!と思って集まったのでしょう。そして、イエス様が近くに来られたので、一時の間、近寄ったと言えるでしょう。一時的に、イエス様が救い主かもしれない、そのように信じてみたいと思っていたでしょう。信仰上、先に歩む弟子達のように、全てを捨てて従うかは、この後の問題です。群衆とは、言わば、弟子候補の人々です。彼らに向かい、イエス様は教えを授けてくださいました。

*群衆の「自然現象を通し、近い将来を予測できる能力」を信じて

群衆一人一人が、自然現象を見て、近い将来に起こる出来事を予測し、生活に生かしている現実を引き合いに出して、そのような能力があるなら、神様にとって一番大事な「人間の救い」について、今(イエス様がこの世に生きておられた2000年程前)、素晴らしいことが起こっていると理解する能力もあるはずだと教えたのです。当時、そこに生きていたイスラエルの人々は、ずっと昔から預言されて待っていた「救い主」がこの世に来て、我々の所を回っている!「救い主」との出会いがたくさんある!ということが理解できるはずだとイエス様はおっしゃっていたのです。(56節の「今の時」とは、救い主がこの世に到来したという、素晴らしい時という意味です。)イエス様のお話や癒しの御業が、神様の御力を示していて、それが本当に素晴らしいと群衆が賛美したことは、福音書に数多く書かれています。「神様の御力をいただけるのは、罪ある人間にはできない(参照:ヨハネ9:31、ヤコブ5:16b)」と群衆はわかっていました。それは「神の御子・救い主」にしかできないというのが人々の認識でした。つまり、イエス様のお話や御業により、イエス様こそ救い主だとわかる能力を、群衆が一人一人が確かに持っていることを、イエス様は指摘なさったのです。彼らが、この世で救い主との出会いがある「今の時」の素晴らしさを理解し、御自分を救い主として受け入れてほしいと切実に願われたのです。そして、その大いなる恵みを、ほんの一時なものにとどまらせず、弟子達のように、人生の中で少しでも多く受けて欲しいと願われたのでしょう。

*「何が正しいかを自分で判断しなさい」

今日の箇所の2つ目の段落で、まず、57節で、イエス様は、何が正しいかを自分で判断することを群衆に勧めておられます。2000年も前の人間一人一人の判断力をイエス様は信頼しておられたのです!また、この後、群衆は自分の判断を捨て、当時の権威者達であるファリサイ派の人々や律法学者達の扇動に従ってしまい、イエス様を十字架につける働きに加担するようになることを、主は見抜いておられたのでしょう。そうなっては、神様の方から授けられた「救い」を受けずに愚かにも捨て去ることになるのです。だから、そうならないように、根本的な解決法、つまり、人々が「神様からの救い」を自分で理解し、イエス様を救い主と信じると自分で判断して行動することを指導してくださったのです。

*神様が授ける「救い」を受けてほしいという主の憐れみ

今日の箇所の58節―59節の話は、神様からの救いの御業を受け入れることを拒む人間の例えです。神様の求める「完全なる正義と愛」に従って生きられる人間は一人もいません。人間は罪深いのです。その罪が、主の十字架で贖われたと信じる者だけが、自分の罪を埋め合わせていただき、神様と和解できます。神様の裁きを受けて人間が滅びないように、主は憐れんでくださっていたのです。

今日の*花クラブ*

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オニユリ(鬼百合)

教会の庭スペースにオニユリが咲いていました。

鮮やかなオレンジ色が真夏にふさわしく、つい、カメラを向けてしまいました。

平地に自生している事が多く、よく見かける花ですが、ちょっと興味深いことを知りましたので今回の花クラブに取り上げてみました。

オニユリは、球根からも育ちますが、ムカゴ(零余子)と呼ばれる黒い実を付けます。

ムカゴは大きくなった芽で、球根のような性質があり、球根からだけではなくムカゴから育てることも出来ます。

ムカゴや球根(ユリ根)は食用として用いることが出来ます。

食用として現在栽培されているユリはオニユリ、コオニユリ、ヤマユリ、カノコユリで、オニユリとコオニユリの違いはムカゴができる方がオニユリと言う事です。

また、オニユリはその色や斑点の模様から英語で『Taiger lily』と呼ばれるそうです。

なるほど…Taiger…とは、見た目だけでなく、名前もインパクトのある花ですね。

 

科・属名:ユリ科・ユリ属

学名:Lilium lancifolium

和名:オニユリ

別名:天蓋百合(テンガイユリ)

英名:Taiger lily

原産地:グアム、日本、中国、シベリア沿岸州

花言葉)華麗、愉快、陽気、賢者

今日のみことば(テサロニケの信徒への手紙一 5. 16-18)

《いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。》

 

7月23日の説教要旨 「この世からの分離」 牧師 平賀真理子

ミカ書717 ルカ福音書124953

*はじめに

今日の新約聖書の箇所は、12章1節から始まる、弟子達への一連の教えの結びとなります。(次の段落からは群衆に語り掛けられています。)弟子達は、イエス様亡き後、主の再臨の希望を持ちつつ、福音伝道の務めを果たす使命が与えられることをイエス様はご存知でした。それは、長い目で見れば、もちろん、希望に満ちたものです。しかし、人間的な短い期間で見るならば、希望だけでなく、試練も多い道となることも主は見通されていたことでしょう。

*受けねばならない洗礼=「主の十字架」

弟子達の苦難の道は、先だって歩む主イエス御自身の道と同じように厳しい道でした。「受けねばならない洗礼」(50節)とは「主の十字架」のことです。「十字架の苦難と死」は人々が本来個別に受けるべき「神様の裁き」を、救い主であるイエス様が肩代わりしてくださったものでした。

*「神様の裁き」によって滅びを免れる者と滅びてしまう者

「神様の裁き」は大変激しいもので、ここでは「火を投ずる」と例えられています。「主の十字架」を自分の罪の贖いと受け入れた者が、神様の御心に適う人です。この人々は神様の裁きが来ても、滅ぼされることを免れます。一方、それを受け入れない者は、神様の御心に適っていないので、神様の裁きによって、完全に滅ぼされてしまうのです。

*「平和ではなく、分裂をもたらす」という御言葉の裏にあるもの

罪深い人間に対する「神様の裁き」を逃れさせるべく、イエス様は、十字架にかかる定めを、苦渋の末に受け入れました。それはフィリピ書2章8節にあるような「死に至るまで従順」な姿を父なる神様に示すことでした。それは、救い主として、神様に対する絶対的信頼を天地すべてに示すことでした。であれば、救い主として、本当の平和を人々に与えていると言えるはずです。つまり、十字架による「罪の贖い」のゆえに、罪深い人間が罪赦されて神様に繋がることができて、互いに良いもので満たされ、良い関係性を築けるようになるはずです。けれども、51節以降でイエス様は、御自分がこの世に来たのは、平和ではなく、分裂をもたらすためだとおっしゃって、その状態を説明なさいました。これは、弟子達をはじめとした、人間の「物の見方」に合わせた御言葉だと思われます。「人間の物の見方」は表面的で、一時的なものです。イエス様の十字架が、自分の罪の贖いだと受け入れることは、人間の物の見方だけでは大変難しく、そこに神の霊の助けが必要でしょう。そして、このことを受け入れられる人々と受け入れられない人々との間では、最初のうちは特に激しく分裂が起こるのは必然だと思われます。

*なぜ、「主の平和」が最初から受け入れられないのか

なぜ、「救い主の平和」が最初からこの世に受け入れられないのかという疑問が生まれます。それは、「この世の人々」が、神様を仰ぎ見て生きることをしないようになってしまっているからです。それが、今日の旧約聖書の箇所ミカ書7章1節から7節までにも描かれています。主の慈しみに生きようとする、正しい者が絶えてしまい、そうすると、神様と人間の関係だけでなく、人間と人間の関係も正しくなくなり、最も親しい家族内でも信頼できないような状態になると記されています。人間が神様を仰ぎ見なくなると、ただただ自己中心に走り、その自己中心の者同士が自分のためだけに生きるようになり、本来は神様がそばに置いてくださった家族さえも「他人」、つまり、利害が衝突する者としてしか映らなくなるのでしょう。

*主は、信仰者を「この世から分離」して、「神の国」に招き入れる

そのような「この世の人間の生き方」に対して、それでは最終的に、または、根本的に自分は立ち行かないと危機感を覚えた人が、神様から与えられる「信仰」を真剣に受け止められるのだと考えられます。「信仰者の生き方」は一般的な「この世の人間の生き方」とは全く違ったものになります。信仰者は神様が「自己犠牲の愛」(十字架で示された愛)を示してくださるほどに自分を愛してくださっていることを知っています。同じように、神様がそばに置いてくださった人々に対しても、神様が同じように大いなる愛でその人々を愛していることがわかります。そのように受け止めることで「主がくださる平和」はますます豊かになり、続いていくのです。一方、すべてにおいて、この世は表面的で一時的にしか人間を満足させられません。主は、私達信仰者を偽りのものであふれたこの世から「分離」し、神の国に招き入れようとしてくださっているのです。