11月19日の説教要旨 「時の転換点」 牧師 平賀真理子

箴言16:1-9  ルカ福音書16:14-31
*はじめに
今日の新約聖書箇所は、イエス様のお話についてファリサイ派の人々の態度を記したところから始まっています。彼等はあざ笑ったのです。自分達の方が上だという判断をしていることが暗示されています。
*ファリサイ派の人々に顕著に表れた人間の最大の問題点
それに対し、イエス様は、ファリサイ派の人々の最大の問題点を指摘なさいました。それは「神様の目に映る自分ではなく、人の目に映る自分のことをまず考えている」ということです。15節で「神はあなたたちの心をご存じである」とイエス様が語られましたが、これこそ、本当に畏れ多いことだと痛感します。神の民として立てられているにもかかわらず、神様の目でなく、人間の目から見て自分がどう見えるのかを
まず考えてしまうという自分の心を懺悔しなければならないでしょう。
*神様の目を忘れてしまいやすい人間
ファリサイ派の人々は、神様がくださった律法に携わっているが故に、自分は神様に近いと誤認しやすいのでしょう。逆に言うと、自分自身について、神様の目を忘れやすい人間であることを常に自戒していかなければならないのです。それは、ファリサイ派の人々と現代の私達の間でも全く同じであると言えます。私達は日曜日ごとに礼拝を献げますが、主なる神様を忘れてしまう自分の罪を悔い改めて、それを許して神様が自分を招いてくださることに感謝し、神様を賛美しようという思いで溢れているかどうかが問われているのです。
*「律法と預言者」の時代が終わり、「神の国の福音」の時代が来た!
人間は神様を忘れるのに、神様は人間への愛を貫きます。まず、律法を与え、次には「救い主」を送る預言をなさって、それを実現なさいました!つまり、ファリサイ派が奉じていた「律法と預言者」が支配する時代が終わってしまい、次の時代、即ち、救い主であるイエス様がこの世に遣わされて「神の国の福音」が告知される時代が来たのです。但し、どちらも神様の御心を示したものに変わりありません。「律法や預言者」に示された御心は決して消えません。人の心を見抜くイエス様は、ファリサイ派の人々の心を見抜き、彼らが律法の中でも特に不都合だと感じていた「姦通の罪の規定」を例に挙げました。彼らは神様の御心に従おうとせず、自分達の欲望に都合のよい解釈をして良しとしていましたので、イエス様は、「人間が自分勝手な解釈を付け加えて曲げようとしても、律法の根本である『神の御心』は変わらない」と伝えたかったのだと思います。イエス様は、律法が人間の間違った解釈ではなくて、神様の御心に立ち帰って大事にされることを切望なさったのです。
*欲望のためにこの世に執着して「時の転換点」を察知できない人間
14節から18節までの段落は、別の見方もできます。ファリサイ派の人々の具体的な欲望=「金銭欲と名誉欲と色欲」が明らかにされています。この世での人間の欲望にまみれているために、目の前の救い主を見抜けずに悔い改められない者達の代表として、ファリサイ派の人々を見ることもできると思います。彼等は、欲望という「この世への執着」のために「救い主がこの世に来た」という「時の転換点」を察知できない愚かさを呈しています。一方、イエス様の言動は、父なる神様の人間への愛を正しく伝えたいという思いで溢れ、新しく立てられた救いの方法=「神の国の福音」を告知してこの世の人々を救いたいという思いで貫かれています。
*「金持ちとラザロ」の例え話におけるファリサイ派の誤りと私達
イエス様は、聞く相手を考慮してお話しをなさいます。この例え話も、聞くファリサイ派の人々を「金持ち」に例え、彼等が自分達の間違った姿勢を改めるように求めておられます。この「金持ち」はこの世にいる間、多く物で満たされ、一方、「金持ち」の隣人であった「ラザロ」という貧者には、食べ物も家も満足に与えられませんでした。「金持ち」はこの貧者の隣人に、自分の残り物すら施しませんでした。その後、二人ともこの世から死者の世界に行くことになり、ここで、ファリサイ派の人々の考え方を反映した描写がなされます。「ラザロ」がイスラエル民族の祖であるアブラハムの宴会に招かれているのに、「金持ち」はその世界から隔絶された別の世界で「渇き」の責め苦を受けるというのです。この世で与えられるものが少なかった者と、この世で多く与えられたのに隣人に分け与えなかった者は、死後の世界へ移された後は、全くの逆の立場になることが示されています。「金持ち」は後悔してもどうしようもないと思い知ります。結局、ファリサイ派は「死から復活する者(後の復活のイエス様を暗示)の教え」には従わずに、モーセや預言者達の教えに従うと言いつつ、実は自分の欲望に従い続けた結果、新しい時代においては後悔するのみであると警告されています。ファリサイ派のような誤りを主は信仰者に望まれません。新約時代の私達は、神様の憐れみにより、今や、救い主イエス様のおられる所に招かれています!その大いなる恵みに感謝いたしましょう。

11月12日の説教要旨 「だれに どう 仕えるのか」 牧師 平賀真理子

歴代誌上29:14  ルカ福音書16:1-13
*はじめに
今日の新約聖書箇所は、解釈が難しい所として有名です。人間的な解釈だけに頼っていれば、です。ところが、イエス様の父なる神様に対する姿勢と、この箇所の前後で語られていることを合わせて考えると、それほど難しくないと導かれました。導かれたままにお伝えしたいと思います。
*イエス様が証しされた「神様」の真の姿(直前の15章で語られたこと)
今日の箇所の直前の15章で、イエス様は3つの例え話を用いて、天の父なる神様が、御自分から離れて道に迷う人間を見出したい、直接つながって御許で祝福したいと望んでおられると証しなさいました。イエス様は神の御子なので、憐れみ深い御父の真の姿を伝えることができるのです。
*主人に損失を与えて解雇される寸前のダメな「管理人」
今日の箇所の例え話の「ある金持ち」「主人」は「神様」を、また、「不正」と言われる「管理人」は「私達人間一人一人」を例えていると思われます。神様から持ち場を与えられているにもかかわらず、人間は、神様から見れば「不正」と言わざるを得ないような働きしかできていないと最初に示されています。そして、その姿が神様に知られてしまい、クビになる状態に追い込まれています。そんな切羽詰まった状態でも、この「管理人」は自分の知恵の限りを尽くして、クビになった後の居場所作りを画策します。「管理人」と例えられる人間は、「主人」である神様に元々損をさせている上に、更に、主人への損失を増す方法でしか、自分の生き残りを図れない、本当にダメな存在として描かれています。徹頭徹尾、自己中心のままです。
*ダメな「管理人」を神様は褒めてくださった!
ところが、そんなダメな存在の人間に対して、神様はほめてくださったのです!この「管理人」は自分の賜物(能力)=「管理人の仕事(単なる管理だけではなく、その家の事業の経営や雇人の人事など、大きな責任を伴ったもの)」を、解雇された後の自分のために使いました。その結果として、負債者達は負担を軽減してもらったので、自分にに恩義を感じ、後に恩義を返してくれるようになるとこの「管理人」は計算したからです。
*憐れみ深い父なる神様
人間の常識的な考えでは、この「管理人」の行状は、不正に不正を重ねた、決してほめられないものです。ところが、イエス様が証しする「神様」はそうではありません。主人の権威や権力を盗んででも、自分の居場所を作ろうとする、この「管理人」の「抜け目のないやり方」を賢い!とほめています。切羽詰まった人間が知力を振り絞って生き抜こうとしている、その姿を、御自分の損失は脇において、憐れみ深くみてくださる、神様はそのような御方であることを、イエス様は良くご存じだったのです。
*「お金や富」を賢く用いる知恵への評価
「不正にまみれた富」とは、犯罪などで不正に儲けた富という意味ではありません。この原語を直訳すると、「不正のマモン」という言葉になり、それは、この世で力を持つ「お金や富」を客観的に表現しているそうです。今日の箇所の1節にあるとおり、イエス様はこの話を弟子達に向かってなさいました。イエス様の十字架と復活の後には、弟子達がこの世で伝道をして福音を広めていく使命があります。弟子達は、この世で「不正」と言われるお金や富を、神の光を受けた「光の子」として、この世の人々以上に賢く用いる必要があり、弱い立場の人々の負担を減らして その人々が
友達(味方)になるように利用する知恵を持つことを勧めておられます。
*弱い立場の人々への眼差し
ルカ福音書の特徴の一つは、弱い立場の人々への施しや援助を大変重要視していることです。人間が神の国に入れるか否かは、神様だけが決定なされることですが、生きている間に弱い立場の人々を助けた場合、その助けた人が神様の裁きを受ける時に、その人から恩恵を受けて先に神の国に入った人は、助けてくれた人について証言したり、なにがしかの力添えができると当時のユダヤ人達は考えたようです。だから、負債が多いという弱い立場の人々の負担を減らした「管理人」は、「永遠の住まいに迎え入れられる」という恵みをいただけるとイエス様も表現なさったのです。
*イエス様の父なる神様に全身全霊で仕える
10節では、「ごく小さな事に忠実な者にこそ、大きな事を任せられる!」と教えておられます。「ごく小さな事」とは、「不正にまみれた富」(11節)や「他人のもの」(12節)と同じだと読み取れます。この世のこととも言い換えられるでしょう。そうすると、反対の「大きな事」「本当に価値あるもの」(11節)「あなたがたのもの」(12節)とは、憐れみ深い神様がイエス様の弟子達に賜るものすべてであり、もっと限定すれば、神の国の民としての大事な役割=福音伝道と言えるでしょう。最後の13節でイエス様は弟子達にだれに仕えるかの再確認をなさいました。「主の弟子達とは、この世の人々以上に持てる力すべてを用いて、神様に仕える者達」なのです!

11月5日の説教要旨 「死と復活」 牧師 平賀真理子

詩編16:7-11  Ⅰコリント書15:42-58

*はじめに
今日は召天者記念礼拝の日です。信仰を持って生き、天に召された方々を思い起こし、その信仰を受け継ごうという思いを新たにする日です。この方々の「信仰」とは、一言で言えば、イエス・キリストを自分の救い主として信じる信仰です。彼らは、この世での肉体をいただいて生きている間に福音に出会い、「イエス・キリストは自分の罪を贖ってくださるために十字架に架かって犠牲になられた」と信じ続けました。確かに、それが信仰の第一歩です。しかし、それだけを強調するのは不十分です。信仰者は、主の十字架だけでなく、主の復活を知らされ、信じて生きるのです!

 

*コリントの信徒への手紙一15章
「主の復活」については、今日の箇所、Ⅰコリント書15章も、それを証ししている箇所の一つです。この書の著者パウロは、ここで3つの内容に分けて、信仰者に思い起こしてほしいことを書き送っています。
聖書の小見出しに沿って、最初の段落「キリスト復活」の中で、パウロは、キリストが、聖書に書いてあるとおり自分の罪のために死んだこと(十字架)、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに三日目に復活したこと、ケファ(ペトロ)に現れ、その後12人(主要な弟子)に現れたこと、その後、五百人以上の兄弟達(信仰者)に同時に現れ、生きた証人がたくさんいることを証ししています。
次の12節からの段落「死者の復活」では、多くの証人が「主の復活が事実だ」と証言できるのだから、イエス様の復活がなかったとは決して言えない、むしろ、「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人々の初穂となられました」(20節)とパウロは宣言しました。そして、人類の祖とされる「アダム」によって、神様を信じないという罪で、すべての人が死ぬことになったという内容(ローマ書5:12-14)を記し、その対比として「キリストによって、すべての人が生かされることになる」(22節)とあります。それは、アダムから累々と流れる人類の罪すべてを贖うために、イエス様が十字架という苛酷な運命に従順に従われたので、父なる神様がそれを祝福して「死からの復活」という栄誉を与えたことを意味します。そして、その恵みがイエス様だけに留まらず、その意味を理解して受け入れる信仰者にも与えられると言われています(ローマ書3:22等)。
更に、15章23-24節では、復活の順番について、「最初にキリスト、次いで、キリストが来られるとき(キリスト再臨の時)に、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来る」と書かれています。イエス様はすでに復活なさっていますから、主の再臨の時に、イエス様を救い主として信じる者は復活させていただけると宣言されています!

 

*「種」の例え
このようにパウロは説明し、次いで、コリントの集会の人々のために「具体的な『復活の体』」について、具体的な説明を続けます。「種」の例えです。種は、一つの物体のように死んでいるような様子に一度はなりますが、違う姿で生き返ってくるように見えます。死んだような「種」の状態が「この世での肉体上の死の姿」であり、「新しい命が出てきた姿」が「復活の体」のようだと例えています。そして、神様は全能の御方なので、それぞれにふさわしい体を与えてくださるとパウロは説明しています。

 

*死の状態と復活の状態の例え
今日の新約聖書箇所に入りまして、前段落の例えを基本に、パウロは別の表現も試みました。「死の状態」を、蒔かれる時に「朽ちるもの」・「卑しいもの」・「弱いもの」であっても、芽を出す時のような「復活の体」を「朽ちないもの」・「輝かしいもの」・「力強いもの」と表現しています。更に、死んで復活することを「『自然の命の体』が蒔かれて『霊の体』に復活する」とも表現しました。

 

*「アダム」と「イエス様」
次いで、再び、人類の祖「アダム」のことが出てきます。アダムは神様から命の息を鼻に吹き入れられて生きる者となった(創世記2:7)のですが、最後のアダムと例えられているイエス様は十字架と復活を経て「神様」の御姿に戻られたのです。そして、人間は、「土でできた最初の人であるアダム」のように、この世での物質でできた体で生きるようにされていますが、信仰者達は「天に属する第二の人」であるイエス様の似姿になって「復活」することができるとパウロは教えています。

 

*「朽ちないもの」「死なないもの」を着る恵み
私達信仰者は、天に属するために「朽ちないもの」、すなわち「永遠のもの」を着ることが許されていると50節以降に記されています。52節の「最後のラッパが鳴るとき」とは、終末(この世の終わりの時)であり、キリスト再臨の時ですが、この時、信仰者達は「朽ちないもの」「死なないもの」を必ず着るようになるとパウロは語りました。復活の主の恵みを、何の功績もない私達が着ることが許されている恵みに感謝です。

 

*「死」・「罪」・「律法」⇔「命」・「救い」・「信仰」
パウロは、「この世のこと」を表現する時、「死」「罪」という表現を用いますし、救いの古い方法である「律法」が支配する世界と表現しました。そして、これに対抗して、というよりも、これを凌駕するものとして、「(天に属する、永遠の)命」と「救い」とし、そして、救いの新しい方法としての「福音への信仰」という表現を好んで用いています。
54節の後半から、パウロの特徴の、その言葉が出てきます。「罪」の最たるものが「死」であり、罪の虜の人間は「死」を最も恐れて生きざるを得ない状況に置かれてきました。しかし、イエス様の十字架と復活という救いの御業によって、人間の罪が覆われ、憐れみ深い神様は、人間に対して過去の罪は問わないとしてくださいました。「死の世界」が誇っていた「罪」に対して、イエス様が勝利されたのです。「人間の罪を自覚させ、恐怖に陥れ、人間を悪の方へがんじがらめにする」おおもとになっていたのは「律法」でした。イエス様は、それらすべてに打ち勝ってくださったのです。だから、私達はかつて自分の内側に潜んで力を奪っていた「罪意識」、もっとはっきり言うと、「私なんかダメだ!」「私には生きる価値がない」といった絶望から、イエス様を信じる恵みによって、「私は神様が目をかけてくださる存在」「神様の御心に適う生き方ができると期待されている存在」「神様に愛されている存在」だという希望が持てるようになるのです。それが神様に祝福される、本来の人間の姿ではないでしょうか。

 

*復活の主に結ばれて、主の業に励む喜び
今日の箇所の最後に、パウロは主を信じる者達に、主に結ばれて、主の業に励むことを勧めています。それは、すなわち、信仰の先達、この方々が、その人生において行ってきたことです。今日の箇所のパウロの言葉に励まされ、また、これらの先達の生き方に倣いながら、私達は、神様の御前に、再び生かされている恵みを感謝し、主の御用のため、特に、福音伝道のために用いられたいと願います。そして、それを心から感謝し、喜べる信仰者へ成長していけるように、聖霊の助けを祈り求めてまいりましょう。