9月30日の説教要旨 「主があなたにしてくださったことを」遠藤尚幸師(東北学院中高 聖書科教諭)

詩編103:1-22 マルコ福音書5:1-20

 

 ゲラサ人の地方へ

「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」

今日、私たちに与えられましたマルコによる福音書5章1節には、そのようにありました。何気ない1節です。もし、私たちが聖書の中から好きな聖句を選ぶとして、この1節を選ぶ人はまずいない。そんなふうに読み飛ばしてしまいそうになるような言葉です。しかし、私は、この1節には、聖書が、私たちに伝えようとする良き知らせのメッセージが凝縮されていると感じます。「一行」とあるのは、主イエス・キリストの一行です。「一行」というくらいですから、主イエスの他にも何人かいたわけです。直前の箇所を見てみますと、どうやらそれは、主イエスと主イエスの弟子たちだったことが分かります。前の頁の4章35節にはこう記されています。

「その日の夕方になって、イエスは、『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた」

「夕方」ですから日が陰ってくるくらいです。夜の暗闇がすぐそこまで来ている。そんな時に、主イエスは弟子たちに、目の前にあるガリラヤ湖を越えて「向こう岸に渡ろう」と言ったのです。「向こう岸」には何があるのか。それが、「ゲラサ人の地方」と呼ばれている場所です。ゲラサ人は、当時のユダヤの人々から見れば、神様から見捨てられたと考えられていた人々です。ユダヤ人は、汚れを嫌います。もし、そんな土地に足を踏み入れたなら、間違いなく自分たちまでも汚れてしまう。通常なら、誰も近づきたくないと考える土地が「ゲラサ人の地方」と言われる場所です。しかし、今日の箇所では「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」とあります。主イエスの呼びかけにしたがって、弟子たちは夜の湖に船を出しました。彼らは、その湖で突風に会いました。船は波を被りました。弟子たちの中には漁師出身の者も複数いました。プロの漁師たちも慌てふためくような突風でした。船は水浸しになりました。主イエスが共にいましたが、自分たちの命を失うかもしれない、そんな経験をしました。そして船はたどり着きました。弟子たちにとって、決して希望満ち溢れる土地に着いたわけではない。彼らが自分たちの命を投げうってまで着いたのは、忌み嫌っていた土地、ゲラサ人の地方でした。

 

悪霊にとりつかれた人

そこには一人の人がいました。主イエスは、この人に会い、この人を救うために、弟子たちを連れてゲラサまで来ました。この人は、主イエスが船から上がるとすぐに「墓場」からやってきました。どうして墓場からやってきたのか。それはこの人が墓場に住んでいたからです。この人は、悪霊に取り憑かれていた人でした。それで、人々は何とか彼をつなぎとめようとしていました。それは家族だったのかもしれませんし、友人だったのかもしれません。しかし、彼は、その鎖や足枷をたびたびはずしてしまいました。「足枷」や「鎖」は否定的な言葉ですが、しかし、裏を返せば、彼をなんとか自分たちの傍につなぎとめておきたい。そんな周りの人々の思いが読み取れる言葉でもあります。しかし、人々にはどうすることもできなかった。それで彼は、人々から離れ、墓場を住処にするしか居場所がありませんでした。この人は、主イエスにかけよると、助けを求めるのではなく、こう言いました。実はこう言わせたのは彼の中にいた悪霊です。

「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないで欲しい」

主イエスは真の神様です。真の神様の前で、悪霊が力をふるうことはできません。なぜなら、神様と悪霊は対等な立場で対立するものではないからです。もう既に勝敗は決まっている。神様が来たならば、悪霊は退かなければならない。聖書において悪霊とはそういう存在です。神様の前では無力です。悪霊はそのことをよく知っていたので、「汚れた霊、この人から出て行け」という主イエスの言葉に、逆らうことなく、「頼むから苦しめないで欲しい」と言いました。主イエスがこの悪霊に名前を尋ねると悪霊は自らを「レギオン」と名乗りました。レギオンとはローマ帝国で最も大きな軍隊の名前です。それほどこの悪霊は力がありました。しかし、キリストの前では、ローマ帝国最大の軍隊をもってしても無力です。

 

弟子たちと共に

主イエスはどうして、このゲラサに弟子たちを連れて来たのでしょうか。神の子ですから、ひとりでも十分だったはずです。その証拠に、この聖書の箇所に弟子たちの活躍の場は初めから終わりまで一つもありません。ではなぜでしょうか。キリストは、弟子たちに教えたかったのだと感じます。あなたがたの知らない世界がある。神様のご支配する世界がある。そしてその世界は、今この地上に実現している。そのことを教えたかったのだと感じます。忌み嫌う存在、汚れがうつるかもしれない存在。本当はそんな人はいないのだということです。主イエスがこの地上に人として生まれ、弟子たちと共に、人々と共に生きられ始めたその時から、もうこのゲラサの人もまた神の国、神様のご支配の中にいるのです。私たちは、この人にとって、神様のご支配は、主イエスが今、このゲラサにたどり着いた時から始まったと考えるかもしれません。しかし、それは違います。この人に対する、神様のご支配は、もっとずっと前から始まっている。キリストがこの地上に小さな赤ちゃんとして生まれ、成人し、そして「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣言されたそのときから、このゲラサの人もまた主イエスの救いの射程の中に入れられたのです。主イエスはそのことを弟子たちに教えるために、ゲラサに着く前から、「向こう岸に渡ろう」と言って弟子たちをゲラサまで連れてきました。ゲラサにいたこの人だけではありません。この主イエスの救いの射程の中に、私たちもまたいるのです。私たちは、決して、足枷や鎖を引きちぎっているわけではありません。墓場に住んでいる訳でもありません。しかし、私たちだって、墓場を生きるかのような経験をすることがあるはずです。一人ぼっちで、苦しくて、どうしようもない、そんな辛い思いをすることがあるはずです。自分に生きている意味などあるのか、そんな暗闇を経験することがあるはずです。キリストはそういう私たちを、今、救いの射程にきちんと入れてくださっている。私たちの生きているこの生活の中にも、今、主イエスが来てくださっているのです。

 

悪霊の追放

主イエスはこの人から悪霊を追い出しました。その描写は聖書の記述の中でも、忘れることのできない描写です。「レギオン」と呼ばれた悪霊は、2000匹の豚に乗り移ると、その豚の群れは崖をくだっていき、湖になだれ込み、次々とおぼれ死んでいきました。この人の苦しみがどれほど大きかったのかが分かります。キリストはその苦しみを取り除いてくださった。この人はそれで正気になりました。興味深いのは15節の言葉です。

「彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった」

この人はただ悪霊が出ていってそれで正気になったというわけではありません。この人は今「座ってい」ます。どこに「座っている」のか。それは、主イエスの足元に座っています。私たちが真に正気になっていく、重荷から解放されていくということは、主イエスの足元に座る存在になるということです。そこで、主イエスの言葉を聴きつつ生きる。主イエスは神の子です。私たちに命を与え、私たちを愛し守り導きたもう神様の言葉を聴きつつ生きることこそ、私たちが真に正気になるということです。私たちにとって、この悪霊追放の出来事は、主イエス・キリストの十字架の出来事です。主イエスが、神の子でありながらどうして十字架につけられ死ななければならなかったのか。それは私たち人間の罪がそれほど深いものだったからです。私たちは自分のことをそれほど罪深い存在だと考えることがないかもしれません。しかし、キリストが十字架で、私たちの罪を背負い死んだことを知るときに、どれほど私たちの罪が深いのか、私たちは知ることができます。それは、2000匹の豚が、崖をくだり溺れ死ぬことにも勝る、私たち自身ではどうしようもなく深い罪の現実です。しかし、その暗闇に生きている私たちのところに、今日、キリストは来てくださっている。そしてご自身の十字架の死を通して、私たちの罪を豊かに赦し、私たちを神の子としてくださっている。このゲラサの人に起きている救いの出来事が、今私たちにも起きています。

 

主があなたにしてくださったことを

主イエスは人々に追いやられるように、その土地を去ることになりました。主イエスが船に乗りその場を去ろうとすると、この人は「一緒に行きたい」と願いました。主イエスと共に生きたい。この人の素直な思いが溢れています。しかし、主イエスはこの人にこう言いました。

「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことを、ことごとく知らせなさい」。

「自分の家に帰りなさい」。それは、あなたにはあなたのするべき仕事があるということです。主イエスがあなたにしたこと、そのことを、このゲラサの地にあなたが伝えること。それが、この人の新しい生き方です。私たち教会も、するべきことは実はそんなに難しいことではありません。主イエスが自分にしてくださった出来事を、他の人に伝えること。これが、私たちが神様のことを伝えるということの根本です。20節には「その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた」とあります。福音はこのようにして広まって生きます。一人の人の救いを通して、その人の語る言葉を通して、「ああこんな自分も、神様に愛されていた存在なのか」と、気づかされていくのです。私たちは今日、ここで、その福音の恵みに触れています。主イエスが今日、私たちと出逢っていてくださっていて、今ここに、私たち一人一人の真の救いが実現しています。この美しい信仰の物語を聴いた後で、3節の言葉を読むと、最初に読んだ時とはまるで違った意味の言葉として受け取ることもできると、私は思います。つまり、「主の赦しによって罪から自由にされる人間」が、予兆として、前もって示されていると感じます。

「もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった」

主イエスに救われた喜びは、この人を自由にし、足枷、鎖を真の意味でほどいていきました。この人は、もはやどのような鎖でも、どのような足枷でもつなぎとめておくことができないほどに、神様のことを伝える証人として歩み出していきます。キリストとの出逢いは、その人を新しく誕生させました。全く違った世界が、キリストとの出逢いのうちにはあるのです。(私は、使徒パウロの回心した姿を思い起こします。パウロだけでなく、)私たちもまた今日、今ここで、新たに生まれ出ます。どのような罪も、どのような神様に対する不誠実さも、不信仰も、私たちを縛り付けることはもはやできません。私たちは、大胆に、そして自由に、主イエスキリストの十字架の罪の赦しに、生きる者とされているからです。

「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。」

今日私たち一人一人にも、主イエス・キリストの福音が届きました。

9月23日の説教要旨 「主の支持者達と反対者達」 平賀真理子牧師

詩編70:2-6 ルカ福音書21:37-22:6

 

はじめに

今日の新約聖書箇所の前半である21章37節と38節では、それ以前の様々な出来事を経た後でも、イエス様が相変わらず、民衆の支持を受けておられたとわかります。反対派から論争を仕掛けられたり、終末の徴を知りたがる人々を教え導いたりしながら、実は、イエス様は為すべきことを粛々と続けておられました。それは、神の御子として神殿で民衆に教えることです。また、夜は、エルサレムの町を出て「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされたとあります。イエス様がよく祈っておられたことは福音書の随所に出てきます。救い主としての使命である「十字架」が迫る中、主は益々熱心に父なる神様に祈りを献げられたのでしょう。

 

反対派に同調し、主を十字架に導いてしまった「イスカリオテのユダ」

一方、22章に入ると、エルサレムの実力者達は、相変わらず、イエス様を受け入れようとはせず、反対派のままだったとわかります。人々の面前で論争に負けたこともあり、ついに、彼らはイエス様の存在を消すこと、つまり、イエス様を殺すことを明確に目指すようになりました。しかし、表立って「ナザレ人イエス」を殺したのでは、イエス様を支持していた民衆の反感を買います。彼らはそれを一番恐れました。ユダヤ教指導者層が中心の反対派は、本来は神様の眼差しを第一に考えるべきでしたが、それを怠り、民衆が自分達をどう考えるか(「民衆受け」)を第一に考えていました。だから、民意に合わない「イエス殺害」を、民衆から隠れた所でコソコソと企てようとしたのです。彼らは、最初から反対派であり、イエス様の教えや知恵に出会っても、頑なに反対派に留まり続けたので、彼らの決意と企ては想定内です。しかし、想定外のことが起こりました。反対派に同意して手助けする役割をしてしまったのが、主の支持者の中にいたことです。その中でも、別格の存在、本来はイエス様と一体であるべき弟子、特に、その中でも、イエス様御自身が「使徒」と名付けて愛し育んだ中心的弟子の一人が、反対派に同調して、主を裏切る行動をしたのです。悪い意味で有名な「イスカリオテのユダ」です。

ルカ福音書では、どうしてそんなことが起きたのか、ユダの心理的原因を追究していません。ただ一言、「ユダの中に、サタンが入った」と記しています(22:3)。主の愛の中で慢心したのでしょうか。ユダは、自らの中にサタンが入り込む隙を与え、反対派の罪の中に巻き込まれ、主を裏切った末、後悔して自らの手で自らを裁くという罪を重ねていくのです。

 

主の支持者(神様の愛する者)を狙うサタン

振り返れば、サタンは、人間の始祖であるアダムとエバを誘惑して神様から引き離しました。それ以降、サタンは、神様が創造なさったこの世の主権を横取りし、神様が最も愛する人間達を支配してきました。そして、神様がいよいよ御自分の御子をこの世に送られて、その御子が福音伝道を始めようとするや否や現れて、神の御子を不遜にも誘惑しようとしました。これが「荒れ野の誘惑」(ルカ4:1-13)であり、この時、イエス様の誘惑に失敗したサタンは、「時が来るまでイエスを離れた」と書かれています(13節)。それで、サタンは、救い主イエス様の歩みの上にそれからは手出しできなかったのですが、エルサレムのユダヤ教指導者達がイエス様を受け入れない現実の中で、再び活動できる時が来ました。こんな時、私達人間は、反対派の中にサタンが入るのではないかと予想しがちですが、サタンはそうしません。反対派はサタンが支配しているので、そういった人々の中に入らなくても、彼らはサタンの思うままに動くはずです。そうではなく、神の御子イエス様の愛する弟子の中にサタンが入ったことに、私達は注目し、留意する必要があります。

 

「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」(Ⅰペトロ59)

サタンは、神様から主権を横取りしたこの世に、神様の愛の世界が広がることを一番嫌がり、イエス様を救い主として受け入れて「神の国の民」となった私達信仰者を、自分の方に取り返そうと必死に誘惑を仕掛けます。だから、教会生活を重んじることは有効です。「洗礼を受けて救われたのだから、それ以上は望まない」と言って、教会生活を軽んじる人は、サタンの攻撃の威力を知らず、備えるべき戦いの道具「武器」の手入れを怠る兵士に例えられます。祈り・御言葉の学び・礼拝を共にする信仰の友との交わり、これらによって、信仰の戦いに備え続けましょう。

9月16日の説教要旨 「神によって生きている」 平賀真理子牧師

創世記2:7-9 ルカ福音書20:27-44

 

 はじめに

今日の新約聖書の箇所は、聖書で証しされている神様の御心とこの世の人間の関心事がいかに食い違っているかが示されています。私達が、この世で生きていく中での問題、その多くを人間関係が占めているように思います。もっと集約すると、夫婦関係と親子関係です。その順番で、今日の箇所の前半と後半で、その問題が示されています。

 

 ファリサイ派とサドカイ派の相違点と一致点 

イエス様は福音宣教の旅をなさり、都エルサレムに来られました。イエス様の語る御言葉や病いの癒しの御業は素晴らしく、民衆はイエス様を送ってくださった神様を賛美するようになりました。しかし、ユダヤ教指導者達は、イエス様にまつわる出来事を素直に受け止めることができませんでした。そのような指導者達には、大きく分けて2つのグループがありました。その一つが「ファリサイ派」ですが、「律法学者」と呼ばれる人々の多くが、ここに属していました。そして、都エルサレムには「サドカイ派」と呼ばれる人々がいました。この2つのグループは様々な点で見解が異なりました。今日の箇所に関連して言えば、「復活や天使や霊」について、ファリサイ派は肯定、サドカイ派は否定というふうに、です。但し、イエス様への反感という点では一致していました。

 

 「復活にあずかる者はめとることも嫁ぐこともない」

エルサレムに来られたイエス様は、この反対派の人々から論争を仕掛けられました。彼らは論争でイエス様を負けさせて、人々のイエス様への期待を消し去ろうと企てました。まず、ファリサイ派を中心とする人々が質問しましたが、イエス様は「神の知恵」で、彼らを論破なさいました。そこで、サドカイ派の出番です。サドカイ派が常々疑問に感じていた「復活にまつわる問題」について質問しました。もし、復活があるなら、7人の兄弟と結婚した女性は、復活の時に誰の妻になるのかという内容でした。ここでサドカイ派は、今まで主張してきたように、結局、復活は無いという答えをイエス様から引き出したかったと思われます。しかし、イエス様は、サドカイ派の質問の大前提が間違っていると指摘なさいました。サドカイ派は、次の世でも、人間はこの世と同様に結婚すると考えました。しかし、神の御子イエス様は、違うとおっしゃったのです。次の世ではめとることも嫁ぐこともない、即ち、この世の夫婦関係は次の世まで続くものではないし、人間は一人一人に対して、もっと大事なことが課せられていると述べようとなさっています。

 

 「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々」

この35節には、見逃してはならない条件が含まれています。「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされる」という条件です。誰がそれを認定するのでしょうか。神様です!「神の国の主」=「聖書で証しされる神様」が、御自分の御心に従おうとした人間一人一人に対して、「神の国」で復活する価値があると認定してくださり、永遠の命を与えられるのです。だから、「死ぬことがない」とも言えるのです。

 

 「すべての人は神によって生きている」

続いて、イエス様は、サドカイ派が尊敬する「偉大なる指導者モーセ」も、御自分の証しする「神様」に出会ったのだと話されました。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と神様は御自分を名乗られましたが、多くの人々はこれを「ユダヤ人の先祖を守り導いた神の証し」と思っていました。しかし、イエス様は、遠い昔に肉体的には死んでいたとされた「アブラハム・イサク・ヤコブ」は、死んだ後の世界で復活して神様と共に生きていると証しした御言葉だと理解し、「生きている者の神」と言われました。そして、「すべての人は神によって生きている」と締めくくられました。人間は、本来、神に相対して一人一人が生きている、神の基準で生きる存在であると、イエス様は教えようとなさったのです。

 

 この世の人間関係よりも、救い主に謙虚に従うことを優先!

次に、イエス様からの質問を通して、偉大なダビデ王さえ、子孫として生まれると預言された救い主に対して、謙遜だったと示されました。神様と神様が送られる救い主に対し、人間は謙遜であるべきです。その姿勢が反対派には欠けていました。親子関係等の様々な人間関係よりも神様から賜った救い主に謙虚に従うことを私達は優先したいものです。

9月9日の説教要旨 「神の国の到来に備えて」 平賀真理子牧師

イザヤ書24:17-23 ルカ福音書21:29-36

 

 はじめに

今日の新約聖書の箇所は、イエス様による預言の後半部分です。この前にもイエス様は預言なさっていて、その内容は、エルサレムの滅亡と天変地異ということでした。一見恐ろし気な内容ですが、しかし、イエス様を救い主と受け入れて生きた者は、その出来事の果てに、主が再臨なさる希望が持てるという内容で、それを踏まえた上での後半です。

 

 「いちじくの木のたとえ」

小見出しは「いちじくの木のたとえ」とありますが、今日の箇所ではいちじくの木だけでなく、「ほかのすべての木」も30節以下のこと、つまり、木の葉っぱが出始めると、人間は夏が近いと悟るという事実を主は挙げておられます。当時の一般庶民は、暦や時計を持っておらず、自分達の感覚で分かる変化を認識して初めて、時の変化を知ることができました。特に、農業・漁業・林業・牧畜業に従事していた人々は、その現象に敏感であり、その知識を継承していたという背景があります。イエス様は、御自分の最大の関心事「この世に神の国が到来する」前にも、同じように「徴」が現れることを、語っておられるのです。この直前に語られた恐ろし気な現象が起こった時に、信仰者のない人々が怯えても、御自分を救い主と受け入れた信仰者達には、神様の絶対的な守りがあり、かえって希望が持てると主は語られてこられました。なぜなら、都の滅亡と天変地異と主の再臨こそが、地上に「神の国」が到来する「徴」となるからであり、「神の国の到来」こそが、父なる神様と御子なるイエス様の最大の関心事、かつ、喜びであり、「終末」は終わりを意味するのではなく、その先に、信仰者が神様と共に喜べる世界の到来という意味があるのだということを主は教えてくださっているのです。

 

 「この時代は滅びない」(32)

「この時代」とは、イエス様がお語りになった当時だけを指すのではなく、「同じ時代の人々」という意味があります。また、それだけでなく、御自分を救い主と受け入れた人々のことだと思われます。「主と心を同じくする人々」のことです。だから、これは、現代の信仰者である私達も決して滅びないと、主が保証してくださっていることでもあります。

 

 「天地が滅びても、わたしの言葉は決して滅びない」(33)

主が預言なさった「都の滅亡と天変地異」は、「天地が滅びる」ようだと受け取る人もいるでしょう。また、33節を言葉通りに読むと、天地は、神様が造られた被造物なので、滅ぶこともあり得るとも言えます。その一方、永遠なる神様(父なる神様と御子イエス様と「主の御言葉」)は決して滅びることはないのだから、主を信じて結ばれている弟子達も決して滅びないと、イエス様は弟子達に熱心に伝えようとなさっておられます。

 

 「心が鈍くならないように注意しなさい。」(34)

但し、人間をよくご存じのイエス様は私達に宿題を出されていると感じます。34節-36節を見ましょう。人間は、救われたと言われると安心し切ってしまい、放縦や深酒や生活の煩いなど、信仰を持つ前と同じ問題によって、信仰心が鈍ることがあると主は見抜いておられます。だから、信仰者に対し、「終末の日」が不意に罠のように襲うから、「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい」と命令なさいました。信仰者として、心の準備が整った状態で「終末=主に出会う日に備えてほしい」という、イエス様の願いが現れています。

 

 「いつも目を覚まして祈りなさい」(36)

ここでの「目を覚ます」とは、もちろん、肉体的に眠らないで起きているということではなく、「信仰において」目覚めているということです。教会生活を続けていると、「洗礼によって、罪の赦しを受けたのだから、その後は教会には行かない」と言って、俗世間に戻ってしまい、教会での信仰の訓練を避けようとする人を時々見かけます。彼らは、信仰的に成長するチャンスを逃しており、それは主の御心ではありません。

また、キリスト教での「祈り」とは「主との対話」で、私達日本人が行う「願い事の羅列」は、「祈り」とは言えません。主に自分の思いを打ち明けても良いのですが、祈りの最後には「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と主の御心を聴いて従う姿勢が求められます。イエス様の「ゲツセマネの祈り」(マタイ26:39)に倣って、私達も祈り続けましょう。

9月2日の説教要旨 「世の終末と私達の希望」 平賀真理子牧師

ダニエル書7:13-14 ルカ福音書21:20-28

 

 はじめに

今日の新約聖書の前半は、イエス様のエルサレムについての預言です。神の都と呼ばれたエルサレムが恐ろしい状況で滅亡するいう内容です。しかし、これは、聖書で証しされている神様が「御自分の気分で都を滅ぼす」わけではありません。神様は、ユダヤ人を「イスラエルの民(神の民)」として、選び、愛し、育まれました。そして、約2千年前に、「今だ!」ということで、御自分の御子イエス様を救い主として、この世に送ってくださったのでした。それも、「唐突に」ではなく、ずっと前から「神の民に救い主を送る」という預言を預言者達に授けていました。

 

 前に預言され、後に実現されるに至る「神様による人間の救い」

特に、旧約聖書のイザヤ書以降には、そのような預言が幾つか含まれています。旧約聖書にいつも触れていたのが、ユダヤ教指導者達です。祭司長や律法学者達です。彼らが居るのがエルサレム神殿を中心とするエルサレムという都です。ここで、イエス様が「救い主」として受け入れられれば、このエルサレムは「神様による人間の救い」を受け入れたことになります。そして、それまで人間が受けていた「この世の長サタンの支配」から抜け出て(救われて)、神様がユダヤ人を起点の民として、世界中の人間に御言葉を伝え、全ての民族がそれを信じ、この世の皆が神様の支配を受ける「神の民」となるように、神様は御計画されたのです。

 

 エルサレムのユダヤ教指導者達の頑なな拒絶

ところが、エルサレムのユダヤ教指導者達はイエス様を最初から排除しようとしたことが、ルカ福音書の記述から読み取れます。彼らは、民衆の支持を失わせようと論争を仕掛けましたが、イエス様の「神の知恵」溢れる答えによって負けてしまいました。それでも、彼らはイエス様を「神の御子・救い主」とは認めませんでした。また、それ以前に、イエス様は、憐れみ深い神様の御心を示していないという彼らの罪を指摘なさったこともあって、彼らは悔い改めず、イエス様を拒み続けました。「神の救いの御手」を拒んだ町には、神の裁きが徹底的に降る定めです。

 

 イエス様を救い主として受け入れないという罪とその罰

ユダヤ教指導者達は、目の前の「ナザレ人イエス」を救い主だと受け入れなくても大したことにはならないと油断していたのでしょう。ところが、実は、イエス様の到来で、神様の出来事である「人間の救い」は、既に始まっていました!彼らはそれを見逃しました!更に、指導者の決定的な判断ミスで、「身重の女とか乳飲み子を持つ女(23節)」という社会的弱者が大変苦しめられることになるとイエス様は預言なさいました。本来は、弱者を憐れむ神様がそうしないほど、神様の御子に逆らう罪は非常に重く、その罪への罰を「神の民」は必ず受けなければならないのです。

 

 神様から受ける罰=エルサレム滅亡は、実際に起こった!

神様からの罰を受ける預言は、数十年後に実現しました。紀元66年から70年まで「ユダヤ戦争」となり、エルサレム神殿を含むエルサレムの町全体は、ユダヤ人が「異邦人」と蔑んだローマ人達の強力な軍隊により、徹底的に滅ぼされました。その後、20世紀に入るまで約1900年間、エルサレムは異邦人達に支配され、ユダヤ人達は心の故郷エルサレムを回復できない「離散の民」として、世界中をさまようことになりました。

 

 天変地異の預言が例えていることと私達が持てる希望

更に、所謂(いわゆる)「終末」の預言として、エルサレム滅亡後には、天変地異が起こり、天体や地上や海上で大きな異変が起こるために、神様の御業を知らない「諸国の民」は「なすすべを知らず、不安に陥る(25節)」と、主は預言なさいました。しかし、「そのとき、人の子(救い主なるイエス様)が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくるのを、人々は見る(27節)」と続きます。救い主イエス様と出会った時、私はそれまでの価値観が全く覆され、心の中で「天変地異が起きた」ように感じました。天変地異の預言は、福音との出会いで、以前の心の体系が大いに揺さぶられる経験を例えていると言えるかもしれませんし、それだけではなく、「終末の出来事」として実際に起こることかもしれません。ただ、信仰者はその出来事の有無を心配することから解放されています。イエス様を救い主と信じることによって罪を贖われた私達は、どんな状況でも神様につながっているという希望を持ちつつ、主の来臨を待っていられるからです!

8月26日の説教要旨 「命をかち取る」 平賀真理子牧師

出エジプト記4:10-12 ルカ福音書21:7-19

 

 はじめに

今日の新約聖書の箇所は、直前の5-6節のやりとりが前提となっています。エルサレム神殿の素晴らしさをほめたたえる者達に対して、イエス様が「それはやがて崩れる」と預言されました。人々は、外側に表れたものを称賛しましたが、一方、イエス様のお答えは、実は、外側だけが崩れると意味しているのではなく、もっと深いのです。

 

 まだ建設中のエルサレム神殿の崩壊の預言

6節のイエス様の御言葉を聞いた人々は、壮麗な神殿の崩壊だけが語られたと受け取り、それがいつ起こるのか、そして、その前兆を教えてほしいと願いました。実のところ、この時、エルサレム神殿は、まだ完成していませんでした(紀元64年に完成)。まだ建設中の建物が崩壊するなんて、人々は想像できず、そんなことはありえないと思ったかもしれませんし、イエス様の預言が本当になったらどうしようと心配になって質問した人がいたかもしれません。

 

 エルサレム神殿を中心としたユダヤ教の信仰体系の崩壊

ここで思い出していただきたいのが、この頃のユダヤ教はエルサレム神殿を中心とした信仰体系になっていたということです。首都であり、神の都であるエルサレムにある神殿で、自分の罪を贖う動物の犠牲を献げて礼拝することが大変重要だと信じられていました。エルサレム神殿が崩れてなくなるとは、単なる建物の消滅ではなく、エルサレム神殿の権威の崩壊、そして、彼らの社会の崩壊、更には、この世の崩壊までを意味していたわけです。また、当時のユダヤ教では、この世の終わりを「終末」と呼び、「終末」にメシアが来て、人々を裁くと言われていましたから、「終末が来る時」を前もって知り、神様の裁きに備えたいと考える人も当然いたことでしょう。

 

 「終末」に怯える人間が抱く恐れ、イエス様が人間に対して抱く心配

イエス様は質問者達の思惑をおわかりになった上で、「人々の恐れ」を利用して、「自分が救い主だ」とか「終末が近づいた」という偽キリストに従わないように警告なさったのです。また、恐れを抱えた人間は戦争や暴動のニュースを聞いただけで「終末だ」と怯えることもイエス様は御存じで、そうではないと教えてくださいました。更に、「民vs民、国vs国」といった対立や、地震・飢饉・疫病の頻発、恐ろしい現象や天に現れる著しい徴で、人間は「終末が来た」と恐れるようになるとイエス様は予見し、人間の誤解を指摘なさったのです。一方、当のイエス様が心配なさっていたことは、12節以下、つまり、イエス様を救い主として受け入れた人々が、受け入れない人々によって迫害されること、場合によっては「殉教者」として殺されることです。それは、人間的に見れば、大変恐ろしい「終わり」です。外側に表れる天変地異や人災ともいえる戦争や暴動の前に、信仰者の内側=心に、「終末」のような恐ろしい出来事が必ず起こるから、それに備える必要があると教えておられるのです。

 

 権力者の前での弁明の時に、主が「言葉と知恵」を授けてくださる

信仰者は、権力者達の前で信仰について語る機会が与えられるであろうとイエス様は預言なさいました。人前で語る教育を受けていない庶民出身の信仰者にとり、そんな機会は恐怖以外の何物でもないでしょう。そんなピンチの時、イエス様は信仰者に「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵」を授けると約束なさいました!神様からの言葉や知恵は、人間を越えた、欠けのない、完璧なものです。使徒言行録には、実際にそのことが起こったという証しが幾つもあります。

 

 信仰ゆえに起こる「終末」を励ましてくださるイエス様

信仰者がもっと恐れるのは、家族や友人という親しい人々から迫害され、殺されるに至ることです。更に、「わたしの名のために」、つまり、「イエス様が自分の救い主」という信仰ゆえに、信仰者は「すべての人に憎まれる」と主はお語りになっています。何も後ろ盾がなければ、まさに「終末」のように恐ろしいことです。けれども、信仰者を「髪の毛の一本も決してなくならない」(18節)ほど、主御自身が完璧な後ろ盾として守ってくださると保証してくださっています!信仰者はただ、どんな状況下でも信仰を貫くという「忍耐」によって、神様につながる「人間本来の命」をかち取るよう、主は願い、私達信仰者を励ましておられるのです。