「もう、だいじょうぶ」 遠藤尚幸先生
*はじめに
今朝与えられた聖書の言葉には、大変不思議な場面が記されていました。それは、「主イエスの姿が変わる」ということです。聖書の中で主イエスは、病のいやしや悪霊の追放など、様々な奇跡的な業を人々の前に示していますが、今朝の箇所の特徴は、その奇跡が、主イエスご自身に起こるということです。主イエスご自身にどんな奇跡が起こったのでしょうか。
「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」(マタイ17:1~)
*暗い思いに包まれていた弟子達
主イエスの、この姿は、神様ご自身の栄光に輝く姿です。弟子達はこの主イエスの光り輝く姿を目撃する直前、実は暗い思いを抱くような経験をしていました。それは主イエスが弟子達に「これからエルサレムに行って起きること」の予告をされたことです。主イエスが、長老、祭司長、律法学者という当時の社会の権力者達に捕われ、苦しみを受けて殺されるというのです。「三日目に復活する」との予告もありましたが、この段階ではそれが何を意味するのか弟子達には分かりませんでした。弟子のリーダーでもあったペトロが、この言葉を聞いて「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と主イエスをいさめ始めました(16:22)。主イエスがエルサレムで殺されてしまうなど、誰一人その意味を理解することが出来ず、弟子達は、この時まさに暗い思いに包まれていたのです。
*モーセとエリヤ
主イエスが山の上で光り輝く栄光の姿を現したのは、これから起こることが決して否定的な意味を持つのではないということを伝えるためです。聖書は、次のように続けます。「見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた」。モーセもエリヤも、旧約聖書を代表する人物です。モーセはイスラエルの民をエジプトの奴隷から解放し、神様から大切な教えである「律法」を受け取り、民に伝えた人物です。エリヤは、神様の言葉を預かり、それを人々に語り伝えていた代表的な預言者です。旧約聖書が語り継いできた歴史がこの二人の姿に表されています。その流れに主イエスが合流している。ルカ福音書にはこの三人が「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(9:31)とあります。つまり旧約聖書の成就として主イエスがエルサレムで遂げる最期、あの十字架の出来事があることが示されています。 弟子達にとって悲しみの出来事でしかない主イエスの十字架の死が、実はイスラエル民族の救いの成就であり、神様の深いご計画に基づいた出来事としてあること、主イエスはその十字架へ向かって進もうとしていること。弟子達はその栄光の主イエスの姿を、この時、垣間(かいま)見たのです。
*「起きなさい。恐れることはない」
この栄光の主イエスの姿を留めておきたいと考えたペトロは「お望みでしたら、仮小屋を三つ建てましょう。あなたのため、モーセのため、エリヤのために」と言いました(17:4)。しかし、光り輝く雲が彼らを覆い、天からの声をが聞こえ、彼らがひれ伏し恐れていると、主イエスは彼らに手を触れて「起きなさい。恐れることはない」と言われ、彼らが顔を上げて見ると、主イエスのほかには誰もおらず、弟子たちの前にはいつも通りの主イエスがいました。私達と同じ人間として悩み、十字架の道を苦しみながら歩もうとする主イエスです。
*ペトロ、ヤコブ、ヨハネ
この三人の弟子達は、主イエスの栄光の姿を目撃した後で、その主イエスの苦しみ抜く姿を目撃します。この三人は、ゲツセマネの園での祈りの場面でも同様に選ばれています。主イエスが十字架につけられる前夜、祭司長達から捕われる直前に祈りをささげたのがゲツセマネと呼ばれる場所でした。主イエスはゲツセマネの園でこのように祈りました。
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(26:39)
この祈りは、これから起こる杯(=十字架の出来事)を過ぎ去らせてほしいという願いと、しかし、神様の御心が実現していくようにという戦いの祈りでした。三人の弟子は、この主イエスの祈りの場所に同行することになります。主イエスというお方は、常日頃から栄光の姿を持って何の悩みも持たずに生涯を歩み、苦しまずに十字架に向かわれたわけではありませんでした。
そして弟子達は、結局は、主イエスの敗北にも思える姿を理解しきれずに、祭司長達に捕えられると怖くなって逃げ去り、遂には、主イエスただお一人で十字架への道を歩んでいくことになります。
主イエスの十字架への歩みは、そのようにして、都合よく神様を利用し都合よく神様を見捨てていく、私達人間の罪の深さを明らかにしました。
*十字架の愛
そして、主イエスは、私達の罪を背負って十字架で死んで下さいました。私達の命は、神のひとり子である方が、命を捨ててまで救い出して下さったほどに価値があり、欠けがえのないものです。
高い山の上で見た光は、弟子たちにとって、一瞬垣間見たものでした。しかし、彼らは後に、光り輝く栄光だけが真の栄光ではないことに気づいていきます。主イエスのあのみすぼらしい、敗北のように見える十字架にこそ、神様の豊かな愛です。光り輝く栄光の姿は確かに素晴らしく、ペトロが言ったように、何としてでも留めておかなければと思うほど魅力的なものだったかもしれません。しかしそれ以上に、もっと素晴らしいことは、神様が、「その存在そのものを懸けてこの私を愛してくださった」という出来事です。弟子達は後に教会を形成し、主イエスのことを伝えていきますが、彼らが伝えたのは、光り輝く栄光ある主イエスの姿ではなくて、彼らは大胆に、十字架で命を捨てた神の子イエス・キリストを伝道していくのです。私達の罪のために十字架を背負う主イエスの姿は、後に、全世界の人々へと告げ知らされ、遂には今私たちの所に手渡されています。
私達一人一人もまた、この主イエスの十字架の愛の中に置かれています。
*山の上で
主イエスの姿が変わる出来事は「山の上」で起きました。
「山」は、神様と出会う特別な場所として描かれ(マタイ福音書)、主イエスが十字架で死に復活した後、弟子達が主イエスと再会する場所もガリラヤの山の上です。主イエスを見捨てた弟子達が、再び主イエスに出会い、派遣されていくのは、「山の上」であることを伝えています。
「山の上」での神様との出会いは、私達が毎週教会でささげている礼拝の姿と重なります。礼拝で知らされることは、私達がこの一週間を振り返り、いかに神様という存在を自分勝手に都合よく考えてきたかということです。そのような私達に主イエスは近づいて下さり、手を触れて、「起きなさい。恐れることはない」(17:7)と語りかけて下さっている。
弟子達は主イエスを見捨てて裏切ったわけですから、復活の主イエスと出会うことは、「喜ばしいだけ」ではなかったはずです。しかし主イエスは、そんな彼らの思いを超えて、一人一人を愛し、受け入れ、もう一度そこから「起きなさい」と呼びかけて下さる。
私達も又、この弟子達と同じです。この礼拝を通して知るべきことは、私達一人一人のために、主イエスがあの十字架で命を捨てて下さったということです。私達一人一人の不信仰、欠け、弱さを超えて、私達一人一人をどこまでも愛し抜いて下さっている方がいる。私達が毎週教会に集うその意味は、共に、自らに与えられている「その良き知らせ」を聴き、新しい一週間を共に歩みだすためです。
*受難節の歩みの中で
私達は今、主イエスの十字架への歩みと、その苦しみを覚える受難節を過ごしています。教会歴の中で、受難節最後の週である受難週は、主イエスの苦しみを覚えて過ごすためにいろいろな試みがなされています。が、大切なことは、この主イエスの十字架の歩みの中に、私達一人一人が深く覚えられていることを、心に刻みながら過ごすことです。 新しい一週間が始まります。主イエスの栄光の姿は過ぎ去りました。しかし、何も問題はありません。私達の目の前には、私達の罪を背負い、十字架の道を歩む主イエスがおられるからです。