2022年11月27日の説教要旨 イザヤ書7:10-14・マタイ1:18-25

「主の到来の希望」       加藤 秀久牧師

*はじめに

私達には、どんなに偉くても偉くなくても、貧しくてもお金持ちの人にも、生まれた日・誕生日があります。その日を祝うのは、大体その人が生きている時だけかと思います。しかし神様を信じる者の間では、イエス様の誕生日だけは、何年も何十年も何百年も何千年もお祝いされています。なぜでしょうか。それは、イエス様が生まれた時から今に至るまで、変わらぬお方であって生きているからです。

主なるあなたの神に、しるしを求めよ」(7:11)

本日の旧約聖書は、イスラエル王国が、北イスラエルと南ユダに分裂した後の今から約2700年位前のことで、南王国ユダで活動していたイザヤの時代の話です。当時、アッシリアに対抗してアラムの国と北イスラエルの国が同盟を結んでおり、南王国ユダにも同盟に入るよう打診されていましたが、アハズ王の心は揺れ動いていました。預言者イザヤは神様の言葉を聞き、アハズ王に対して「主なるあなたの神に、しるしを求めよ」と伝えました。これは「主に願い求める、主を尋ね求める、主に伺う」ことで、神様を第一にすることを意味します。しかしアハズ王は、「わたしは求めない(7:12)」と答えました。それは自分自身の考え方、能力、自分の情熱によって歩み、他の神々を礼拝するような習慣がその人の身に沁みついてしまうこととなります。

*王国の歩みとわたし達

イスラエルの国が人々の要求により王政になった時、神様が選ばれた初代の王はサウルでした。しかし彼は主を尋ね求めて従うことをしなかったため、神様は彼を退けてダビデを選ばれました。ダビデは主を信頼し、主を尋ね求める者の象徴的存在です。ダビデは「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り 主を仰ぎ望んで喜びを得 その宮で朝を迎えることを。(詩篇27:4)」と祈り願っています。私達は神様を何よりも第一に主を尋ね求めて主に伺っているでしょうか。

*イザヤの「インマヌエル」預言

本日のマタイ福音書1章23節では、イザヤ書7章14節の「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。」が引用されています。「インマヌエル」とは、「神は私達と共におられる」の意味ですが、本来、神様の「神性」と、人間の「人性」が共にある存在の意味で、神様と人間とが一つになった特別な存在であり、その「しるし」は「処女から産まれる男の子」でした。この予告は主の御使いから(マリアと婚約中の)ヨセフに、夢の中で告げられました。ヨセフは結婚前にマリアが妊娠したことを知り、ひそかに縁を切ることを決心します。しかし御使いから、マリアが聖霊によって身ごもったこと、生まれ出る子供は「自分の民を罪から救う(21節)」こと、そして700年前のイザヤの「預言の実現(成就)」であることが告げられたのでした。

*神様の御計画

ヨセフは子供の名前を選ぶことが出来ませんでした。それは神様の霊による誕生であり、神様がすでに名前を付けていたからです。

私達も、神様がすでに私達の為に計画されていることを変えることが出来ないことを知る必要があります。私達はこの地上に生まれ、子供から大人へと成長させられた中で、多くの人達との出会いがあり、それを通して様々な場面で神様の存在を知り、何よりも今、このようにして神様に出会い、信仰生活を送れることの素晴らしさ、嬉しさ、喜びが常にあります。これらは神様の呼びかけによらなければ、「インマヌエル」である主が共におられなければ、与えられなかったものであり、私達は生きることも死ぬこともできない者です。それだからこそ神様のご計画は素晴らしく、偉大なものとして受けとめることができるのです。

もしイエス様の誕生がなければ、私達の罪の贖いの出来事も、聖霊も受けることは出来ず、聖書を見ることも読むことも出来なかったはずです。イエス様は、天に於いても地に於いても神であり、王の王、唯一のお方です。この王様が今日もこの礼拝の中に現れ、私達の真ん中、中心にいることを信じ感謝しつつ、今週一週間の歩みを始めて参りましょう。

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