2023年4月9日・イースターの説教要旨 詩編30編・ルカ福音書24:1-12

「イエス様はどこですか?」   加藤 秀久牧師     

*はじめに

私たちの日々の歩みには様々な事が起こります。心が晴れやかな日もあれば落ち込む日もあります。本日の詩編30編に、私達の心の様々な変化の中にあっても神様は共におられ、私達を見ていて下さる、見守っていて下さることが語られ、特に12節では「主は、わたしの嘆きを踊りに変え粗布(あらぬの)を脱がせ、喜びを帯として下さいました。」とあります。

 神様は、私達の嘆き、悲しみ、苦しみ、重荷を取り去って、私達の魂が喜びに満たされて神様をほめ称える者となり、心から神様の前で踊るものと変えて下さることが述べられています。このことは、本日のルカ福音書で伝えられる、天使からイエス様の復活を聞いて、神様をほめ称えて喜ぶ婦人逹の晴れやかな気持を表現している詩編のようにも感じられます。*ガリラヤから来た婦人たち

 本日のルカ福音書の婦人達については、直前の聖書箇所23:55~56に記されています。そこにはイエス様と一緒にガリラヤから来た婦人たちが、イエス様の、亜麻布で包まれた遺体が納められる様子とお墓を見届けたことや、帰宅後、香料と香油を準備したこと、又、安息日の掟に従って休んだことが記されています。そして本日の箇所には、(三日目の)週の初めの日の明け方早く、婦人たちが準備しておいた香料を持ってお墓に行ったことが記されています。10節には婦人達の名前・・「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たち」が記されていて、同じルカ書の8:2~3には、この婦人たちが、イエス様のガリラヤでの神様の言葉を宣べ伝えた始めの頃からイエス様に従い、「彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」と、伝えています。

この婦人たちは、イエス様と共にエルサレムにまで来て、イエス様が捕えられた時にも、十字架につけられた時にも、イエス様から離れることなく、これらのことを見ていた(23:49)のです。彼女たちは、ずっと、イエス様のことを見守ってきた人達なのでした。

*「あの方は、ここにはおられない」

 週の初めの日の明け方早く、婦人たちがお墓に行ってみると、お墓の入り口に大きな石が置いてあったにもかかわらず、その石がお墓のわきに転がしてあり、中に入って見ても遺体は見当たりませんでした(3節)。途方に暮れていると、「輝く衣を着た二人の人がそばに現れ」ました。

恐れて地に顔を伏せた婦人たちに、二人の御使いは、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」と言いました。そうです!御使い逹はガリラヤでイエス様の言われたこと・・『人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている』ことを、思い出すようにと言われたのです。そう言われて婦人たちは、イエス様の言葉を思い出しました(8節)。

*復活の知らせは、先ず、婦人たちに告げ知らされた

 本来であれば、この出来事・・「天使から、イエス様の復活の知らせを受け取ること」は、先ず、使徒たちに起こることではなかったのかと思われます。けれどもこの出来事は、イエス様のそばにずっと寄り添い、従い続けてきたガリラヤから来た婦人たちに起こりました。当時の男性中心の社会では有り得ない順序です。ですからこの知らせを聞いた弟子達は、伝えられた内容を受けとめることが出来ず、婦人たちをも信じることが出来ませんでした。ただ一人ペトロは、「立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞき、亜麻布しかなかったので、驚きながら家に帰り」ました。

*死の闇の世界からよみがえられたイエス様

私達が思い悩み、途方に暮れて呆然(ぼうぜん)としている時、神様は救いの御手をのばして私達をそこから救い出して下さいます。イエス様を愛し、寄り添い、真剣に従っていた婦人達と同じように、今日も私達に呼びかけておられる御声に、今週も聴き従って歩んでまいりましょう。