4月30日の説教要旨 出エジプト16:1-16・Ⅰコリント8:1-13

「良い食べ物」     加藤 秀久牧師     

*はじめに

エジプト王の宮廷の責任者とされたヨセフは、飢饉の為にカナン地方から食料を買いに来た兄達に自分の身を明かして、カナンの地から父ヤコブをはじめすべての家族(総勢70名・46:27)をエジプトに呼び寄せました。彼らは最良の地に住むことが許され食料も豊かに与えられ、子供も増えていきました。しかしヨセフも、その世代の人々も皆亡くなり、ヨセフを知らない新しい王が国を治め始めると、イスラエル人の人口が増して強力になりすぎた為、王は強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待しました。労働はいずれも過酷をきわめ、助けを求める彼らの叫び声は激しさを増し、イスラエルの人々は神様に祈り、助けを求めました。その叫び声は神様に届き、彼らの苦しみを御心に留められた神様は、ミディアン地方でしゅうとの羊の群れを飼っていたモーセを選び、エジプト王のもとへ遣わして、イスラエルの人々を、約束の地カナンに連れ帰るように導かれたのでした。

わたしがあなたたちの神、主である。

 本日の出エジプト記では、エジプトを脱出したイスラエルの人々は無事に荒野に入ることが出来ましたが、脱出後一か月くらいに、シナイの荒れ野に行く途中「シンの荒れ野(聖書のうしろにある地図2)」に向かっていた時、イスラエルの人々の共同体全体が、モーセとアロン(モーセの兄・モーセの語るべき言葉の口の役割を担う・出エジプト4:14~)に向かって不平を述べ立てました。「エジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あの時は肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなた達は我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」と言いました。彼らの不平を聞かれた神様は、人々を神様の前に集めさせ、人々が荒れ野の方を見ると、主の栄光が雲の中に現れました。そこでモーセは、神様の語る言葉を伝えました『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる。』と。

*夕方にはうずら、朝にはマナ

 私たち人間は、目の前に危険が迫ったり直面すると、普段は冷静に振舞えるにもかかわらず、それが出来ず、心の中にあった本音が現れて言ってしまうことがあります。イスラエルの人々が旅を続ける中、疲れやストレスがたまり、喉の渇きや食料不足による空腹を覚える時、エジプトで食べられたり、飲んだりした時のことを思い出して、荒れ野という過酷な場所で、その不満が一気に表に出てきてしまったのでしょう。 

けれども主なる神様は、夕方には「うずら」に宿営を覆わせ、朝には宿営の周りに「露」を降りさせ、この露が蒸発すると、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていました(16:13~)。それは蜜の入ったウェファースのような味がして、民は「マナ」と名付けました(31節)。彼らは神様がモーセを通して命じた通り、家族に応じてある者は多く、ある者は少なく集め、翌朝まで残しておかないこと、又、六日目には二倍の量を集めて七日目の安息日には休むなどの決まりを守りました。イスラエルの人々は、目的地に着くまでの40年にわたり、この恵みの「マナ」を食べて旅を続けました(16:35)。

知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(1節)

 本日の、Ⅰコリント書の8章の1-13節には、偶像に供えられた肉について語られています。4節には「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。」とあり、続く7節には「しかし、この知識が誰にでもあるわけではありません。」とあるように、偶像になじんできた習慣にとらわれている人にとっては「この肉は偶像に備えられた後、食肉用におろされたもの」と聞くと、食べるか食べないかの葛藤が心に起こることが語られます。そして、自分が正しい知識を持っていると考えている人達の、その人の自由な態度が、弱い人達を罪に誘うことにならないように気を付けなさいと警告しています。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げ」ます。私達は、与えられている聖書の御言葉を通して「良い食べ物」を与えられ、そして、与えていく者になりたいと願っています。