7月12日の説教要旨 「罪人を招く主」 牧師 平賀真理子

詩編25:6-14

ルカ福音書5:27-32

 はじめに

みもとにやって来た「中風の人」と運んできた仲間の信仰をご覧になったイエス様は、「罪の赦し」と「病いの癒し」をなさいました。そこでは、神様への賛美が起こりました。しかし、イエス様は御業を誇ることなく、福音を広める旅を続けるため、すぐ出発されました。

 徴税人「レビ」の召命=イエス様の方からの呼びかけ

イエス様は道中、心の中で救いを求めていたであろう人を見つけ、ご自分の方から「わたしに従いなさい」と声をかけられました。「レビ」という徴税人です。当時、税金を取り立てる「徴税人」は人々から嫌われ、軽蔑されていました。自分達と同じユダヤ人でありながら、自分達を支配しているローマ帝国やヘロデ王家(異邦人)のために大事なお金を税金として取り上げる仕事を「徴税人」がしていたからです。また、彼らの多くは、本来の税金よりも多くのお金を人々から徴収して、私腹を肥やしていました。異邦人と交際している「徴税人」は、神様に背いて生きていると軽蔑されていた「罪人(つみびと)」とされていました。しかし、「徴税人」にならざるを得なかった事情が彼らにあったかもしれません。また、そんな仕事を続けていくことは精神的・社会的に辛いことだったでしょう。絶望的な思いを抱いて、「レビ」は仕事場に座っていたのでしょう。イエス様は人間の心の中を見抜かれ、「救い」を求める人を決して見過さない御方です。憐れみをもって、レビを「本当の救い」に招いてくださいました。「中風の人」の場合と違い、今回は「救い」を求める人に、主の方から来てくださり、「本当の救い」に招いてくださったのです。

 主の招きにすぐに応えた「レビ」

イエス様の招きに応じて、28節に「彼(レビ)は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」とあります。すべてを捨てて主に従う姿は、主の弟子シモン・ペトロ達と全く同じです(5:11)。主の招きを受けた者は、すぐに従うべきだと伝えていると読み取れます。

 主のための宴会に同席した者と同席できなかった者

本当の救いという恵みをいただいた「レビ」は、盛大な宴会を催しました。イエス様に対する感謝を表すためだったと思われます。自分のために貯めていた財産を主のために使うと言う、180度の方向転換です。この恵みの席に同席したのは、「徴税人」や「罪人」です。一方、宗教的聖さを重んじるファリサイ派や律法学者達は、彼らと同席できませんでした。しかし、とても気になって、様子を外から遠巻きに見ていたのでしょう。そして、恐らく、弟子達が外に出てきた時にでも、自分達の疑問を投げかけたのではないでしょうか。「宗教的に汚れた人々と食事を共にするなんて、どういうつもりだ?」そんなことをすれば、聖い自分達も汚れて、神様の御前では「罪人」とされると彼らは考えたのです。

 罪人を招くために来た主

その質問にイエス様自らがお答えになりました。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく、病人である。」これは、次の32節の例えです。「わたしが来たのは、正しい人を招くためでなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」救い主としてのイエス様がこの世に来られた目的を、御自身で明らかになさいました。質問した反対派が自分達を「正しい」と考えているので、その考えに合わせて答えられました。「正しい、つまり宗教的に聖いと自負するあなた達には、救い主は必要ないですね。あなた達が汚れているとみている罪人こそ、救い主は必要ですね」と言われたのです。「罪人」と呼ばれた人々と共にいて、彼らに神の国を知らせることこそ「救い主」である御自分の使命だとおっしゃったのです。

 「罪人」とは?

「罪人」とは誰かを考え直す必要があります。社会の中で苦しんでいる人々を「ダメな人達だ」と裁くだけで助けようとしない反対派こそ、「罪人」の最たるものでしょう。ここで、「罪人」は2種類あると考えられます。神様の律法を守れない人と、律法を守らない人の事情を配慮せずに裁くだけで助けようとしない人です。新約時代の私達は、福音によって神様の御心を知らされています。自分自身を振り返ってみて、常に神様の御心に従っていると言えるでしょうか。神様の御心に従っていない人を見て裁くだけになっていないでしょうか。それでは「罪人」に逆戻りです。しかし、そんな「罪人」である私のためにイエス様は「悔い改めて神の国の民として生き直す」ように招いてくださっているのです。

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