10月25日の説教要旨 「わたしたちの救い」 倉松 功 先生(元 東北学院 院長)

エレミヤ書23:5-6・ルカ福音書19:1-10

 はじめに

私達の教会、プロテスタント教会が再出発したのは、1517年です。キリスト教会は礼拝を始めて500年ほどは一つでしたが、その後、ギリシア正教会、ローマ・カトリック教会に分かれていきます。一つだった元々の教会に回帰する、元々の教会の流れを受け継いで再出発する、これが宗教改革の精神です。宗教改革を最初に行ったのは、マルティン・ルターであり、1517年10月31日に、ローマ・カトリック教会が「免罪符を買うことで救われる」と教えたことなどへの95箇条の問題提起をしたのでした。

 「救い」とは何か-ザアカイの「救い」の物語

私達は教会に救いを求めて来るし、また、救いを確かなものにするために来るわけです。私達が理解している「救い」とは何か、それを大変わかりやすく記してあるのが、ザアカイの救いの物語だと思います。主イエスがエリコの町に入られました。エリコはエルサレムから東へ50キロ、エルサレムの出入り口にあります。そこに、ザアカイという徴税人がいました。エリコは通商が盛んで、徴税人は通商税を取っていたことでしょう。また、支配されていたローマ帝国への税金も集めていました。ローマ帝国のために、ザアカイは、自分と同じユダヤ人達から税金を取り立てたので、ユダヤ人からすれば、ザアカイは喜ばしい人ではなかったでしょうし、また、徴税人の頭として、手下の徴税人達の給料分や家族の生活費も上乗せして、人々からお金を取り立てていたでしょう。だから、ユダヤ人からは憎まれ、疎外された人間だったと言えるでしょう。ザアカイ自身も自分に嫌悪感があったかもしれませんし、主イエスが来られると聞いて、キリストに対して好奇心もあったと憶測いたします。ザアカイはイエス様を見ようと思ったけれども、背が低くて、見えなかったので、建材に使うような丈夫ないちじく桑の木に登ったわけです。そこへ、突然、事が起こりました。キリストの方から、上を見上げて「ザアカイ、急いで降りて来なさい。」という声がかかりました。これは、ザアカイにとって大変な驚き、大変な喜びでした。自分のような者にイエス様の方から声をかけてくださった!だから、急いで降りて来ました。そして、イエス様は、次の御言葉「今日はぜひ、あなたの家に泊まりたい。泊まらなければならない!」とおっしゃり、ザアカイに更に大きな喜びを与えたのです。ザアカイは喜んでイエス様を迎えました。

 ザアカイの感謝と懺悔(ざんげ)

そして、ザアカイは「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します」と言います。これは、喜び、心からの感謝の表れです。まだ、続きます。「だまし取っていたら、四倍にして返します。」これは旧約聖書で、羊を四倍にして弁償する規定から来ていたかもしれませんし、ユダヤ人のしきたりともなっていたようです。この後半の言葉は、悔い改めです。前半の感謝に対して「四倍にして返す」は、悔い改め、もしくは懺悔のしるしと言っていいでしょう。キリストがまず、ザアカイを迎え、受け容れてくださったことへの感謝のしるし、その後に悔い改めのしるしがあるのです。順番が大事です。決して、懺悔と感謝ではありません。私達人間がキリストをまず受け入れたのではなく、イエス様の方からザアカイ、即ち、神様から人間の救いへと働きかけられると、この物語は伝えます。9節の「人の子」とは主イエスご自身を指す言葉であり、「失われたものを捜して救うために」とは、キリスト以外のすべてが失われている、救われねばならないことを意味しています。救い主を通してすべてが救われなければならない、それが神様から与えられたイエス様ご自身の使命であることを示しています。

 新約聖書の「救い」

新約聖書の救いはそれだけではありません。Ⅰコリント書1章30節に「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」とあります。これは、神様の方から見た「私達の救い」です。「神の方からみて、救いが起こる」とは、キリストに結ばれることです。キリスト・イエスに結ばれるというと、洗礼を思い起こしますけれども、キリストが私達にとって、神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたわけです。神様から遣わされたキリストによって、私達人間側からは「救われる」のですが、神様側から言えば、「キリストが義と聖と贖い」となるというのです。

 神の国に入る

主イエスが最初に語られたのは、「神の国は近づいた」(マルコ1:15)とという御言葉ですし、また、「神の国はあなたがたの間にある」(ルカ17:21)ともおっしゃいました。「神の国」は領土や領民があるわけではありません。「神の国」はキリストが義と聖と贖いとなる、つまり、キリストが支配する国です。キリストが王となり、祭司となる国です。だから、キリストの国となるということです。だから、神の国は近づいたのです。そして、キリストのものとなった人々の集まりができる、これが教会、そこが神の国です。「救われる」とは「神の国に入る」ことです。

 ルターが発見したこと

それが宗教改革と密接に関係があります。1517年の95箇条の問題提起が掲げられる数年前に発見されたこと=「キリストを受け容れることによって、キリストが王となって、私達を支配する」という発見です。ルターは、このことを詩編31編、70編、71編の研究によって発見し、宗教改革を決意しました。これが私達につながることであります。神の国とは、キリストが王として、祭司として、私達を治めてくださるということです。信仰によって、キリストが王として私達を支配してくださるということを、ルターが、第一回目の詩編講義の時に発見したわけです。一方、当時のローマ・カトリック教会は、免罪符を売って人々に救いを保証するだけでなく、死者さえも免罪符購入で救われると教えていました。それはおかしいとして、ルターは、95箇条の問題提起をしたのです。だから、ルターが宗教改革を始めることになったのです。

 信仰=キリストに結ばれる

ザアカイのお話から、まず、キリストに受け入れられ、キリストによって与えられる信仰のことが知らされましたが、信仰は、だんだん純粋になり、キリストとの結びつきが強められます。説教や洗礼によって、キリストと更に結ばれ、また、聖餐によってキリストの御身体に与るという、様々な形でキリストに結びつくことを、私達の教会は許されています。そのことをキリストに感謝して歩みたいと存じます。

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