6月21日の説教要旨 「一匹の羊」 牧師 佐藤 義子

詩編 139:7-10

ルカ福音書15:1-10

はじめに

ルカの福音書15章には、「見失った羊」、「無くした銀貨」、「放蕩息子」の三つのたとえが記されています。イエス様がこれらのたとえを語られたのはエルサレムへ向かう旅の途上でした。エルサレムへの旅は、「ヘロデがあなたを殺そうとしています」(13:31)との忠告をうけながら、イエス様は、「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」と答えられ、その旅の行き着く先には、十字架の死が待っていることを、すでに承知されておられた旅でもありました。

ある注解書によれば、この15章は、ルカ福音書の心臓部と呼ばれているそうですが、それは、これらの譬えの中でイエス様がこの地上に来られた大きな目的が語られているからでしょう。今朝は、最初の二つのたとえについて、ご一緒に学びたいと思います。

ファリサイ派の不満・不平

1節に、徴税人や罪人がイエス様の話を聞こうとして、イエス様に近寄ってきたとあります。徴税人(税の徴収者)も、罪人(律法を守れない人、守らない人、異邦人、遊女など)も、当時のユダヤ人社会からは疎外されていた人達です。それを見てイエス様のそばにいたファリサイ派や律法学者などは、イエス様に対して批判し、不平を言い出しました。彼らは律法に従い自分にも厳しく、正しく生きている人達であり、民衆の見本でもありました。彼らは、「律法」を忠実に守ることこそが救われる道であり、神の国に入ることが出来ると信じていましたから、神の国について教えているイエス様が、なぜ、神の国から遠く離れて生きている罪人たちを拒まず受け入れるのか、平気でつきあっているのか理解できなかったからでしょう。イエス様は、彼らの批判にこたえる形で、の三つの譬えを語られました。

見失った羊の譬え

最初のたとえは、100匹の羊を持っている主人が、一匹の羊を見失った時、99匹を野原に残して、いなくなった羊を捜しに行く話です。羊飼いには、持ち主自身が羊の世話をする場合と、雇われた羊飼いがいます。雇われた羊飼いであれば、周辺を捜して見つからなければ、岩山から滑り落ちたのか、オオカミの餌食になったのかもしれないと、あきらめて帰る場合でも、持ち主の羊飼いであれば、「見失った一匹を見つけ出すまで捜し回る」(4節後半)のです。母親が、わが子を捜し回るように、真剣に必死に、少しの物音にも注意を払いながら捜し、見つかるまでは決して帰らないという捜し方であり、ついに、羊を捜し出すのです。

悔い改める一人の罪人に伴う大きな喜び

羊を見つけ出した羊飼いは、疲れも忘れて羊を肩に乗せて帰り、友人や近隣の人々に報告し喜びを共にするのです。このたとえの羊飼いは、神様のこと、イエス様のことです。100匹の羊とは、すべての民です。ファリサイ派の人々や律法学者のような、律法を守る人達だけが数に入っているのではなく、徴税人や罪人と呼ばれる人達も、神様の愛する100匹の中の一匹です。しかしいろいろな事情のもとで、神様からも、律法で教える生活からも、遠く離れて生きている人々が「見失った羊」にたとえられています。その人達が、今、イエス様の話を聞きにやってきたのです。見失った羊が、今、羊飼いの所に戻ろうとしているのです。もし、徴税人や罪人がイエス様の話を聞いて、それまでの生活から神様に従う生活へと方向転換するならば、羊飼いの、見失った羊を見つけた時のあの大きな喜びが与えられ、その時、神様のおられる天においても、大きな大きな喜びがわき起こるのです。

一緒に喜んでください

「無くした銀貨」のたとえも、ある女性が、無くした銀貨一枚を必死で捜して、ついに見つける話です。彼女も、見つけた喜びを一人で喜ぶのではなく、友人や近所の人達を招いて、このことを報告し一緒に喜んでもらいます。いったんは手元から離れたものが、必死に捜すことによって再び戻ってくる・・。それが、失われた魂であったとするならば、再び神様のもとで新しく生きる魂の誕生の喜びは、どんなに大きな喜びとなるでしょうか。 これらのたとえは、正しく生きていると自負して、神様から離れている人達を嫌うファリサイ派や律法学者のような人達に、「わたしと一緒に喜んでください」とのイエス様の招きの声です。