6月28日の説教要旨 「主よ、御心ならば」 牧師 平賀真理子

レビ記14:1-9、19-20

ルカ福音書5:12-16

 はじめに

イエス様は、神の国の福音を宣べ伝えるために、ユダヤ中の諸会堂を巡っておられました。そのお話は、他の人の話とはずいぶん違ったようで、多くの人々が福音を聞きにやってきました。更に、イエス様の御業の一つである「病いの癒し」は、神の御力を目に見える形で知らせることができたので、多くの人々がイエス様の所に癒しを求めて、押しかけました。

 「重い皮膚病」

今日の聖書でも、宣教の旅の途中で、全身「重い皮膚病」にかかった人がイエス様の所へ来て、癒しを求めました。この「重い皮膚病」については、古い年代に出版された聖書では、「らい病」となっています。しかし、この病名は差別的な意味を含んでいるので現在は使用されません。この病いの病原体を発見した人の名前が付けられて「ハンセン氏病」と呼ばれています。旧約聖書のレビ記13章には「重い皮膚病」の細かな症状が書かれています。医学や歴史の研究の結果、この「重い皮膚病」と「ハンセン氏病」が、ぴったり一致するわけではないことが、現在はわかっています。聖書における「重い皮膚病」とは、ただ一つの病いを指すのではなく、様様な皮膚病の症状が混ざって書かれたのだろうと解釈されています。それでも、レビ記等に詳細にこの病いの診断の仕方や、治癒後の儀式が書かれているのは、見える部分(顔・手足)に症状が出て醜くなるために、この病いの人は、神様から罰を受けて「汚れている」と考えたことが背景にあるかもしれません。「神から選ばれた」と自負するイスラエルの民は、神様の性質である「聖さ」に連なる者でなければならず、外見上「不完全な者」は、社会の中で疎外される定めでした。この病いは、身体的なつらさは もちろん、精神的・社会的なつらさを引き起こし、人を苦しみに縛り付けるものだったと言っていいでしょう。

 イエス様の前にひれ伏し、へりくだった「重い皮膚病の人」

そんな中、この「重い皮膚病の人」は、イエス様を見て、まず、「ひれ伏し」ました。元々の言葉では「顔を突っ伏して身を投げ出し」という意味を含んでいます。神の御力をお持ちのイエス様に全てを委ねたいという切実な思いを表した態度だと思います。更に、この人は「主よ、御心ならば」と言った後で、自分の願いを述べています。「主よ」とは、この直前の段落で、弟子としてイエス様に招かれた「ペトロ」も同じように言った言葉です。「救い主」であるイエス様を完全に信頼していることを意味しています。そして、「御心ならば」という言葉が実に印象的です。元々の言葉から見て、「あなたが私と同じように、この病いを癒したいと思ってくださるならば」という意味です。ここには、神様にお願いだけして、「当然癒してくださいますね!」といった思い上がりがありません。願い事ばかり言って、神様からの御声を聞こうとしない、不遜な祈りと違って、「救い主のイエス様が、私と同じように思ってくださり、病いを癒してくださるとよいのですが…」というへりくだりの思いが溢れています。

 手を差し伸べ、触れて、心を寄せてくださる主

この「重い皮膚病」の人に向かって、イエス様は手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ。」と言われました。大変な苦しみの中、イエス様の救い主としての御力に完全な信頼を寄せ、へりくだった、この人に、イエス様は手を差し伸べて触れられました。ユダヤ教の指導者達は、このような人々を隔離して、疎外しました。一方、イエス様は手を差し伸べて触れられたのです。私達の信じるイエス様はそのような御方です!そして、「よろしい」とは、「私もあなたと同じ思いです。」という意味で、この直後、御言葉どおりに癒されたのです!

 人間にではなく、「まず、神様に心を向ける」

「重い皮膚病を癒された人」は、イエス様から二つのことを指示されます。一つは、この奇跡を誰にも言ってはいけないということ、もう一つは、癒された体を祭司に見せて、律法どおりに祭司に清めの儀式をしてもらって、人々に証明するということです。一見矛盾しているようです。けれども、恐らく、この癒された人が、自分の身に起きた奇跡を人々に伝えたいという思いに駆られる前に、まず、本当の癒し主の神様に感謝を献げることが一番重要だと、主は教えたかったのではないでしょうか。人々に惑わされず、まず神様に心を向ける、イエス様ご自身も神様への祈りを一番大事にされました。更に、イエス様は、祭司に「預言どおりの救い主到来」の証拠を見せる役目をこの人に与えたと見ることもできます。主の御用のために用いられるという恵みをも、この人は受けたのです。

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