説教要旨 「奇跡は賛美に」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 15章29-31 29 イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。 30 大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。 31 群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。 /nはじめに  私達には生まれながら、見ることが出来る「目」聞くことが出来る「耳」かぐことが出来る「鼻」味わうことが出来る「舌」触れることが出来る「皮膚」―五官が与えられ、又、運動機能が与えられています。しかしその一方でこれらの機能が生まれた時から奪われている方々がいます。以前テレビで、医師から「あなたのお子さんには眼球がありません。」と告げられた母親の話を聞きました。私の知人のお嬢さんは、生まれた時から一切食べ物を飲み込むことが出来ず、栄養はすべて点滴でとります。その他、人生の途中から事故や病によって障がいを得る人達も多くいます。障がいと共に生きていく心の葛藤、社会からの差別、そして障がいによる現実の生活の困難さは生まれながらでも途中からでも同じです。 /n生まれつきの盲人  ヨハネ福音書9章には生まれながらの盲人がいやされた話が記されています。イエス様の弟子達が彼を見て質問しました。「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。イエス様は次のように答えられました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。イエス様の答えは、原因はその人にはなく神様の側にあるというものでした。神様が、その人を通して御業を現すためである、というのです。イエス様は、神様がこれからこの盲人に何を行ない何をなさろうとしているのかを神様に問い、それに従われました。すなわちイエス様は、盲人の目にこねた土をぬって、シロアムの池で洗うようにと言われました。その言葉に従った彼の上に、神様のわざが現れたのです。 /n山に登り、座られた。  今日の聖書は、イエス様がカナンの女に出会った旅からガリラヤに戻られ、山に登られた時のことが記されています。山上の説教でもそうでしたが、イエス様は人々に教えられる時、腰を下ろして語られました。 大勢の群衆がやって来ましたが、彼らは、自分の力で来ることの出来ない人達(足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人,その他多くの病人)を連れて来た人達でした。日頃から障がいを負っている人達や、病気の人達と深くかかわっていた人達であり、イエス様の所に連れていきたいとの愛と熱意があり、イエス様に見ていただけば何とかしてくれるに違いないとの望みと期待を持ってイエス様のもとへとやってきた人々であったのでしょう。 /n「イエスはこれらの人々をいやされた」(30節)  イエス様の足下に横たえられた人々の上に大きなことが起こりました。「口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになった」(31節)のです。彼らを連れてきて、このイエス様のいやしの奇蹟を見た人々は 「見て驚き、イスラエルの神を賛美した」(同上)と聖書は伝えています。 /nイスラエルの神  ここで「神」といわずに「イスラエルの神」となっているのは、彼らがイスラエルの民以外の民(異邦人)であったからではないかと考えられています。カナンの女が助けを求めた時イエス様は「私はイスラエルの家の失われた羊の所にしか遣わされていない」と、異邦人の救いはまだ来ていないことを言われましたが、ここでは、連れて来られた人すべてがいやされています。その結果異邦人が、奇蹟の背後に働かれている「イスラエルの神」すなわちイエス・キリストの父なる神様を賛美したのでした。 /n奇蹟の究極の目的  イエス様のなさる奇蹟は神様の業があらわれた結果であり、奇蹟の目的は、神様が賛美されること、神様に栄光が帰せられることです。神様を信じ従う者には、今もいろいろな形で神様のわざが起こっています。私達はその証人です。奇蹟を見た私達のすべきことは、神様を高らかに賛美し、神様の栄光をたたえることです。私達が創られた目的も実はここにあるということを心に覚えながら、この一週間の歩みが神様に感謝と賛美をささげる一週間でありたいと願うものです。

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