説教要旨 「レプトン銅貨二枚」東北学院大学 佐々木哲夫先生

/n[イザヤ書] 55章1-2節 1 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め/価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。 2 なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い/飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば/良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。 /n[ルカによる福音書] 21章1-4節 1 イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。 2 そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、 3 言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。 4 あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」 /nはじめに  十字架を目前にした最後の一週間の間に、イエス・キリストは少なからず激しい議論を行なっています。例えば税金の問題に関しては「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(ルカ20: 25)、又復活に関しての議論では「神は死んだ者の神ではなくて生きている者の神である」(同38)と語っています。そして聞く人々に、はっきりと示す為にたとえを用いました(ぶどう園の農夫のたとえ話など・・同9‐)。又、言葉だけでなくて「宮清め」の場面では両替商の台を倒したり(ルカ19:45 -)、他の場面では、道すがらいちじくの木を枯らすということを通して弟子達に教える(マルコ11:12-)などしていましたが、イエスはひとときエルサレムの神殿にたたずみ、宮もうでをする人々を眺めておりました。 /n神殿の庭で  神殿の「婦人の庭」では献げものをする人達、祈りをもってささげる人達で混雑していました。その庭には13箇所の入り口があり、そこから自由に入ることが出来、又そこには13個のラッパの形をしたさい銭箱が備えられていました。当時のお金はおおかた銅貨などの硬貨が一般的であり、さい銭箱に投げ入れると銅貨がラッパの筒に当って大きな金属音が響いていました。おそらく多く献げる人のさい銭箱からは大きな音が響き、大きな音には多くの人々が注目した、そんな様子をイエス・キリストはひととき眺めていたのです。 /n貧しいやもめ  そこに一人のやもめがやって来ます。彼女の身なりから判断するのに、かなり貧しい状態にあるということは明らかでした。さい銭箱から響いてくる献げ物の音も他の人達とは違っておりました。かすかな音しか聞こえてきませんでした。レプトン銅貨二枚だったからです。その様子を見ていたイエス・キリストは弟子達を呼び寄せて、「この貧しいやもめは誰よりもたくさん入れた。あの金持ち達は皆,あり余る中から献金したが、この人は貧しい中から生活費を全部入れた。」と語ったのです。 /nこの話の意味は?   たとえば、「あり余る中から献げたささげ物は量的には多いけれど、心を込めてささげる貧しい者のささげ物は、たとえ小額であっても価値的にはむしろ多く献げたと評価出来る。献げる者の心のあり方が対比されている。そのことを教えている」と、理解することも出来るでしょう。片や、当時はお金持ちは信仰深い結果として神の祝福が与えられており、反対に貧しい者は信仰の報いを受けているのだ、と考えられていました。しかし「そうではない。『先の者が後になる。』 とか 『幼子の素直さが、賢者の賢さよりも評価される』というイエス・キリスト一流の価値の逆転をここでも教えているのだ」と考えることも出来るでしょう。 ここでは、聖書の言葉にとどまりながら、レプトン銅貨2枚の物語を考えてみたいと思います。 /nレプトン銅貨2枚  レプトン銅貨は非常に小さい金額の銅貨で、大人の1日分の日当の128分の一に相当すると計算されています。当時レプトン銅貨2枚で買えるのは小麦粉一つかみだったと考えられています。それはその人がその日、1日の命をつなげることが出来る最低量の食物と考えられていました。ユダヤ教の指導者の教えに、この話に類似する教えがあります。・・ある貧しい女性が一握りの小麦粉を献げにやってまいります。 ユダヤ教の祭司はそれを見て、こんな少ないささげ物とは何ていうことだ。こんな少ない量で何が出来るというのか、とこの女性をさげすみます。しかしこの時、神の言葉が響いてきて「この女性をさげすんではならない。彼女は自分の命をささげたのだ。」という言葉が響いてきます。そしてその言葉でユダヤ教の指導者は夢から覚めたという話 です・・。  この話で注目すべき点は、一握りの小麦の量(イエス・キリストの話でいえばレプトン銅貨二枚に相当する量)をささげており、この女性は自分の命をささげたと評価されています。むしろ問題はそれをさげすんだユダヤ教指導者の話です。 /nその日の律法学者との議論  おそらくイエス・キリストはレプトン銅貨二枚を献げる貧しいやもめの姿を神殿で見た時に、その日の激しい議論を再び思い起こしたことでしょう。・・「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」(ルカ20:46‐47)。そんな非難をした後でありました。まさに婦人の庭で起きた出来事は、イエス・キリストにとって、自分の教えを具体的に弟子達に示す適切な出来事であったと理解され、すぐに弟子達を集め教えたのです。「あの貧しいやもめは誰よりも多く入れたのだ」。 /nイエス・キリストが見ていたもの  イエス・キリストのその時に意図していたのは、当時の律法学者や祭司達が語ることと、ご自分の語る福音との鋭い対比であったでしょう。イエス・キリストの語りたかったことは、豊かに神の国を実現する福音でした。十字架を目前にしたこの時に、イエス・キリストはレプトン銅貨2枚をささげる女性の話を弟子達に語ったのです。 どれだけささげるか、どのようなことをするか、外側の出来事を私達は見るものです。その日、婦人の庭での光景は、さい銭箱から響き上がる大きな音がその場を支配していたことでしょう。しかしその光景を見つつもイエス・キリストは異なるものを見ていました。真の価値を見ていました。換言するならば「何を大事にすべきか。」「何に重きを置くべきか。」それは人生観とでもいうべきもの・・を彼は見ていました。 /n旧約聖書の伝統を受け継ぐ価値観  私はこのイエス・キリストが神殿で見て語ったことというのは、イエス・キリストにおいて突然出て来たものではなく、それ迄に伝えられてきた価値観、長い旧約聖書の伝統を受け継ぐ価値観をイエス・キリストは明確にした、ということでもあると思います。 /n本日の旧約聖書、イザヤ書55章1節-2節 >> 「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め 価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い 飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば 良いものを食べることが出来る。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。」 <<   この箇所は実に印象深い箇所であります。「来て買え。求めて得よ。」 「買え」という表現がもともと使われていました。お金を払わず買え。価を払うことなく買って自分の手元におけ。食べよ。「金もないのに買え」というその意味は、「私に聞き従えば、良い物を食べることが出来、あなた達の魂はその豊かさで楽しむであろう。」 /n私達が受け継いでいる価値観  そのような価値観を伝統として旧約聖書は伝えており、今、イエス・キリストによって弟子達に伝えられ、そして又、(目前にしている)十字架の出来事によって明示され、確実なものとされ、今日の私達に伝えられている価値観でもあり、生き方でもあるのだ、ということを、 レプトン銅貨2枚を献げた女性の姿から今日学び取りたいと願うものです。(まとめなど 文責 佐藤義子)