説教要旨 「からし種一粒ほどの信仰」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 17章14-20節 14 一同が群衆のところへ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、 15 言った。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。 16 お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」 17 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」 18 そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。 19 弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。 20 イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」 /nはじめに  今日は8月の最初の日曜日で、日本キリスト教団が平和聖日と定めている日です。世界の現実は平和とはほど遠く、毎日のようにイラクでは自爆テロに巻き込まれての死者は絶えず、アフガニスタンではタリバンによる韓国人拉致が起こり死者がでています。家族の方々の緊張は私達の想像を越えたものだと思います。更にイスラエルとパレスチナの対立は根強く復讐が繰り返されています。国家間の戦争、或いは内戦による難民や孤児達の姿がテレビで放映される度、私達の胸は痛みます。なぜ人は争い続けるのでしょうか。平和とほど遠いのは、世界のことだけに終らず、日本でも地域で、学校で、勤務先で、家庭内で平和が奪われている現実があります。これは人間の罪の結果であるといえますし、それは即ち、この世では、悪の力が猛威をふるっているのです。 /n「平和」についての聖書のおしえ  イエス様は「平和を実現する人々は幸いである。その人達は神の子と呼ばれる」(山上の説教)と言われました。6月の伝道所開設記念礼拝では「できれば、せめてあなた方は、すべての人と平和に暮らしなさい。自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。復讐は私のすること、わたしが報復すると主はいわれると書いてあります。」(ロマ12章)を聞きました。又、イエス様は弟子達に「ふさわしい人を選び、その家にとどまり、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は与えられる」(10:12‐13)と約束されました。本日の平和聖日において、私達は平和から遠いところで生きている人々を覚えて、その地に平和が実現するように祈るとともに、私達自身が直接身を置き、かかわる所が、平和であるように祈りたいと思います。  __________________ /n父親の願いに対して答えられなかった弟子達  本日の聖書には、てんかんの病を持つ息子の父親の、いやしへの願いと、それに対するイエス様の応答、さらには信仰についての教えが記されています。イエス様の不在中、弟子達には息子をいやすことは出来なかったというのです。  「イエスは12人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出しあらゆる病気や患いをいやす為であった」(マタイ10章)とありますから、12弟子にはいやす力が与えられていました。にもかかわらず・・です。嘆く父親と、いやすことが出来なかった弟子達を前にしてイエス様はその不信仰を嘆かれ、彼らが本当の正しい信仰を持つ迄には、どれだけの時と忍耐を必要とするのだろうかと言われました(17節)。山上では、確かに生きて働いておられる神様のご臨在がありました。しかし山の下では、不信仰が蔓延しているのです。 /nイエス様のいやし  イエス様は「その子をここに、私の所に連れて来なさい」と言われ、息子をいやされました。同じ内容がマルコ福音書にもありますが(9章)、以下のような会話が記されています。(父親)「おできになるなら、私共を憐れんでお助け下さい」。 (イエス様)「出来ればと言うか。信じる者には何でも出来る。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のない私をお助けください。」 /n弟子がいやせなかった理由  なぜ私達はいやせなかったのか、と弟子が聞きました。イエス様はその理由を「信仰が薄いからだ。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば・・略」と言われました。からし種一粒ほどの信仰とは、イエス・キリストを見つめることから始まります。そこにはあふれる愛といつくしみと恵みがあります。それを下さいと求めるのです。求める者には与えられます。私達はそれを受け取るのです。 /n信仰について  信仰はみずからが生み出すものではなく、与えて下さるものを受ける事だといわれます。与えられていることに気付かなかったり拒んでいることもあります。私達が聖書を通して語りかけて下さるイエス様を見つめ、イエス様と向き合い、イエス様が指し示している神様を仰ぐ時、私達は自分を縛っていたものから自由にされて、それ迄捨てられないと思っていたものが色あせて見えてきます(フィリピ3:7‐参照)。 信仰が与えられるということは新しく生まれるということです。人生が変わるということです。遠かった神様がすぐ近くにいて、自分を守り、導き、支えてくれる、そのような人生を歩むようになることです。 /n信仰の力  「山に移れと命じてもその通りになる」(20節)とは、信仰には、私達の常識や経験が不可能と判断することも可能にする力があるということです。山を創られた神様を仰ぎ見る信仰者は、山と同じように神様の秩序に従います。創り主である神様が山を移すことをお望みになるならば、そのようになるとの信仰です。 /nからし種一粒ほどの信仰  からし種を畑にまけば成長して大きくなり、空の鳥がきて枝に巣を作るほどの木になります(マタイ13:32)。からし種一粒ほどの信仰とは、生きている信仰、命が宿っている信仰、成長していく力を内に秘めている信仰のことです。薄い信仰とは「生きていない信仰」です。神様を信じているといいながら実際の生活には何の力も与えていない信仰です。生きた信仰は、全知全能の神様を信じて祈ります。すべてのことが神様の御心によって行われることを信じます。からし種のように小さな信仰でも祈ることが出来、恵みを求めることが出来ます。恵みが与えられると、信仰はその恵みで成長していきます。私達は毎週礼拝に招かれ、恵みの座に連なり、聖書を通してイエス・キリストの言葉にふれ、生ける神様の力を知れることは本当に感謝なことです。今週も与えられている信仰を通して沢山の恵みを戴きながら成長し、求道中の方々は、信仰が必ず与えられることを信じて祈りつつ歩んでいきたいと願うものです。