説教要旨 「幼子のようになる」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 18章1-5節 1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。 2 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、 3 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。 4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。 5 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」 /nはじめに  弟子達はイエス様に「一体誰が、天の国で一番偉いのか」と聞きました。一番,二番というのは私達が生きる人間社会においては日常茶飯事に使われている言葉であり、人の間に序列をつけることです。この質問の根底には、自分は偉くなりたい(出来たら一番偉くなりたい)、「他人よりも自分が!」という気持があります。さらにユダヤ教の影響があります。ユダヤ教では信仰を、己をたてる道、己を立派にする道と考えていました。 /nイエス様のこたえ  弟子達の問いは明らかに天の国を誤解している質問です。しかしイエス様は弟子達が正しく理解出来るように,一人の子供を弟子達の前に呼び、立たせて「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることは出来ない。」と説明されました。 /n「天の国に入る」  弟子達は天の国に、仲間達とそのままエレベーターで移動出来るかのような感覚で話しているのに対して、イエス様は「天の国に入る」条件を語られました。 /n「はっきり言っておく、心を入れ替えて・・」  私達が心を向けるべきことは、「天の国で誰が一番偉いか」ではなく、「天の国に入る者とされる」ことです。このイエス様の言葉は他の三つの福音書にも記されていて(マルコ福音書10:15、ルカ福音書18:17、ヨハネ福音書3:3,5)、いずれも「はっきり言っておく」という前置きがあります。初期の教会で、重要な役割をもって伝承されてきた言葉です。私達の教会でも「心を入れ替えて子供のようになる」との御言葉を、洗礼時・役員選挙時・ 牧師招聘時の基準として大切に心に蓄えたいと思います。 人間の生まれながらの本性は、上に上に、大きく大きくなろうとします。「心を入れ替えて」とは方向転換をすることです。自分を他人より立派なものにするという競争社会の生き方(ゼベダイの息子達の母親や他の弟子達の姿を参照・・マタイ20:20-)からの方向転換です。 /n幼子とは?  幼子は社会的な地位を持たず、求めず、自分が出来ないことを知り、無条件の信頼の中で生きています。偉くなろうと思わず,ありのままです。 こう思われる為にこうするという偽善がなく、背伸びすることも、小さくなることもせず、貪欲でなく、自分にふさわしい小さなことで満足します。しかし私達は再び幼子に戻ることは出来ません(ヨハネ3:4)。 /n幼子になる道  ある聖書学者は創世記のアダムとエバの話を引用します。二人は食べてはならない実を食べて、自分達が裸であることに気付き神様の前に出られませんでした。3章21節によれば、神様はこの二人の為に皮の衣を作って着せられました。私達も今のままではアダムとエバのように神様の前に立つことが出来る義を持っていません。その為神様は、私達に皮の衣(イエス・キリストの義)を与えられました。 /nイエス・キリストの義をいただく  幼子のようになる道が、イエス・キリストを信じて義とされることであるならば、それは自分の努力によってではなく、神様の恵みの中で行われることであり、具体的には聖霊の働きによるものです。弟子達は「天の国で一番偉い者とされる」という目標を信仰だと考えましたが、それは信仰ではなく誇りです。信仰とは自分の偉さを見つめるのではなく、イエス・キリストの偉大さを知り、神様の愛から確信を得るものです。上を仰ぎ見て「あなたこそ慈愛に富んだお方である」と賛美しながら生きることです。 /n「私の名のために、このような一人の子供を受け入れる者は、私を受け入れるのである。」(5節)  イエス様は子供と、ご自分とを一つにされました。子供は小さく力もない弱い存在です。子供と目線を合わせる為には、かがまなければなりません。イエス様がご自分を低くされたように,子供(のような存在)を受け入れる低さがなければ、「天の国に入ることはできない」のです。

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