説教要旨 「一匹の羊」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 18章10-14節  10 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。 11 *人の子は、失われたものを救うために来た。 12 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。 13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。 14 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」 /nはじめに  これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。」(10節)とありますように、私達は気をつけていないと、小さな者を軽んじてしまうことがあることを警告しています。人は人に対して優劣をつけたがります。特に相手の人が自分より優れているか,そうでないかによって相手への態度を決めたがります。初対面の場合、その判断のもとになる情報を相手から聞きたがります。社会では、肩書きがある人、学歴や地位、財産など力がある人に対して、一目おく空気があります。 /n教会の中にも  教会にもこの世の価値観が入り込んできます。ヤコブ書に「私の兄弟達、栄光に満ちた、私達の主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、又、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたはこちらの席におかけください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、私の足下に座るかしていなさい』というなら、あなたがたは、自分達の中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。良く聞きなさい。神は世の貧しい人達をあえて選んで、信仰に富ませ、ご自身を愛する者に約束された国を受け継ぐ者となさったではありませんか。」(2:1-5)とあります。 /n小さな者  小さな者がどれほど大切であるか、イエス様は譬え話をされました。 主人公は100 匹の羊を飼っていました。彼は羊に草を食べさせ水を与え、獣や羊泥棒から杖や石投げを使って群れを守りました。家に戻る時に、一匹足りないことに気付きました。羊は視力が弱く、放っておけば自分で群れに戻ることは不可能といわれます。野獣にかみ殺されるか、谷底に落ちるか、羊泥棒にさらわれ売り飛ばされるか、飢え死にします。  飼い主はこのまま迷い出た羊を放っておくことはありません。99匹を山に残して迷い出た一匹を探しに行きます。そしてついに羊を見つけて、「99匹より、その一匹のことを喜ぶ」(13節)という譬え話です。 /n山とは教会  ある註解者は99匹が山に残されることに注目します。山はイエス様が集中的に福音を伝え教えられる場所であり、そしてイエス様が変貌された場所(17 章)でもあり、さらに又、復活したイエス様が弟子達を招いて宣教の使命を与えられた(28:16)場所でもありました。山は聖なる特別な場所で「教会」が暗示されていて、教会で100匹の羊が,羊飼いイエス様に導かれて養われていると理解します。しかしそこから一匹の羊が迷い出た、つまり、信仰の挫折、信仰から離れてしまった状態になった時、羊飼いの愛はそのまま放ってはおきません。 /n神様の御心  結論は「小さな者が一人でも滅びることは、天の父の御心ではない」(14節)ということです。一人のとうとさ、かけがえのなさ、その一人を徹底的に探し求められる神様の愛を心に刻み、私達教会の群れも失われた羊を探し求めて連れ帰ることを忘れてはなりません。 /n教会の群れの所有者は神様です。  それゆえ弱くても、小さくても、神様の所有である羊どうし互いに軽んじないように気をつけましょう(10節)。エゼキエル書にこうあります。 >> 「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、私は自ら自分の群を探しだし、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっている時に、その群れを探すように、私は自分の羊を探す。私は雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。私は彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。私はイスラエルの山々、谷間、又,居住地で彼らを養う。私は良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。私が私の群を養い、憩わせる、と主なる神は言われる。私は失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。」(34:11‐16)。 << /nすべての人は、羊飼いに守られるべき羊  豊かな人も貧しい人も、若い人も高齢者も、健康な人も病める人も、障害をもっている人も、仕事のある人もない人も、教会の門から入ってくるように、門は開かれています。そして、教会の中には序列はありません。牧師は説教の役割が与えられ、信仰告白共同体の群れのお世話を、役員と一緒にしますが、序列ではありません。私達すべてが羊であり、羊飼いはイエス様です。私達は聖書を通してイエス様の言葉に聞き従っていく群れです。教会は、牧師や役員が所有している群れではなく、所有者は神様です。それゆえ、群れの中に弱い者、小さな者がいたとしても、神様の所有であるゆえに、私達は軽んじてはならないのです。強くても弱くても、大きくても小さくても、神様の目からご覧になれば、みな等しくかけがいのない、愛する羊、愛する魂なのです。 /n迷い出た羊は、1人では戻れない  迷い出た羊は一匹だけで生き延びることはできないように、教会から離れた魂は自分だけで命の泉から水を汲むことはむつかしく、滅びの道へとつきすすみます。この世の支配、私達を神様から遠ざけるこの世の罪の支配は、すさまじいほどに強く、私達の目をくらまします。小さな者が1人でも滅びることは、父なる神様の御心ではないゆえに、私達は互いに祈り合い、支え合い、羊飼いのイエス様の後をしっかりついていきたいと願うものです。