説教要旨 「もはや戦争を学ばない」 Rev.Cally Roger Witte

/n[イザヤ書] 2章1-5節 1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。 2 終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい 3 多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。 4 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。 5 ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。 /n 今日、皆さんんと共にあることは、私の大きな喜びです。今回の日本訪問は、私の最初の日本訪問であり、日本のクリチスチャンと一緒に礼拝すること、ましてや説教をすることは初めてです。今日、私が皆さんと共にあることは、とても光栄です。ありがとうございます。 私は皆さんに米国合同教会および世界宣教部からもご挨拶させていただきます。世界宣教部とは、米国合同教会が他の教派と一緒に活動している世界宣教の部門です。 ここ、仙台に来ることが出来ましたことは、私にとって本当に喜びです。というのも、仙台には、私達の教会の実に多くの信仰に満ちた宣教師が、過去5,60年にわたり仕えてきているからです。 2,3週間前ですが、私はカリフォルニアにあるピルグリム・プレースを訪問しました。そこは、教会で奉仕をされてきた方々が引退して住んでおられるコミュニティで、私は隠退された数人の宣教師を訪問する幸運に恵まれました。そして私は、彼らから深い仙台への愛と、仙台における宣教についての話を聞くことが出来ました。 さて、私は、皆さんの牧師である佐藤牧師と、ご主人、そして米国合同教会宣教師のマーチー先生やジェフリー・メンセンディーク先生と知りえましたことを喜んでおります。 私は又、世界宣教のインターンとして数ヶ月後にここに来ることになる若い婦人を推薦したいと思います。皆さまは、きっと歓迎してくれると思います。 この家の教会での特別な時を皆様に感謝したいと思います。 私は、皆様に、Happy New Year とも言いたいと思います。と申しますのは、クリスチャンにとっては、今日は、新しい年の最初の日曜日、つまり、教会のこよみでは、最初の日曜日であるからです。教会の暦では、これまで、聖霊降臨節として通常の時を過ごしてきましたが、今日、全く新しい年、新しい歩みを始めることで、この聖霊降臨節をきっちりと終わらせるのです。そしてすべてのことが再び始まります。神様の時間において始まるのです。 私達の周囲の社会は、アメリカのように、クリスマスが世俗的な一大消費のお祭りになっている所では、増大する消費者消費を期待しながら、企業の年間利益報告を待ちつつ、この年を終えようとしています。又、私達の周りのすべての人々は、せわしなく歩み、ますます仕事に集中していますが、このクリスマスの待降節は、私達を全く異なる、新しいものへと招いています。 神学者・旧約学者として良く知られている米国合同教会の現在のメンバーであり、福音派的改革派のDr.ウオルターブルゲマンが次のように書いています。 「待降節は、私達を、マヒしてしまった忍耐や、慣れ親しんだ期待から目覚めさせ、神様が与えようとしている新しい贈り物(ギフト)の見地から、私達の歩みを新たに考えるようにと招いている」。 しかしまず第一に、私達は、気の狂わんばかりの人生の慌ただしさからスローダウンして待たなければなりません。待降節は、待つ時であり、平静になる時であり、誰が現実にすべてを支配しているかを思い起こす時です。 イエス様の誕生をお祝いするこのクリスマス・シーズンの準備において、個人や家庭・教会が、この特別な4週間に行う多くのすばらしい習慣があります。 私の子供たちがまだ小さかった頃、(実は27才と30歳になった今でも)私達はこのアドベントの伝統である4本のローソクに火をともすこと、平和、希望、愛、喜びを表すローソクを、アドベントの日曜日ごとに一本一本と、火をともしていくのを今も愛しています。又、クリスマスイブまでの日を数えながら、毎朝、朝食の時に、アドベントカレンダーの小さな窓を開けていくことや、その日の為の聖書の個所を読むことを愛しています。 私達は又、小さな飼い葉おけの場面のコレクション、まぶねのキリストのセット、キリスト降誕のセットなどをもっており、それらをアドベントの最初の日曜日に、家のまわりに置きました。これらは、マリア、ヨセフ、幼子キリストの彫像であり、又、羊飼いと一匹二匹の羊、そして拝みにきた三人の王、あるいは学者でした。私達の家庭では、幼子イエス様をセットから隠して、それを24日のクリスマス・イブに持ち出すために、待つのです。 しかし、大事なことは、このアドベントは、神様が私達のためにどのような世界を望んでいるかを考えること、そして、「すべての者の平和と善意のメッセージ」という驚くべき知らせを熟考する季節であり、時なのです。この時は、待つ時であり、静止し、神様を知る時です。 神様がどんなに人類を愛しておられるかを深く考える時です。それは、貧しい人々、抑圧された人々、囚われている人々、この世の物質主義や消費主義に、どういうわけか、とりこになっている私達すべてに対して、権力と支配が振るわれている人々に対して、神様は、良き知らせをもたらす為に、イエス様を派遣されたということです。まさに、新しい年、新しい時です。 私達はイエス・キリストにおいて、新たな道、新たな命を与えられるのです。 今日、私が注目したい聖書の箇所は、預言者イザヤからのものです。それは美しい節であり、芸術作品ともいえる詩的な言葉です。ある人は、市民権運動の指導者、マルティン・ルサーキング博士の美しい、人を奮い立たせる演説に結びつけています。というのは、この節、言葉は平和・正義・そしてすべての人をいやす預言者の幻について、のべているからです。 この新しい年において、私達は、戦争に替えて平和を求めるイザヤの言葉を聴きます。それは 私達に、もはや、戦争を学ばないことを求め、私達のつるぎを、「すき」に替えることを求め、又、私達の戦争の武器を、善きものの為に、平和の為の道具に替えることを求めています。 私達は又、世界中が恐ろしい戦争と殺りく、紛争と闘争の中にあって、この驚くべき言葉を聞きます。確かに、我々アメリカのクリスチャンは、イラクにおける戦争の中にあって、この言葉を聞かなければなりません。そこでは、私達の国の行動が、400万の人々が故郷から逃れなければならない原因を引き起こしました。その内の200万人は隣国へ避難を求め、国に残った後の200万人は,まさに彼らの命がおびやかされ、彼らのこの世の財産を投げ出さざるを得なくしています。 私達は、戦争の主導者や、自国の政府の暴力によって迫害されたスーダンのダルフールの飢えた人々をテレビで見る時でさえも、このイザヤの美しい希望の言葉、この平和のビジョンに耳を 傾けます。又、私達は、しばらくの間、官憲がインターネットのアクセスを切るまでは、前のビルマ、今のミャンマーでの自由のためのデモ隊の取り締まりをテレビで見たその時でさえも、イザヤの言葉に耳を傾けます。私達は地域社会や職場、又私達の家庭でさえも、やはり不正があるのを知っています。その時でさえも、私達は平和と希望のこれらの言葉、正義に満ちた世界のヴィジョンに耳を傾けます。私達は又、他の側面でも、平和の欠如を理解するようになっています。たとえば、不正に直面しても、私達が行動できないようにマヒさせるテロの脅威、私達の人間活動によって引き起こされた美しい惑星である地球に対する損壊、経済生活において、生死の境界線上にある人々の、ますます増大する怒りを理解するようになっています。 イザヤは、イスラエルの人々の美しい町エルサレムが燃やされ、とどめることが出来ないように見える強国によって打ち壊されたのを見ていたその人々に対して、この信じられないほどの美しい、素晴らしい、聖霊に満ちた言葉を語りました。彼らは、次々と来る帝国によって、何世紀にも渡って、脅威、破壊、そして、捕囚を経験しました。彼らは一方で、現実には不可能で気違い沙汰であるような平和の預言者イザヤの言葉を聴き、他方では、信仰の耳を持って、これらの言葉を究極的な希望として聞きました。彼らは、どんな帝国やどんな破壊的な力よりも強い、唯一つの力があることを知っていました。預言者イザヤの言葉は、その時代には明らかであり目に見える物と、全く異なる、未来の神様の約束でありました。 イザヤの言葉は、数世紀の間、生き続けました。それらは、世界中の人々に希望と勇気を与えています。それらは、私達の最も深い、切なる思いを表しています。それらは存在し、そして、 究極的に行使される神様の力を知っている言葉です。それらは、ブッシュ大統領が何とか実際に聞くようにと私が叫びたい言葉です。戦争ではない、平和こそ、まさに神様の御心です。 イザヤ書2章の初めからのこの数節は、優美であり、恵みに満ちており、忘れることが出来ない、心を高揚させる言葉です。それらは、私達が平和をもたらす可能性を持つことができると信じる世界中の人々を、又、まさに神様が管理していると信じる人達を励ましてきました。 神様は、この幻を現実へともたらす神様です。 しかし、それには、私達が準備してなすべき仕事があります。この待降節・この日々に、私達は戦争の道具を平和の道具へとつくりかえるように、と呼びかけられています。 これは神様が、諸国の間に判決を下すのを私達に語るビジョンであり、又、神様が人々の間の 紛争に判決を下すのを語る幻です。「彼らは剣を打ち直して「すき」とし、やりを打ち直して「鎌」とする。国は国に向かって、剣をあげず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」 私が、日本の政府が憲法9条を取り去らないようにと呼びかける会議に参加する為、アメリカから日本に来たのは、大いなる謙遜のもとに(へりくだって)・・です。私の国が、やすやすと戦争を起こす時、私やアメリカから来た誰かが、あなた方に、「もはや戦争を学ばないように」と、どんな権利で言えるのでしょうか。 私は、日本の宗教指導者にとても感謝しています。彼らは、人々に、もう一度、「すき」を武器に替えない、再び、鎌をやりに替えない、戦争を学ばない、戦争を準備しない、もう二度と戦争をしない、と励まし続けているからです。 私は、我々もアメリカ憲法に9条をもったらと願います。そして、いつか神様が私の国にもそのような幻へと導いてくれるように祈っています。 皆様の国は、戦争の恐ろしさを知っています。皆様方は、いかに戦争を学ばないで平和を学ぶか、そして、平和のために助けとなることを、私達すべての人に教えることができます。 イエス・キリストは、平和の君、世の光、私達すべてを自由にするために来ました。 このことこそが、私達が待降節を待ち続けることの意味です。このことこそ、私達が平静になり、神様を知ることが出来る時、私達が心から深く考えることによって得られる、良き知らせです。 Amen and Amen!