2008年元旦礼拝 牧師 佐藤義子

/n[テサロニケの信徒への手紙一] 5章12-28節 12 兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、 13 また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい。 14 兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。 15 だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。 16 いつも喜んでいなさい。 17 絶えず祈りなさい。 18 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。 19 ““霊””の火を消してはいけません。20 預言を軽んじてはいけません。 21 すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。 22 あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。 23 どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。 24 あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。 25 兄弟たち、わたしたちのためにも祈ってください。 26 すべての兄弟たちに、聖なる口づけによって挨拶をしなさい。 27 この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように、わたしは主によって強く命じます。 28 わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。 /n  19世紀に生きたイギリスの牧師にスポルジョンという人がいます。彼の残した説教の中に「妥協はしない」と題したものがあります。アブラハムがしもべに、息子のための嫁さがしを命じている聖書の個所を取り上げたものです。アブラハムが僕に命じたことは、一人息子イサクの妻は、現在アブラハムが住んでいるカナンの娘から探すのではなく、アブラハムの一族が住んでいるアブラハムの故郷、メソポタミアのハランの町に行って探すように、というものでした。(カナンとハランがどれくらい離れているかを、聖書に添付されている地図1頁で確認してください。)しもべはアブラハムに尋ねます。もしも自分が見つけた女性が、ハランからカナンに移り住むことを嫌がる時には、その時には、息子の方を、アブラハムの故郷ハランに移り住んでもらっても構わないでしょうか、という質問です。アブラハムの答えは明快でした。「決して、息子をあちらへ行かせてはならない。天の神である主は、わたしを父の家、生まれ故郷から連れ出し、『あなたの子孫にこの土地を与える』と言って、わたしに誓い、約束してくださった。その方がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子に嫁を連れて来ることができるようにしてくださる。もし女がお前に従ってこちらへ来たくないと言うならば、お前は、わたしに対するこの誓いを解かれる。ただわたしの息子をあちらへ行かせることだけはしてはならない。」(創世記24:6-8)  説教題の「妥協はしない」というのは、おそらくここからつけたものでしょう。スポルジョンは説教で語ります。しもべが出発前に主人の意見を聞く。私達も仕事をする前に、まず神様に向かって語り、聞く。その仕事の困難さを考えているならそれを打ち明け、神様が何を期待し、又助けて下さるかを聞きましょう!と。私達は、最初に地上における目に見える人や事柄に対して向き合おうとするけれども、そうではなくて、まず神様に向かって祈ってから、それから人や事柄に向かうということです。しもべは、自分に命じられたことの中で心配していることを尋ねます。その結果、主人アブラハムからは明快な答えを聞くことが出来ました。  このしもべに与えられた仕事は、主人の後継ぎの結婚という、とても責任の重い仕事であり、むつかしい仕事でもありました。彼は知らない土地を長旅しなければなりませんでしたし、主人の息子にふさわしい女性をみつけねばなりませんでした。その女性は、息子イサクの喜びとなり、イサクの愛すべき伴侶となるのです。そしてアブラハムが神様に与えられた約束を受け継ぐ者となるのです。しもべは、自分に与えられた使命を果たすために努力を惜しんではなりませんでした。自分の能力の限りを尽くして、主人から与えられた使命を果たさなくてはなりませんでした。神様の導きと守りがなければ、出来ることではありません。彼が、たとえ「この人だ」と確信する女性を見つけ出したとしても、はたして彼女は生まれ故郷を離れて遠い国にいくことを承知するだろうか。自分が伝えるイサクという人物と、聞いただけで結婚を承知するだろうか、との心配もあります。さらには彼女がメソポタミアを去ってカナンに来るということは、それまでの生活からの断ち切りが求められますし、農耕の定住生活から、天幕の移住する生活へ切り替わることを意味します。スポルジョンはこの説教で、私達をしもべにたとえて、キリスト者として生きるということが、どういうことなのかを考えさせます。  さて今年度の聖句として私達に与えられた御言葉は、「常に喜べ、絶えず祈れ、すべてのこと感謝せよ」との御言葉です。この御言葉のあとに、こうあります。「これ、キリストイエスによりて、神の汝らに求め給う所なり。」私達の訳では「これこそキリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」 /n常に喜べ  常に喜ぶとは、どういうことでしょうか。聖書においては、たとえばフィリピ書では「主において」という言葉と一緒に用いられていますし、テサロニケの手紙1章にはこのようにあります「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」。すなわち聖書が教える喜びは、嬉しいことがあったから喜ぶ、悲しいことがあったから喜べないというような、目に見える事柄によって左右される喜びではありません。順境の中にあっても逆境の中にあっても、変わることなく喜びにとどまる、永続性を伴う喜びです。一時的突発的衝動的な歓びとは区別され、イエス・キリストを根拠とする、イエス・キリストを信じる者の喜びであり、湧き上がってくる喜びです。しかし「喜べ」と命令形になっているのは、本人の自覚が必要であるということであり、努力が求められるからです。信仰からくる喜びは、神様が私と共にあって働いて下さるとの喜びであり、たとえ逆境の中にあっても、そのことが神様のゆるしたもうことであり、神様のご計画の中に置かれていることだと受け止められるならば、この喜びを奪うものはいないのです。  さきほどのアブラハムの話でいうならば、しもべの与えられた使命は重く、困難の伴う仕事でありました。しかし彼は、その仕事をおそれながらも喜んで担いました。私達はイエス様を信じる信仰が与えられているゆえに、それを家族、友人に伝えていく使命があります。その使命は重く、自分のような不完全な弱い者には、それを果たしていくことは不可能だとしりごみします。自分は口下手である。自分は消極的である。自分は何々だから、それは無理だ・・と。もっと別な、もっと口の上手な人がやればよいと考えます。しかし、あの偉大な指導者モーセも口下手でした。彼は神様にこのように断わっています。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたがしもべにお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全く私は口が重く,舌の重い者なのです。」神様は、このモーセの言葉を受け入れられたでしょうか。受け入れられませんでした。神様はこのように答えられています「一体、誰が口を聞けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また、見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」と。(出エジプト記4章10-) /n絶えず祈れ  私達が御言葉を通して、教えられ、命じられていることは、私のわざではなく、神様のわざです。神様のわざは、私達の力が不十分でも、神様が私達を通して働いてくださるゆえに、しりごみするようなことではないのです。アブラハムのしもべが祈ってこれに向かった時、イサクの妻になるべき人は、向こうの方から近寄ってきたのです。(創世記24章11節-21節)  つまり、私達の使命が果たせるのは、私達の祈りを神様が聞いて下さった時なのです。私達の使命は、イエス様のことを伝えることと同時に、今、自分自身がおかれているその場で、真剣に誠実に生きるということでありましょう。夫であれば夫として真剣に誠実に生きる。妻であれば妻として真剣に誠実に生きる。親であれば親として真剣に誠実に子供に向かう。子供であれば、親に対して誠実に生きる。学生であれば勉学に対して真剣に取り組む。仕事があれば、仕事に対して真剣に誠実に取り組む・・。しかし私達の生活は一つだけでなく、複雑に入り組んでおり、バランスよくまんべんなく、パーフェクトに生きることは困難であります。しもべが心配したように、 ようやく主人の息子の嫁となるべき人物に出会っても、その人物が結婚は承諾しつつ、故郷を離れるのはいやだということも起こり得ます。事柄は必ずしも私達が願うようにはいきません。その時にはどうすべきか。しもべがご主人の考えを聞いたように、私達は神様に祈り尋ねるのです。答えが出ないときには答えがでるまで祈り続けるのです。神様は必ず私達にわかる仕方でその方法を示して下さいます。 /nすべてのこと感謝せよ  シュラッターという神学者は、私達が感謝できるのは、私達が、神様の現臨の中に生きている時であり、私達の魂が神様を対話の相手として、自分の行動の隅々までゆきわたっている場合だけであると限定しました。そうである時、すべてのことが感謝のもととなり、どんな経験の中でも、神様の恵みが絶えることなく、良い贈り物を届けて下さり、私達はその贈り主を知るゆえに、そのお方に感謝して神様を崇めます。  私達は喜ぶことがあるにもかかわらず見過ごし、あるいはその喜びを芽を自分から摘み取っていないでしょうか。  私達は祈りを沈黙させてはいないでしょうか。上を見上げる時間を惜しみ、横と下ばかりに時間を費やしていないでしょうか。  私達は感謝を絶やしてしまっていないでしょうか。  もしそうであるなら、私達はすでにイエス・キリストを失なっています。私達は日々、イエス様によって神様の恵みを受け取っています。そこから、かき乱されることのない喜びと、絶えることのない祈りとすべてのものを包む感謝が生じるのです。  2008年、仙台南伝道所の歩みが、そして伝道所にかかわるすべての者が、この御言葉を愛し、この御言葉と共に、この御言葉のもとで歩んでいきたいと願うものです。