説教要旨 「新しい朝に」 石巻山城町教会 鈴木淳一牧師

/n[創世記] 32章23-33節 23 その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。 24 皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、 25 ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。 26 ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。 27 「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」 28 「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、 29 その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」 30 「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。 31 ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。 32 ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。 33 こういうわけで、イスラエルの人々は今でも腿の関節の上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブの腿の関節、つまり腰の筋のところを打ったからである。 /n[コリントの信徒への手紙二] 12章7b-10節 7b それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。 8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。 9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。 /nはじめに  夜明け前です。川の水の面も暗くひっそりとしています。この暗さの中で、ヤコブは自分の妻、側女、子供、牛・羊など向こう岸に渡して、今、一人になっています。ヤコブはずっと前に、何も持たずに父イサクのもとを発ちましたが、その間、時間が随分経つ内、財産もいろいろ増えました。妻や子供達もたくさん持つようになりました。ところが今、再び一人になったのです。自分の持ち物を全て向こう岸に渡し、暗闇の中で一人になっています。 /n暗闇  この暗闇は、ヤコブにとって彼の人生の陰の部分を表しています。彼の罪や後ろめたさがこの暗闇の中にあるのです。ヤコブは今、一人になって、この自分の陰の部分と一人向き合おうとしています。彼は兄エサウと父イサクを欺(あざむ)きました。エサウの「長子の祝福」が欲しい為に母リベカと計略をたてて、父イサクを騙(だま)したのです。兄エサウはそのことを根に持って弟ヤコブを憎むようになり、殺意まで持つようになったのです。この事を知って母リベカはヤコブに逃げるように勧めます。そのようなわけで、ヤコブは兄エサウを避けて故郷から離れました。ところが、考えてみて下さい。それにもかかわらず、ヤコブは神様から祝福を受けて念願が叶ったというのですけれども、果たして幸福で嬉しい人生になったでしょうか。兄を騙(だま)したという後ろめたさと、いつ兄が襲って来るかわからない、そういう不安の中で生きていたのではないでしょうか。人には決して言うことの出来ない、暗い過去におびえて生きる人になったのです。 /n暗闇での格闘  ヤコブは義理の父・ラバンの家から多くの財産と大勢の家族を伴ってくるわけですが、そこには「長子の権利」を騙(だま)し取られ、悔しい日々を送っている兄エサウが待っていたのです。ヤコブはもうすぐそのようなエサウに会わなければならないのです。兄エサウはきっと怒りを抑えながらヤコブを殺す機会を待っていたかもしれません。そのような兄エサウとの再会を前にして、ヤコブが兄の敵意をどうにか和らげようと図り、又一方で、エサウが攻撃してきた時の為に必死で備えをする様子が聖書にはよく記されています。いったい自分の実(じつ)の兄に会うのに、こんなに不安で恐れていなければならないとはなんて不幸なことでしょうか。いろいろな人を狡猾に騙(だま)して生きてきたヤコブは今、そのような人生の裏側の暗さに直面しているのです。表(おもて)は確かに成功者に見えます。父から祝福を得たし、子供も財産もたくさん持つようになりました。しかしその成功の裏にある狡猾さ、人を欺(あざむ)いてきたことが彼を不安にしているのです。今ヤコブについて語っていますが、この、人生の裏側・暗い部分、それによる不安・恐れというのは、私共の人生にもあります。この陰の部分が時折、私共の生活の中で顔を出すのです。ヤコブは今、まだ夜明け前の暗闇の中に不安と恐れに包まれています。そして唯一人,神の前に立っています。彼が神様の前で取り組まなければならなかったことは、自分の人生の暗い部分、自分の過去、罪に直面することであり、今その時が来たのです。しかし、その格闘の背後には神様がおられます。つまり、自分自身の暗い部分を通して神様と格闘したのです。暗闇の中で、唯一人で戦いました。  私共もヤコブのように、唯一人になって自分の暗い部分の中で格闘するしかない時があるのです。そしてその格闘の時間を通してこそ神様に出会うことがあります。ヤコブは出来れば避けたい相手、殺されるかもしれない危機を前にして、神様との格闘の機会が与えられました。私共も人生の内でヤコブのような危機に直面することがあるのではないでしょうか。その時こそ神様に出会い、神様と組み合いをする一つのチャンスかもしれません。 /n祝福への執念  ところでヤコブはそのような格闘に勝ったのでしょうか。或いは負けたのでしょうか。 >> 「ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿(もも)の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿(もも)の関節がはずれた。『もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから』とその人は言った・・」(26-27節) <<  ヤコブは、腿の関節が外れているにもかかわらず、その人を去らせようとしません。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」と、粘り強く必死に祝福を求めていたのです。そこでその人は仕方なく、ヤコブを祝福します。出口がない危機に直面して全てをかけたヤコブの祈りであったに違いありません。私共もある問題や危機に直面した時、それを神様の前に出して神と格闘する迄、根気強くその問題に神様の答をもらおうと取り組んでいるでしょうか?「神様、どうか私の過去の罪をお赦し下さい。そして私を祝福して下さい」と粘り強く願っているでしょうか?ヤコブのように・・。 ヤコブの祝福に対する執念というのは、この時ばかりではないのです。兄エサウとの敵対関係になったのも、もともと兄エサウが父から譲ってもらうべき長子としての祝福を、父を騙(だま)して奪い取ったのです。ヤコブは手段と方法を選ばないで、何よりも祝福に固執した人でありました。  _____________________  ある日、兄エサウは疲れ切って野原から帰ってきました。兄エサウは狩猟をする人でした。その時ヤコブは煮物をしていました。お腹が空いていたエサウはヤコブにその煮物を食べさせてくれるように願うのです。その時ヤコブは言います「まず、長子の権利を譲って下さい」。お腹が空いて死にそうになったエサウは、長子の権利等どうでも良いと言いながら、誓いを迫るヤコブの言いなりになって煮物を得る為に「長子の権利」をヤコブにすんなりと譲ってしまうのです。 神様は「長子の権利」よりも「煮物」を選んだエサウを選ばず、ずる賢こく狡猾ではあったけれども、長子の権利を重んじて神様の祝福を求め願ったヤコブを選んで下さいました。エサウの最大の失敗は神様の祝福を軽んじたところにあったといえるでしょう。人間にはお腹がすいても死にそうになっても、命をかけて守らなければならないということがあるのです。どのようなことがあっても絶対に譲ってはならない、そのような領域がある。エサウはそれを知らなかった。軽んじたのです。 /nヤコブからイスラエルへ  ヤコブは神の人との格闘の末に名前が変わります。「もはやヤコブではない。イスラエルと呼ばれるのだ」と神の人から言われます。ヤコブという名前は「足をつかむもの」という意味で、ヤコブが生まれる時に、兄の踵(かかと)をつかんで生まれてきたのでそのように名が付けられました。それは奇しくもヤコブの性格をよく表わしているのです。負けず嫌いで奪い取ろうとする性格、その通りヤコブは祝福を自分のものにする為に、騙(だま)しあざむき、又逆に自分もあざむかれ、だまされ、傷だらけの人生になりました。しかし今、そのような自分の性格と過去のゆえに、不安と恐れの時間に置かれていたのです。それでも今、ヤコブはイスラエルに代わりました。足をつかむ者は、神と戦う人・イスラエルになったのです。名前が新しくなるというのはもう古い人ではなくなったということです。もはや彼は、人の足をつかむ狡猾なヤコブではなく、神と戦って勝った祝福された者・イスラエルになったのです。神から選ばれた者として変えられたのです。神がヤコブの人格の暗さ、罪だらけの暗い人生に光を当てて下さったのです。私共は自分の罪に向かい合う時、それはとても辛い時間です。しかしその向こう側に神様がおられる、そしてその戦いの中で神様の御手によって私共の暗い部分は明るくなるのです。独り子イエス・キリストを私共の為にお送り下さった神様はヤコブの為に、ヤコブの一番辛い時間、ヤコブの所に降(くだ)っていかれたのです。  人は神の御手によって変わります。見方も価値観も変わります。神の祝福には、人を根本から変える力があります。ヤコブが神の人との格闘を終え、神様から祝福され、そこを去ると太陽は昇ってきました。夜明けになったのです。それはヤコブ自身にとってきっと忘れられない素晴らしい夜明け、朝であったに違いありません。自分の罪や狡猾さからきた暗闇から解放された朝でありました。 ヤコブの暗い人生に神様からの光が差し込んできたのです。 /n夜明け  その後、ヤコブは兄エサウと再会するのですけれども、このエサウはヤコブを赦して受け入れるという、実にほほえましい場面が出てきます。神様がヤコブを変えただけでなく更にエサウの憎しみをも変えて下さった。しかし{ヤコブが神様の祝福を重んじ強く願い求めた。だから神様に選ばれた}とは言えないのではないでしょうか。それは、そこにはヤコブが生まれる以前に神様の大きな恵みがあった。不義な者を選び、義として下さる憐れみ深い神、その神様の選びがあったのではないかと思います。人間的には罪だらけのヤコブを義とし、祝福して下さる神様であった。そして祝福の光によってヤコブの陰は消え光の内を歩む人となったのです。これがペヌエルを過ぎてヤコブが迎えた夜明けでした。暗い時間は過ぎ去り、今、光の中を歩むヤコブ-いえイスラエルになったのです。 /nパウロのとげ  しかしヤコブは腿(もも)を痛めて足を引きずっていました。弱さを持つ人間になったのです。それゆえ今、自分の力でなく神様に頼る人生になりました。恵みによって生かされる、神のものとなったのです。新しい朝を迎え、新しい人生を歩み始めたヤコブが一つの弱さを持つようになったように、パウロも、思い上(あが)ることがないように一つのとげが与えられました。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙の中で、「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。」(?・12:5)と言っています。彼はいつも自分を苦しめる刺(とげ)がありました。弱さがあったのです。パウロはそれを取り除いて下さるように三度、神様に願いました。その時、神様から言われたのです。「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(同9節)。そこでパウロはこのように告白します。「私は弱い時にこそ強いのです(同10節)。もはや自分の力で生きる人間ではなく、主の力によって生きる者となったのです。 パウロは名門の家庭に生まれ、当時有名な先生のもとで学び、最高の学問であったギリシャ哲学にも精通していました。又、律法を熱心に守っていた宗教人であったのです。パウロはユダヤ人でありましたが、特別な権利のしるしであったローマの市民権を持っていました。いわば当時の人々が欲しがるすべてのものを持っていたといっても過言ではないでしょう。しかし主イエス・キリストに出会った時にそれが誇りではなく、むしろ主から与えられた棘(とげ)、その「弱さ」が誇りであるということを知ったのです。棘(とげ)がある人間になったパウロを、主は、イエス・キリストの福音を宣べ伝える者として選び、用いて下さるようになったのです。 /n祝福への道  又、神様は、独り子イエス・キリストを通して私達をも選んで下さった。私達がどのような者であるにせよ、どのような過去を持っているにせよ、どのような弱さ・とげがあるにせよ、それは関係がありません。私共の暗闇の部分に向き合い、又、神様の祝福を願い求める時、主なる神様は必ず祝福して下さる。その時、暗闇の時間は過ぎ去り太陽が昇る夜明け、「新しい朝」が訪れるのです。 そして自分の弱さを通して、主によって新しく生まれ変わった自分自身を見ることができるのです。