説教要旨 「最も重要な教え」 牧師 佐藤義子

/n[申命記] 6章4-9節 4 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。 5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 6 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、 7 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。 8 更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、 9 あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。 /n[マタイによる福音書] 22章34-40節 34 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。 35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。 36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」 37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 38 これが最も重要な第一の掟である。 39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」 /nはじめに  旧約聖書には、律法と呼ばれるものがありました。これはモーセを通して神が人間に守るべき教えとして与えられた戒めです。イエス様の時代、当時のユダヤ教徒はどのくらいの数の戒めを知り、そして守っていたのでしょうか。註解書によればその数は613だといいます。これを248と365に分け、初めの248(人間の体の骨の数)は「○○しなければならない」教えで、後の365(一年の日数)は「○○してはならない」教えだと言われます。 /nファリサイ派の質問  以前もイエス様をわなにかけようと、税金を皇帝に納めるべきか否かと尋ねたファリサイ派の人々(15節以下)が、再び質問しにやってきました。「律法の中で、どの掟が最も重要か」という問いです。民衆はイエス様の語る神の国の福音に耳を傾け、その教えに驚き、目を見張り、尊敬しました。それは、自分達がこれ迄築いてきた権威が崩されていくことでもあり、彼らにとって、イエス様は無視出来ない脅威の存在でした。その為に彼らはイエス様の影響力にとどめを刺そうと、答えに窮するような質問を用意しました。この問いは、彼らの間でも、議論になっている問いでした。 /nイエス様のこたえ  イエス様の答えは明快でした。イエス様は律法を613から成る集合と考えず一つのものとして考えました。そしてその中心にある核として、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(38節)と、「隣人を自分のように愛しなさい」(39節)を取り上げられました。これは、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:5)と、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」(レビ記19:18)からの引用です。 /n神への愛と隣人への愛  イエス様は、神様への愛と隣人への愛の二つの教えを一つとし、同じ重要性をもっていることを教えられました。律法が613であろうと、1000、2000あろうとも、すべての戒めがここから出てここに帰るというのです。私達の心が神様への愛によって動かされているならば、私達の全生活を神様のレールの上に乗せることになります。神様を愛するとは隣人を愛することです。なぜなら神様が人間を大切に考え、隣人に対する私達の愛を求めているからです。神様を愛しているという人が人間を軽く考えることはできません。又、人間を大事に考えるならば、神様を軽く見ることはできません。なぜなら神様を見失ったら私達の心から愛が乾いていくのです。神様は、私達が人間に仕えることによって神に仕え、神に仕えることによって人間に仕えることを命じておられます。 /n私達の生きる基準  神様への愛、そして人への愛が芽生えて活発になると、どうしたらもっと愛せるようになるのか、どういうふうにして神様に仕え、隣人に仕えていけばいいのか、その手段、方法を熱心に考えるようになります。ここで、イエス様が教えておられる愛は、神の愛(アガペーの愛)です。神様の愛(神様が一人子イエス?キリストを私の為に遣わして下さった)を学んだ者は、その愛が私一人にとどまらず、家族にも友人にも親族にも知人にも及ぶことを知り、そのことに心を傾けていきます。神への愛と隣人への愛の教えは、私達の義務?責任の基準を私達に与えてくれるのです。  イエス様は、このいましめを示すことによって、正しいことと正しくないこと、あるいは義務と罪がごちゃまぜになることがないようにされました。何が善で、何が悪であるのかを示されました。とりわけ教会の中においては、この教え、神への愛と隣人への愛が、中心に据えられているかどうかが、教会が教会であり続けているかどうかの基準となります。イエス様は「律法全体と預言者は、この二つのおきてに基づいている」と言われました。「律法全体と預言者」とは、旧約聖書のことです。旧約聖書は、この二つのいましめが、ちょうつがいの金具の働きをしている、とイエス様はいわれました。 /n「神への愛」と「隣人への愛」の内実  それは十戒に示されています。神を愛するということは神を神とすることであり、神以外の者を神としない、神でない偶像を拝まない、神の名前をそまつにあつかわない、礼拝を厳守する、神が与えた両親を敬う、ことです。隣人を愛するとは、隣人の命を守り、隣人の家庭を守り、隣人の自由を守り、隣人の名誉を守り、隣人の財産を守ることです。又、それは山上の説教にも示されています。たとえば、憐れみ深くあること、平和を愛すること、義のために迫害を受けること、隣人に腹をたてたり、ばか?愚か者といわないこと、仲たがいをしているならば和解をする、あるいは自分に負い目を持つ者を赦す、人をさばかない、ということです。  私達は、律法やいましめにがんじがらめにしばられているのではなく、そうではなく、神様からの祝福の道への招きとしてこの二つの戒めが与えられています。私達はこの招きにこたえるのか、それとも背を向けるのか、道は二つです。すべての道はここから始まり、ここに帰ることを思い、私達のすべての判断?決断?実践がここに基準を置いている歩みでありたいと願うものです。