説教要旨 「高ぶる者は低くされる」 牧師 佐藤義子

/n[サムエル記上] 2章1-10節 1 ハンナは祈って言った。「主にあってわたしの心は喜び/主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き/御救いを喜び祝う。 2 聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ。 3 驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神/人の行いが正されずに済むであろうか。 4 勇士の弓は折られるが/よろめく者は力を帯びる。 5 食べ飽きている者はパンのために雇われ/飢えている者は再び飢えることがない。子のない女は七人の子を産み/多くの子をもつ女は衰える。 6 主は命を絶ち、また命を与え/陰府に下し、また引き上げてくださる。 7 主は貧しくし、また富ませ/低くし、また高めてくださる。 8 弱い者を塵の中から立ち上がらせ/貧しい者を芥の中から高く上げ/高貴な者と共に座に着かせ/栄光の座を嗣業としてお与えになる。大地のもろもろの柱は主のもの/主は世界をそれらの上に据えられた。 9 主の慈しみに生きる者の足を主は守り/主に逆らう者を闇の沈黙に落とされる。人は力によって勝つのではない。 10 主は逆らう者を打ち砕き/天から彼らに雷鳴をとどろかされる。主は地の果てまで裁きを及ぼし/王に力を与え/油注がれた者の角を高く上げられる。」 /n[マタイによる福音書] 23章1-12節 1 それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。 2 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。 3 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。 4 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。 5 そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。 6 宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、 7 また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。 8 だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。 9 また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。 10 『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。 11 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。 /nはじめに  本日の聖書は、イエス様が群衆と弟子達に対して、律法学者達やファリサイ派の人々を見倣ってはならないことを教えられている個所です。私達はファリサイ派や律法学者と聞くと、彼らはイエス様を十字架へ追いやっていくイエス様に敵対した人々と考えて、自分とは関係のない人々と思いがちです。けれどもイエス様が彼らのどのようなところを断罪されたのかに注目し、それは自分にもあてはまると認めることができるならば、聖書の学びは私達に大きな意味をもってくるに違いありません。実際、キリスト教会においても、ファリサイ派(ユダヤ教徒)に匹敵するほどの危険な人達が現れて、マタイ福音書の著者は彼ら達に警告を発しなければならなかった、と考えられているからです。 /n「彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。」  イエス様は、律法学者やファリサイ派の言うことは行うように教えます。なぜなら彼らの教える律法は、神様がモーセを通して与えたものであるからです。律法とはモーセの十戒を中心とした教えです。イエス様は「私が来たのは律法を廃止する為ではなく完成する為である」(マタイ5:17)といわれ、さらに「律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(同18)ともいわれました。律法の中心は、神を愛することと隣人を愛することです。 /n「しかし、彼らの行いは、見倣(みなら)ってはならない。」  イエス様は彼らの行動を見倣うことを禁じます。なぜなら彼らは言行不一致であるからです。たとえば十戒に「安息日を心に留め、これを聖別せよ。・・いかなる仕事もしてはならない」(出エジプト20:8)とあります。律法学者やファリサイ派は、この戒めを厳格に守らせる為に、どこまでを「仕事」と規定するかを研究し、荷物を持って運ぶ場合は何キロまで、移動する場合は何メートルまで、・・というふうに、次第に細かい規定を作り上げ、エスカレートしていくことで、律法の重荷を重くしていきました。 /n「彼らは背負いきれない重荷を人の肩に載せる」  彼らは、すべき規則248、禁止条項365、計613もの細則を人々に強いたと伝えられています。初めから律法を守る意志のない人達は、罪人として社会から疎外されたようですが、律法を守ることが天国への道だと教えられている人々にとっては実行不可能な規則も多く、それが人々の日常生活の重荷になっていた現実がありました。 /n「そのすることは、すべて人に見せるため」  彼らは、人には律法遵守(じゅんしゅ)を要求しながら、自分は重荷を背負うことも、他の人の重荷を助けようともせず、何よりもイエス様が断罪されたのは律法を行う動機が人に見せる為であったことです。 /n生れながらの人間  聖書学者バークレーは、もし宗教が規則や規定を守ることだけを要求するなら、自分がそれをどんなによく守っているか、自分はどんなに敬虔な人間であるかを人前に示そうとする人物が必ず現れるといいました。目立ちたい、ほめられたい、認められたい、尊敬されたいという願いが強ければ強いほど、人の目を意識する誘惑に陥ります。生れながらの人間は、自分を自分以上に評価したい、されたいとの願いを持っています。その思いが「行動の基準を、外面に出る部分に置く」のです。本来、律法を守る事は神様に向かう人間の信仰から生まれる行為です。にもかかわらず、律法を守る行為が自己目的へと変わり、人々の賞賛が自分に集まることを期待するという逆転が起こるのです。 /n逆転の行動  当時人々は律法に従い、羊皮紙に書かれた4つの聖句(出エジプト記13:1-10,11-16、申命記6:4-9、11:13-21)の入った小箱をひもで結び、祈る時にひたいと左の腕につけ、又、肩掛けのようなものに青いひもでふさをつけて祈りました。イエス様は「(彼らは)小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。」と、その目が人に向けられていることを指摘しました。このように、イエス様は私達の中にひそむ偽善的な部分に光をあてます。神のみを父としイエス様だけを教師として(9-10節)、へりくだりを教えて下さるイエス様に、今週も従うものになりたいと願います。

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