説教要旨 「ああ、エルサレム、エルサレム」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 23章37-24章2節 37 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。 38 見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。 39 言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」 1 イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。 2 そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」 /nはじめに  今日の説教題を「ああ、エルサレム、エルサレム」と口語訳聖書から選びました。「ああ」というため息は、その根底に相手への「愛」があり、一生けん命に教えよう、伝えようと努力してきたけれども伝わっていかない、わかってくれないその口惜しさ、嘆き、悲しみが含まれています。 /nエルサレム  イエス様が呼びかけているのは、エルサレム神殿を中心として生活している「神の民として選ばれたイスラエル」の人達です。彼らの歴史は一口にいえば神様への不従順の歴史でした。預言者アモスは「主はこう言われる『ユダの三つの罪、四つの罪のゆえに私は決してゆるさない。彼らが主の教えを拒み、その掟を守らず、先祖も後を追った偽りの神によって惑わされたからだ。』」(2:4)。「善を求めよ、悪を求めるな。お前達が生きることができるために。」(5:14)正義を洪水のように、恵みの業を大河のように尽きることなく流れさせよ。」(5:24)と神の教えに逆らって生きる人々に語りました。預言者イザヤは、イスラエルの国がエジプトの国に頼ろうとした時、「わざわいだ、助けを求めてエジプトに下り、馬を支えとする者は。彼らは戦車の数が多く、騎兵の数がおびただしいことを頼りとし、イスラエルの聖なる方を仰がず、主を尋ね求めようとしない。・・・エジプト人は人であって、神ではない。その馬は肉なるものにすぎず、霊ではない。主が御手を伸ばされると、助けを与える者はつまずき助けを受けている者は倒れ、みな共に滅びる。」(31:1-2)と語りました。預言者ホセアは、「神のもとに立ち帰れ。愛と正義を保ち、常にあなたの神を待ち望め。」(12:7)と呼びかけました。 /n偶像崇拝  イスラエルの人々は預言者を通してこうした神様の言葉を聞き、時に悔い改めることもありましたが、しかし再び神様から離れ、目に見える偶像へと走り、悪を行う繰り返しでした。預言者はその時代の人々からは決して歓迎されませんでした。神様が最も嫌われたのは偶像崇拝です。偶像崇拝は神でないものを神とすることです。「国々の偶像は金銀にすぎず人間の手で造ったもの。口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず、足があっても歩けず、のどがあっても声をだせない。偶像を造り、それにより頼む者は皆、偶像と同じようになる。」(詩篇115)。 私たちの国日本は、偶像の国といっていいほど、たくさんの偶像があります。私自身子供時代は水神町という水の神様を祭っていた町にすんでいましたし、小学校の修学旅行では鎌倉の大仏を見に行きました。中学校の修学旅行では平泉の中尊寺をみて、高校では京都の仏閣めぐりもしました。しかし詩篇にあるように、偶像は何にも言いません。偶像から自分の間違いを指摘されることはありません。結果的に自分が思うように行動する。つまり神に祈りながら、自分が神の立場に立ってしまい、自分が基準になっています。 /n何度集めようとしたことか  イエス様は、37節で、「預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めんどりがひなを羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前達は応じようとしなかった。」と過去のこれまでの不従順の歩みを嘆いています。めんどりがひなを集めるという表現は、親鳥がひなに食物を与え、安全なねぐらと、外敵から保護するという神様の守りをあらわす言葉であり、イザヤ書には「つばさを広げた鳥のように、万軍の主は、そのように、シオンの山とその丘の上に降ってたたかわれる。」とあります。このイエス様の「何度集めようとしたことか」という言葉の中に、イスラエルの長い歴史の中で、神様がイスラエルの民を愛し預言者を送り神様の言葉を語り続けてきたこと、そして今、最後に、預言者ではなく、神の御子イエス様を遣わされて、こうしてあなたがたに神様からのメッセージを伝え続けてきたけれど、あなたがたは、私をそして私の父・神をかたくなに拒み続けた、という悲痛な思いが伝わってきます。 /nその結果・・  その結果、彼らは38節で裁きが宣告されます。「見よ、お前達の家は見捨てられて荒れ果てる」と。ここに、ユダヤ教の歴史的な使命が終わったことが宣言されているのです。  24章の一節には、神殿の境内を出ていく時弟子達が神殿の建物を指差したとあります。他の福音書では弟子の一人が、「先生、ご覧下さい。何とすばらしい石、何とすばらしい建物でしょう。」と感嘆の声をあげていることが記されています。このエルサレム神殿は、ヘロデ大王が建てたものですが、それまでの規模の二倍のものを作ろうと、紀元前20年に着工されたものでした。神殿の境内の外側には、南北450m東西300mの回廊がめぐらせてあり、神殿は、長さ12m,高さ4m,幅6mの堅い白亜の大理石で作られ、前の部分は金でおおわれ、朝日が昇ると、さんぜんと輝く神殿を、巡礼者たちは大きな感動で仰ぎ見たそうです。神殿の中には、トーラーと呼ばれる律法が置かれ、そこは神とイスラエルの民との契約が証されている場所でもありました。人々は、エルサレムの都は、神の永遠の契約の保護のもとにあることを信じて疑いませんでした。けれども、神殿の完成が紀元64年と、じつに84年の歳月をかけて完成したエルサレム神殿は、そのわずか6年後にイエス様の予告通り滅ぼされるのです(紀元70年にローマによって)。同じ節に「イエスが神殿の境内を出て行かれると」とあります。この「出ていく」という聖句は、イエス様が神殿からいなくなった後、神殿は空虚な場所となってしまった、ということを伝える象徴的な言葉として読まれています。どんなに人々が集まろうと、どんなに祈りがささげられようと、ファリサイ派や律法学者たちの権威のもとで教えられるユダヤ教は、預言者たちを殺し、神の御子イエス・キリストを拒み、決して信じようとしないかたくなさと共に、律法の内実をないがしろにして、見える部分だけを美しく飾ろうとする偽善の宗教へと堕落し、ついに神不在の神殿宗教となりました。 /n今や、キリスト教徒が「神の民」を継承  イエス様を信じる時、神様の臨在がそこにあります。神の声は直接聞こえなくても、神の言葉である聖書が私たちの道しるべです。聖書の言葉を私達が豊かに蓄えれば蓄えるほど、必要に応じて、聖霊の働きと共に、その御言葉が神様の言葉として聞こえてきます。この経験を繰り返すことで、神様が近くにおられることを知ることができます。神様が私達と共におられることを知るならば、祈りも又、いつでもどんな時でもたやすく口から出てくるでしょう。多くの日本人が、一年に一度だけ初詣にいって祈るのとは対照的に、私達は毎日何回でも自由に祈ります。朝に一日を恵みの中で過ごせるように祈り、日中は助けが必要な度に祈り、夕べには一日が守られた感謝の祈りをささげます。助けを必要とするとき、(たとえば、自分の怒りを鎮めてください、ショックから立ち上がらせて下さい。やさしい気持ちを与えて下さい、意欲を増し加えて下さい。誤解がとけるように、気持ちが通じるように、など)神様を仰ぎ見て祈ります。  私達は、イエス様の悲痛な嘆きと愛を今日の聖書から知ることが出来ました。今一度、私達の生きる生き方を真剣に問い直し、イエス様がその生涯を通して教えてくださった神様を信じて生きる道を、これからも喜びをもって学びつつ歩んでいきたいと願うものです。

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