「目を覚ましていなさい」  牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 24章32-44節 32 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。 33 それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。 34 はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。 35 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」 36 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。 37 人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。 38 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。 39 そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。 40 そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 41 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 42 だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。 43 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。 44 だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」 /nはじめに  本日の聖書個所から25章にかけて、終末を意識して生きるキリスト者の生き方を、イエス様がたとえをもって教えられています。たとえは七つに及び、本日はその内の三つ(いちじくの葉・ノア・泥棒)を学びます。 /nいちじくのたとえ  パレスチナでは常緑樹の木が多い中で、いちじくの木は冬に葉を落とします。そして春は短く新芽を出すのが他の木よりも遅く、「枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたこと」(32節)を知ります。同じように、イエス様の言動を通して新しい時代の到来を知るようにと教えています。さらに、最も堅固にみえるこの天と地も滅びる時を迎えますが、その中で決して滅びることのないイエス様の言葉は、神様との新しいかかわり方が可能となる時代が始まったしるしです。 /nノアのたとえ  ノアの時代、地上で人々は神様の前で堕落し、不法に満ちていました(創世記6:11)。それゆえに地上および人々は洪水によって滅ぼされました。なぜノアは助けられたのでしょうか。聖書はこう伝えています。「ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」(同9節)。更にヘブル書11章にノアついての記述があります。「信仰によってノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けた時、恐れかしこみながら、自分の家族を救う為に箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。」(7節)。洪水が起こるその日まで、人々は飲み食いし、めとったり嫁いだりしていたと聖書にあります。聖書は日常生活にのみ心を奪われている人々の危険性を語ります。ノアのたとえを通して学ぶべきことは、洪水を境に救われる者と滅びる者とが峻別されるということです。ノアは(おそらく人々の嘲笑を受けながら、)神に命じられた通り、とてつもない大きな箱舟を来る日も来る日も造り続けました。そしてノアは、友人、知人、近隣の人たちを箱舟に誘ったことでしょう。しかし人々はノアを相手にせず、地上が水浸しになるなど信じなかったに違いありません。それゆえ助かったのはノアとその家族だけでした。  続く40-41節に「畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女がうすをひいていれば、一人は連れて行かれもう一人は残される」とあります。畑を耕すとか、うすをひくとかは日常の仕事です。ある神学者は「我々が見るところでは、この二人にはそう差がない。しかし、神の目から見ると、二人の差は決定的である。それは、一人は目覚めており、一人は目覚めていない。恐ろしいことであるが、信じ方が違うということになる。一人は、この世のことに心を失っていない。それは、自分をこの世に渡していないということである。信仰生活は簡単である。問題になるのは、この世に携わっている時、この世に自分を渡しているか、それとも神様に仕えて仕事をしているかである。このことは、天と地の違いがある。その違いの前には、「どんな仕事をしているか」などということは問題ではない。つまらないと思える仕事でも、神様の前に立って仕事をしていれば意義がある。家庭生活でも同じである。」と語っています。 /n泥棒のたとえ  泥棒の侵入があらかじめわかっているならば、誰も絶対に泥棒を家に入れるようなことはしません。ところが泥棒の存在を忘れてうっかり鍵をかけ忘れた所から泥棒は侵入します。ここでは、再臨、終末が突然にやってくることを教えると同時に、キリスト者はその時に備えて、緊張を忘れてはならないことを教えています。 /nだから・・  終末・再臨の時、救われる者と滅びる者とが分かたれます。イエス様は終末の突然性と予測不可能性をあげて「だから目を覚ましていなさい」(42節)と警告されます。私達は毎週日曜日の礼拝にしっかりつながり、天に属する者として、救われる者の道を歩みたいと願っています。その為に、日々、聖書を読む習慣を身に着け、出来る限り聖書の御言葉を心の内にたくわえたいものです。日々、祈りをもって一日を始め、祈りをもって一日を終り、その日に向けて「用意して」(44節)いましょう。

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