「契約の血」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 26章26-30節 26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」 27 また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。 28 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。 29 言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」 30 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。 /nはじめに  聖書においては、「契約」という言葉はとても大切な重要な言葉であり、旧約聖書のヘブル語原典には285回も出てきます。旧約聖書の「旧約」がそもそも「旧い(ふるい)契約」という意味なのです。契約は一人では成り立ちません。私達の社会では契約は人間と人間の間で取り交わされる約束です。旧約聖書では、人間の間の契約のほかに「神と人間との間」に結ばれる契約関係が存在します。神とノアの契約(創世記9章)、神とアブラハムとの契約(同17章)、十戒に代表される神とモーセを通して民と結ばれた契約(出エジプト記20章以下)など、イスラエルは神様との契約のもとで、神の民として、その歴史を歩んできました。 /n契約の締結  司会者に読んでいただいた出エジプト記24章には、神様とモーセの間で執り行われた契約締結の場面が描かれています。民を代表してモーセだけが神様に近付き、契約の内容を聞き、民に聞かせ、民がそれらをすべて受け入れて守ることを約束します。そこでモーセは山のふもとに祭壇を築き、動物のいけにえを捧げます。この時、いけにえに伴う「血」が重要な役割を担います。血の半分は祭壇(目に見えない神様がそこにおられることを現す場所)に注がれます。モーセはここで書き記した契約の内容を民に読み聞かせ、それを聞いた民が「私達は主が語られたことをすべて行い、守ります。」と服従を誓った時、モーセは残りの半分の血を民にふりかけます。血が両者に振りかけられたことにより、契約は正式に締結されました。  日本社会では双方がサインと印鑑を押し(時には割印や捨て印も)て、契約が成立しますが、神様とイスラエルの民の間でかわされる契約は血が重要な役割を果たしていました。又、十戒の前文(出20:2)のように、契約者の神ご自身がどのようなお方であるかが明らかにされています。 /n主の晩餐  今日の聖書は過越の食事の中でのイエス様の言葉が中心です。イエス様は一つのパンを弟子達に分け与える為に裂きました。そして「取って食べなさい。これは私の体である。」と言われ、又、ぶどう酒を渡す時「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人の為に流される私の血、契約の血である。」と言われました。 /n「私の体・私の血」  パンをご自分の体に、ぶどう酒をご自分の血にたとえて、イエス様はここで三つのことを語られています。①「贖罪」、②「代償(身代わり)」③「契約」ということです。 /n①「贖罪(しょくざい)」について  贖罪とは「罪のあがない」ということです。あがないとは「代金を払って買い取ること」です。奴隷の身分から解放し救い出す為に、奴隷の主人にお金を払うことを意味したことから、贖罪とは「罪からの解放と罪からの救い」のことです。「贖う(あがなう)」のヘブル語は三つあり、一つは、土地・財産などが人手に渡ってしまった時、その家の一番近い親族が家をつぶさない為に買い戻す「あがない」。さらに、イスラエルの民がエジプトで奴隷であったのを神が贖い出して下さった時の「あがない」。二つには「聖別されて神のものとなる」という時の「あがない」。三つには神に牛や羊を犠牲として献げ、そのことを通して人間の罪を赦してもらう「あがない」。 /n②「代償」(多くの人のために流される)について  イエス・キリストがこれから十字架につけられ、そこで流される血は、人間の罪に対する神様の赦しを得る為の、多くの人の為に流される血である、と言われました。 /n③契約について  旧約時代からずっと、エルサレム神殿では毎日動物がほふられ、その犠牲の血によって民の罪の赦しが祈られました。このような旧い契約での「あがない」はここに終了し、イエス様ご自身が十字架上で犠牲の血を流されることによって全人類に罪の赦しの道が開かれました。今や、「信じる者すべて」(ヨハネ3:16)が救われて,永遠の命が与えられています。