「イエス・キリストの死」 牧師 佐藤 義子

/n[マタイによる福音書] 27章45-56節 45 さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 47 そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。 48 そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。 49 ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。 50 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。 51 そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、 52 墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。 53 そして、イエスの復活の後、墓から/出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。 54 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 55 またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。 56 その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。 /nはじめに  本日は、日本キリスト教団が定めた伝道献身者奨励日であり、神学校日です。伝道者奨励日とは、神様があなたを伝道者として召しておられるかもしれないということを考えていただく日であり、又、献身して神学校で学んでいる神学生や神学校を覚えて祈り、応援する日でもあります。 イエス様の言葉に、「収穫は多いが、働き手が少ない」「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう。」があります。聖書の言葉は信仰の決断を促す時や、迷いの中から大きな決断をする時に、私達を後ろから押してくれます。また、決断に確信を与えてくれます。 日本のクリスチャン人口は1パーセントに満たず、ほとんどの家庭はキリスト教に無理解であるといっても良いでしょう。牧師、伝道者になるといえば、家族・親族からの猛反対を受けるのが常です。しかし、反対される中で伝道者は神様からの召命を信じ、十字架の福音を語り続けます。かつて迫害の中で伝道が続けられた結果、福音はユダヤから全世界へ、日本へ、仙台へ、この山田の地まで届けられています。キリスト教は自分だけに留めておく宗教ではありません。伝えて初めて生きた宗教となります。 /n何を伝えるか  福音の内容は、私の罪(そしてすべての人の罪)が神に赦されたということです。私達人間は生まれながらに罪人です。「私達には創り主なる神様がおられる」ということを聞いても信じようとしない。聖書で語られる罪とは、神に対する不信仰と不従順です。人間と神様の間に横たわっていた罪という断絶を、イエス・キリストが十字架にかかり、罪のない命を犠牲として神に献げられました。それゆえに神様の赦しが与えられました。自分に罪がないという人でも、イエス様の教えに従い得ない現実があります。愛しなさいといわれても愛せない。赦しなさいといわれても赦せない。イエス様の教えを頭で理解していても、そのように生きることが出来ない。そういう私達のすべてが十字架によって赦されたのです。(コリント15:3参照) /n「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」  今日の聖書の箇所は、十字架上のイエス様を伝えている個所です。昼の12時に全地が暗くなり3時に及んだとあります。暗闇は悪の力の最後の時であり、神様がこれまでの世界秩序に終止符を打つしるしといわれます。3時頃、イエス様は「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」と叫ばれました。これは詩編22編2節です。詩篇22編は、神に見捨てられた信仰者が、敵対者に取り囲まれながらなお 神に信頼の祈りをささげる悲痛な叫びです。 /n十字架の意味  歴史的に見るならば、罪のないイエス様を十字架につけたのはイスラエルの宗教指導者達であり、ピラトであり、十字架につけよと叫んだ群衆であるといえるでしょう。しかしその一方で、イエス・キリストの受難と十字架による死は、すでにイエス様ご自身の口から予告されていました(マタイ16:21)し、神の御子イエス様が地上に来られたのは、「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マタイ20:28)というイエス様ご自身の言葉があります。さらに最後の晩餐でイエス様は、「皆、この杯から飲みなさい。これは罪が赦されるように、多くの人のために流される私の血、契約の血である。」(マタイ26:27-28)と言われました。十字架の死は、私達に罪の赦しを与える為の、神様の救いのご計画が最初にありました。 /n神殿の幕  イエス様は再び叫び声をあげられ、息を引き取られました(50節)。その時、神殿の幕が上から下まで裂けたとあります。これはエルサレム神殿の一番奥にある至聖所と聖所を隔てる幕のことで、至聖所には一年に一度だけ大祭司が人々の罪のあがないの為に入ることが許されていました。神様のおられる聖なる場所と考えられていた至聖所の、その隔ての幕が破られたということは、聖なる神様と罪ある人間との断絶の時代が終わり、大祭司によるとりなしの時代も終り、神様への道がイエス様を通して私達の前に開かれたという象徴的な出来事でありました。(後略)。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です