「神の国を広めるために」 伝道師 平賀真理子

/n[イザヤ書] 61章1節 1 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。 /n[マルコによる福音書] 1章35-45節 35 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。 36 シモンとその仲間はイエスの後を追い、 37 見つけると、「みんなが捜しています」と言った。 38 イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」 39 そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。 40 さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。 41 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、 42 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。 43 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、 44 言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」 45 しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。 /nはじめに  「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(35節)。その光景を想像して下さい。私はこの箇所で、いつも心洗われる心地がして胸がふるえます。神の御子たるイエス様が父なる神に祈られている。人里離れた、寂しい所で・・。その前日(安息日)に会堂で人々に教え、悪霊を退治し、その後すぐ弟子シモンの姑の病を癒し、日没とともに安息日が終るやいなや押しかけてきた多くの人々の癒しや悪霊退治をなさり、その興奮がまだうずまいている場所を抜け出して・・です。 /n弟子達の思い   弟子達は、神の国を広めるイエス様のお働きの大切さを理解することは出来ませんでした。多くの人がイエス様を賞賛し,権威あるお姿に感動し,その癒しに感謝している。これが続いてほしい・・。「皆が捜しています。」(37節)の言葉の背後には、弟子達が輝かしい成功を目の当たりにして「戻って、癒しや悪霊退治を再開してほしい」という願望があったかもしれません。そこには「神様」より「自分の名誉」の方が大事という「罪」の姿があります。 /nイエス様のお答え  イエス様は、「近くの他の町や村に行こう。そこでも私は宣教する。その為に私は出てきたのである。」(38節)と言われました。イザヤ書に「私を遣わして 貧しい人に良い知らせを伝えさせる為に・・」(61:1)と、ありますが、この「貧しい人」とは経済的なことではなく神様の救いを渇望する人のことです。御自分のなすべきことは「弱い立場の人々や苦しめられている人々など神様からの恵みをひたすら待ち望む人々に神の国の到来を告げ知らせること」であるとのイエス様のゆるぎない決意をこのお答えから窺い知ることができます。 /n重い皮膚病  40節以下に「重い皮膚病」(以前はらい病)の人がイエス様のもとにやってきたことが記されています。皮膚病は、他と比べると見た目で分かりやすく明らかに普通と違います。さらに当時のイスラエル社会においては重い皮膚病患者は「聖なる民族」にふさわしくなく、罪で汚れていると考えられ、症状の辛さだけでなく律法で不浄の者とされ、社会から除外され、町や村から離れた場所に隔離され、誰かが近づいてきたら「私は汚れた者です」と言って相手に汚れが移らないようにするよう求められるという辛い仕打ちが待っていました。清さを保つ為とはいえ、これが律法主義の限界です。 /nイエス様との出会い  彼は治りたい一心で、神様から来るその癒しの力に全幅の信頼を寄せ信仰を表明しました。イエス様は「深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ。』と言われ」(41節)ますと、たちまち皮膚病は癒されました。病が癒される3つの要素(1神様の憐れみが注がれていること、2手を差し伸べて触れるとの治療行為、3励ましの言葉)がここにあります。重い皮膚病を癒された人にイエス様は「誰にも話してはならない。ただ・・自分自身を証拠として祭司に見せ、律法に従い清めの献げものをするように。」と言われました。 /n神の国を広めるために  しかし彼は自分の喜びを話す事を優先します。彼の行動でイエス様の御働きに支障が出ました。評判がいよいよ広まり人を避けねばならなくなったことです。町の外の,人のいない所に退かれるイエス様。人が神様の言葉に従わない結果をイエス様が受けておられるのです。(私達の罪の贖いを引き受けられる立場に立たされておられます)。「それでも人々は四方からイエスのところに集まってきた」(45節)。イエス様が全身全霊で求めた神の国を広める為に学びたいことは、神様の愛と力を満たす為に静かな所で祈ること。神様の御心を第一に考え行動する決意。そして高ぶらず、一時の感情に流されず御言葉に従うことです(後略)。