宗教改革記念礼拝 「万事が益となる働き」 倉松 功先生

/n[エゼキエル書] 18章30-32節 30 それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。 31 お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。 32 わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。 /n[ローマの信徒への手紙] 8章23-28節 23 被造物だけでなく、““霊””の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。 24 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。 25 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。 26 同様に、““霊””も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、““霊””自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。 27 人の心を見抜く方は、““霊””の思いが何であるかを知っておられます。““霊””は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。 28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。 /nはじめに  今から491年前、1517年10月31日に、マルティン・ルターが95の文章をヴィッテンベルク大学のある町の領主の居城の教会堂の扉に貼り付けたというこの事件をきっかけとして、宗教改革が始まりました。それから150年後、ドイツ、フランス、スイスなどのプロテスタントの教会が、10月31日を宗教改革の記念の日と取り決めて今日に至っております。 /n95カ条の提題  この冒頭すなわち第一カ条に記されているのが「私達の師にして主であるイエス・キリストが『悔い改めよ』(マタイ4:17)と言われた時、主はそれによって信じる者の全生涯(洗礼を受けた時から地上の生涯を終えるまで)が悔い改めであるべきことを求めておられたのである。」というものです。ですから宗教改革は悔い改めから始まったと言って良いでしょう。95カ条そのものは、当時のカトリック教会の信仰、神学、教会生活、教会の制度そのものついての批判(批判だけではなく、こうあるべきとの改革の提案、主張)をしています。 /n95カ条の提題を出さざるを得なかった理由  95カ条の提題を出す以前に、ルター自身の中に宗教改革的な体験・思い・認識があったということです。それがあって始めて単なる批判ではなくて主張・提言を含む提題を出すことが出来ました。ルターはどのようにしてイエス・キリストと新しく出逢ったのでしょうか。当時彼は、厳格な修道士としての生活をしながら、ヴィッテンベルク大学で聖書の講義をしていました。ルターの宗教改革的体験というのはこの大学での聖書講義(詩篇、ロマ書、ガラテヤ書、ヘブル書等)、聖書の取り組みから起こったといえます。「キリストを信じる信仰によって義と認められる」という信仰義認の体験は、新しいキリストとの出逢いでした。 /nルターの体験  体験のきっかけとなった聖書は、ロマ書1章17節「神の義は福音において示された」です。福音とは1章の初めにあるように「キリストに関するもの」(3節)「キリストそのもの」です。ですから「神の義は、イエス・キリストにおいてあらわされた」ということになります。神の義は、哲学や道徳や倫理で語るような論理ではなく、神の子であられる主イエス・キリスト、この方が「神の義」であるということです。それまでのルターは、「神の義」とは正しい、罪や悪を裁くと考えていました。神の義しさで罪や悪を裁くのですから、徹底的に裁くということになります。彼は最も厳格な修道会(アウグスティヌス修道会)に属し、日夜修道的な生活をしていました。しかしどのように厳しく修行しても神の義の前で裁かれるのですから安心は出来ず、苦悩しておりました。そういう時に「神の義とはそういうものではない。そういう部分もあるけれどもそれが本来の神の意図ではない。本来の神の義とは、福音において現れている。イエス・キリストにおいて現われている。そのイエス・キリストを受け容入れる、信じる。そういうことしかない。」そこに行き当たりました。そういう体験でした。 /n体験に基づく聖書の読み方  この体験によってルターの聖書の読み方がすっかり変りました。福音から聖書を読む。聖書に出てくる神の平安とか、神の宥(なだ)め、神の憐れみとは、イエス・キリストにおいて現れた神の平和・平安、憐れみです。山上の説教に「柔和な者は幸いである」とありますが、私共が柔和な者である、というのではなくて、キリストによって私共が柔和な者とされる、ということです。イエス・キリストによって、私共が平和を作り出す者になり、私共に平安が与えられる。私共が生まれながらのままでは、平和を作り出したり柔和な者であるということは神の前ではあり得ない。私共は、福音によって(キリストによって)創り変えられる。受け身です。そのように読まなければならないということをルターは体験によって学びました。「神の義」を通して「私達を義とする」「義しい者に作り替える」。 それは、キリストがキリストを通してそうさせて下さる。キリストを信じることによってのみ義とされる(神が見て義(ただ)しい者とされる)ということです。私達が義を行っているのではありません。 /n私達の罪が、キリストに転嫁された!  キリストを信じることによって私共が義とされるのは、神の義から見て義しいとされるのですからこれは大変なことです。それがどうして起こるかというと、キリストが私達の罪を負う。その時キリストの持っている神の義を与えて下さる。私達の罪とキリストの義を交換する。信仰によって義とされるという「義」は、キリストの持っておられる神の義であり、私達の外(側)にある義です。ルターは「外側にある義が私達に与えられ、私達の罪がキリストに担われる」と説明しています。この説明はカルヴァンにも受け継がれ、宗教改革者たちは信仰義認のことを「罪が転嫁される」と表現しました。神の義がキリストによって私達に与えられる。私共の罪がキリストに担われる。私共自身が持っている神の義ではありません。ですから「全生涯悔い改める」というのが信仰の告白として出てくるのではないか。私共が神を満足させる義を行っているのではない。それゆえに「恩寵(おんちょう)のみによって」「恵みによって」私共は救われるということが明確になります。 /n三つのキーワード  今朝の聖書には三つのキーワードがあります。1「霊の初穂」(23節)。2「体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」(同)。3「万事が益となる」(28節)です。  「霊の初穂」。これは、キリストを信じることによって義とされることを受け入れ、自らを省み、罪の告白をして義と認められ、洗礼を受けることでしょう。これは終生私達に与えられるものです。洗礼を通して、洗礼のしるしを通して、終生その道を歩むものです。日本基督(きりすと)教団の信仰告白においても、「この変らざる恵みの内に」という言葉があります。「この変らざる恵みの内に」とは、信仰によって義とせられる。洗礼を受ける。ということを言っています。神の御霊が、洗礼を受け、キリストを受け入れることによって与えられている。その御霊は御言葉(説教と聖書)を通していつも私達を守っている、導いているということです。「体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」パウロは同じことをロマ書7:18「善をなそうという意志はありますが、それを実行できない」。7:23「わたしは何と惨めな人間なのでしょう」と言っています。これはパウロのうめきです。そしてすぐあとで「私達の主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」と感謝し、再び「このように、私自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」とうめきの原因を繰り返しています。これはパウロが神の子となること(体のあがなわれること)を待っている表れでしょう。同じことがガラテヤ書5:17にもあります。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。」肉とは身体のことです。身体があがなわれるのを待つとは死ぬことです。死ぬことによって私達は肉の誘惑(ルターは肉の攻撃と表現)から解放されるわけです。私共は洗礼を受けることによって、父なる神を「アバ,父」と呼ぶ神の子としての初穂が与えられている。しかし体が贖われて復活のキリストにあずかるという状況ではありません。にもかかわらず、霊の導きによって聖霊の果実(良い果実)を生み出すことが赦されています。きよい生活をすることが赦されています。しかし自分で「これがきよい生活である」ということは出来ません。それはまさに感謝をもって受け入れるか、あるいは信仰の告白(ざんげの告白)と裏腹にあるものでしょう。 信仰によって義と認められるということが、キリストにおいて表れた神の義であり、キリストの義である以上、私共はキリストの持っている義を行うことは出来ません。これは95カ条の提題を出した時のあの悔い改めに通じるルターの考えでもあります。 /nアウグスティヌスの御言葉とのかかわり  あの有名なアウグスティヌスは、死の病床に横たわりながら、壁に七つの悔い改めの詩編を書き並べて貼っていたと愛弟子ポシディウスは書いています。それはアウグスティヌスにとって大きな感謝、大きな安心の拠り所であったと思います。同時に自らを悔い改めながら、その神の御言葉に心を委ねて死んでいったと思われます。 /n私達の生きる枠  私達は霊の初穂を与えられ、信仰によって義と認められ、御霊である神の言葉<聖霊が働く聖書と説教という神の言葉>によって守られている、ということの中で聖化の歩み、聖霊のもとに導かれる歩みをすることが赦されています。これは大きな私達の枠です。私達の生きている大きな支えです。船といってもいいかもしれません。その中で私共は生きている。それは、ルターの信仰義認の体験や、アウグスティヌススの死の床における御言葉とのかかわり、そういうものによって示されるように思います。「万事が益となる」ということは、御言葉によって守られ、御言葉を通して御霊によって支えられている、ということに尽きると思います。 /n最後に聖書をお読みします。 >> 「“霊”も弱い私達を助けて下さいます。私達はどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成して下さるからです。霊は神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成して下さるからです。神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って、召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私達は知っています。私達すべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私達に賜らないはずがありましょうか。だれが、キリストの愛から私達を引き離すことができましょう。」(ロマ書8章26・28・32・35) << (文責:佐藤義子) _________________________________________________________________________________ /n<参照> -日本基督教団信仰告白の引用箇所 –・・神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信じる信仰により、我らの罪を赦して義としたもう。この変らざる恵みの内に、聖霊は我らを潔(きよ)めて義の果(み)を結ばしめ、その御業を成就したもう。・・」 -七つの悔い改めの詩編 –6編、32編、38編、51編、102編、130編、143編を指す。

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