「礼拝としての生活」 倉松 功 先生(元 東北学院院長)

/n[詩篇] 95:1-11 1 主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。 2 御前に進み、感謝をささげ/楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。 3 主は大いなる神/すべての神を超えて大いなる王。 4 深い地の底も御手の内にあり/山々の頂も主のもの。 5 海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。 6 わたしたちを造られた方/主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。 7 主はわたしたちの神、わたしたちは主の民/主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。 8 「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように/心を頑にしてはならない。 9 あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。 10 四十年の間、わたしはその世代をいとい/心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。 11 わたしは怒り/彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。」 /n[ローマの信徒への手紙] 12:1-2 1 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。 2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。 /nはじめに  「礼拝としての生活」・・このような言い方はあまり聞き慣れないかもしれません。パウロがここでいう「礼拝」とは、私達がささげている礼拝と、キリスト者の生活という意味での礼拝の両方を意味していると思います。今朝はこの二つの「礼拝」の関連について学んでみたいと思います。 /n「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなた方に勧めます。」  冒頭の「こういうわけで」とは、ロマ書1章から11章の終りまでの全体を指しているように思いますが、「神の憐れみ」は特に3:21から11章の終りまでに関係しています。「神の憐れみ」とは神が私達に御子イエス・キリストを与えて(送って)下さった、(神様の側からみれば罪人の私達を神が憐れまれた/私達の側からすれば神の恵み・神の愛が与えられた)そういう「神の憐れみ」によって勧める、と言っています。重要なのは神様の憐れみ(恵み)です。それゆえに「今ささげている礼拝」も、「私共の日常生活が礼拝である」という礼拝も、神様の憐れみ(恵み)からきているということです。 /nパウロの勧め  パウロは勧めます。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそあなたがたのなすべき礼拝です」(12:1)。これはすぐには読めない大変厳しい言葉です。生ぬるい私共の生活から比べると「いけにえとして献げる」とは大変な言葉です。「これこそあなた方のなすべき礼拝」というこの「礼拝」が、パウロが勧める「礼拝としてのクリスチャンの日常生活」と考えるとこれは受け入れ難い、そばに寄ることも出来ない言葉のように思います。しかしこの言葉と、冒頭の「神の憐れみによって勧める」との言葉は大変深く関係しています。もしも神の憐れみ(恵み)がなければ、私共にはこの言葉は受け入れられません。  神が私達に求めておられることは、「生けるいけにえとして献げる」ことです。完全なクリスチャン生活に至る人々(たとえば宮城県には重要なキリシタンの迫害の地があり、戦後に至るまで洞窟で礼拝をささげた人達)の生活を念頭に置いて考えてみても「いけにえとして献げる」との言葉は私達には厳しい言葉です。ですが「神の憐れみ」がそれを私達に勧めています。 /n礼拝は「奉仕」  礼拝には「奉仕」という意味があります。日曜礼拝は「サンデー・サービス(Sunday service)」といいます。奉仕をするとは(どのような形であれ)周辺の人が助けを必要としている時に助けることです。聖書には隣人愛という形で表れますが、それも又奉仕です。礼拝という言葉を中心に考えると、日曜日の礼拝と日常の生活における何らかの形の奉仕が「礼拝」という言葉と結びついています。パウロの厳しい勧めの言葉にかかわらず、クリスチャンの日常生活は、礼拝と密接に関連しています。 /n神が私達に奉仕をした  今日のキーワードは「礼拝が奉仕である」ということです。日曜日の礼拝は「神が私達に奉仕をした」ことを聞くことです。神がキリストを私達に送って下さったその意味を学ぶことです。それによって何が起こったかということを教えられるのです。これは神の私達(全人類)に対する奉仕です。礼拝は「神の奉仕」というところから見ると、私共の日曜礼拝とクリスチャンの日常生活とは無縁ではない、といえるでしょう。 /n礼拝の意味  次にパウロは礼拝の意味(礼拝がどういうものであるべきか)を語っています。12:2「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」。これは特に日曜日の礼拝にあてはまるように思います。なぜなら、「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえる」ことが出来るからです。これは日曜日の礼拝なくしては出来ません。しかし礼拝において「神に喜ばれること」「完全なこと」を学んだ事柄に基づいて、私共が日常生活で少しでも実践する、具体化していく、ということがないと身にはつかず、信仰の生活というものにはなりません。神様が求めておられる事はすべてクリスチャンにとって善です。神様の求められる事を行なうということは神様にとって喜びです。ですから少しでも語られたことを行なうということがないと、信仰生活とはいえません。 /nなすべき礼拝  このことから1節の「なすべき礼拝」というのが何であるかがよくわかると思います。「心を新たにして自分を変えていただき、神に喜ばれる善いこと、完全なことを学ぶ」ことが日曜日の礼拝です。「なすべき礼拝」とは、英語では「リ-ズナブル(reasonable)な礼拝」となっています。元の言葉では「ロゴス的・理性的・合理的」な礼拝となっています。キリスト者の礼拝はそういう礼拝でなければならない、とあるのは大変重要です。(それ迄の礼拝は、動物をささげたり、お供え物をささげたりするのが一般的)。そして日曜日の礼拝において、神のみこころを学ぶ(何が善く、何が喜ばれ、何が完全であるか)ことは、理性的に歩もうとする者にとって、きわめて重要なことだと理解してよいでしょう。 /n礼拝の持つ使命  私達の世界では、さまざまな形で善についての議論がなされています。社会生活や改善する時の方針、教育の在り方など考える時、必ず理性的、善・悪を問題にします。戦後の教育基本法などに出てくる善とか価値というものについて見る時、それがいかに聖書の教えに関連しているかということを知ります。何が善で何が神に喜ばれる全きことであるかについて、現代においてキリスト教がもっている使命、礼拝が持っている使命は、きわめて大きいと思います。 /n日常生活においてなすべき礼拝 (12:3以下)  3節以下には「日常生活においてなすべき礼拝」「教会の中の生活」において一番重要な仕事が語られています。「預言・奉仕・教え・勧め・施し・指導・慈善」との言葉が出ています。大事なクリスチャンの基本になる「教会生活」の中でなされている仕事です。パウロが「キリストの体である教会」と言った時の体(手の働き、足としての働きなど、枝々の生活。交わりの生活。礼拝の生活)の中でなされている仕事です。 /nルター「キリスト者の自由」  「キリスト者の自由」の最初にでてくる「二つの言葉」は今日の聖書に非常に関連があるのではないかと思います。 >> 1.「キリスト者は、すべての者の上に立つ自由な君主である」。 <<  キリスト者は神によってキリストを通して罪が赦され、罪から解放され、キリストの持っているすべての物が与えられ、すべてのものの上に立つ、すべての者から自由である者です。キリストと同じ自由が与えられているわけですから、まさにこれは「神の憐れみ」であります。ところがそれに続いて、そういう神の恵み、それは具体的に生活でどういう形で表れるかというと、 >> 2.「キリスト者は、すべての者に奉仕する僕である」。 <<  これがキリスト者の実践です。「奉仕するしもべ」ということについてルターは「万人祭司」といいます。祭司とは人々に仕える人のことです。日々神に礼拝をささげながら人々に仕えていく、という役割をもっています。男であれ女であれ子供であれ、手工業者、農耕者、商人、すべての人が祭司であるといいます。教会の中の仕事をし、日常的には、家庭にあって職場にあってその場で神に奉仕する。これが万人祭司です。このルターの「万人祭司」という考え方を、ここにあてはめて理解することができるのではないでしょうか。 /n私達は礼拝に招かれている。そして日常生活の奉仕へ。  私達は具体的な日常生活において、仕事をしながら神に奉仕をするとは考えないかもしれません。しかしそこを離れて人に仕えることはないでしょうし、人に仕えることを離れて神に奉仕をするということは考えられません。それだけに私達の日常生活は大変なことです。大抵は自分が求めるあり方、希望している生活(営み)にはならず、赦しと救いを必要としています。私達は神の憐れみ、神の愛を必要としています。そこに又、日曜日の礼拝において私共は再び神によって罪の赦しをいただく。或いは神の前にざんげする。そういう必然性を私共は与えられている。そういう形で私共は日曜の礼拝に招かれている。そういう形で日曜日の礼拝から日常生活において奉仕をするように勧められております。