「赦(ゆる)しと癒(いや)し」 平賀真理子 伝道師

/n[詩篇] 103:1-13節 1 わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって/聖なる御名をたたえよ。 2 わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。 3 主はお前の罪をことごとく赦し/病をすべて癒し 4 命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け 5 長らえる限り良いものに満ち足らせ/鷲のような若さを新たにしてくださる。 6 主はすべて虐げられている人のために/恵みの御業と裁きを行われる。 7 主は御自分の道をモーセに/御業をイスラエルの子らに示された。 8 主は憐れみ深く、恵みに富み/忍耐強く、慈しみは大きい。 9 永久に責めることはなく/とこしえに怒り続けられることはない。 10 主はわたしたちを/罪に応じてあしらわれることなく/わたしたちの悪に従って報いられることもない。 11 天が地を超えて高いように/慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。 12 東が西から遠い程/わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。 13 父がその子を憐れむように/主は主を畏れる人を憐れんでくださる。 /n[マルコによる福音書] 2章1-12節 1 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、 2 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、 3 四人の男が中風の人を運んで来た。 4 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。 5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。 6 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。 7 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」 8 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。 9 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。 10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。 11 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」 12 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。 /nはじめに  マルコ一章には、イエス様が、汚れた霊に取りつかれた人や噂を聞きつけてやってきた多くの病人を癒されたことが記されています。癒された人はそのことを人々に言い広めたので、イエス様の周りはいつも人々が一杯でした。そんな状況の中「イエスが御言葉を語っておられると」(2:3)とあるように、イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と、宣教開始時の御言葉を高らかに、そして神の国についていろいろ語られたことでしょう。悩み苦しんでいたからこそ、その場にいあわせた人々は主に救いを求めて大きな恵みを与えられたと思います。 /n病人と四人の男  「神の御言葉が語られて」いた、そのような最高の敬意を払うべき状況下で、何と四人の男が屋根をはがし始め、病気で体が思うように動けなくなった人(一般的に脳の血管が破れたり詰まったりした後、手足、言語機能、運動機能に障害が起こっている状態)の床をつりおろしました。ここで読み取れるのは、その病人とこの四人が、イエス様の所に行けば絶対に治してもらえると信じて行動したということです。イエス様が、「その人達の信仰を見て、中風の人に『子よ、あなたの罪は赦される。』と言われた。」とあるからです。 /n律法学者  6節にイエス様の反対勢力として「律法学者」が現れます。彼らはモーセが神様からいただいた十戒をはじめ、旧約聖書全体を詳しく知っていた人々、イスラエル民族の宗教生活全般を指導していた有力者階級の人達です。政治的にも最高議会で多くの議席を占める町の名士でもありました。律法学者たちは「あなたの罪は赦される」というイエス様の言葉に疑問を抱きます。「神のみが罪をお赦しになれるはず。この男は神を冒涜している・・」と。イエス様は、彼らの心の中を御自分の霊の力ですぐに知ったとあります(8節)。「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されている」(ヘブライ4:13)のです。彼らは、「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。」とイエス様から問われた時点で神様から来る霊の力を悟るチャンスがありました。しかしイエス様を認めることは自分達の権威を失墜させることになると考えたのでしょう。彼らは自分達の地位を守ることが第一で、目の前で苦しむ人々の救いや、それを見て憐れまれる神様の思いは考えられないのでしょう。 /n「罪の赦しの宣言」と「歩けるようにする癒しの宣言」  イエス様は律法学者に「赦し」と「癒し」の二つを挙げて、どちらが易しいかと問いました。ある注解書にこうあります。「この問いは答え難い問いである。」「この問いは一つの明確な答えを求めるものではなく、むしろ敵対者たちを困惑させるためのものではなかろうか。」  赦しと癒しの権能を神様から与えられているイエス様です。この問いの答えは、「問いとイエス様の発言と行動」で分かるようになっていたのです。信じない者、分かろうとしない者達には分かりえない問いです。イエス様が「地上で罪の赦しの権威を持っていることを知らせよう」と言われてなさったことは「癒し」の宣言とその実現でした。 /n詩篇103:3-5に学ぶ  神様の、人間の救いのご計画の内容は、赦し・癒し・贖い・慈しみ・憐れみ・豊かさ・生命力の甦りです。「光」は普通は透明ですが、分析すると赤・橙・黄・緑・青・藍・紫と見ることもできます。神様の人間に下さる恵みは一つ一つの出来事を分類することもできますが、人智の及ばない、もっとダイナミックで捕え難いほど大きいものだと思います。 /n私達も赦され、癒される  さて、聖書に登場した病人を私達と置き換えて考えることができます。私達は罪に縛られ、神様の前に不自由で思うように動くことができていません。パウロでさえ、「自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。(中略)肉では罪の法則に仕えています。」と神の前に不自由な自らを嘆いています。しかしイエス様の下に馳せ参じ、又は周りの人を取り込みながら、救いを得たい、信じたいと礼拝に集う私達をイエス様は憐れみ、赦され癒された病人と同じように助け励まして下さると信じます。