「神に仕える者」 倉松 功先生(元東北学院院長)

/n[詩篇] 98:1-9 1 新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって/主は救いの御業を果たされた。 2 主は救いを示し/恵みの御業を諸国の民の目に現し 3 イスラエルの家に対する/慈しみとまことを御心に留められた。地の果てまですべての人は/わたしたちの神の救いの御業を見た。 4 全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え。 5 琴に合わせてほめ歌え/琴に合わせ、楽の音に合わせて。 6 ラッパを吹き、角笛を響かせて/王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ。 7 とどろけ、海とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものよ。 8 潮よ、手を打ち鳴らし/山々よ、共に喜び歌え 9 主を迎えて。主は来られる、地を裁くために。主は世界を正しく裁き/諸国の民を公平に裁かれる。 /n[ローマの信徒への手紙] 13章1-7節 1 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。 2 従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。 3 実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。 4 権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。 5 だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。 6 あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。 7 すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。 /nはじめに  今日の聖書は「支配者への従順」について書かれております。「支配者」とは、国家や県や市など人間の集まり(集団)の支配者ということになります。支配者には、政治や社会全体の平和・福祉・公平・正義などを保持し、促進していく働き(役割)があります。私達キリスト者は国家(集団の、政治的、経済的、法律的な面で責任を負っている)などの機関に対して、どういう態度をとるべきか、又、服従ということに対してどのように考えるべきかがここに記されており、この箇所は私達の日常生活において大変重要な意味をもっていると言えます。この箇所は歴史的にも大変重要な個所でありました。 /n人は、上に立つ権威に従うべき(1-2節)  今日の箇所は三つに分かれます。1-2節は「上に立つ権威に従うべきである。」ということと、その理由が二つ記されています。一つには「国家は神によって立てられているから」(当局者はそのように考えていない。彼らは選挙で選ばれたと考えている)であり、二つには、「国家は神によって治められた秩序・神の定めであって、神の定めに従わなくてはならない」と支配者への忠誠が二重に勧められています。 /n神によって立てられた機関は何をなすべきか(3-4節) <良いことをしなければなりません。> 国家は、善を行うように勧め、悪をこらしめるために神に立てられた機関です。(善を行なわせる為に神に仕える者)。しかし、その善・正義・真理・美など思想やものの考え方の価値などについて国家が定める(決める)とは、ここに書いていないように思います。善とは何か。正義とは、真理とは何か。どのような判断をするのか、どのようにかかわるのかについては書いていない・・。 /n聖書では・・  このことに関連した聖書の重要な個所は、ピラトの前で主イエス・キリストが話されたこと、ピラトと主イエスとの問答です。(ヨハネ18:37-38)。主イエス・キリストがピラトの前に立たされて尋問を受け、主イエスは、「私は真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」と言っています。ピラトは「真理とは何か」と問います。問いはしますが、ピラトは「主イエスは犯罪人か。平和や公共の福祉を阻害する人物かどうか」という点に関心がありました。真理についてはわからなかったでしょうし判断をしていません。まさにここに聖書が捕えている国家の役割の限界が出ています。国家は善を勧めるけれども、善がどういうものであるかについては決めていません。国家が関心があるのは、全体の平和・福祉・公平などが保たれているかどうかです。ピラトは主イエスがどういう形で、どういう内容の宗教的真理を語っているかについては判断していません。これは大変重要なことです。主イエスが「真理について証しをする。」「真理を示す」という言葉に対して、ピラトは理解せず、判断をしなかったのです。 /n国家は・・  国家は、思想のもっている社会的な意味とか政治的なことについて、それが社会の平和や秩序をみだすものであるかどうかを判断するけれども、そのことの内容に立ち入って(善悪とか、その美が普遍的な美かどうかについて)判断しません。もし国家が自分の役割を限定しないで(せばめないで)真理、善悪、美というものについて判断したり奨励したりすると、軍国主義の日本や、ヒットラー、スターリン、アメリカの極右政党などのように宗教と政治が一緒になり、国や市町村全体が大変な混乱に陥ります(国家が原理主義に陥る)。ここでの「善を勧め、悪をこらしめる」という事柄は、大変漠然としているようですが大変重要です。国家(県や市など)の正義の力の限界(役目の限界)を明らかにしたともいえます。 /n神に仕える者  パウロの時代は「ローマの平和」といわれる時代ですが、キリスト教にとっては友好的な時代ではなく苦難の時代でもありました。そういう中でパウロは、「国家は善を勧め、悪をこらしめる為に神によって定められた神の秩序である。」と言っています。それに付け加えて、国家はそういう形で「神に仕える者」(4節・6節)と二回も言っております。これはとても重要です。 /n国家の位置づけ  はじめに司会者に読んでいただいた詩篇98編は大変重要なことを言っています。「<span style="font-weight:bold;">右の御手、聖なる御腕によって 主は救いの御業を果たされた</span>」(1節)。救いの御業とは主イエス・キリストのことです。右の御手に対して、左の御手では神は何をなさるのか。それは家族や国家など神の定めた秩序によって、平和・公正・正義などを実現されると理解されています。ルターは、神の二つの世界支配の方法として、一つが救いのみわざ、二つ目が家族・家庭、労働、国家(人間創造、家族の構成、次に社会から国家。これが創造の順序であり、聖書の価値観の順序です)をあげます。キリスト教諸国では、社会生活の中でそのような理解をしているのではないかと思います。 /n良心を傾けて従いなさい(5節-7節)  国家は神に仕える者、奉仕をする者、ということですが、神に奉仕をする、とは「礼拝する」(サーヴィス)ということです。  神が私達にどういうふうに奉仕をしてくれたか、仕えてくれたか、といえば、神は、私達に主イエスを送って下さって、遣わして下さって、この主イエスによって救いをもたらして下さった。これが神の私達に対する奉仕です。それに対して、国家の奉仕は礼拝をする人々を保護する、守る、という形の奉仕です。直接礼拝に関与してメッセージ(真理について)までは国家は判断しないし、わかりません。主イエスはピラトの前で「<span style="font-weight:bold;">私の国はこの世には属していない。</span>」(ヨハネ18:36)と言われました。  しかしそれと同時に、国家は神によって立てられ、神によって定められた秩序に基づいておりますから、「良心を傾けて従いなさい」と5節から7節で言っています。「<span style="font-weight:bold;">良心のためにも、これに従うべき</span>」(5節)とは、「徹底的に良心によって」ということです。それだけ国家は重い使命を神によって与えられていると理解する以外にないでしょう。カルヴァンは、「国家が、人類公共の敵と自ら公言しない限り従いなさい」と言います。しかし同時に、カルヴァンやルターにおいては、「国家の連帯」ということを明確に理解していたように思います。使徒言行録に「<span style="font-weight:bold;">人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません</span>」(5:29)とあるように、「国家に従うのには限界がある」ということをきちんと語っています。 /n現実の世界で・・  特に第二次大戦において、ヒットラーに対して抵抗したグループは、このことが大変重要なことでした。主イエス御自身「<span style="font-weight:bold;">皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい</span>」(マタイ22:21)と言っています。これも、服従の一つの限界をいっているのではないかと思います。国家が神の領域に入ってくるということについて、主イエスは反対されました。  国家に対して私達は服従しなければならない。その理由は、神が立てられた、神の秩序であるから、ということです。しかし国家が善を勧めず、悪をこらしめない。むしろ悪を奨励するようなことがあれば、「人間に従うよりは神に従うべき」との聖書の言葉を拠り所に歩むしかありません。しかし、その判断は非常にむつかしく、ジャーナリズムが報道することを通して国家に反対するとか、行政に対して革命を恐れるとかいうのではなく、国家が神に立てられた機関として、秩序としてどうあるべきか、ということに対しては、教会としてではなく一人の市民として、あるいは市民グループの声として発言していくということになるでしょう。 /nキリスト者市民として  今日、私共が共通に知っている「基本的な人権」、「一人一人が神によって造られたということから始まる人権」がどのように守られているか、守られていないか、ということは、キリスト者市民として大切なことだと思います。人間の尊厳と、尊厳を守る基本的人権ということが少しでも進展するということが、パウロにとっても重要なことではなかったかと思います。(文責:佐藤義子)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です