「小さい者も大きい者も神を知る」 倉松 功先生(元東北学院院長)

/n[エレミヤ書] 31章31-34節 31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。 32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。 33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。 /n[ローマの信徒への手紙] 10章1-4節 1 兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。 2 わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。 3 なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。 4 キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。 /nはじめに  「神はあるか、ないか(いるか、いないか)」という神の存在の証明は、人間の長い文化の歴史の中でいろいろ試みられてきましたが、結局この試みは成功しませんでした。しかし私達の周辺には小さな神は沢山あります。旧制高校の同窓会などに出席しますと、スクラムを組み校歌や寮歌を歌う姿に「ここには疑似宗教がある」と思わされますし、企業の精神や企業の団結を通しても、一つの宗教が働いているのではないかと思います。しかし「神を見た者はいない。一人もいない。」というのが聖書の大前提です。(一ヨハネの手紙4:12参照)これは神があるかないかではなく、「神を知る」ということを聖書は私達に語ろうとしています。 /n誰でも神を知る  本日の旧約聖書に「私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。その時、人々は隣人同士、兄弟同士、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者も私を知るからである、と主は言われる。」と記されています(エレミヤ31:33-34)。子供も大人もみんな神を知っている。神のことは誰でも知っている。そういう時がくると聖書は言っています。さらに続いて「私は彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(同34)とあります。これは非常に重要な言葉です。これは、イエス・キリストのことを言っています。「赦し」のことを言っている。キリストが最後の晩餐で弟子達にブドウ酒を渡し「これは罪の為に流す私の契約の血である」と、契約の血としてご自身の贖罪に言及されました。聖書が語る「神」とは、旧約聖書と新約聖書を貫いている「神」であり、キリストが(ご自身の体で)十字架におつきになることによって証言した事柄と結びついた神様です。 今朝はそのことを考えてみたいと思います。 /n心に記されている律法  エレミヤ書31:33には「私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。」とあります。律法は私達の心に記されています。たとえば、イエス・キリストの教えであるマタイ福音書15:18に「しかし口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。」とあります。これは律法と呼ばれる代表的なモーセの十戒(殺すなかれ・姦淫するなかれ・盗むなかれ・偽証するなかれ)と同じことを言っています。たとえば、悪意・殺意は「殺すなかれ」という形で私達の心にすでに記されているのです。ローマの信徒への手紙にも、「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こう言う人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししている」(2:14-15)とあります。 /n私達の良心  考えてみますと、「良心」はモーセの律法よりもずっと以前、神様が人間を創られた時にすでに心に刻まれており、良いことについての理解を持ちながら、それに反することをした場合には、それを「とがめる」という形で良心が働きます。そういう心は誰でも持っています。これと結びついているのが神です。つまり、罪に対して罰する、罪に対して赦さない・・というのが旧約聖書を通して知られてきた神の働きです。ところが本日のエレミヤ書では(これとは違う形で)「『主を知れ』と教えることはない」と、誰でもが知っている「良心」とかかわった形で神様が知られています。全ての人には良き心が与えられています。しかし悪いことをチェックする働きは弱い(現代でも弱い)。悪いことをする前に良心が働いて、悪いことをチェックするはずが、アダムとエバが禁断の木の実を食べた時から、悪いことをした後で神にとがめられて、初めて「しまった」と思った。行為の前に、それを差し止めるという形ではなかなか働かない。してはならないこと、言ってはならないことをした後で気付くのです。それが良心の働きです。神様は私達を創った時にその良心を植え付けた。これこそ、神様がご自分に似せて人間を創られた残照です。 /n「新しい契約を結ぶ」(エレミヤ31:31)  ここで「新しい契約」と言われていますが、ここで言われる律法は今までの古いモーセの律法・十戒とは違っておらず、事実イエス・キリストは「私が来たのは律法を完成するためである。・・律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(マタイ5:17-18)。と言われています。イエス・キリストは律法を新しく強化しました。ロマ書に「キリストは律法の目標であります」(10:4)とあるように、究極のところ律法はキリストを目標としています。言い換えれば、キリストご自身が律法を完成されたのです。キリストの最大の教えは「神を愛しなさい。自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」という言葉にまとめられます(ガラテヤ5:14参照)。キリストが完成され、キリストが実行されたものです。私達が目標とするもの、私達が歩む生活の目標がここにあります。それは神様が人間を創られた時に神様が植え付けてくださった「良心」を満足させるものです。エレミヤ書の、「誰も『主を知れ』と言って教えることはない」一つの決定的な理由は、私共が神に似せて創られた(良心が植え付けられた)からです。 /nキリストを目標として  キリストが目標で、キリストの教えが良心の目的・完成した姿であるならば、私達はそれに従って行けば良いということになります。それによって私達はさらに具体的に神を知ることになります。しかしキリストの教えを実行することで神を知ったという人はいないでしょうし、そういう知り方は自分自身を神とすることになります。「私」がした事柄、「私」が良心に従った行ない・・それで良いということになれば、神は必要でなくなる。そうではなく聖書によって、イエス・キリストの教えを通してキリストが行なったことに照らし合わせて、「これではだめだ」ということに気付き、良心のうずきが起こるのです。  エレミヤ書は、新しい契約をもたらすその方・イエス・キリストは、「彼らの悪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない。」(31:34)というのです。キリストご自身が律法の完成者であり、契約のしるしです。そして、イエス・キリストを十字架につけたローマの役人やファリサイ派の人々をはじめ、すべての人に対して、キリストは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と祈られました。イエス・キリストの贖罪(罪のあがない)、キリストの教えられた隣人愛は、そういう形でキリスト者に教えられました。キリストが教えられた道、キリストが歩んだ道に従う・・そういう形の生き方をキリストは私達に教えて下さった。古い律法の教えに満足するのでなく新しい形でキリストに従って行く道を教えて下さったのです。 /nすべての人に神が知られる  全ての人に神が知られるという時には、私達の良心を超えた、私達の良心ではもう行き着くことが出来ない所、良心では行なうことが出来ない善・・、そういうものを超えて、そういうものに気を止めなくても、キリストに従うことによって、良心に従う道を歩むことが出来ます。「神を知る」とは、決して私共の良心に反することではなく、むしろ、神が私達を神に似せて創られた創造の時に植え付けられた「良心」を積極的に満足させる道、それが「新しい契約」としてキリストによって与えられるのです。良心によっては罪を積極的に赦すことが出来なかった、そのことがキリストを通して新しく赦すことが出来るようになる。そういう形でキリストに従うことが許されているのです。 /n終りに  重要な事柄は、誰でも良心を持っている。良い心が神様によって創られている。それを通して「神を知る」という道が旧約聖書・新約聖書を通して語られているのです。          (文責:佐藤義子)