「インマヌエルの恵み」 平賀真理子 伝道師

/n[イザヤ書] 8章9ー13節 9 諸国の民よ、連合せよ、だがおののけ。遠い国々よ、共に耳を傾けよ。武装せよ、だが、おののけ。武装せよ、だが、おののけ。 10 戦略を練るがよい、だが、挫折する。決定するがよい、だが、実現することはない。神が我らと共におられる(インマヌエル)のだから。 11 主は御手をもってわたしをとらえ、この民の行く道を行かないように戒めて言われた。 12 あなたたちはこの民が同盟と呼ぶものを/何一つ同盟と呼んではならない。彼らが恐れるものを、恐れてはならない。その前におののいてはならない。 13 万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主。 /n[マルコによる福音書] 3章7ー19節 7 イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、 8 エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。 9 そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。 10 イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。 11 汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。 12 イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。 13 イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。 14 そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、 15 悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。 16 こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。 17 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。 18 アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、 19 それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。 /nはじめに  前回は、安息日に手の不自由な人を癒されたイエス様に対してファリサイ派を中心とする反対勢力がイエス様を亡きものにしようとする計画を立て、ここに十字架への道が始まったことをお話しました。  今日の箇所は、イエス様が神の国の福音をできるだけ広める為に、反対派の本拠地である「会堂」を出て御自分の本拠地ガリラヤ湖畔に戻ってこられた時のことです。イエス様が来ると知った人達は、地元のガリラヤ地方からだけでなくユダヤ全土や、国境を越えた地域からイエス様の「そばに」押しかけました。 /nそばに  今日の新約聖書には「そばに」という表現は合計5回でてきます。前半の「そばに」は、目的を表す前置詞が使われ、イエス様の新しい教えや癒しの業に救いを求めて来た人々の切実さが表されています。後半の「そばに」は、「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」とあるように、「共に」「一緒に」と言う意味で、飲む、食べる、祈る、笑う、泣く、住むなど人間の基本的な行動の動詞と一緒に使われる言葉です。この言葉は7節の「弟子たちと共に」でも使われています。イエス様が、神の国を広めるために、使徒や弟子たちと行動を共にし、交流し、愛していこうとされている恵みを読み取ることができます。又、たとえ話で比ゆ的に語られる民衆とは違い、使徒達は神の国の性質や働きについて直接的にイエス様から解き明かしを受け、学びを深めていくことができました。イエス様からそのように愛を受け、育くまれ、学んで、信仰者として一人立ちして外の世界に出され、福音を宣べ伝えられるようになり、同時にイエス様の力を分けていただいて、悪霊を追いだす力をいただくことが出来るようになりました。 /n12使徒の選び   イエス様が山に登り、特別な働きのために12人の使徒を選ばれたことが13節以下にありますが、特にシモン(ペトロ)・ヤコブとヨハネ(雷の子ら)は別の名前が与えられ、12人の中でも核になる存在でした。最後に出てくる「イスカリオテのユダ」には、「このユダがイエスを裏切った」と説明がつけられています。これを見ても、悪魔に支配されたこの世の罪深さを思います。この「罪」が最終的に神の御子イエス様を十字架につけるのです。逆に、そのような罪をあがなってまでも神様は人間を愛したい、一緒に歩もうと呼び掛けて下さっているのです。 /n群衆と使徒  今日の聖書の二つの段落は実に対照的です。前半は自分が救われる為に神の御子の権能を利用しようとした群衆について記され、後半には、イエス様の招きに従い自分の生涯を献げ、役割を与えられた使徒達について記されています。どちらもこの時、イエス様の「そば」にいる恵みを与えられています。違うのは、「従う覚悟」と「神様が期待する役割」です。群衆にとってイエス様は、無料で病気を治してくれる都合のいい医者であり、自分の利益のための神様です。一方、使徒にとって、イエス様は自分の全生涯をかける救い主です。彼らは、神の国建設の働き手であり、その働き手としてふさわしくなるよう、イエス様のもとで教育を受け、成長させられていくのです。私達はどちらでしょうか。なぜ今、私達はイエス様の「そばに」いるのでしょうか。   /n「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」  イエス様はこのように福音宣教を始められましたが、まだその御旨は完了していません。御言葉を知らない人々の救いが残っているからです。しかし私達は神様が共にいて下さる恵みを知っています。私達は神様の恵みを得てイエス様の教えを生涯かけて信じ、従っていく決意をした者です。そのことを心から感謝し、イエス様が取り組まれた「この世に神様の御国を建てるため」の御旨に用いていただけるように、成長させていただけるように、神様に祈り求めてまいりましょう。